渚くんには僕が見えない



なんというか、少し変な話だ。

僕の学校生活は、思っていたほど大きくは変わらなかった。

なぜかといえば、もともと僕は目立たないからだ。透明人間みたいに、いてもいなくてもあまり変わらない。いじめられているわけでも、露骨に無視されているわけでもない。ただ、誰からもそんなに気にされていない。

だから、出欠確認で名前を呼ばれないこと以外は、本当にいつも通りだった。自分の席に座って、普通に授業を受けて、ノートを取って、チャイムが鳴るのを待つ。

午前の授業を終えて、僕はほんの少し落ち着かない気持ちのまま顔を上げた。

もちろん、席の離れた渚くんと授業中に手を繋いでいるわけにもいかない。だから、今の僕は、渚くんからも見えていない。

(お昼ご飯……どうしよっかな)

これもまた、少し変な話だけど、こんな状態でも、僕はちゃんとお腹がすく。
でも今日の昼休みをどうするか、渚くんと何も話していなかったことに、今になって気づいた。
 
まあ、一食くらい抜いてもどうにかなるか。

そんなふうに思っているうちに昼休みが始まって、教室の空気が一気にゆるむ。椅子を引く音や笑い声があちこちで重なって、さっきまでの静けさが嘘みたいにざわめきに変わっていく。

その中で、渚くんが立ち上がった。

そして、まっすぐ僕の席の方へ歩いてくる。

(気にかけてくれてる)

そうわかった瞬間、胸の奥に静かに安堵が広がった。

見えていないはずなのに、それでもちゃんと僕のところへ来てくれる。そのことが、どうしようもなく嬉しい。

僕はそっと手を伸ばして、渚くんの手を柔らかく握った。

すると、僕を見つけたのか、渚くんがこちらを向いて、少しだけ目を細める。

その表情に、また胸があたたかくなる。

「渚、昼食おー!」

ふいに、クラスメイトが渚くんの肩を叩いた。

びくりとして視線を向けるとバスケ部のクラスメイトたちだった。そういえば、渚くんは普段、あの人たちとお昼を食べている。だからきっと、今日もいつも通りの流れで声をかけただけなんだろう。

その当たり前の光景を前にして、僕は反射みたいに渚くんの手を離してしまった。

僕のせいで、渚くんのいつものリズムを崩してしまうのが、なんとなく申し訳なかった。

案の定、渚くんは「あ、今日は……」と、友達の誘いを断ろうとしている。僕は慌てて、その手を握り直した。

「渚くん」

声をかけると、渚くんは言いかけた言葉を止めて、視線だけこちらへ向けた。

「できるだけ、いつも通りにして。じゃないと、変に思われちゃうよ」

渚くんは、あまり納得していなさそうな顔をした。けれど、そのあいだにも声をかけてきたクラスメイトたちは、いつもの調子で机を動かしはじめる。がたがたと音を立てながら、あっという間に昼休み用の島が作られていった。

たまたま近かったせいだろう。僕の机まで、遠慮なくその島の一部に組み込まれてしまう。

――あ。

座る場所がなくなった。

みんなには僕が見えていないのだから、仕方ない。仕方ないのだけれど、意図せず仲間外れにされたみたいで、少しだけ胸がちくりとした。

まあ、しょうがないか。

僕は小さく苦笑する。

どうしよう。
渚くんがお昼を食べているあいだ、どこかそのへんを散歩でもしてこようか。

そんなことを考えながらきょろきょろしていると、くんっと手を引かれた。
 
椅子に座ったまま、渚くんが何か言いたげにこちらを見上げている。上目遣いの渚くんはなんだかすごく可愛いけど、何を言いたいのかよくわからなくて、僕は首を傾げた。

「渚くん、僕すこし散歩を……」

言いかけたところで、渚くんは黙ったまま首を振る。
そのまま、また僕の手を軽く引き、それから自分の膝をぽんぽんと叩いた。

どういうことだろう、と一拍遅れて、その意味がわかった。

「え……えぇっ?!」

思わず声が出て、慌てて自分で口を押さえる。
僕の声は渚くんには聞こえてないはずなのに条件反射だ。

――これ、ひ、膝に座ってって意味……?!

かっと一気に顔が熱くなった。

「あ、あの、渚くん……僕……」

そんなの、恥ずかしすぎる。

でも、渚くんはちょっと強引だった。もう一度、今度はさっきよりはっきり僕の手を引く。その流れに逆らえないまま、僕はとうとう渚くんの膝の上に腰を下ろしてしまった。

なにこれ。
どういうことなの。
 
――恥ずかしすぎて死にそうなんだけど!

触れ合っていれば見えるのだから、手を握っている必要はもうない。僕は今度は両手で顔を覆った。

見えていないとはいえ、クラスメイトたちのすぐそばで、渚くんの膝の上に座っている。もし、万が一、このよくわからない透明の状態が急に解けて、途中で僕の姿がみんなに見えるようになったら……そう想像しただけで、とても顔なんか上げられなかった。

渚くんはそんな僕をよそに、腕を僕の腰へ回したまま、机の下でごそごそと弁当袋を探っている。その中から、大きめに握られた海苔つきのおにぎりをひとつ取り出し、こっそり僕に手渡してきた。

――あぁ、ごめんなさい。渚くん……優しい……!

自分ばかり変に意識してしまっていたことが急に申し訳なくなる。

僕は「ありがとう……」と小さく呟きながら、どうにか恥ずかしさを押し込めて、おにぎりを受け取った。

――そっか、これを渡すために……

そこまで納得しかけて、ふと我に返る。

でも、だったら膝に座る必要はなかったのではないか。

そう気づいて立ち上がろうとする。けれど、渚くんの腕が腰に回ったままで、うまく身動きが取れない。

「渚くん……っ」

声をかけると、渚くんは平然とした顔のまま、スマートフォンに何かを打ち込みはじめた。

『見えなくなるの嫌だから、ここいて』

絵文字も何もない、そっけないくらい淡々とした文字だった。
その事務的な画面を見た途端、やっぱり自分だけが変に意識してしまっていることが急に恥ずかしくなる。

そうだ。
渚くんは、たぶんそういう実用的な理由で言っているだけなのだ。姿が見えないといろいろ困るし、お弁当を食べるあいだ、ずっと片手で僕の手を握っているわけにもいかない。

僕はおずおずと頷いて、ひとり気まずいまま、渚くんの膝の上に収まった。

周りでは、みんながわいわいお弁当を広げはじめている。
その中で、渚くんの膝の上に座ったまま、おにぎりをかじっている僕。

……絵面としては、だいぶシュールだ。

しばらくして、また渚くんがスマートフォンをこちらへ向けてくる。

『おにぎりもういっこあるよ、梅すきでしょ』

渚くん、優しい。
優しいけど、恥ずかしいよ……。

僕は、たぶん真っ赤になっているだろう顔をできるだけ見られないようにしながら、小さくこくんと頷いた。

「渚、さっきから誰とDMしてんの?」

不意に横からそんな声が飛んできて、僕の肩がびくっと揺れた。

「DM? してないけど」

渚くんは平然とした顔でそう返して、スマホを制服のポケットにしまう。

「隠さなくたっていいのにー!」
「清水さんだろ? この前、連絡先聞かれてたよな?」

そんなふうに、軽い調子の雑談が飛び交う。

清水さんって、A組の、あの人かな。髪が長くて、いつも何人かの女子と一緒にいる、目立つ感じの子。

「可愛いよなぁ、清水さん。まじで羨ましいわぁ」

「羨ましいって何が」

渚くんはそう言って、お弁当の唐揚げを箸で摘んだ。

「だって、清水さん絶対渚のこと好きじゃん」

「そうなの?」

唐揚げを口に入れたまま、渚くんが不自由そうに首を傾げる。

それを見たクラスメイトは、わざとらしく「はぁ」とため息をついた。

「渚のそれ、謙遜でもなくて天然なのがなんかもう……」

みんな、その言葉に顔を見合わせて、やれやれというふうに肩をすくめる。

「天然?」

渚くんは納得がいかないみたいに、少しだけ眉間に皺を寄せた。

その横で、僕はこっそりくすっと笑ってしまう。

クラスメイトの指摘はもっともだった。渚くんは、実はちょっと天然なのだ。頭もいいし、運動もできるし、普段はむしろしっかりしている方なのに、時々びっくりするくらい抜けている。

前にも、体育館シューズの左右を逆に履いたまま平然と授業に出ようとして、「なんか今日ちょっと変」と真顔で首を傾げていたことがある。周りに指摘されて初めて気づいていた。
 
それから、自分に向けられる好意みたいなものにも、ちょっと無頓着だ。
 
でも、僕からすると、そんなところも可愛い。というか、そういう少しずれた可愛さも含めて、渚くんの魅力なんだと思う。

たぶん、こうして揶揄っているクラスメイトたちも、根っこのところでは同じことを思っているのだろう。

「もしさ、清水さんに告られたら付き合う?」 

さっきまで少しほんわかした気分でいたのに、その言葉が渚くんへ向けられた瞬間、胸の奥がきゅっと疼いた。
齧りついていた梅干しおにぎりの酸っぱさで紛らわせるみたいに、「んぐっ」と変な息を飲み込む。

「付き合う?」

渚くんは、なぜか不思議そうにその言葉を繰り返して、首を傾げた。

「うん、そう。あんな可愛い彼女いたらさぁ、部活にも気合い入っちゃうよなぁ……好きな人が近くにいるって幸せよな」

そう言ったクラスメイトは、仮想の彼女でも思い描いているのか、箸を咥えたまま中空を見つめている。

「好きな……人……」

渚くんが、ぽつりと小さく呟いた。

僕はなんとなくその顔を見るのが怖くて、俯いた。
でも、膝の上に座っているせいだろうか。渚くんがクラスメイトと同じように少し顔を上げて、何かを思い浮かべるみたいに黙っている気配だけは伝わってきた。

「まあ、確かに」

そう言った渚くんに、「だろぉ?」とクラスメイトたちが乗っかる。

「じゃあ、やっぱり清水さんと――」

「でも……」

続きかけた言葉を、渚くんが静かに遮った。

「でも、今は、それどころじゃないというか……いろいろ、解決したら、かな」

その言葉と一緒に、僕の腰へ回された腕にきゅっと力がこもる。

――あ。

と、僕は小さく息をついた。

渚くんは、僕のことを気にしている。
今はそれどころじゃない理由は、僕がみんなから見えなくなってしまったことだ。僕が頼れるのが渚くんしかいないから、渚くんは僕を優先しようとしてくれている。

「それに、清水さんとはただの友達だよ。向こうもそう思ってるって」

そう言う渚くんに、「そうかなぁ」とクラスメイトたちは肩をすくめる。

僕は、なんだか変な気持ちだった。

今の自分は、ちょっと嫌だ。

渚くんが僕を優先してくれていることに、僕は安心している。
それどころか、清水さんに対して、ひそかに優越感みたいなものまで抱いてしまった。その感情は、あまり格好のいいものじゃない。

もし、僕のことがなかったら。
渚くんは清水さんと、付き合うとか、そういう話になっていたんだろうか。

そう考えると、胸の奥に重たいものが沈むみたいに、ひどくもやもやした。

とにかく今は、渚くんと離れたくない。
渚くんには、僕を見ていてほしい。

腰に回されたその腕に、気づかれないくらいそっと手を添えながら、僕はそんなことを考えてしまっていた。