私は夫の声を知らない。顔も思い出せない。
毎日がつまらない。飢えに苦しむことも、兄弟に気をつかうことも、大量の仕事を言い渡され家畜と共に寝ることもないのに、私はずっとつまらない。
皆が私を無視するからだ。
私がソワイス家に嫁ぐことになったのは、恋愛結婚が主流になった昨今においては非常に古い、政略婚だった。
そうしたほうが結婚が長続きするし、お互いの家のためにもなる。家どうしの諍いがあったとしても、本人たちが望むのであればしょうがない。そんな考え方が一般化していた。
それのためにパーティーまで設けられ、年頃になるとそれに出席するのは当然の事だった。
しかしソワイス家は別だ。なぜならソワイス家は、処刑人の家系だからだ。
処刑人には過剰なまでに畏怖される。敬意は確かに持たれるが、それよりもまず恐怖され、存在するだけでその場の雰囲気がピリつく。
なのでまあ、縁談もこないのだろう。ソワイス家で処刑人としての実績ももうあるアンダン様は、上背もありそれだけで周囲に圧をかける上、無口で右目に傷がある。その傷の由来は誰も本当のところを知らない。呪いだとか、罪人にやられたとか、罪人の幽霊にやられたとか、噂だけは途切れぬほどあったが。
処刑人といえど貴族階級では上だ。そして私の家は弱小中の弱小。貧民、というか、畑をやっているので本当に貴族かも怪しい。昔祖父が、ギャンブルで貴族の地位を手に入れたらしい、うちはそういう家だった。
なぜアンダン様が私を選んだのかは分からないが、
うちは兄と、6人の弟妹たち。そして兄嫁とその子供たちで部屋の数も危うかったし、プライベート空間と呼べるものは何もなかった。
好奇心だけは私は非常に旺盛であるので、ソワイス家からの縁談に快く答えた。
特にパーティーなどもなく。実家から持って来た物も、ティーカップくらいだった。
ソワイス家に来て、私は完全にお飾りと化した。お飾りならまだかわいがられるかもしれないが、皆が私を無視する。食事などは用意があるが、特に話しかけられもせず、話しかけてもやはり無視だ。かわいそうではないか。私が。
肝心のアンダン様も私を抱こうとしない。それどころか、それ以前のコミュニケーションを取ろうともしない。
同じ寝室なのにも構わず、ソファーで寝る。
それを見て、さすがに、日中働いておられるのは旦那様だ。なのにソファーで寝られるのは可哀想というか、おかしい。
そう言うと、ちらりとこちらを一瞬見たが、やはり無言でソファーに寝続けた。
じゃあ私が先にソファーで寝ていたらどうなるだろう。そう思い、ソファーで寝たふりをしてみる。
旦那様はソファーの前をうろうろした。
それから床で寝た。
ベッドで寝ろや。そう思いながら、立ち上がり、ベッドの上の掛け布団を旦那様に掛けようとした時、ここぞとばかりに旦那様はソファーで寝出す。
椅子取りゲームだったのか。
旦那様に掛け布団を掛け、床で寝る事にした。
ソファーの軋む音がする。
旦那様が寝返りでも打ったのかと思った。いや、旦那様のでっかい体であのソファーに寝返りするのは危険だ。ソファーの下にスプリングを敷こうと目を開けると、私を見下ろす旦那様がいた。いかんせん電気を消しているので表情はわからないが、たぶん初めて目が合った。
どんな顔だっけ。私は旦那様の顔すら忘れていた。旦那様は食卓すら私と共にしない。
旦那様は固まって何も言わない。なので私は目的通り、ベッドからスプリングを引き剥がそうとする。
ダブルベッドのそれは重すぎて引き剥がせない。
「手伝ってもらえます?」
旦那様にダメ元で聞いてみる。旦那様はこちらに来る。手伝ってくれるらしい。
旦那様は終始何も言わず、私の言うことに従い、スプリングを二人でソファーの下に敷いた。これで良い。というか、初めてのコミュニケーションがこれかよ。
私は床に寝直し、
「お休みなさい」
と言った。床は硬いが、硬くても寝やすいのは私の個性だろうか。なら良いものをもって生まれた。
起きたら旦那様はいなかった。今日も早朝から仕事なのだろう。見送りくらいはしたかったのだが。
旦那様はどこで寝たのだろうか。私より良い夢が見られているといいのだけれども。
使用人が部屋を見て驚いていた。
暇である。実家では日がな一日労働に明け暮れていた。なんなら酪農家のところへ行って家畜の世話もしていた。
この家にきてからは誰も私に話しかけることはなく、話しかけても返事をしてくれない。
存在を否定されているようだ。花嫁様だと言うのに。まあ、妻として夫を支えているかと言えば全くそんなことはないのだが。
外出もなんとなく禁じられている。なんとなくというのは誰も私と話さないせいだ。玄関へ行くと、使用人たちが集まってきて、困った顔をする。
一応処刑人の妻として表の世界に出る勇気もないので、まあそれはいいのだが。
しかし暇だ。これでは考えなくていいことまで考えてしまうではないか。
家の中をうろうろすると書庫がある。今日もここに世話になろう。
書庫は広く、高い天井びっしりに本がある。読み書きは苦手分野だったが、これしか娯楽がない。
読んでみてわかったが、知らない言葉を知るのは楽しい。ただ、使い所が本当に合っているのかなどはわからないし、確認しようがない。勉学は楽しいが、使えないと虚しい。
ベッドにスプリングが置かれた状態でその日は終了する。
対して動いていないので腹も減らない。あんなに食べることが好きだったのに。
今日は食堂には行かないことにする。
つまらん。つまらん。つまらん。つまらん。
翌日も同じだ。恐らく明日も明後日も。そのつもりはなくても飼い殺しだ。
だったら妊娠くらいさせてくれないだろうか。
ソファーで寝ている旦那様の前で服を脱いでみる。
旦那様は目を見開いて、私を肘で床のスプリングに突き飛ばした後、どこかへ行った。
抱くつもりはないらしい。畜生。
放置される日々が続く。私はとにかく書庫の本を読みまくり、書き写したりもする。
そうしているうちに、ある本と出会う。「気になるあの人を振り向かせる方法」というものだ。何でこんな本がここにあるのだろうか。分からないが、やる価値はある。うちの家族は長生きの家系だ。死ぬまである時間を、つまらないと思いながら生きていられるか。
絶対に声を聞いてやる。
なんて低レベルで悲しい目標だろう。
「おかえりなさーい。アンダン様!今日もお仕事お疲れ様です。ご苦労様です、っていうのは目上から掛ける言葉らしいですけど、どっちでも良いですよね。でもそういわれたら気になってお疲れ様しか言えなくなりますよね」
ひたすら話しかける作戦を実行する。靴を脱ぐ旦那様にマシンガントークを炸裂させる。
使わないことで口の筋肉が退化したのか、思ったように口が回らない。
しかし旦那様は全てを無視する。
「アンダン様やっぱり無視ですか。なんで結婚した~~~~????」
廊下を進むアンダン様の後を追いながら喋る。使用人たちは困惑している。
「いや、無視するのはいいんですけど。よくないんですけど、だったら無視するっていう宣言が欲しいです。私好奇心でしか生きていないので、なんていうか、今の状況、かなり健康的じゃないんですよ」
アンダン様は食事をしている。いつも通り手袋をしながら。
「くぅ~~~~~!!!!問題を言えば答えてくれると思ったのに~~~~~!!あっさり喋ってくれないんですね!理解しました!ちくしょう!今日は床で寝てください!」
私は用意されている食事に手を付けず、寝室に向かい、ソファーで寝た。
空腹で夜中に起きると、旦那様はスプリングのない床で寝ていた。
何をしてるのだろう私たちは。
とにかく腹が減っているので、キッチンに忍び込もうとすると声が聞こえる。
「旦那様もねえ」
「あれじゃあ若奥様が」
途切れ途切れにしかきこえない。私の耳は良くない。目はとてもいいが。
若奥様というのは私の事だろうか。私も噂には上がっているのだな。
なんとなく入り辛く、私は空腹のまま、寝室に戻る。旦那様に掛け布団を掛ける。後ろから抱きついてみると、起こしてしまったようだ。離れた床に移動される。
「わかった。わかりましたよ。邪魔しませんから、布団は掛けて寝て下さい!」
旦那様は言われた通りにしてくれる。コミュニケーションは一応取れた。
こんなもんを取れたと認定していいのかは謎だが。
眠れなかったので、旦那様が起きてから家を出るまでを、話しかけもせず、ずっと見ていた。
起きて、顔を洗って、髪を梳いて、着替えをする。
着替えもじっと見つめてやった。居心地の悪そうな顔をしたのでこれは軽く勝利だ。
使用人達に送られて家を出ていく旦那様。
「いってらっしゃいませ」
の声にも何も反応しない。
「あれじゃあ良い甲斐ってもんがありませんよねえ」
そう使用人たちに言うが、そそくさと私の元を離れる。大泣きしてやろうか。
今日は問題行動を起こそうと思っていたので、外に出てやった。
広い庭があり、それを囲む大きな黒い壁がある。
使用人が慌てるが気にしない。駄目ならそう注意すれば良いだけの話だ。
庭の一部は山につながっているようで、そこまで壁は作られていない。ただ、切り立った断崖がある。
山に出てみたい。久しぶりにキノコなどを拾いたい。しかし、無理そうだ。
大きな池には黒い鯉だけが泳いでいる。お前たちと私、どちらがマシなのだろうねと声をかけると、餌がもらえると思ったのか、鯉は私に寄ってくる。
「ばかめ。私は魚もさばけるぞ」
そう鯉に話しかけると、私の行動にあたふたしていた使用人達がひっ、と怯えた声を出す。
ちなみに哺乳類もさばけるからな。そう口に出そうとしたが、ちょっと恐ろしすぎるかと、やめておいてあげた。
庭を一周するが、風靡なものがひとしきり揃っており、それは私の価値観を変えるようなものではなかった。心に余裕もできたら、鯉への接し方も違ったものになるのかもしれないが。
かなり問題行動を起こしたつもりだったが、使用人は誰も旦那様にそれを言わなかった。
今日の旦那様は血の匂いがした。
「旦那様今日は血の匂いがしますね。不肖、この私貧乏貴族ことメリスは屠畜場でも働いたことがあるため、懐かしく思います!人間だろうが、家畜だろうが、血の匂いはそんなに変わらないんですかね。魚は生臭く感じますが。や、家畜ももっといろんなにおいがするから、違うかな。私を雇っていたところのレベルが低いだけかな」
旦那様は私をちゃんと視界に収めた。それは黒い髪をセットした、紫色の目の男性だった。何か言いたいことでもあったのだろうか。口を開くが、すぐに閉じ、自分のジャケットのにおいを嗅いだ。
何となく、旦那様の雰囲気が軟化したような気がして、懐へ潜り込んだが軽く付き飛ばされた。
「なんでじゃい!くそお…浮気してやる!」
私を無視して廊下に進んでいた旦那様は足を止めた。
「くそお…!家出もしてやる!!探さないで下さい!!!」
私は玄関を出て、裸足で、黒い壁の隙間こと断崖へ走る。昼に見たとき、案外岩が多く、掴めそうだと思っていた。
3メートル程はすいすい登れた。まだ私の力は落ちていないらしい。しかし、ここ数日まともに食料を得ていなかった。慢心と空腹で、私は足を滑らせる。
暗かったしなあ、体は落ちていくがそんな風に頭は考えていた。
そのまま地面へ落下、打ち所が悪く死亡する未来まで見えていたのに、そうはならなかった。
私をあっさりと受け止めたのは旦那様だった。
しかし、その表情は泣き出しそうというか、どこか放心したもので、私を受け止めるとすぐにその場に私を置いて、どこかへ行く。それを追うと、旦那様は風呂場へ行っていた。
脱衣所に鍵はない。一緒に脱衣所に入ると、旦那様は何か諦めたらしい。私を追い出さなかった。
旦那様は上半身裸になる。その体には黒い模様がいくつも走っており、またそれらはあちこちに動いていた。蛇のような、内臓の内側のような、牛の網脂のようでもあった。
「下半身にもそれがあるんですか!?」
わくわくして私は聞く。
旦那様は、驚いた顔になった。私は旦那様の下半身をじっと見つめる。旦那様は目をぎゅっと閉じて首を傾げる。
「それって触っても平気ですか!?」
旦那様は私の手首をつかんで、蠢くそれを触らせた。私にもそれが移るのが分かった。
「すげーーー!!!!」
旦那様はとっとと私の手を放す。すると、主はこちらとでもいうように、するすると模様は私から離れる。
「すげーーーー!!!」
旦那様はまた驚いた顔になっている。
「早くズボンとパンツを脱いで下さい!そうすれば全貌が明らかになります!」
私が興奮しながらそう言うと、旦那様は手袋をしたまま、私を脱衣所の外に引きずり出した。何だったんだあれは。
「浮気は嫌なんですかーーー?」
脱衣所からそう呼びかけると、上半身裸の旦那様がすぐに現れる。
怒っているように見える。
「まあ、浮気相手のアテもないんですけどね」
旦那様は脱衣所にまた消える。
何もしてこないくせに、浮気は嫌というのはどうしてだろう。
どんな事情があるのだろう。全部話してくれれば良いだけなのに。
まあ今日は、顔をちゃんと見れたし、旦那様の体の秘密?にも迫れた。よしとするか。
近くにいた使用人が震えていることに気が付く。
「あああ!神様!」
祈っているものもいる。
「そんなにやばいの?」
「た、助けて、助けてください…!」
「助けるから教えてよ」
久しぶりの会話に私は胸躍らせる。
「だから私は処刑人の奉公など最初から嫌だったのです」
まだ幼い使用人がそう話し始める。震えておりかわいそうだったので、毛布を与えた。
他の使用人が遠巻きに私たちの事を見ているが、誰も干渉はしてこない。
「呪いかあ」
曰く、この家は呪われているらしい。というか、処刑人の周りが呪われていないわけがない。彼はそう言った。
「そして呪いの証拠を私は先ほど直視してしまった!死ぬのです!どうか、どうかご慈悲を……」
「その理屈で言えば、私ちょっと触ったけどまだ生きてるよ」
「へ…」
「呪いかもしれないけど、見たくらいじゃなんともないんじゃない?」
「それは…本当ですか…?」
「うん。まあ私が死んだらごめんだけど」
「わーーーい!!!!よかったあああ…あ、若奥様と口をきいてはいけないんでした!それでは」
去ろうとする使用人の腕を掴む。この使用人が幼くて助かった。
「なんでなのかな?」
「い、いたいです!」
「なんで私と口をきかないのかな?」
「そういう決まりなんです!知らないんです本当に!うわああああああん」
使用人は泣き出してしまったので、解放してやる。可哀そうなことをしたか。
いや、泣きたいのはどう考えても私だろう。
旦那様が寝室に来たので、マットレスをもどすことを提案すると、すぐにそう動いてくれる。
「旦那様はベッドで寝てください。私はここを出た廊下で寝ます。これなら一緒に寝なくて済むし、浮気してないか確認もできるでしょう」
私は最低限の布団と枕だけ抱えて、部屋を出ようとすると、肩を掴まれる。
それは一瞬で、振り返ると、旦那様は掴んだ手を見ていた。
「ほんじゃそういうことですので~」
私が廊下で寝ているのに使用人達は驚いていたが、寝室が廊下のつきあたりということもあり、邪魔にはならなかった。
横になり本を読んでいると、旦那様が寝室から出てくる。また泣きそうな表情に顔を歪めている。
私の布団の横に正座した。
「なんですか」
やっと旦那様の顔が覚えられそうだ。これは一歩前進したぞ。結婚して数か月が経っているけれども。
旦那様はやはり何も言わない。
「明日も早いんでしょう。寝てください」
「…わ…」
そこから文字は、文章にも単語にすらならなかった。旦那様の声は一瞬で、どんな声だったか、覚える余裕はない。旦那様は寝室に戻った。
翌日、寝室のドアが開かれて、私も起きる。旦那様は私を一瞬だけ見るが、あとはいつも通りだった。
「あの…」
昨日の幼い使用人がほとんど泣きながら私に話しかけてくる。
「なあに?」
話しかけてくれたこと自体がすごく嬉しかったので、にこやかに対応する。
「わ、私が、通訳担当になっちゃいましたあああああ」
泣きながら使用人は言う。
「どゆこと」
「若奥様と話したんだから、使用人の意見とかを伝える役になれってえ…」
グスグスと泣いている使用人が言う。
「使用人の方々が私に意見があるってことだね?なんだろう?」
「まず、ごはんちゃんと食べてくださいぃぃぃいい」
「これはね、旦那様を心配させようと思ってやってる!」
「旦那様は心配してますよおおおお多分~~~~!!」
多分かい。つっこみたくなるが、彼の心情を考慮してやめておく。
「ふうん。ところであなたはさ、どこ出身?どうしてここに来たの?何が好き?というか名前も知らないや!名前は?」
「わああああああん!!!」
彼は泣きながら使用人たちの方へ走り去っていってしまった。
私の好奇心はいつもこうだ。先走って、相手を傷つける。兄の子たちにも構い続けて全員に嫌われている。気になるだろう。まだ世界をほとんど知らない自分たちの幼体なんて。
その点家畜は良かった。蹴られることもあったけど。
今の私は特に誰かと喋りたい。こんな待遇間違ってるよね、そう感情を共有したい。この屋敷の中のおかしさを肯定してほしい。
感情が暴発して猿のように使用人たちに襲い掛かりそうになったので、本のある部屋へ来る。
処刑人についての本を読む。処刑人は拷問も担っているそうだ。心理的負担が半端じゃないだろう。その上で恐れられて畏敬、何て言われているが嫌われているのか。やりたくない仕事だな。私は旦那様を憐れむ方向で気持ちを切り替えることにした。
処刑人には殺した人間の怨霊が宿っている。処刑人は呪われており長生きできない。
そんなことまで書かれている。へー、と思いながら読む。結構長い上、単語も難しいのが多いので、夜になれば、辞書と一緒に布団まで持っていく。私の居場所はここだった。
お腹は相変わらずペコペコで手が震えはじめる。倒れれば心配くらいしてくれるだろう。心配してくれなかったら…。あの崖を上って野山で猿として生きていこうか。
処刑人の本もどんどん読み進めていく。途中から文法の本も持ってきて意味をちゃんと分かるように何度も読む。夢中になっていると、旦那様がいることにも気付いていなかった。
「あ、おかえりなさ…」
立ち上がろうとすると、やはり栄養やら水分やらの不足で立ち眩み、倒れる。
それを旦那様は受け止めてくれたが、すぐに床に私を置こうとするので、腰に手を回して掴み、粘ってみる。
が、力の差は歴然だった。視界も揺らいでいたため、旦那様の表情が見られないのが悔しかった。
目を覚ますと、私は寝室のベッドに寝かされており、丸眼鏡の老人が横にいた。
「どなたですか」
そう聞くと、
「お嬢さんの命の恩人です」
そう言った。
「それは…ありがとうございます」
「若い女性には目がないものでね。ッカーーーーーー!!!」
老人は自分で言ったことに自分で笑い出した。
私もつられて笑う。
よく見ると、老人の隣には旦那様もいたが、いつもより怖い顔をしている。
「話を聞く限り、栄養失調だろうね。今点滴しているから、それでね、やってね」
「はあ」
「ちなみに妊娠の可能性は?」
「ありません。処女です。ッカーーーーーー!!!!」
今度は私が笑い出すが、老人は私のように笑ってくれなかった。大滑りだ。泣きそうになる。
老人はいくつかの質問をして、旦那様と部屋を後にする。
あれはおそらく医師なのだろう。
少し大事にしすぎただろうか。ぽつりぽつりと落ちていく点滴を見てそう思った。
ややあって、医師は部屋に戻らず、旦那様だけが部屋に来て、ベッドの横に置かれた椅子に座る。
「死ぬな」
旦那様が決心したようにそう言った。別に私は死にたいわけではないのだが。
彼の手を触ってみる。冷たい。黒い模様がどこからか漂ってきて、私に移る。
ひっと言いながら彼は手を引っ込める。
「さ、触るな」
私は旦那様を見つめる。彼は怯えている。何にだろう。呪いだろうか。それとも私か。
「私は死にません。多分。あと、できればあなたに触りたいです」
旦那様は何も言わない。豪奢なベッドが虚しい。
「旦那様は私に触りたくない?」
やはり何も言わないまま目を閉じている。眉間には深いしわが慣れたように現れる。
「何をそんなに恐れているのですか」
「き、君にはわからない!!!」
その取り乱した大声で、私はようやく夫の声をちゃんと聞いた。低いが不快ではない、思っていたよりきれいな声だった。
翌日は一日寝た切りで、ただただ消化に良いものを食べ続けた。私への配膳はあの幼い使用人で、いつも彼はぶるぶる震えており、配膳能力には疑問を抱かざるを得なかった。彼は名前を教えてくれない。名前を知られると呪われるらしい。田舎から出てきたばかりの私に何の力があるというのだろうか。まあいい。
トイレに行きたくなり立ち上がる。
上流貴族の家にはトイレがいくつもあり、一部屋に一つあると聞いていたのだが、ここはそうではなかった。
まあ家の中にトイレがあるだけでありがたい。
トイレに行く途中、話し声が聞こえる。
「奥様がヨウセイしなければこうならなかったんでしょうか」
「滅多なことはいうもんじゃないですよ」
「さすがに若奥様が…」
少し戻って、今度は足音を立てると、声はしなくなる。トイレの後、寝室前の私のスペースにある本と辞書などを寝室に持ち込み、ベッドに座りながら読む。そういえば、使用人が言っていたヨウセイとはどういう意味だろう。辞書を開く。要請、違う。養成、これも違うだろう。夭逝、早く亡くなること。これが一番意味が通りそうだ。
つまり旦那様の母に当たる人は、早く亡くなった、ということになる。処刑人は呪われるらしいからその影響で、だろうか。触ると移るあの模様も確かにそれっぽい。
処刑人の本を読み進める。処刑人に接触した者にはその呪いが移る。ただし書きに、直接触れなければ問題ない、とある。ご丁寧なことだ。死神の末裔が処刑人、そんなことも書いてある。生きている世界にも死を下す存在が必要になり、人間と恋に落ちた死神が罰として処刑人になったらしい。私としてはその恋愛が気になったが、深い記載はなかった。すごく燃え上がった恋愛だったろう。余命少ない女性と、生を狩る死神の恋。いいなあ。羨ましい。
ちょっと書斎に恋愛小説はなかっただろうか。探してみよう。
そうして欲に素直な私は書斎をくまなく調べる。本と本の隙間、棚の空いた場所。
調べて調べて、ぼろぼろの本が、とある本棚の本の裏から見つかった。
手書きの文字は達筆で読み辛いが、その場で読んでみる。
それは日記だった。
「おかえりなさい。旦那様」
食卓で私はペンを持ち、日記と辞書を開いて、紙を広げていた。日記の解読だった。
暗くなる。何だろうと思ったら、旦那様が私に近づいていた。なんだ?ようやくキスの一つ
でもするのか!そう思ったが、旦那様は日記を奪った。
「それは私が見つけたものです!今読み書きの練習にしていて…」
旦那様は私を見ずにダイニングを離れる。私は追う。
「なにかずっと悩んでいる方の日記のようです。それだけはわかります。あと食事の内容が細かいので、食いしん坊なのかと」
旦那様は私に向き直って、
「黙れ」
そう言った。
私はそこから旦那様を追うことをしなかった。ただ、心がぽっきりと折れた。
その場に座り込む。
私という一個人より汚い日記をあの人は優先させた。
「私は日記に負けた」
そう口に出すとより自分がみじめになってくる。
どんどん腹が立ってくる。私に干渉しないくせに、日記だけは目の色を変えて奪っていった。
私は立ち上がる。ここはあの男の家で、あの日記の所有者もあの男ではあるが、今は私だってここの一員ということになっている。
あの男が向かった書斎に入ろうとすると鍵がかかっている。寝室の数少ない髪飾りを解いてピンだけにして鍵を突破する。
あの男は他の日記も集めていた。書斎の机に日記が山になっている。
「あなたのだったんですね」
男は驚く。
「私は、あなたの胸の裡を知りたい。すごく、興味がある。なのでごめんなさい」
私は力を使ってしまう。
「命令します。ソワイス・アンダン、この部屋から出て行って」
男は私の命令にもドアが完全に閉じるまで抗った。やはり処刑人ともなると、抵抗力が強い。しかし私はこれで何千頭の家畜の意志を捻じ曲げてきた。
久しぶりにきちんと命令を使ったので頭が割れそうに痛むがどうでもいい。書斎のドアを強いこぶしで殴る音が絶え間なくするがそれもどうでもいい。
数冊の日記を私は心穏やかに読み始める。
「○月×日 晴れだと思ったけどやっぱりくもり
お母さまがなくなった。なくなるというのは、どこにもいなくなるということらしい。
お母さまのこえがどこからもきこえないし、すがたもみえない。
お父さまが日記を書くといい、とこの本を下さった。
今日のごはんはあまりおいしくなかったのでおぼえてない。おわり。
」
「△月□日 雨
母の死から5年経った。父は「好きな女とは結婚するな」といつも通りに言う。
家の事もあるが、女の人と付き合える気がしない。女の人の気持ちがわからない。
ニロルのように世の中との付き合いが上手な奴が親戚にいてよかった。とりあえず処刑人の血は絶えることがないだろう。
今日の食事は朝にパンとバナナとジャガイモのスープ(サラダも欲しかった)
昼は父とメイラッケ名物の海鮮粥のようなもの(非常に旨味が強かった)
夜は子牛のシチューと白米と青菜の煮つけ(子牛のダシが入っている?)(どれも美味)
」
「×月●日 雨
処刑人として初めての実践を行った。
」
「●月〇日 晴
結局ニロルの誘いを断り切れず(いや、本当は断れてたが行ったのは自分の意思だ)
パーティーに初めて参加した。ニロルはあちこち引っ張りだこで、僕は何をしていいかわからず、自分が貶められているような気持ちになっていた。見た目だけは一丁前なので、壁を背に貴族という人々をまるで選別するような視線を送る。一部の人が僕に気が付いて怖がる。何をやってるんだ僕は。虚しい。
なんともまあ、きらびやかで華やかな世界だった。若い血潮たちが青春!と叫んでいるようだった。何故僕はあそこに混じれないのだろう。
僕の前で今にも吐きそうな女の子がいた。どうしようと慌てふためく僕なんか目にも入っていない、という感じで彼女が現れた。
なんと彼女は、吐きそうな子のために自分のスカートを破って袋を作った。
確かにここの会場を汚損してその請求が行けば、貧乏貴族の家であれば傾くかもしれない。
その子はその袋に吐いて、背中をさすられながら、二人はトイレへ向かった。
僕はあの子が好きだ。なんていうか、全部が好きになってしまった。でも僕なんかが好きってことは、みんなもきっと好きなんだろう。あああああああ。
今日のご飯
朝:バナナとヨーグルト
昼:煮たサーモンと玄米パン
夜:サラダ(パーティでいろんなものが食べれそうだったのに、気取ってサラダしか食べなかった。大後悔)
」
「◇月×日 曇
3回目の拷問官。レベル4まで。
ニロルに彼女がどんな子か調べてもらった。
田舎も田舎の娘で、権力は無く、その土地の豪農の方が権力があるそうだ。
家からして古ぼけていて臭かったらしい。ただ、魔法を自然に使っている珍しい地域で、彼女が魔法を使って家畜を追い回すのを見たらしい。
あの野性味はそこからきていたのだなと納得。
ニロルにからかわれるが、本気なのだというと、ニロルが驚いていた。
今日のご飯
朝:ゆで卵とエッグスクランブルと白米
昼:揚げ物(野草と山菜が特に美味しかった)と五穀米と海藻サラダ
夜:初めて見たパスタ(ストロー状だが大きく、中にミートソース)とコンソメスープとレタスのサラダ(ドレッシングが美味)
」
「×月●日 晴
父が亡くなった。葬儀などが一段落した。
亡くなる前に二人の時間が持てたのがよかった。
好きな人が出来たことは伝えていなかったが、どこからか漏れていた。
父の口癖を考えると、裏切ったことになり申し訳なかった。
「死なせたくなければ、極力かかわるな」
父はそう言った。
いろいろ語った。それを思い出せるように日記に綴っているはずなのになんていうか、書いている今、思い出せないし書けない。もっといろんな話がしたかった。
」
翌日の昼、尿意が限界で部屋から出ると、旦那様が書斎の前に座っていた。
「すみません、話はあとで!トイレ優先させてください!」
そう走り去る。トイレを出た少し先に旦那様はいた。今度は仁王立ちで、廊下をふさいでいる。トイレの前にいなかったのはちょっと紳士的だな、なんて私は思った。
「怒ってます?怒ってますよね多分」
私は彼に聞く。彼の眉間の皺は深い。
「いや、私の方が怒ってますからね!!!!」
私は頭をかきむしる。
「勝手に好きになって、結婚までしたのに、無視して!」
彼を睨みつける。
「どんだけ私が不安だったと思ってます?いいですよね自分は好きな女とりあえず傍に置いておいてそれで満足みたいな?呪いがあるから僕ちゃんからはどうしようもないし~的な?
呪いなんてどうでもいい!すごくどうでもいい!私は!」
まだ腹の底が煮立っているのに言葉にならない。
「だ、でも、僕は!あなたが母のように呪いで死ぬと思ったら!」
私は黙ってしまう。
「…あ、怖かったか…?」
私は怒っている。人生で一番くらい怒っている。なのに、この人が口をきいてくれたことを非常に喜んでいる。
悔しい。
私はアンダン様に抱き着く。彼には血の匂いがこびりついている。それが好きだ。腹立たしいけど。
見物客としての使用人たちが増えてきたので、アンダン様の手を取って寝室へ行く。
「結婚してから私、一度だって幸せじゃありませんでした。わかりますよね」
「面目ない…というか、本当に会話していいのか、今だって迷っている」
「結婚した奴と会話することに迷うな!!!!呪いも良いって言ってますよね?」
「良いわけがない」
「ストレスで早く死んでしまいます!ほら!どちらにせよだ!私が好きなら私を最高に幸せにしてくださいよ。嫌なら実家に帰りますし」
アンダン様は黙る。
「黙らないで私と会話してください!」
「か、考えていたんだ…!何を話したらいいかとか!でも、あ、あなたがここからいなくなるのは嫌だ…」
「もっと率直に言って下さい」
「好きだ」
「やっと言ってくれましたね」
アンダン様の胸倉をつかんで口にキスをした。アンダン様は硬直したので、思いのほか長い時間をかけることができた。模様が移ってくるくらいには。
アンダン様は手袋をした手で私を軽く突き飛ばす。
ドレッサーで自分の顔を確認すると、口元の模様が見える。それはゆっくり消えていく。
「あらら。アンダン様の模様が消えちゃった」
「あ、あなたは自分が何をしているか分かっていないんだ…」
「わかってますよ。呪いで死ぬかもってことですよね。しつこいですよ」
アンダン様に近づくと、彼は後ろに下がる。そうして私は彼をベッドまで追い込んだ。
「私、アンダン様の事、何も分かっていませんでした。というか、お父様から好きな女とは結婚するなって言われて来たのに、私なんかを好きになっちゃって」
「日記の事はあまり言わないでほしい…!」
アンダン様のかかとはベッドに躓き、そのまま彼は座る。
顔は真っ赤で私を見ないようにしている。
なんという、躾の行き届いた人だろう。愚直なほどまっすぐだ。生まれたときから与えられた役割も全うして。なんて偉いんだろう。
でも私のことが好きという、割り切れない思いを持っている。面白い。とても面白い。だからずっと見ていたい。逃がしたくない。
「お父様の言いつけは私が破りますね」
獣のにおいのする女をアンダン様は最初払いのけたが、それでも最後は陥落した。
アンダン様の手袋を外し、指を舐める。呪いだという模様が集まって、私を侵食していく。
それは痺れのように脳の奥底に余韻を残す。
アンダン様は怯えて固まり涙を流す。それを舐めとってやる。
「メリスさん…」
「大丈夫です」
「好きだ…もう、離さない」
彼は私の肩を掴んだ。けれど、目は私の後ろの暗闇を見ている。
その強い力は、私が解くまで離さなかった。
私は膝立ちになり、彼の頭を抱きしめた。
初めてアンダン様と一緒の寝床で朝を迎えた。
起きると、アンダン様が仕事に行くための準備をしていた。
「起こしてしまったか」
「何も言わずに去るのって、学習能力ないなって思いません?」
「いや、ちが…眠っているのに起こしたくなくて…」
「逆の立場だったらどうです。朝起きて、一緒に寝ていた私がいなくなっていたら」
「そんな…そんなの想像させないでくれ…」
アンダン様は絶望の顔をしていて気の毒だが少し笑ってしまう。
「すみません。冗談です」
「あなたという人は…」
安堵か呆れかわからない溜息をアンダン様は吐いた。
急いで彼に近づいて、ハグをする。
「行ってらっしゃい。怪我とか気を付けて下さいね」
アンダン様は私に呪いが移ることを心配している。
しかし、呪いに接して気付いた。これは呪いと呼べるほどの力を持たない。ただの刻印のようなものだ。きっと消せるだろう。だから消さない。私はお揃いとか好きなタイプなのだ。
彼は私をいつか呪いと呼ぶだろう。
アンダン様が悪いのだ。こんな私を好きになったのだから。
毎日がつまらない。飢えに苦しむことも、兄弟に気をつかうことも、大量の仕事を言い渡され家畜と共に寝ることもないのに、私はずっとつまらない。
皆が私を無視するからだ。
私がソワイス家に嫁ぐことになったのは、恋愛結婚が主流になった昨今においては非常に古い、政略婚だった。
そうしたほうが結婚が長続きするし、お互いの家のためにもなる。家どうしの諍いがあったとしても、本人たちが望むのであればしょうがない。そんな考え方が一般化していた。
それのためにパーティーまで設けられ、年頃になるとそれに出席するのは当然の事だった。
しかしソワイス家は別だ。なぜならソワイス家は、処刑人の家系だからだ。
処刑人には過剰なまでに畏怖される。敬意は確かに持たれるが、それよりもまず恐怖され、存在するだけでその場の雰囲気がピリつく。
なのでまあ、縁談もこないのだろう。ソワイス家で処刑人としての実績ももうあるアンダン様は、上背もありそれだけで周囲に圧をかける上、無口で右目に傷がある。その傷の由来は誰も本当のところを知らない。呪いだとか、罪人にやられたとか、罪人の幽霊にやられたとか、噂だけは途切れぬほどあったが。
処刑人といえど貴族階級では上だ。そして私の家は弱小中の弱小。貧民、というか、畑をやっているので本当に貴族かも怪しい。昔祖父が、ギャンブルで貴族の地位を手に入れたらしい、うちはそういう家だった。
なぜアンダン様が私を選んだのかは分からないが、
うちは兄と、6人の弟妹たち。そして兄嫁とその子供たちで部屋の数も危うかったし、プライベート空間と呼べるものは何もなかった。
好奇心だけは私は非常に旺盛であるので、ソワイス家からの縁談に快く答えた。
特にパーティーなどもなく。実家から持って来た物も、ティーカップくらいだった。
ソワイス家に来て、私は完全にお飾りと化した。お飾りならまだかわいがられるかもしれないが、皆が私を無視する。食事などは用意があるが、特に話しかけられもせず、話しかけてもやはり無視だ。かわいそうではないか。私が。
肝心のアンダン様も私を抱こうとしない。それどころか、それ以前のコミュニケーションを取ろうともしない。
同じ寝室なのにも構わず、ソファーで寝る。
それを見て、さすがに、日中働いておられるのは旦那様だ。なのにソファーで寝られるのは可哀想というか、おかしい。
そう言うと、ちらりとこちらを一瞬見たが、やはり無言でソファーに寝続けた。
じゃあ私が先にソファーで寝ていたらどうなるだろう。そう思い、ソファーで寝たふりをしてみる。
旦那様はソファーの前をうろうろした。
それから床で寝た。
ベッドで寝ろや。そう思いながら、立ち上がり、ベッドの上の掛け布団を旦那様に掛けようとした時、ここぞとばかりに旦那様はソファーで寝出す。
椅子取りゲームだったのか。
旦那様に掛け布団を掛け、床で寝る事にした。
ソファーの軋む音がする。
旦那様が寝返りでも打ったのかと思った。いや、旦那様のでっかい体であのソファーに寝返りするのは危険だ。ソファーの下にスプリングを敷こうと目を開けると、私を見下ろす旦那様がいた。いかんせん電気を消しているので表情はわからないが、たぶん初めて目が合った。
どんな顔だっけ。私は旦那様の顔すら忘れていた。旦那様は食卓すら私と共にしない。
旦那様は固まって何も言わない。なので私は目的通り、ベッドからスプリングを引き剥がそうとする。
ダブルベッドのそれは重すぎて引き剥がせない。
「手伝ってもらえます?」
旦那様にダメ元で聞いてみる。旦那様はこちらに来る。手伝ってくれるらしい。
旦那様は終始何も言わず、私の言うことに従い、スプリングを二人でソファーの下に敷いた。これで良い。というか、初めてのコミュニケーションがこれかよ。
私は床に寝直し、
「お休みなさい」
と言った。床は硬いが、硬くても寝やすいのは私の個性だろうか。なら良いものをもって生まれた。
起きたら旦那様はいなかった。今日も早朝から仕事なのだろう。見送りくらいはしたかったのだが。
旦那様はどこで寝たのだろうか。私より良い夢が見られているといいのだけれども。
使用人が部屋を見て驚いていた。
暇である。実家では日がな一日労働に明け暮れていた。なんなら酪農家のところへ行って家畜の世話もしていた。
この家にきてからは誰も私に話しかけることはなく、話しかけても返事をしてくれない。
存在を否定されているようだ。花嫁様だと言うのに。まあ、妻として夫を支えているかと言えば全くそんなことはないのだが。
外出もなんとなく禁じられている。なんとなくというのは誰も私と話さないせいだ。玄関へ行くと、使用人たちが集まってきて、困った顔をする。
一応処刑人の妻として表の世界に出る勇気もないので、まあそれはいいのだが。
しかし暇だ。これでは考えなくていいことまで考えてしまうではないか。
家の中をうろうろすると書庫がある。今日もここに世話になろう。
書庫は広く、高い天井びっしりに本がある。読み書きは苦手分野だったが、これしか娯楽がない。
読んでみてわかったが、知らない言葉を知るのは楽しい。ただ、使い所が本当に合っているのかなどはわからないし、確認しようがない。勉学は楽しいが、使えないと虚しい。
ベッドにスプリングが置かれた状態でその日は終了する。
対して動いていないので腹も減らない。あんなに食べることが好きだったのに。
今日は食堂には行かないことにする。
つまらん。つまらん。つまらん。つまらん。
翌日も同じだ。恐らく明日も明後日も。そのつもりはなくても飼い殺しだ。
だったら妊娠くらいさせてくれないだろうか。
ソファーで寝ている旦那様の前で服を脱いでみる。
旦那様は目を見開いて、私を肘で床のスプリングに突き飛ばした後、どこかへ行った。
抱くつもりはないらしい。畜生。
放置される日々が続く。私はとにかく書庫の本を読みまくり、書き写したりもする。
そうしているうちに、ある本と出会う。「気になるあの人を振り向かせる方法」というものだ。何でこんな本がここにあるのだろうか。分からないが、やる価値はある。うちの家族は長生きの家系だ。死ぬまである時間を、つまらないと思いながら生きていられるか。
絶対に声を聞いてやる。
なんて低レベルで悲しい目標だろう。
「おかえりなさーい。アンダン様!今日もお仕事お疲れ様です。ご苦労様です、っていうのは目上から掛ける言葉らしいですけど、どっちでも良いですよね。でもそういわれたら気になってお疲れ様しか言えなくなりますよね」
ひたすら話しかける作戦を実行する。靴を脱ぐ旦那様にマシンガントークを炸裂させる。
使わないことで口の筋肉が退化したのか、思ったように口が回らない。
しかし旦那様は全てを無視する。
「アンダン様やっぱり無視ですか。なんで結婚した~~~~????」
廊下を進むアンダン様の後を追いながら喋る。使用人たちは困惑している。
「いや、無視するのはいいんですけど。よくないんですけど、だったら無視するっていう宣言が欲しいです。私好奇心でしか生きていないので、なんていうか、今の状況、かなり健康的じゃないんですよ」
アンダン様は食事をしている。いつも通り手袋をしながら。
「くぅ~~~~~!!!!問題を言えば答えてくれると思ったのに~~~~~!!あっさり喋ってくれないんですね!理解しました!ちくしょう!今日は床で寝てください!」
私は用意されている食事に手を付けず、寝室に向かい、ソファーで寝た。
空腹で夜中に起きると、旦那様はスプリングのない床で寝ていた。
何をしてるのだろう私たちは。
とにかく腹が減っているので、キッチンに忍び込もうとすると声が聞こえる。
「旦那様もねえ」
「あれじゃあ若奥様が」
途切れ途切れにしかきこえない。私の耳は良くない。目はとてもいいが。
若奥様というのは私の事だろうか。私も噂には上がっているのだな。
なんとなく入り辛く、私は空腹のまま、寝室に戻る。旦那様に掛け布団を掛ける。後ろから抱きついてみると、起こしてしまったようだ。離れた床に移動される。
「わかった。わかりましたよ。邪魔しませんから、布団は掛けて寝て下さい!」
旦那様は言われた通りにしてくれる。コミュニケーションは一応取れた。
こんなもんを取れたと認定していいのかは謎だが。
眠れなかったので、旦那様が起きてから家を出るまでを、話しかけもせず、ずっと見ていた。
起きて、顔を洗って、髪を梳いて、着替えをする。
着替えもじっと見つめてやった。居心地の悪そうな顔をしたのでこれは軽く勝利だ。
使用人達に送られて家を出ていく旦那様。
「いってらっしゃいませ」
の声にも何も反応しない。
「あれじゃあ良い甲斐ってもんがありませんよねえ」
そう使用人たちに言うが、そそくさと私の元を離れる。大泣きしてやろうか。
今日は問題行動を起こそうと思っていたので、外に出てやった。
広い庭があり、それを囲む大きな黒い壁がある。
使用人が慌てるが気にしない。駄目ならそう注意すれば良いだけの話だ。
庭の一部は山につながっているようで、そこまで壁は作られていない。ただ、切り立った断崖がある。
山に出てみたい。久しぶりにキノコなどを拾いたい。しかし、無理そうだ。
大きな池には黒い鯉だけが泳いでいる。お前たちと私、どちらがマシなのだろうねと声をかけると、餌がもらえると思ったのか、鯉は私に寄ってくる。
「ばかめ。私は魚もさばけるぞ」
そう鯉に話しかけると、私の行動にあたふたしていた使用人達がひっ、と怯えた声を出す。
ちなみに哺乳類もさばけるからな。そう口に出そうとしたが、ちょっと恐ろしすぎるかと、やめておいてあげた。
庭を一周するが、風靡なものがひとしきり揃っており、それは私の価値観を変えるようなものではなかった。心に余裕もできたら、鯉への接し方も違ったものになるのかもしれないが。
かなり問題行動を起こしたつもりだったが、使用人は誰も旦那様にそれを言わなかった。
今日の旦那様は血の匂いがした。
「旦那様今日は血の匂いがしますね。不肖、この私貧乏貴族ことメリスは屠畜場でも働いたことがあるため、懐かしく思います!人間だろうが、家畜だろうが、血の匂いはそんなに変わらないんですかね。魚は生臭く感じますが。や、家畜ももっといろんなにおいがするから、違うかな。私を雇っていたところのレベルが低いだけかな」
旦那様は私をちゃんと視界に収めた。それは黒い髪をセットした、紫色の目の男性だった。何か言いたいことでもあったのだろうか。口を開くが、すぐに閉じ、自分のジャケットのにおいを嗅いだ。
何となく、旦那様の雰囲気が軟化したような気がして、懐へ潜り込んだが軽く付き飛ばされた。
「なんでじゃい!くそお…浮気してやる!」
私を無視して廊下に進んでいた旦那様は足を止めた。
「くそお…!家出もしてやる!!探さないで下さい!!!」
私は玄関を出て、裸足で、黒い壁の隙間こと断崖へ走る。昼に見たとき、案外岩が多く、掴めそうだと思っていた。
3メートル程はすいすい登れた。まだ私の力は落ちていないらしい。しかし、ここ数日まともに食料を得ていなかった。慢心と空腹で、私は足を滑らせる。
暗かったしなあ、体は落ちていくがそんな風に頭は考えていた。
そのまま地面へ落下、打ち所が悪く死亡する未来まで見えていたのに、そうはならなかった。
私をあっさりと受け止めたのは旦那様だった。
しかし、その表情は泣き出しそうというか、どこか放心したもので、私を受け止めるとすぐにその場に私を置いて、どこかへ行く。それを追うと、旦那様は風呂場へ行っていた。
脱衣所に鍵はない。一緒に脱衣所に入ると、旦那様は何か諦めたらしい。私を追い出さなかった。
旦那様は上半身裸になる。その体には黒い模様がいくつも走っており、またそれらはあちこちに動いていた。蛇のような、内臓の内側のような、牛の網脂のようでもあった。
「下半身にもそれがあるんですか!?」
わくわくして私は聞く。
旦那様は、驚いた顔になった。私は旦那様の下半身をじっと見つめる。旦那様は目をぎゅっと閉じて首を傾げる。
「それって触っても平気ですか!?」
旦那様は私の手首をつかんで、蠢くそれを触らせた。私にもそれが移るのが分かった。
「すげーーー!!!!」
旦那様はとっとと私の手を放す。すると、主はこちらとでもいうように、するすると模様は私から離れる。
「すげーーーー!!!」
旦那様はまた驚いた顔になっている。
「早くズボンとパンツを脱いで下さい!そうすれば全貌が明らかになります!」
私が興奮しながらそう言うと、旦那様は手袋をしたまま、私を脱衣所の外に引きずり出した。何だったんだあれは。
「浮気は嫌なんですかーーー?」
脱衣所からそう呼びかけると、上半身裸の旦那様がすぐに現れる。
怒っているように見える。
「まあ、浮気相手のアテもないんですけどね」
旦那様は脱衣所にまた消える。
何もしてこないくせに、浮気は嫌というのはどうしてだろう。
どんな事情があるのだろう。全部話してくれれば良いだけなのに。
まあ今日は、顔をちゃんと見れたし、旦那様の体の秘密?にも迫れた。よしとするか。
近くにいた使用人が震えていることに気が付く。
「あああ!神様!」
祈っているものもいる。
「そんなにやばいの?」
「た、助けて、助けてください…!」
「助けるから教えてよ」
久しぶりの会話に私は胸躍らせる。
「だから私は処刑人の奉公など最初から嫌だったのです」
まだ幼い使用人がそう話し始める。震えておりかわいそうだったので、毛布を与えた。
他の使用人が遠巻きに私たちの事を見ているが、誰も干渉はしてこない。
「呪いかあ」
曰く、この家は呪われているらしい。というか、処刑人の周りが呪われていないわけがない。彼はそう言った。
「そして呪いの証拠を私は先ほど直視してしまった!死ぬのです!どうか、どうかご慈悲を……」
「その理屈で言えば、私ちょっと触ったけどまだ生きてるよ」
「へ…」
「呪いかもしれないけど、見たくらいじゃなんともないんじゃない?」
「それは…本当ですか…?」
「うん。まあ私が死んだらごめんだけど」
「わーーーい!!!!よかったあああ…あ、若奥様と口をきいてはいけないんでした!それでは」
去ろうとする使用人の腕を掴む。この使用人が幼くて助かった。
「なんでなのかな?」
「い、いたいです!」
「なんで私と口をきかないのかな?」
「そういう決まりなんです!知らないんです本当に!うわああああああん」
使用人は泣き出してしまったので、解放してやる。可哀そうなことをしたか。
いや、泣きたいのはどう考えても私だろう。
旦那様が寝室に来たので、マットレスをもどすことを提案すると、すぐにそう動いてくれる。
「旦那様はベッドで寝てください。私はここを出た廊下で寝ます。これなら一緒に寝なくて済むし、浮気してないか確認もできるでしょう」
私は最低限の布団と枕だけ抱えて、部屋を出ようとすると、肩を掴まれる。
それは一瞬で、振り返ると、旦那様は掴んだ手を見ていた。
「ほんじゃそういうことですので~」
私が廊下で寝ているのに使用人達は驚いていたが、寝室が廊下のつきあたりということもあり、邪魔にはならなかった。
横になり本を読んでいると、旦那様が寝室から出てくる。また泣きそうな表情に顔を歪めている。
私の布団の横に正座した。
「なんですか」
やっと旦那様の顔が覚えられそうだ。これは一歩前進したぞ。結婚して数か月が経っているけれども。
旦那様はやはり何も言わない。
「明日も早いんでしょう。寝てください」
「…わ…」
そこから文字は、文章にも単語にすらならなかった。旦那様の声は一瞬で、どんな声だったか、覚える余裕はない。旦那様は寝室に戻った。
翌日、寝室のドアが開かれて、私も起きる。旦那様は私を一瞬だけ見るが、あとはいつも通りだった。
「あの…」
昨日の幼い使用人がほとんど泣きながら私に話しかけてくる。
「なあに?」
話しかけてくれたこと自体がすごく嬉しかったので、にこやかに対応する。
「わ、私が、通訳担当になっちゃいましたあああああ」
泣きながら使用人は言う。
「どゆこと」
「若奥様と話したんだから、使用人の意見とかを伝える役になれってえ…」
グスグスと泣いている使用人が言う。
「使用人の方々が私に意見があるってことだね?なんだろう?」
「まず、ごはんちゃんと食べてくださいぃぃぃいい」
「これはね、旦那様を心配させようと思ってやってる!」
「旦那様は心配してますよおおおお多分~~~~!!」
多分かい。つっこみたくなるが、彼の心情を考慮してやめておく。
「ふうん。ところであなたはさ、どこ出身?どうしてここに来たの?何が好き?というか名前も知らないや!名前は?」
「わああああああん!!!」
彼は泣きながら使用人たちの方へ走り去っていってしまった。
私の好奇心はいつもこうだ。先走って、相手を傷つける。兄の子たちにも構い続けて全員に嫌われている。気になるだろう。まだ世界をほとんど知らない自分たちの幼体なんて。
その点家畜は良かった。蹴られることもあったけど。
今の私は特に誰かと喋りたい。こんな待遇間違ってるよね、そう感情を共有したい。この屋敷の中のおかしさを肯定してほしい。
感情が暴発して猿のように使用人たちに襲い掛かりそうになったので、本のある部屋へ来る。
処刑人についての本を読む。処刑人は拷問も担っているそうだ。心理的負担が半端じゃないだろう。その上で恐れられて畏敬、何て言われているが嫌われているのか。やりたくない仕事だな。私は旦那様を憐れむ方向で気持ちを切り替えることにした。
処刑人には殺した人間の怨霊が宿っている。処刑人は呪われており長生きできない。
そんなことまで書かれている。へー、と思いながら読む。結構長い上、単語も難しいのが多いので、夜になれば、辞書と一緒に布団まで持っていく。私の居場所はここだった。
お腹は相変わらずペコペコで手が震えはじめる。倒れれば心配くらいしてくれるだろう。心配してくれなかったら…。あの崖を上って野山で猿として生きていこうか。
処刑人の本もどんどん読み進めていく。途中から文法の本も持ってきて意味をちゃんと分かるように何度も読む。夢中になっていると、旦那様がいることにも気付いていなかった。
「あ、おかえりなさ…」
立ち上がろうとすると、やはり栄養やら水分やらの不足で立ち眩み、倒れる。
それを旦那様は受け止めてくれたが、すぐに床に私を置こうとするので、腰に手を回して掴み、粘ってみる。
が、力の差は歴然だった。視界も揺らいでいたため、旦那様の表情が見られないのが悔しかった。
目を覚ますと、私は寝室のベッドに寝かされており、丸眼鏡の老人が横にいた。
「どなたですか」
そう聞くと、
「お嬢さんの命の恩人です」
そう言った。
「それは…ありがとうございます」
「若い女性には目がないものでね。ッカーーーーーー!!!」
老人は自分で言ったことに自分で笑い出した。
私もつられて笑う。
よく見ると、老人の隣には旦那様もいたが、いつもより怖い顔をしている。
「話を聞く限り、栄養失調だろうね。今点滴しているから、それでね、やってね」
「はあ」
「ちなみに妊娠の可能性は?」
「ありません。処女です。ッカーーーーーー!!!!」
今度は私が笑い出すが、老人は私のように笑ってくれなかった。大滑りだ。泣きそうになる。
老人はいくつかの質問をして、旦那様と部屋を後にする。
あれはおそらく医師なのだろう。
少し大事にしすぎただろうか。ぽつりぽつりと落ちていく点滴を見てそう思った。
ややあって、医師は部屋に戻らず、旦那様だけが部屋に来て、ベッドの横に置かれた椅子に座る。
「死ぬな」
旦那様が決心したようにそう言った。別に私は死にたいわけではないのだが。
彼の手を触ってみる。冷たい。黒い模様がどこからか漂ってきて、私に移る。
ひっと言いながら彼は手を引っ込める。
「さ、触るな」
私は旦那様を見つめる。彼は怯えている。何にだろう。呪いだろうか。それとも私か。
「私は死にません。多分。あと、できればあなたに触りたいです」
旦那様は何も言わない。豪奢なベッドが虚しい。
「旦那様は私に触りたくない?」
やはり何も言わないまま目を閉じている。眉間には深いしわが慣れたように現れる。
「何をそんなに恐れているのですか」
「き、君にはわからない!!!」
その取り乱した大声で、私はようやく夫の声をちゃんと聞いた。低いが不快ではない、思っていたよりきれいな声だった。
翌日は一日寝た切りで、ただただ消化に良いものを食べ続けた。私への配膳はあの幼い使用人で、いつも彼はぶるぶる震えており、配膳能力には疑問を抱かざるを得なかった。彼は名前を教えてくれない。名前を知られると呪われるらしい。田舎から出てきたばかりの私に何の力があるというのだろうか。まあいい。
トイレに行きたくなり立ち上がる。
上流貴族の家にはトイレがいくつもあり、一部屋に一つあると聞いていたのだが、ここはそうではなかった。
まあ家の中にトイレがあるだけでありがたい。
トイレに行く途中、話し声が聞こえる。
「奥様がヨウセイしなければこうならなかったんでしょうか」
「滅多なことはいうもんじゃないですよ」
「さすがに若奥様が…」
少し戻って、今度は足音を立てると、声はしなくなる。トイレの後、寝室前の私のスペースにある本と辞書などを寝室に持ち込み、ベッドに座りながら読む。そういえば、使用人が言っていたヨウセイとはどういう意味だろう。辞書を開く。要請、違う。養成、これも違うだろう。夭逝、早く亡くなること。これが一番意味が通りそうだ。
つまり旦那様の母に当たる人は、早く亡くなった、ということになる。処刑人は呪われるらしいからその影響で、だろうか。触ると移るあの模様も確かにそれっぽい。
処刑人の本を読み進める。処刑人に接触した者にはその呪いが移る。ただし書きに、直接触れなければ問題ない、とある。ご丁寧なことだ。死神の末裔が処刑人、そんなことも書いてある。生きている世界にも死を下す存在が必要になり、人間と恋に落ちた死神が罰として処刑人になったらしい。私としてはその恋愛が気になったが、深い記載はなかった。すごく燃え上がった恋愛だったろう。余命少ない女性と、生を狩る死神の恋。いいなあ。羨ましい。
ちょっと書斎に恋愛小説はなかっただろうか。探してみよう。
そうして欲に素直な私は書斎をくまなく調べる。本と本の隙間、棚の空いた場所。
調べて調べて、ぼろぼろの本が、とある本棚の本の裏から見つかった。
手書きの文字は達筆で読み辛いが、その場で読んでみる。
それは日記だった。
「おかえりなさい。旦那様」
食卓で私はペンを持ち、日記と辞書を開いて、紙を広げていた。日記の解読だった。
暗くなる。何だろうと思ったら、旦那様が私に近づいていた。なんだ?ようやくキスの一つ
でもするのか!そう思ったが、旦那様は日記を奪った。
「それは私が見つけたものです!今読み書きの練習にしていて…」
旦那様は私を見ずにダイニングを離れる。私は追う。
「なにかずっと悩んでいる方の日記のようです。それだけはわかります。あと食事の内容が細かいので、食いしん坊なのかと」
旦那様は私に向き直って、
「黙れ」
そう言った。
私はそこから旦那様を追うことをしなかった。ただ、心がぽっきりと折れた。
その場に座り込む。
私という一個人より汚い日記をあの人は優先させた。
「私は日記に負けた」
そう口に出すとより自分がみじめになってくる。
どんどん腹が立ってくる。私に干渉しないくせに、日記だけは目の色を変えて奪っていった。
私は立ち上がる。ここはあの男の家で、あの日記の所有者もあの男ではあるが、今は私だってここの一員ということになっている。
あの男が向かった書斎に入ろうとすると鍵がかかっている。寝室の数少ない髪飾りを解いてピンだけにして鍵を突破する。
あの男は他の日記も集めていた。書斎の机に日記が山になっている。
「あなたのだったんですね」
男は驚く。
「私は、あなたの胸の裡を知りたい。すごく、興味がある。なのでごめんなさい」
私は力を使ってしまう。
「命令します。ソワイス・アンダン、この部屋から出て行って」
男は私の命令にもドアが完全に閉じるまで抗った。やはり処刑人ともなると、抵抗力が強い。しかし私はこれで何千頭の家畜の意志を捻じ曲げてきた。
久しぶりにきちんと命令を使ったので頭が割れそうに痛むがどうでもいい。書斎のドアを強いこぶしで殴る音が絶え間なくするがそれもどうでもいい。
数冊の日記を私は心穏やかに読み始める。
「○月×日 晴れだと思ったけどやっぱりくもり
お母さまがなくなった。なくなるというのは、どこにもいなくなるということらしい。
お母さまのこえがどこからもきこえないし、すがたもみえない。
お父さまが日記を書くといい、とこの本を下さった。
今日のごはんはあまりおいしくなかったのでおぼえてない。おわり。
」
「△月□日 雨
母の死から5年経った。父は「好きな女とは結婚するな」といつも通りに言う。
家の事もあるが、女の人と付き合える気がしない。女の人の気持ちがわからない。
ニロルのように世の中との付き合いが上手な奴が親戚にいてよかった。とりあえず処刑人の血は絶えることがないだろう。
今日の食事は朝にパンとバナナとジャガイモのスープ(サラダも欲しかった)
昼は父とメイラッケ名物の海鮮粥のようなもの(非常に旨味が強かった)
夜は子牛のシチューと白米と青菜の煮つけ(子牛のダシが入っている?)(どれも美味)
」
「×月●日 雨
処刑人として初めての実践を行った。
」
「●月〇日 晴
結局ニロルの誘いを断り切れず(いや、本当は断れてたが行ったのは自分の意思だ)
パーティーに初めて参加した。ニロルはあちこち引っ張りだこで、僕は何をしていいかわからず、自分が貶められているような気持ちになっていた。見た目だけは一丁前なので、壁を背に貴族という人々をまるで選別するような視線を送る。一部の人が僕に気が付いて怖がる。何をやってるんだ僕は。虚しい。
なんともまあ、きらびやかで華やかな世界だった。若い血潮たちが青春!と叫んでいるようだった。何故僕はあそこに混じれないのだろう。
僕の前で今にも吐きそうな女の子がいた。どうしようと慌てふためく僕なんか目にも入っていない、という感じで彼女が現れた。
なんと彼女は、吐きそうな子のために自分のスカートを破って袋を作った。
確かにここの会場を汚損してその請求が行けば、貧乏貴族の家であれば傾くかもしれない。
その子はその袋に吐いて、背中をさすられながら、二人はトイレへ向かった。
僕はあの子が好きだ。なんていうか、全部が好きになってしまった。でも僕なんかが好きってことは、みんなもきっと好きなんだろう。あああああああ。
今日のご飯
朝:バナナとヨーグルト
昼:煮たサーモンと玄米パン
夜:サラダ(パーティでいろんなものが食べれそうだったのに、気取ってサラダしか食べなかった。大後悔)
」
「◇月×日 曇
3回目の拷問官。レベル4まで。
ニロルに彼女がどんな子か調べてもらった。
田舎も田舎の娘で、権力は無く、その土地の豪農の方が権力があるそうだ。
家からして古ぼけていて臭かったらしい。ただ、魔法を自然に使っている珍しい地域で、彼女が魔法を使って家畜を追い回すのを見たらしい。
あの野性味はそこからきていたのだなと納得。
ニロルにからかわれるが、本気なのだというと、ニロルが驚いていた。
今日のご飯
朝:ゆで卵とエッグスクランブルと白米
昼:揚げ物(野草と山菜が特に美味しかった)と五穀米と海藻サラダ
夜:初めて見たパスタ(ストロー状だが大きく、中にミートソース)とコンソメスープとレタスのサラダ(ドレッシングが美味)
」
「×月●日 晴
父が亡くなった。葬儀などが一段落した。
亡くなる前に二人の時間が持てたのがよかった。
好きな人が出来たことは伝えていなかったが、どこからか漏れていた。
父の口癖を考えると、裏切ったことになり申し訳なかった。
「死なせたくなければ、極力かかわるな」
父はそう言った。
いろいろ語った。それを思い出せるように日記に綴っているはずなのになんていうか、書いている今、思い出せないし書けない。もっといろんな話がしたかった。
」
翌日の昼、尿意が限界で部屋から出ると、旦那様が書斎の前に座っていた。
「すみません、話はあとで!トイレ優先させてください!」
そう走り去る。トイレを出た少し先に旦那様はいた。今度は仁王立ちで、廊下をふさいでいる。トイレの前にいなかったのはちょっと紳士的だな、なんて私は思った。
「怒ってます?怒ってますよね多分」
私は彼に聞く。彼の眉間の皺は深い。
「いや、私の方が怒ってますからね!!!!」
私は頭をかきむしる。
「勝手に好きになって、結婚までしたのに、無視して!」
彼を睨みつける。
「どんだけ私が不安だったと思ってます?いいですよね自分は好きな女とりあえず傍に置いておいてそれで満足みたいな?呪いがあるから僕ちゃんからはどうしようもないし~的な?
呪いなんてどうでもいい!すごくどうでもいい!私は!」
まだ腹の底が煮立っているのに言葉にならない。
「だ、でも、僕は!あなたが母のように呪いで死ぬと思ったら!」
私は黙ってしまう。
「…あ、怖かったか…?」
私は怒っている。人生で一番くらい怒っている。なのに、この人が口をきいてくれたことを非常に喜んでいる。
悔しい。
私はアンダン様に抱き着く。彼には血の匂いがこびりついている。それが好きだ。腹立たしいけど。
見物客としての使用人たちが増えてきたので、アンダン様の手を取って寝室へ行く。
「結婚してから私、一度だって幸せじゃありませんでした。わかりますよね」
「面目ない…というか、本当に会話していいのか、今だって迷っている」
「結婚した奴と会話することに迷うな!!!!呪いも良いって言ってますよね?」
「良いわけがない」
「ストレスで早く死んでしまいます!ほら!どちらにせよだ!私が好きなら私を最高に幸せにしてくださいよ。嫌なら実家に帰りますし」
アンダン様は黙る。
「黙らないで私と会話してください!」
「か、考えていたんだ…!何を話したらいいかとか!でも、あ、あなたがここからいなくなるのは嫌だ…」
「もっと率直に言って下さい」
「好きだ」
「やっと言ってくれましたね」
アンダン様の胸倉をつかんで口にキスをした。アンダン様は硬直したので、思いのほか長い時間をかけることができた。模様が移ってくるくらいには。
アンダン様は手袋をした手で私を軽く突き飛ばす。
ドレッサーで自分の顔を確認すると、口元の模様が見える。それはゆっくり消えていく。
「あらら。アンダン様の模様が消えちゃった」
「あ、あなたは自分が何をしているか分かっていないんだ…」
「わかってますよ。呪いで死ぬかもってことですよね。しつこいですよ」
アンダン様に近づくと、彼は後ろに下がる。そうして私は彼をベッドまで追い込んだ。
「私、アンダン様の事、何も分かっていませんでした。というか、お父様から好きな女とは結婚するなって言われて来たのに、私なんかを好きになっちゃって」
「日記の事はあまり言わないでほしい…!」
アンダン様のかかとはベッドに躓き、そのまま彼は座る。
顔は真っ赤で私を見ないようにしている。
なんという、躾の行き届いた人だろう。愚直なほどまっすぐだ。生まれたときから与えられた役割も全うして。なんて偉いんだろう。
でも私のことが好きという、割り切れない思いを持っている。面白い。とても面白い。だからずっと見ていたい。逃がしたくない。
「お父様の言いつけは私が破りますね」
獣のにおいのする女をアンダン様は最初払いのけたが、それでも最後は陥落した。
アンダン様の手袋を外し、指を舐める。呪いだという模様が集まって、私を侵食していく。
それは痺れのように脳の奥底に余韻を残す。
アンダン様は怯えて固まり涙を流す。それを舐めとってやる。
「メリスさん…」
「大丈夫です」
「好きだ…もう、離さない」
彼は私の肩を掴んだ。けれど、目は私の後ろの暗闇を見ている。
その強い力は、私が解くまで離さなかった。
私は膝立ちになり、彼の頭を抱きしめた。
初めてアンダン様と一緒の寝床で朝を迎えた。
起きると、アンダン様が仕事に行くための準備をしていた。
「起こしてしまったか」
「何も言わずに去るのって、学習能力ないなって思いません?」
「いや、ちが…眠っているのに起こしたくなくて…」
「逆の立場だったらどうです。朝起きて、一緒に寝ていた私がいなくなっていたら」
「そんな…そんなの想像させないでくれ…」
アンダン様は絶望の顔をしていて気の毒だが少し笑ってしまう。
「すみません。冗談です」
「あなたという人は…」
安堵か呆れかわからない溜息をアンダン様は吐いた。
急いで彼に近づいて、ハグをする。
「行ってらっしゃい。怪我とか気を付けて下さいね」
アンダン様は私に呪いが移ることを心配している。
しかし、呪いに接して気付いた。これは呪いと呼べるほどの力を持たない。ただの刻印のようなものだ。きっと消せるだろう。だから消さない。私はお揃いとか好きなタイプなのだ。
彼は私をいつか呪いと呼ぶだろう。
アンダン様が悪いのだ。こんな私を好きになったのだから。
