路地をひとつ曲がると、駅前の喧騒が嘘のように静かだった。
木目調の外壁に並ぶ花を入れたバケツたち。その真ん中には『la fleur』と書かれたガラス戸。俺は、そこに貼られた紙を見つめていた。
『アルバイト募集』
シンプルなフォントでそう書かれた、一枚の貼り紙。時給は高くこそないが、この辺りの平均と比べて悪くない。花屋で働いたことはないけれど、今の状況じゃそんなことは言っていられなかった。
一度大きく息を吐く。一歩踏み出そうとしたその時、ガラス戸が横に引かれた。中から出てきた男性は、シャツにブラウンのエプロンを着けて、その上にパーカーを羽織っている。店主だろうか。思っていたよりも若い。俺と同世代か、少し年上か、そのくらい。
その人は、バケツの中を確認しながら俺の方をちらりと見る。その表情は読めなかったけれど、色素の薄い瞳と髪が印象的だった。ほんの少しだけ、煙草の香りがする。花屋らしくない男の人。それが第一印象だった。
「……バイト?」
いきなり声を掛けられて、思わず返事が遅れる。
「あ、はい、貼り紙見て。まだ募集してますか」
ガラス戸の貼り紙を指さした。
「してるよ。こっち」
綺麗な顔に反して気だるげな声で、ガラス戸を開けて中に案内してくれた。
外壁と同じように木目調の店内は、温かい雰囲気だった。小さくて黄色い花のドライフラワーが至るところに飾られている。なんだか、この人っぽくない。
「その辺、座ってて」
レジカウンターのすぐ横。小さなテーブルを挟むように二つ椅子が置かれている。椅子の隣で立っていると、その人は店先のプレートをCLOSEにひっくり返してから、俺の向かいに座った。
「座って」
「あ、ありがとうございます」
俺は、書いてきた履歴書をクリアファイルごと手渡す。
「成瀬蒼依。俺の二個下か」
履歴書を受け取ったその人が、軽く眺めると小さく呟いた。
「はい。成瀬蒼依と申します。二十五歳です。それから……」
「なあ、この『会社都合により退職』って何?」
履歴書を俺に向けて、職歴の欄をとんとんと指で示した。
「先月、勤めてた会社が倒産しまして」
苦笑いでそう告げる。
そう、俺は今、無職なのだ。
「本当にあるんだな、そういうの」
その人はほんの少しだけ目を開いた。あまり表情は変わらないけど、多分驚いているんだと思う。
「まあいいや。それで新しい働き口探してんだ」
「はい。ここで働かせていただけないかと思って」
机に両肘をついて俺を見つめる。綺麗な顔に凝視されると、どうすればいいか分からない。
「前の会社では何してた?」
「営業です。まあ、三年くらいですけど……」
「学生時代のバイトとかは?」
「飲食店で接客してました。人と関わる仕事は慣れてるつもりです」
「免許は?」
「普通車なら」
そう答えると、その人は少し黙った。そして、ニヤッと笑う。
「よし、採用」
「……はい?」
あまりに早い採用通告に素っ頓狂な声が出た。いくらなんでも早すぎる。
「接客できて車出せんなら充分だな。配達も俺一人じゃ回らなくなってきたし。見た目も清潔感あって問題なし」
理にかなってはいるが、そんな簡単に決めていいことなのだろうか。
「あの、良いんですか?他の従業員の人とか……」
「いねえよ。俺一人でやってるから」
なるほど。全てこの人の裁量ってわけか。
「今無職っていうなら、生活かかってるだろうし、すぐ辞めたりしないだろ? ここの住所、一人暮らし用のアパートだもんな」
その言葉にドキッとした。言葉に詰まった俺を見て、その人は不思議そうに首を傾げる。
「あ、今、そこ住んでなくて……」
「はあ?」
「社宅だったんで、倒産と同時に住めなくなっちゃって」
すると、その人が笑った。
「お前、ツイてなさすぎるだろ。今どこ住んでんの」
「駅前のネットカフェで生活してます」
マジか、と息を吐かれる。さすがに住所不特定者を雇うのは、気が引けるだろうか。
「すみません」
思わず謝ってしまう。すると少し考えた後、その人は何かひらめいたように、履歴書のクリアファイルをぱちんと弾いた。
「お前、うち住むか?」
「……はい?」
もう一度、素っ頓狂な声が出た。
「ここの二階、俺ん家なんだよ。じいさんが死んでから俺が一人で住んでる。給料はあんまり出せねえけど、寝る場所と飯は保証してやる」
「だから、住めと?」
「俺はお前が逃げないように見張る。家事は折半できる。お前は住む場所と働く場所が手に入る。悪くないだろ?」
いや、そうとはいえ、数分前に出会った人と住むのは……。
「俺、あなたの名前も知らないですし」
「ああ、自己紹介まだだったか。俺は白石律。一応ここの店主」
これでいいだろ、と言わんばかりに得意げな顔で俺を見ている。
俺は考えた。これからまたしばらくネットカフェに住み続けるか。それともこの人とここの二階に住むか。実家は頼れない。狭いネカフェで脚も満足に伸ばせないまま寝るのは、正直限界だ。しかし、見ず知らずの男性と暮らすことに躊躇いがないと言ったら、嘘になる。
「まあ、お前にも事情があるだろうし、住むのは無理にとは言わねえけど」
少し声のトーンが落ちて、目を逸らされる。
この人も、独りなのだろうか。
でも、この人となら。この日の俺は、なぜかそう思った。
「白石さんが良ければ、住まわせてください」
気が付いたらそう言っていた。白石さんは、また得意げに笑う。
「律でいい」
「じゃあ、律さん」
「ん。二階、案内してやる。後で荷物持ってこい」
そう言うと、クリアファイルを持ったまま立ち上がった。店の奥に案内しながら、ふと立ち止まる。
「そうだ。じいさんの部屋、掃除はしてあるけど何もねえからさ。これでも飾っとけ」
律さんは店の端の花瓶から、黄色くて小さい花がついた束をひとつ俺に渡してくれた。店内に飾られている花と同じ種類だ。ふわりと、爽やかな花の香りを感じる。
「これ、お店に飾ってある花ですよね」
店を見まわしてから、律さんに尋ねた。
「ミモザ。じいさんが好きだった花」
懐かしそうに、口元を綻ばせるのが見える。
「じいさんフランスの人でさ、向こうの地元でよく咲いてたんだってよ」
お祖父さんがフランス人。律さんの色素の薄さはお祖父さん譲りなのかもしれない。
「春先に咲くから、最近は新しい門出を祝う時に渡すんだって」
「そうなんですね」
「まあ、俺からの転職祝いだ。受け取れ」
花屋らしくないなんて、前言撤回。花に囲まれてふわっと笑った律さんが、妙に記憶に残った。
その日から、俺と律さんの同居生活が始まった。
花屋での仕事は初めてだったけど、気づけば朝の水替えも店先の掃除も、少しずつ手が覚えていた。
「蒼依、これ運んでおいて」
「はい。あ、これは……ラナンキュラスですね。こっちはスイートピー」
「正解。ちゃんと覚えてんのな」
律さんは俺を“蒼依”と呼んでくれて、俺は少しずつ花の勉強をしている。まだ律さんには遠く及ばないけど、少しでも力になりたかったから。
それから、接客が苦手な律さんの代わりに俺がカウンターに立つことも多くなった。律さんが作った花束で、お客さんが笑顔になるのをいちばん近くで見届けるのは、なんだか嬉しかった。
「蒼依、これ配達お願い。いつものルートで」
いくつか花束が入ったバケツを顎で示して、俺に向き直る律さん。少し前から、商店街や近所の店への配達を任せてもらえるようになった。
「行ってきます」
近所の小料理屋やアパレルショップに飾る花を届けていく。最近は配達先でも「白石さんのところの新しい子」って認識されるようになって、少しだけ居場所を見つけられた気がする。
今日の分の配達を終えて、軽トラに乗り込む。夕方の駅前は帰路につく人で混雑している。裏路地を抜けて、ラ・フルールの裏口に停めた。
「戻りました」
裏口の扉を開けると、二階から律さんが下りてくるところだった。両手にはマグカップが二つ。俺が帰ってくる時間を見計らっていたのかもしれない。
「ん。飲め」
「ありがとうございます」
コーヒーが淹れられたマグカップ。律さんの分はブラックで、俺の方にはミルクが入っている。前に何気なく、コーヒーにはミルクを入れるのが好きだと言ったことを、律さんは覚えていたらしい。
「覚えててくれてるんですね」
「何を」
「ミルク。俺の方だけ入ってる」
「……知らない」
こういう時の律さんは素直じゃない。これが照れ隠しだって、俺は気付いている。
カウンターの端にマグカップを置いて、閉店前にレジの周りを片付ける。ふと作業台の方を見ると、律さんがコーヒーを一口飲みながら、こちらを見ていた。目が合うと、ふと逸らされた。
「馴染んできたな。お前」
「え?」
思わず聞き返す。
「いや、なんでもねえ」
そう言って律さんは小さく笑った。
外が暗くなり始めるころ、店を閉めて二階へ上がる。
夕飯の担当は俺だ。キッチンに立って、冷蔵庫を開ける。
「しめじ、豆苗、ベーコン……」
振り返ると、律さんがソファに腰掛けて仕入れ票のファイルを眺めていた。
「律さん、夕飯パスタでいいですか?」
「んー。お前が作るなら何でも」
目線はそのまま、少し間の伸びた返事が帰ってくる。信頼されてるみたいで、ありがたい。
お湯を沸かしながら、豆苗とベーコンを一口大に切っていく。その間、ファイルを閉じた律さんが、ベランダから洗濯物をしまってくれた。店を閉めてからの担当は、料理が俺で洗濯物が律さん、というルーティンができあがっている。
「なあ、煙草吸っていい?ベランダで」
「もちろん。聞かなくていいですよ」
俺は居候だし、気にしなくていいと何度も言っているのに、律さんは毎度こうして聞いてくれる。俺がいる前で堂々と吸うことは、あまりない。
ベランダの欄干に肘をついた後ろ姿が目に入る。色素の薄い横顔から紫煙を吐き出す姿は、映画のワンシーンみたいに美しかった。
簡単なパスタとスープをダイニングテーブルに並べ、向かい合わせに座った。食事をする時は、だいたい一緒だ。
「いただきます」
ひとりで暮らしている時、あまりまともな食事を摂っていなかったらしい。だから、居候としてのせめてものお礼を込めて、料理はやらせてほしいと俺が頼んだ。
「ん。うまい」
「良かった」
律さんは、ひとりで暮らしていたせいなのか、あまり口数が多くない。でもその分、本当に思ったことしか言わないから、それが心地良かったりもした。
「今日、プロポーズ用のお花作ってましたね」
「……ああ。上手くいってるといいな」
「上手くいきますよ。律さんの花束だもん」
パスタを口に運びながら他愛もない話をするのも、いつも通りだ。
「いつかお前が彼女に花渡す時は、作ってやるよ。それとも俺が教えてやろうか?」
その言葉に、心臓がどくんと跳ねた。思わず持っていたフォークが止まる。
「……彼女とか、あんま分かんないです」
慌てて繕うように笑ったけど、きっとぎこちなかったのだと思う。律さんは「そう」とだけ短く言うと、それ以上何も言わなかった。
洗い物は毎日交代で。今日は俺の番だった。その後はシャワーを浴びて、リビングで過ごす。それぞれ部屋はあるけれど、なんとなく2人ともリビングにいる事が多かった。
「律さん、俺もう寝ますね。おやすみなさい」
「おやすみ。明日、起こせ」
「分かってますよ。ちゃんと起きてくださいね」
毎朝律さんを起こすのも俺の役目だ。見るからに低体温、低血圧そうな律さんは、見た目通り朝が弱い。
元は律さんのお祖父さんの部屋だった場所が、今の俺の部屋だ。家具もそのまま使わせてもらっている。低めのベッドにクローゼット。それから、姿見と腰くらいの高さのチェスト。今の生活には十分すぎるくらいの部屋だった。
ベッドに入る前、窓際に逆さに吊るされた黄色い花を眺める。初めてここに来た日、律さんにもらったミモザの花だ。せっかくなら残しておきたくて、律さんに聞いてドライフラワーにしようと決めた。葉を取ったらとりあえず逆さにして吊るしとけ、と言われたのでその通りにしている。少し乾燥してきただろうか。
「綺麗にできるといいな」
部屋でひとり、小さく呟いてから眠りについた。
店先の花が少しずつ変わっていく。ダリアやコスモスがラ・フルールを彩る季節になった。
「蒼依、手荒れてきたな」
「大丈夫ですよ。これくらい」
冬ほどの乾燥はないけれど、ずっと水を触っている俺の手は少し赤くなっていた。
「見せてみろ」
すっと、横から律さんの腕が伸びてくる。
「あの、本当に大丈夫ですから!」
思わず後ずさってしまった。律さんは時々、パーソナルスペースが狭いというか、気にしないところがある。穏やかな生活の中で、それが俺にとって唯一の小さな悩みだった。
そんな夕方、ラ・フルールの扉が音を立てて開く。
「いらっしゃいま……」
裏の作業台からレジのあるカウンターに出た俺は、目の前に立つ客の顔を見て足が止まった。
「あれ、蒼依?」
スーツを着て、ネクタイを締めた好青年。なんて事ない顔で、俺の名前を呼ぶ。
「……遥斗」
「蒼依、ここで働いてたんだ」
ふっと微笑む表情は、あの頃から変わっていない。
「蒼依ー、注文表置きっぱなし」
戸惑う俺の後ろ、最悪のタイミングで律さんが裏から戻ってきた。
「何?知り合い?」
「あ、まあ、はい。大学が同じで」
曖昧に濁す。今は、"知り合い"で間違ってはいない。
でも、遥斗は俺の――。
「何探してんの?」
律さんがいつも通りの気だるそうな声で、遥斗に尋ねる。その声が、いつも以上に心を落ち着けてくれた。
「恋人に渡す花束を作っていただきたくて」
恋人。その言葉に胸の奥が脈打つ。
「どんなの?予算は?」
「柔らかい感じで、白っぽいのがいいです。予算は五千円くらいで」
律さんが遥斗から話を聞きながら注文表を埋めていく。俺はそれをぼーっと見つめていた。
「今暇だからすぐ作ってやる。待ってろ」
そう言って律さんはいくつか花を選んで、また裏の作業台に消えた。
残されたのは俺と遥斗の二人。
「……恋人、いるんだ」
「うん。会社の同期。蒼依は?」
「いない。もう、そういうの分かんなくて」
「そっか。……俺のせい?」
俯いていた顔をあげる。遥斗は少し申し訳なさそうに眉をひそめていた。
「違う。遥斗は関係ない」
本当は、全く関係ない訳じゃない。でも……。
「別れて、3年も経ってるし」
「……じゃあ俺が自惚れてただけか」
そう言って遥斗はくすくすと笑った。
それからは、本当に世間話だった。お互いの仕事の話。春先に俺の会社が倒産して、今はここに住み込みで働いていること。律さんが戻ってくるまで、まるであの頃に戻ったみたいに話していた。
「はい。お待たせ。どう?」
気が付くと、律さんが俺の後ろに立っている。その手には両手で抱えるくらいの大きさの花束があった。白いリンドウをあしらった、華やかだけど派手すぎない花束。
「すごい……。完璧です!ありがとうございます!」
遥斗が嬉しそうにそれを受け取る。そのまま会計を済ませた帰り際に。ふと振り返ると俺の耳元で、
「あの人、新しい恋人かと思った」
そう囁いた。
その瞬間、耳が熱くなるのが自分でも分かった。それを律さんに見られないように、遥斗を出入口の扉まで見送るようにして帰らせる。
「そういうんじゃないから。本当に」
「ふーん。でも良かった。蒼依、元気そうで」
遥斗は相変わらずだ。悪気なく爆弾を落としてくれる。そういう所が好きだったのは確かだけれど。
「じゃあまた」
「うん。ありがとう。また」
遥斗を見送ってカウンターに戻ると、律さんと目が合った。
「なあ、今のってさ」
「なんですか」
律さんの言いたいことくらい、分かっている。分かっているけど、知らないフリをする。
「友達……じゃ、ないよな」
さっきよりも大きく心臓が鳴った。地面に落ちたのかと錯覚するくらい、どくりと音を立てて軋んでいく。
「……っ、」
言葉に詰まる俺を見て、律さんが作業台から手を離す。何も言わないのを肯定と取ったようだった。
「言いたくねえなら、別に言わなくていいけど」
また居場所を失ってしまう。俺の頭にはそんな考えだけが渦巻いていた。やっと、穏やかに暮らしていけると思ったのに。よりによって律さんに、このことがバレてしまうなんて。
いつだったか、両親に言われた「普通じゃない」という言葉が頭の中に蘇る。思考が最悪の方向にばかり引きずられていく。
「すみません。すぐに出ていきますから」
俺の口から出たのは、その一言だった。
「……は?」
「だって嫌でしょ。一緒に住んでる相手が男を好きになる奴とか」
「待てって。俺何も言ってねえよ」
「でも……!本当はそう思ってるくせに」
エプロンを外そうとする俺の手首を、律さんが掴んで止める。こんな時にでも高鳴ってしまう心臓が忌まわしかった。
「離してください。律さんに迷惑かけたくないんです」
「迷惑って何だよ」
「だって俺、」
「男が好きだから?」
息が詰まった。律さんの声は、いつも通りだ。少し気だるそうで、間の伸びた声。
俺は静かに頷いた。掴まれた手首に、力が加わったのが分かる。
「それで出ていくって?」
「……気持ち悪くないんですか。もしかしたら、律さんのことそういう目で見てるかも」
「そんなの知らねえ。好きにしろ。減るもんじゃねえし」
あまりに普通の顔をして言うから、俺の方が呆気にとられる。
「お前、仕事ちゃんとしてるし、レジの金盗まねえし、出ていく必要なんてどこにあんだよ」
「でも……」
「でもじゃねえ。俺はちゃんと働く奴がいりゃあ、それでいい。お前の恋愛対象なんて、店回すのに関係ねえだろ」
きゅっと手首を引かれる。少しだけ、律さんとの距離が縮まった。
上手く声が出せない。泣きたくないのに、目の奥が熱くなって、喉がひくりと音を立てる。それを見兼ねたように、律さんが俺の手を離して店の出入口に向かった。
「ちょっと早いけど、今日は閉めるか」
表の看板をCLOSEにひっくり返して、また俺の前に戻ってくる。作業台の下にしまってある丸いスツールを引っ張って顎で座れ、と合図された。律さんは、スツールに腰掛けた俺の前で作業台に寄りかかるように立っている。
目は合わない。でも、不思議と怖くなかった。
「聞いてもいいか。お前のこと」
寄りかかったまま腕を組んだ律さんが、自分のつま先を見つめながら呟く。
「……遥斗とは、大学時代に付き合ってたんです」
「うん」
「普通に仲良くて、別れたのも喧嘩とかじゃなくて」
あの頃を思い出すと、未だに喉に何かが詰まったみたいに息が苦しくなる。
「俺の家族にバレたんです。遥斗と付き合ってること。親に反対されて、遥斗とも気まずくなって、そのまま」
少し考えるように視線を宙にさまよわせた律さんが、少しだけ俺の方に顔を向けた。
「会社倒産して家もなくなったのに、お前が実家を頼らなかったのは、それが理由か?」
「……はい」
あの日、親からはっきりと言われた訳じゃない。でも、漠然と押し付けられる"普通の幸せ"が耐えられなくなってしまった。あれからしばらく、親とは最低限の連絡しかしていない。
「友達とか同期の恋愛話にも入れなくて、ちょっとずつ距離ができて。だから、ここで律さんと暮らす時間がすごく楽しかったんです」
律さんは何も言わなかった。さっきと同じように、静かに自分のつま先を見つめている。
「……律さんにだけは知られたくなかったな」
小さく呟くと、律さんが顔を上げた。
「なんで」
「だって、そしたらもう一緒に暮らせないでしょ」
「は?」
心底意味がわからない、という顔で俺を見つめている。
「隠してたのは申し訳ないと思ってます。でもバレちゃったし、ちゃんと荷物片付けて出ていきますから、安心してください」
「だから、俺何も言ってねえって」
「律さん、嫌じゃないんですか」
自分に恋愛感情を持つかもしれない人間と住むのは、律さんにとって迷惑だろうって、ずっと思っていたのに。
「なあ、知られたのが嫌だから出ていくって言うなら止めねえよ。でもさ」
律さんは今度こそ真っ直ぐに俺の目を射止めた。
「俺に気遣ってんなら、行くな」
いつも通りの声だった。気だるそうで、ぶっきらぼうで、間の伸びた律さんの声。それなのに、どうしてこんなに優しく撫でられる気分なのだろう。
「……っ、だって、」
「お前がいなくなったら、朝誰が俺を起こすんだよ。誰があんな美味い飯作ってくれんだよ」
少しだけ視線を逸らした律さんの言葉が、心の荒んでいた場所に染み渡っていく。
「俺さ、」
ぽつり、と律さんの口から言葉が零れた。その手は作業台の上の鋏に触れたり離れたり、自分を落ち着かせるように動いている。
「今まで、独りだって思わないようにしてた。死んだ両親とかじいさんばあさんのこととか、考えないようにしてた」
律さんの過去を聞くのは、初めてだった。
「でも、蒼依。お前が来てから、思い出しても辛くなくなった。独りじゃなくなったから」
律さんも、独りだったんだ。そう思うと、なんだか少しだけ心がほどける気分だった。
「だから、お前に出ていってほしくない。蒼依がいないと、困る」
その言葉を聞いた瞬間、温かいものが頬を伝った。
家族を失った律さんと、家族に受け入れられなかった俺。形は違えど、二人とも独りだったんだ。
「ずるいです、そんなの……」
やっと口から出た言葉は、震えていた。
「そんなこと言われたら、出ていけないじゃないですか……」
「当たり前だろ。簡単に出ていけると思うなよ」
色素の薄い瞳が俺を捉えて、ふっと細められる。それだけなのに、どうしようもなく心が温かくなった。
「あ、あと、別に嫌じゃねえから」
「何がです?」
いたずらっぽく笑った律さんが、付け足すように言う。
「お前に、そういう目で見られること」
がたん。思わずスツールから立ち上がってしまった。今の俺の耳は、きっと店先に置いてあるバラよりも赤い。
「かっ、からかわないでください!」
「からかってねえよ。結構本気なんだけど」
俺より少し背の低い律さんが、俺を見上げるようにして笑っている。
「ああ、もう……。夕ご飯作ります……」
きっとこの人には一生敵わない。でも、それが不思議と俺は嫌じゃなかった。
季節は巡る。いつの間にか、俺がここで働き始めた頃と同じ花が店先に並ぶ時期になった。
チューリップにマーガレット、ラナンキュラス。そして、ミモザ。春先は、華やかで可愛らしい花が多い。
「蒼依、ちょっと手伝って」
裏口に軽トラを停めた律さんに呼ばれる。
「はい。これ運べばいいですか?」
「ああ。何となく分かんだろ、適当に並べといて」
一通り仕事はできるようになった。花束も、ある程度は作れる。律さんの右腕になれているようで、少し自分が誇らしかった。
バケツに入った花の束を店に運び入れる。その後はいつも通り水揚げをしたり品出しをしたり、やってきたお客さんの接客をしたり。路地にある小さな花屋でも、案外お客さんは多いものだと、この一年で知った。
「よし、そろそろ閉めるか」
日が傾いて、外には家に帰る人が通りかかる時間。律さんがエプロンの裾で手を拭きながら言う。
返事をして、表の看板をCLOSEにひっくり返してカウンターに戻る時、ふと黄色く咲いたミモザの花が目に入った。
「ん?どうした?」
「律さん、今日の最後のお客さん、俺でもいいですか?」
「別に構わねえけど、誰かにやるの?部屋用なら余ってるやつ……」
「人にあげる用です。ミモザの花、ください」
「あげんの?……じゃあ好きなの選んで持ってこい」
ミモザの枝を数本選んでカウンターへ持っていく。一年前と変わらない、爽やかな香りがした。
「ラッピング、自分でやってもいいですか」
代金を払って、作業台に立つ。
シンプルなクリーム色のペーパーでミモザを包んで、ブラウンのリボンを結ぶ。小さなミモザの花が零れるように咲いていて、我ながら良い出来だった。
「だれにやんの。それ」
作業台の端に腰掛ける律さんに、俺は無理やり口角を上げて答える。
「誰だと思います?」
「蒼依、花あげるような相手いたっけ?」
「いますよ、目の前に」
声が上手く出ない。
震える手を抑えて、目の前の人に花束を差し出した。
「ミモザの花言葉、『感謝』でしょう?」
律さんはふっと笑って少し目を逸らす。
「ありがとうございます、俺をここに居させてくれて」
色素の薄い瞳が、俺とミモザの花を交互に見つめた。
そのまま、律さんは何も言わない。受け取りもせずに、少し考え込むようにミモザを見つめている。
「なあ、これ受け取ったら、返事したことになるか?」
「え?」
唐突な質問に思わず声が出る。
「黄色いミモザの花言葉、知ってて選んだろ」
「な、なんですか、別に深い意味なんてないです!」
少し声が裏返った。こんな真っ直ぐに聞かれるなんて思っていなかったから。
「ただ、初めて律さんにもらった花だから、お返ししたくて!」
慌てて言い訳をするように言葉を並べる。そりゃあそうだ。花のプロである律さんは、黄色いミモザに込められた"もうひとつの意味"に気付くのも無理はない。
「お前、分かりやすすぎるんだよ」
くすくすといたずらっぽく笑いながら、ミモザから俺に視線を移す。
「で、返事したことになんの?」
黄色いミモザのもうひとつの意味。それは、感謝の先に生まれた、俺の気持ち。もし気付いてもらえなくても、それで良かった。返事なんて、もらえると思っていなかった。
でも、律さんの前ではもう誤魔化せない。何より、誤魔化したくなかった。
「……感謝だけじゃ、ないです」
律さんは、俺が小さく頷くのを見て、目を細めた。
微かに震えている俺の手から、律さんの手にミモザの花が渡る。もう片方の手で、くしゃりと俺の頭を撫でてくれた。
「でも」
そのまま、律さんの手が俺の頬に滑る。
「秘密にする気なんかねえよ」
ふわっと笑った律さんからは、相変わらずほんの微かに煙草の香りがする。変わらないはずなのに、俺が初めてこの店に来た時よりもずっと温かくて、柔らかかった。
その体温に触れた瞬間、目の前が少しだけ滲む。
泣きたくないのに、喉の奥が熱くなって、上手く呼吸ができない。律さんはそんな俺を見て、困ったように眉をひそめると、またくしゃりと頭を撫でてくれた。
「ほら、さっさと店閉めるぞ。腹減った」
「……はい」
急いで涙を拭って、カウンターの奥へと向かう律さんの後ろ姿を追う。
二階の、俺の部屋。その窓辺には、今もひっそりとミモザが吊るされている。鮮やかだった黄色は少し落ち着いて、アンティークのような深い色に変わった。
店内に溢れる、色とりどりの春の花たち。チューリップ、マーガレット、ラナンキュラス。そしてミモザ。どれも綺麗で、誰かの日常を彩るために咲いている。
店に溢れるどの花よりも、今の律さんがいちばん綺麗だなんて、そんなことを言ったら笑われてしまいそうだけど。
「蒼依、何してんだ。早くしろ」
「あ、今行きます!」
律さんの声に、今度は迷わずに一歩踏み出した。
路地裏の小さな花屋『ラ・フルール』に、黄色いミモザの香りが、優しく満ちていた。
木目調の外壁に並ぶ花を入れたバケツたち。その真ん中には『la fleur』と書かれたガラス戸。俺は、そこに貼られた紙を見つめていた。
『アルバイト募集』
シンプルなフォントでそう書かれた、一枚の貼り紙。時給は高くこそないが、この辺りの平均と比べて悪くない。花屋で働いたことはないけれど、今の状況じゃそんなことは言っていられなかった。
一度大きく息を吐く。一歩踏み出そうとしたその時、ガラス戸が横に引かれた。中から出てきた男性は、シャツにブラウンのエプロンを着けて、その上にパーカーを羽織っている。店主だろうか。思っていたよりも若い。俺と同世代か、少し年上か、そのくらい。
その人は、バケツの中を確認しながら俺の方をちらりと見る。その表情は読めなかったけれど、色素の薄い瞳と髪が印象的だった。ほんの少しだけ、煙草の香りがする。花屋らしくない男の人。それが第一印象だった。
「……バイト?」
いきなり声を掛けられて、思わず返事が遅れる。
「あ、はい、貼り紙見て。まだ募集してますか」
ガラス戸の貼り紙を指さした。
「してるよ。こっち」
綺麗な顔に反して気だるげな声で、ガラス戸を開けて中に案内してくれた。
外壁と同じように木目調の店内は、温かい雰囲気だった。小さくて黄色い花のドライフラワーが至るところに飾られている。なんだか、この人っぽくない。
「その辺、座ってて」
レジカウンターのすぐ横。小さなテーブルを挟むように二つ椅子が置かれている。椅子の隣で立っていると、その人は店先のプレートをCLOSEにひっくり返してから、俺の向かいに座った。
「座って」
「あ、ありがとうございます」
俺は、書いてきた履歴書をクリアファイルごと手渡す。
「成瀬蒼依。俺の二個下か」
履歴書を受け取ったその人が、軽く眺めると小さく呟いた。
「はい。成瀬蒼依と申します。二十五歳です。それから……」
「なあ、この『会社都合により退職』って何?」
履歴書を俺に向けて、職歴の欄をとんとんと指で示した。
「先月、勤めてた会社が倒産しまして」
苦笑いでそう告げる。
そう、俺は今、無職なのだ。
「本当にあるんだな、そういうの」
その人はほんの少しだけ目を開いた。あまり表情は変わらないけど、多分驚いているんだと思う。
「まあいいや。それで新しい働き口探してんだ」
「はい。ここで働かせていただけないかと思って」
机に両肘をついて俺を見つめる。綺麗な顔に凝視されると、どうすればいいか分からない。
「前の会社では何してた?」
「営業です。まあ、三年くらいですけど……」
「学生時代のバイトとかは?」
「飲食店で接客してました。人と関わる仕事は慣れてるつもりです」
「免許は?」
「普通車なら」
そう答えると、その人は少し黙った。そして、ニヤッと笑う。
「よし、採用」
「……はい?」
あまりに早い採用通告に素っ頓狂な声が出た。いくらなんでも早すぎる。
「接客できて車出せんなら充分だな。配達も俺一人じゃ回らなくなってきたし。見た目も清潔感あって問題なし」
理にかなってはいるが、そんな簡単に決めていいことなのだろうか。
「あの、良いんですか?他の従業員の人とか……」
「いねえよ。俺一人でやってるから」
なるほど。全てこの人の裁量ってわけか。
「今無職っていうなら、生活かかってるだろうし、すぐ辞めたりしないだろ? ここの住所、一人暮らし用のアパートだもんな」
その言葉にドキッとした。言葉に詰まった俺を見て、その人は不思議そうに首を傾げる。
「あ、今、そこ住んでなくて……」
「はあ?」
「社宅だったんで、倒産と同時に住めなくなっちゃって」
すると、その人が笑った。
「お前、ツイてなさすぎるだろ。今どこ住んでんの」
「駅前のネットカフェで生活してます」
マジか、と息を吐かれる。さすがに住所不特定者を雇うのは、気が引けるだろうか。
「すみません」
思わず謝ってしまう。すると少し考えた後、その人は何かひらめいたように、履歴書のクリアファイルをぱちんと弾いた。
「お前、うち住むか?」
「……はい?」
もう一度、素っ頓狂な声が出た。
「ここの二階、俺ん家なんだよ。じいさんが死んでから俺が一人で住んでる。給料はあんまり出せねえけど、寝る場所と飯は保証してやる」
「だから、住めと?」
「俺はお前が逃げないように見張る。家事は折半できる。お前は住む場所と働く場所が手に入る。悪くないだろ?」
いや、そうとはいえ、数分前に出会った人と住むのは……。
「俺、あなたの名前も知らないですし」
「ああ、自己紹介まだだったか。俺は白石律。一応ここの店主」
これでいいだろ、と言わんばかりに得意げな顔で俺を見ている。
俺は考えた。これからまたしばらくネットカフェに住み続けるか。それともこの人とここの二階に住むか。実家は頼れない。狭いネカフェで脚も満足に伸ばせないまま寝るのは、正直限界だ。しかし、見ず知らずの男性と暮らすことに躊躇いがないと言ったら、嘘になる。
「まあ、お前にも事情があるだろうし、住むのは無理にとは言わねえけど」
少し声のトーンが落ちて、目を逸らされる。
この人も、独りなのだろうか。
でも、この人となら。この日の俺は、なぜかそう思った。
「白石さんが良ければ、住まわせてください」
気が付いたらそう言っていた。白石さんは、また得意げに笑う。
「律でいい」
「じゃあ、律さん」
「ん。二階、案内してやる。後で荷物持ってこい」
そう言うと、クリアファイルを持ったまま立ち上がった。店の奥に案内しながら、ふと立ち止まる。
「そうだ。じいさんの部屋、掃除はしてあるけど何もねえからさ。これでも飾っとけ」
律さんは店の端の花瓶から、黄色くて小さい花がついた束をひとつ俺に渡してくれた。店内に飾られている花と同じ種類だ。ふわりと、爽やかな花の香りを感じる。
「これ、お店に飾ってある花ですよね」
店を見まわしてから、律さんに尋ねた。
「ミモザ。じいさんが好きだった花」
懐かしそうに、口元を綻ばせるのが見える。
「じいさんフランスの人でさ、向こうの地元でよく咲いてたんだってよ」
お祖父さんがフランス人。律さんの色素の薄さはお祖父さん譲りなのかもしれない。
「春先に咲くから、最近は新しい門出を祝う時に渡すんだって」
「そうなんですね」
「まあ、俺からの転職祝いだ。受け取れ」
花屋らしくないなんて、前言撤回。花に囲まれてふわっと笑った律さんが、妙に記憶に残った。
その日から、俺と律さんの同居生活が始まった。
花屋での仕事は初めてだったけど、気づけば朝の水替えも店先の掃除も、少しずつ手が覚えていた。
「蒼依、これ運んでおいて」
「はい。あ、これは……ラナンキュラスですね。こっちはスイートピー」
「正解。ちゃんと覚えてんのな」
律さんは俺を“蒼依”と呼んでくれて、俺は少しずつ花の勉強をしている。まだ律さんには遠く及ばないけど、少しでも力になりたかったから。
それから、接客が苦手な律さんの代わりに俺がカウンターに立つことも多くなった。律さんが作った花束で、お客さんが笑顔になるのをいちばん近くで見届けるのは、なんだか嬉しかった。
「蒼依、これ配達お願い。いつものルートで」
いくつか花束が入ったバケツを顎で示して、俺に向き直る律さん。少し前から、商店街や近所の店への配達を任せてもらえるようになった。
「行ってきます」
近所の小料理屋やアパレルショップに飾る花を届けていく。最近は配達先でも「白石さんのところの新しい子」って認識されるようになって、少しだけ居場所を見つけられた気がする。
今日の分の配達を終えて、軽トラに乗り込む。夕方の駅前は帰路につく人で混雑している。裏路地を抜けて、ラ・フルールの裏口に停めた。
「戻りました」
裏口の扉を開けると、二階から律さんが下りてくるところだった。両手にはマグカップが二つ。俺が帰ってくる時間を見計らっていたのかもしれない。
「ん。飲め」
「ありがとうございます」
コーヒーが淹れられたマグカップ。律さんの分はブラックで、俺の方にはミルクが入っている。前に何気なく、コーヒーにはミルクを入れるのが好きだと言ったことを、律さんは覚えていたらしい。
「覚えててくれてるんですね」
「何を」
「ミルク。俺の方だけ入ってる」
「……知らない」
こういう時の律さんは素直じゃない。これが照れ隠しだって、俺は気付いている。
カウンターの端にマグカップを置いて、閉店前にレジの周りを片付ける。ふと作業台の方を見ると、律さんがコーヒーを一口飲みながら、こちらを見ていた。目が合うと、ふと逸らされた。
「馴染んできたな。お前」
「え?」
思わず聞き返す。
「いや、なんでもねえ」
そう言って律さんは小さく笑った。
外が暗くなり始めるころ、店を閉めて二階へ上がる。
夕飯の担当は俺だ。キッチンに立って、冷蔵庫を開ける。
「しめじ、豆苗、ベーコン……」
振り返ると、律さんがソファに腰掛けて仕入れ票のファイルを眺めていた。
「律さん、夕飯パスタでいいですか?」
「んー。お前が作るなら何でも」
目線はそのまま、少し間の伸びた返事が帰ってくる。信頼されてるみたいで、ありがたい。
お湯を沸かしながら、豆苗とベーコンを一口大に切っていく。その間、ファイルを閉じた律さんが、ベランダから洗濯物をしまってくれた。店を閉めてからの担当は、料理が俺で洗濯物が律さん、というルーティンができあがっている。
「なあ、煙草吸っていい?ベランダで」
「もちろん。聞かなくていいですよ」
俺は居候だし、気にしなくていいと何度も言っているのに、律さんは毎度こうして聞いてくれる。俺がいる前で堂々と吸うことは、あまりない。
ベランダの欄干に肘をついた後ろ姿が目に入る。色素の薄い横顔から紫煙を吐き出す姿は、映画のワンシーンみたいに美しかった。
簡単なパスタとスープをダイニングテーブルに並べ、向かい合わせに座った。食事をする時は、だいたい一緒だ。
「いただきます」
ひとりで暮らしている時、あまりまともな食事を摂っていなかったらしい。だから、居候としてのせめてものお礼を込めて、料理はやらせてほしいと俺が頼んだ。
「ん。うまい」
「良かった」
律さんは、ひとりで暮らしていたせいなのか、あまり口数が多くない。でもその分、本当に思ったことしか言わないから、それが心地良かったりもした。
「今日、プロポーズ用のお花作ってましたね」
「……ああ。上手くいってるといいな」
「上手くいきますよ。律さんの花束だもん」
パスタを口に運びながら他愛もない話をするのも、いつも通りだ。
「いつかお前が彼女に花渡す時は、作ってやるよ。それとも俺が教えてやろうか?」
その言葉に、心臓がどくんと跳ねた。思わず持っていたフォークが止まる。
「……彼女とか、あんま分かんないです」
慌てて繕うように笑ったけど、きっとぎこちなかったのだと思う。律さんは「そう」とだけ短く言うと、それ以上何も言わなかった。
洗い物は毎日交代で。今日は俺の番だった。その後はシャワーを浴びて、リビングで過ごす。それぞれ部屋はあるけれど、なんとなく2人ともリビングにいる事が多かった。
「律さん、俺もう寝ますね。おやすみなさい」
「おやすみ。明日、起こせ」
「分かってますよ。ちゃんと起きてくださいね」
毎朝律さんを起こすのも俺の役目だ。見るからに低体温、低血圧そうな律さんは、見た目通り朝が弱い。
元は律さんのお祖父さんの部屋だった場所が、今の俺の部屋だ。家具もそのまま使わせてもらっている。低めのベッドにクローゼット。それから、姿見と腰くらいの高さのチェスト。今の生活には十分すぎるくらいの部屋だった。
ベッドに入る前、窓際に逆さに吊るされた黄色い花を眺める。初めてここに来た日、律さんにもらったミモザの花だ。せっかくなら残しておきたくて、律さんに聞いてドライフラワーにしようと決めた。葉を取ったらとりあえず逆さにして吊るしとけ、と言われたのでその通りにしている。少し乾燥してきただろうか。
「綺麗にできるといいな」
部屋でひとり、小さく呟いてから眠りについた。
店先の花が少しずつ変わっていく。ダリアやコスモスがラ・フルールを彩る季節になった。
「蒼依、手荒れてきたな」
「大丈夫ですよ。これくらい」
冬ほどの乾燥はないけれど、ずっと水を触っている俺の手は少し赤くなっていた。
「見せてみろ」
すっと、横から律さんの腕が伸びてくる。
「あの、本当に大丈夫ですから!」
思わず後ずさってしまった。律さんは時々、パーソナルスペースが狭いというか、気にしないところがある。穏やかな生活の中で、それが俺にとって唯一の小さな悩みだった。
そんな夕方、ラ・フルールの扉が音を立てて開く。
「いらっしゃいま……」
裏の作業台からレジのあるカウンターに出た俺は、目の前に立つ客の顔を見て足が止まった。
「あれ、蒼依?」
スーツを着て、ネクタイを締めた好青年。なんて事ない顔で、俺の名前を呼ぶ。
「……遥斗」
「蒼依、ここで働いてたんだ」
ふっと微笑む表情は、あの頃から変わっていない。
「蒼依ー、注文表置きっぱなし」
戸惑う俺の後ろ、最悪のタイミングで律さんが裏から戻ってきた。
「何?知り合い?」
「あ、まあ、はい。大学が同じで」
曖昧に濁す。今は、"知り合い"で間違ってはいない。
でも、遥斗は俺の――。
「何探してんの?」
律さんがいつも通りの気だるそうな声で、遥斗に尋ねる。その声が、いつも以上に心を落ち着けてくれた。
「恋人に渡す花束を作っていただきたくて」
恋人。その言葉に胸の奥が脈打つ。
「どんなの?予算は?」
「柔らかい感じで、白っぽいのがいいです。予算は五千円くらいで」
律さんが遥斗から話を聞きながら注文表を埋めていく。俺はそれをぼーっと見つめていた。
「今暇だからすぐ作ってやる。待ってろ」
そう言って律さんはいくつか花を選んで、また裏の作業台に消えた。
残されたのは俺と遥斗の二人。
「……恋人、いるんだ」
「うん。会社の同期。蒼依は?」
「いない。もう、そういうの分かんなくて」
「そっか。……俺のせい?」
俯いていた顔をあげる。遥斗は少し申し訳なさそうに眉をひそめていた。
「違う。遥斗は関係ない」
本当は、全く関係ない訳じゃない。でも……。
「別れて、3年も経ってるし」
「……じゃあ俺が自惚れてただけか」
そう言って遥斗はくすくすと笑った。
それからは、本当に世間話だった。お互いの仕事の話。春先に俺の会社が倒産して、今はここに住み込みで働いていること。律さんが戻ってくるまで、まるであの頃に戻ったみたいに話していた。
「はい。お待たせ。どう?」
気が付くと、律さんが俺の後ろに立っている。その手には両手で抱えるくらいの大きさの花束があった。白いリンドウをあしらった、華やかだけど派手すぎない花束。
「すごい……。完璧です!ありがとうございます!」
遥斗が嬉しそうにそれを受け取る。そのまま会計を済ませた帰り際に。ふと振り返ると俺の耳元で、
「あの人、新しい恋人かと思った」
そう囁いた。
その瞬間、耳が熱くなるのが自分でも分かった。それを律さんに見られないように、遥斗を出入口の扉まで見送るようにして帰らせる。
「そういうんじゃないから。本当に」
「ふーん。でも良かった。蒼依、元気そうで」
遥斗は相変わらずだ。悪気なく爆弾を落としてくれる。そういう所が好きだったのは確かだけれど。
「じゃあまた」
「うん。ありがとう。また」
遥斗を見送ってカウンターに戻ると、律さんと目が合った。
「なあ、今のってさ」
「なんですか」
律さんの言いたいことくらい、分かっている。分かっているけど、知らないフリをする。
「友達……じゃ、ないよな」
さっきよりも大きく心臓が鳴った。地面に落ちたのかと錯覚するくらい、どくりと音を立てて軋んでいく。
「……っ、」
言葉に詰まる俺を見て、律さんが作業台から手を離す。何も言わないのを肯定と取ったようだった。
「言いたくねえなら、別に言わなくていいけど」
また居場所を失ってしまう。俺の頭にはそんな考えだけが渦巻いていた。やっと、穏やかに暮らしていけると思ったのに。よりによって律さんに、このことがバレてしまうなんて。
いつだったか、両親に言われた「普通じゃない」という言葉が頭の中に蘇る。思考が最悪の方向にばかり引きずられていく。
「すみません。すぐに出ていきますから」
俺の口から出たのは、その一言だった。
「……は?」
「だって嫌でしょ。一緒に住んでる相手が男を好きになる奴とか」
「待てって。俺何も言ってねえよ」
「でも……!本当はそう思ってるくせに」
エプロンを外そうとする俺の手首を、律さんが掴んで止める。こんな時にでも高鳴ってしまう心臓が忌まわしかった。
「離してください。律さんに迷惑かけたくないんです」
「迷惑って何だよ」
「だって俺、」
「男が好きだから?」
息が詰まった。律さんの声は、いつも通りだ。少し気だるそうで、間の伸びた声。
俺は静かに頷いた。掴まれた手首に、力が加わったのが分かる。
「それで出ていくって?」
「……気持ち悪くないんですか。もしかしたら、律さんのことそういう目で見てるかも」
「そんなの知らねえ。好きにしろ。減るもんじゃねえし」
あまりに普通の顔をして言うから、俺の方が呆気にとられる。
「お前、仕事ちゃんとしてるし、レジの金盗まねえし、出ていく必要なんてどこにあんだよ」
「でも……」
「でもじゃねえ。俺はちゃんと働く奴がいりゃあ、それでいい。お前の恋愛対象なんて、店回すのに関係ねえだろ」
きゅっと手首を引かれる。少しだけ、律さんとの距離が縮まった。
上手く声が出せない。泣きたくないのに、目の奥が熱くなって、喉がひくりと音を立てる。それを見兼ねたように、律さんが俺の手を離して店の出入口に向かった。
「ちょっと早いけど、今日は閉めるか」
表の看板をCLOSEにひっくり返して、また俺の前に戻ってくる。作業台の下にしまってある丸いスツールを引っ張って顎で座れ、と合図された。律さんは、スツールに腰掛けた俺の前で作業台に寄りかかるように立っている。
目は合わない。でも、不思議と怖くなかった。
「聞いてもいいか。お前のこと」
寄りかかったまま腕を組んだ律さんが、自分のつま先を見つめながら呟く。
「……遥斗とは、大学時代に付き合ってたんです」
「うん」
「普通に仲良くて、別れたのも喧嘩とかじゃなくて」
あの頃を思い出すと、未だに喉に何かが詰まったみたいに息が苦しくなる。
「俺の家族にバレたんです。遥斗と付き合ってること。親に反対されて、遥斗とも気まずくなって、そのまま」
少し考えるように視線を宙にさまよわせた律さんが、少しだけ俺の方に顔を向けた。
「会社倒産して家もなくなったのに、お前が実家を頼らなかったのは、それが理由か?」
「……はい」
あの日、親からはっきりと言われた訳じゃない。でも、漠然と押し付けられる"普通の幸せ"が耐えられなくなってしまった。あれからしばらく、親とは最低限の連絡しかしていない。
「友達とか同期の恋愛話にも入れなくて、ちょっとずつ距離ができて。だから、ここで律さんと暮らす時間がすごく楽しかったんです」
律さんは何も言わなかった。さっきと同じように、静かに自分のつま先を見つめている。
「……律さんにだけは知られたくなかったな」
小さく呟くと、律さんが顔を上げた。
「なんで」
「だって、そしたらもう一緒に暮らせないでしょ」
「は?」
心底意味がわからない、という顔で俺を見つめている。
「隠してたのは申し訳ないと思ってます。でもバレちゃったし、ちゃんと荷物片付けて出ていきますから、安心してください」
「だから、俺何も言ってねえって」
「律さん、嫌じゃないんですか」
自分に恋愛感情を持つかもしれない人間と住むのは、律さんにとって迷惑だろうって、ずっと思っていたのに。
「なあ、知られたのが嫌だから出ていくって言うなら止めねえよ。でもさ」
律さんは今度こそ真っ直ぐに俺の目を射止めた。
「俺に気遣ってんなら、行くな」
いつも通りの声だった。気だるそうで、ぶっきらぼうで、間の伸びた律さんの声。それなのに、どうしてこんなに優しく撫でられる気分なのだろう。
「……っ、だって、」
「お前がいなくなったら、朝誰が俺を起こすんだよ。誰があんな美味い飯作ってくれんだよ」
少しだけ視線を逸らした律さんの言葉が、心の荒んでいた場所に染み渡っていく。
「俺さ、」
ぽつり、と律さんの口から言葉が零れた。その手は作業台の上の鋏に触れたり離れたり、自分を落ち着かせるように動いている。
「今まで、独りだって思わないようにしてた。死んだ両親とかじいさんばあさんのこととか、考えないようにしてた」
律さんの過去を聞くのは、初めてだった。
「でも、蒼依。お前が来てから、思い出しても辛くなくなった。独りじゃなくなったから」
律さんも、独りだったんだ。そう思うと、なんだか少しだけ心がほどける気分だった。
「だから、お前に出ていってほしくない。蒼依がいないと、困る」
その言葉を聞いた瞬間、温かいものが頬を伝った。
家族を失った律さんと、家族に受け入れられなかった俺。形は違えど、二人とも独りだったんだ。
「ずるいです、そんなの……」
やっと口から出た言葉は、震えていた。
「そんなこと言われたら、出ていけないじゃないですか……」
「当たり前だろ。簡単に出ていけると思うなよ」
色素の薄い瞳が俺を捉えて、ふっと細められる。それだけなのに、どうしようもなく心が温かくなった。
「あ、あと、別に嫌じゃねえから」
「何がです?」
いたずらっぽく笑った律さんが、付け足すように言う。
「お前に、そういう目で見られること」
がたん。思わずスツールから立ち上がってしまった。今の俺の耳は、きっと店先に置いてあるバラよりも赤い。
「かっ、からかわないでください!」
「からかってねえよ。結構本気なんだけど」
俺より少し背の低い律さんが、俺を見上げるようにして笑っている。
「ああ、もう……。夕ご飯作ります……」
きっとこの人には一生敵わない。でも、それが不思議と俺は嫌じゃなかった。
季節は巡る。いつの間にか、俺がここで働き始めた頃と同じ花が店先に並ぶ時期になった。
チューリップにマーガレット、ラナンキュラス。そして、ミモザ。春先は、華やかで可愛らしい花が多い。
「蒼依、ちょっと手伝って」
裏口に軽トラを停めた律さんに呼ばれる。
「はい。これ運べばいいですか?」
「ああ。何となく分かんだろ、適当に並べといて」
一通り仕事はできるようになった。花束も、ある程度は作れる。律さんの右腕になれているようで、少し自分が誇らしかった。
バケツに入った花の束を店に運び入れる。その後はいつも通り水揚げをしたり品出しをしたり、やってきたお客さんの接客をしたり。路地にある小さな花屋でも、案外お客さんは多いものだと、この一年で知った。
「よし、そろそろ閉めるか」
日が傾いて、外には家に帰る人が通りかかる時間。律さんがエプロンの裾で手を拭きながら言う。
返事をして、表の看板をCLOSEにひっくり返してカウンターに戻る時、ふと黄色く咲いたミモザの花が目に入った。
「ん?どうした?」
「律さん、今日の最後のお客さん、俺でもいいですか?」
「別に構わねえけど、誰かにやるの?部屋用なら余ってるやつ……」
「人にあげる用です。ミモザの花、ください」
「あげんの?……じゃあ好きなの選んで持ってこい」
ミモザの枝を数本選んでカウンターへ持っていく。一年前と変わらない、爽やかな香りがした。
「ラッピング、自分でやってもいいですか」
代金を払って、作業台に立つ。
シンプルなクリーム色のペーパーでミモザを包んで、ブラウンのリボンを結ぶ。小さなミモザの花が零れるように咲いていて、我ながら良い出来だった。
「だれにやんの。それ」
作業台の端に腰掛ける律さんに、俺は無理やり口角を上げて答える。
「誰だと思います?」
「蒼依、花あげるような相手いたっけ?」
「いますよ、目の前に」
声が上手く出ない。
震える手を抑えて、目の前の人に花束を差し出した。
「ミモザの花言葉、『感謝』でしょう?」
律さんはふっと笑って少し目を逸らす。
「ありがとうございます、俺をここに居させてくれて」
色素の薄い瞳が、俺とミモザの花を交互に見つめた。
そのまま、律さんは何も言わない。受け取りもせずに、少し考え込むようにミモザを見つめている。
「なあ、これ受け取ったら、返事したことになるか?」
「え?」
唐突な質問に思わず声が出る。
「黄色いミモザの花言葉、知ってて選んだろ」
「な、なんですか、別に深い意味なんてないです!」
少し声が裏返った。こんな真っ直ぐに聞かれるなんて思っていなかったから。
「ただ、初めて律さんにもらった花だから、お返ししたくて!」
慌てて言い訳をするように言葉を並べる。そりゃあそうだ。花のプロである律さんは、黄色いミモザに込められた"もうひとつの意味"に気付くのも無理はない。
「お前、分かりやすすぎるんだよ」
くすくすといたずらっぽく笑いながら、ミモザから俺に視線を移す。
「で、返事したことになんの?」
黄色いミモザのもうひとつの意味。それは、感謝の先に生まれた、俺の気持ち。もし気付いてもらえなくても、それで良かった。返事なんて、もらえると思っていなかった。
でも、律さんの前ではもう誤魔化せない。何より、誤魔化したくなかった。
「……感謝だけじゃ、ないです」
律さんは、俺が小さく頷くのを見て、目を細めた。
微かに震えている俺の手から、律さんの手にミモザの花が渡る。もう片方の手で、くしゃりと俺の頭を撫でてくれた。
「でも」
そのまま、律さんの手が俺の頬に滑る。
「秘密にする気なんかねえよ」
ふわっと笑った律さんからは、相変わらずほんの微かに煙草の香りがする。変わらないはずなのに、俺が初めてこの店に来た時よりもずっと温かくて、柔らかかった。
その体温に触れた瞬間、目の前が少しだけ滲む。
泣きたくないのに、喉の奥が熱くなって、上手く呼吸ができない。律さんはそんな俺を見て、困ったように眉をひそめると、またくしゃりと頭を撫でてくれた。
「ほら、さっさと店閉めるぞ。腹減った」
「……はい」
急いで涙を拭って、カウンターの奥へと向かう律さんの後ろ姿を追う。
二階の、俺の部屋。その窓辺には、今もひっそりとミモザが吊るされている。鮮やかだった黄色は少し落ち着いて、アンティークのような深い色に変わった。
店内に溢れる、色とりどりの春の花たち。チューリップ、マーガレット、ラナンキュラス。そしてミモザ。どれも綺麗で、誰かの日常を彩るために咲いている。
店に溢れるどの花よりも、今の律さんがいちばん綺麗だなんて、そんなことを言ったら笑われてしまいそうだけど。
「蒼依、何してんだ。早くしろ」
「あ、今行きます!」
律さんの声に、今度は迷わずに一歩踏み出した。
路地裏の小さな花屋『ラ・フルール』に、黄色いミモザの香りが、優しく満ちていた。

