虐げられた呪印の巫女は、あやかし旦那様からは逃げられません。

side:香耶乃

翌日。
私は離れで正座しながら窓の外を眺めていた。

「……また、霊花を作ろうかな」

離れの部屋に籠っているのも苦では無いけれど、じっとしているより少しでも志皇様のお役に立ちたいから。
私はそう思って腰を上げ、縁側に繋がる扉を開いた。

暁領の庭園には真昼の日差しが降り注いでいる。
私が半分ほど霊花に染めたから、庭園には水色に輝く霊花と、生き生きと咲く色とりどりの生花が混ざり合っている。
私はしゃがみ込むと、地面からまっすぐ伸びる赤い芍薬をひと房手に取った。

「志皇様がいらっしゃったら、また霊花をお渡ししよう」

北の地は霊力の高い人間は少ない。だがらこそ、私の作る霊花は貴重だ。
私は思わず口元を綻ばせる。私の唯一の特技が志皇様のお役に立てて、本当に嬉しいから。

「やはり貴女の生成する霊花は素晴らしいですね」

庭園に深みのある甘やかな声が響く。
その聞き覚えのある声を聞いた瞬間、私は霊花に染まった芍薬を取り落とした。
芍薬が地面に落ち、幾重にも折り重なった花びらがバラバラと砂利の隙間に広がった。
身体が小刻みに震え出す。私は上手く回らない首を捩じり、後ろを振り返った。

「そ、宗珠……様?」

そこに居たのは、東伊神社の跡取り息子、東伊 宗珠様だった。

「久しぶりですね、香耶乃。私に断りもせずにこんな所まで逃げるなんて、酷いではありませんか」

長い黒髪をひとまとめにした白衣(はくえ)姿の宗珠様が、桜の花びらの降り注ぐ庭園でにこやかに微笑んでいる。
底の見えない黒い瞳の宗珠様の存在は異質で、私は急速に乾き始める喉から無理やり声を引っ張り出した。

「ど、どうして宗珠様がここに……?」
「貴女を迎えに来たに決まっているじゃありませんか。貴女が居なくなってから東伊神社に妖が来るようになって大変なのですよ?さあ早く。東伊家に戻りましょう」
「ひ……っ!」

宗珠様が砂利を踏みしめて私との距離を詰める。
私は咄嗟に後ずさる。
私のその反応が気に食わなかったのか、宗珠様の顔から笑みが消える。

「何ですかその態度は?貴女を求めてはるばるここまで来て差し上げたというのに」
「ど、どうやってここまで……っ。見張りの、方は……?」
「ああ、なんだそんな事ですか。今は警邏で暁 志皇とその側近は不在でしょう?――由緒ある東伊神社の跡取りが、下っ端の鬼如き下せないでどうします?」

笑みを張り付けたその言葉にひゅっと息を呑む。
まさか、見張りの鬼を倒してこの離れまで来たの?警邏の時間まで調べ上げて、私を連れ戻す為に?
さあっと血の気が引く感覚がする。怖い。目の前で微笑む宗珠様が、どんな妖よりも恐ろしい。

「さあ東の地へ帰りましょう。貴女は私の為に死ぬまで霊花を作り続けるのです。そうすれば、私が貴女を愛して差し上げましょう」

なに?一体何を言っているの?
私は混乱したまま後ずさると、靴が離れの漆喰の壁にガッと触れた。
背中が壁に当たる。これ以上逃げられないと気づいた瞬間、宗珠様が私との距離を詰め、私の両手を掴んで壁に押さえつけた。

「は、離して下さい!」
「なぜです?貴女を本当に幸せに出来るのはこの私ですよ?」
「貴方の元には……東の地へは戻りませんっ!」

腕に力を込めてもがく。私を壁に縫い止める手の力は強くて、抵抗してもびくともしない。
それでも、諦めずに腕に力を込める。

「私はここで、志皇様のお傍に居たいです!」
「……ッ!どこに身を置こうが、呪印の貴方如きが幸せになれるはずが無いでしょう!!」

私の腕が自由になって、代わりに首に手がかる。

「身の程を弁えなさい!!汚らわしい呪印、が――……っ」

宗珠様が目を見開く。
窄まった黒目が、私の首筋を凝視する。私に首に咲く、"茜色"の芍薬を。

「……香耶乃、どういう事です?」
「わ、たしはもう……”呪印の巫女”ではありません!どうか、お引き取り下さい!」
「……ざけるな、ふざけるなぁ!!」

ぎりぎりと首にかかる手に力が込められる。
痛い。苦しい。脳に酸素が行き渡らなくてくらくらする。
きっといつものように諦めてさえしまえば、頷いてさえしまえば、この手は離れる。
宗珠様の気の済むまで頭を下げ続け、言いたい事は全て唇を噛みしめて耐えれば一時は解放されるから。
でも、今はそんな風に思えない。

『お前が呼べは、俺には届く』

鮮やかな緋色の髪と、輝く金色の瞳を思い出す。
私はもう間違えない。
呼んでも良いって言ってくれたから。私は今度こそ、それに応えたい。

「……けて……し……っ」

力を込めて宗珠様の指先を少しだけ浮かせ、涙と酸欠で霞む視界を、きつく瞬きして焦点を合わせる。

「助けて下さい……っ、志皇様!!」

肺に残った酸素で、精一杯声を張り上げた。
私の叫び声が、真昼の離れに反響する。宗珠様がビクリと肩を震わせ、首を振って周囲を確認する。
離れに私達以外の人の気配は無い。
宗珠様は肩を震わせ、私と鼻先が触れ合う程の距離に顔を近づけた。

「ふ、はは……っ!残念だった香耶乃。そんな事をしても助けなど来ない。所詮霊花を作る事しか取り柄の無いお前など、誰からも愛される筈がな――」
「俺の妻に触れるな、下衆が」

空気を切り裂くような凛とした低音が響き、突風に枝垂れ桜の花びらが巻き上がった。
私の首にかかっていた手が離され、眼前に迫っていた宗珠様の顔が瞬時に見えなくなる。
私の視界を染め上げたのは日の光を浴びて炎のように輝く髪と、怒りを宿した金色の瞳だった。

「っかは……!は、あ……っ!」

急に大量の酸素を取り込んでむせる。足に力が入らなくなって倒れ込む私の肩に腕が回され、ゆっくりと地面に降ろされた。

「ちゃんと呼べたな。偉いじゃないか」
「し、志皇……様……?」

見上げると、慈しむような金色の瞳と目が合う。
私は志皇様に抱き留められていた。
そう気づいた瞬間途方もない安堵感が溢れ、私は一筋の涙を零した。
砂利の海に投げ出された宗珠様が、砂利に腰と手を付きながら忌々し気に私達を睨み上げた。

「何をするのです!?」
「貴様こそ、俺の妻に何をしようとした」

志皇様が声を発すると、空気がびりびりと震える。
殺気を纏った視線で射抜かれた宗珠様が、びくりと肩を竦ませた。

「香耶乃をあるべき場所に戻そうとしたまでです!香耶乃を先に見初めたのは私です!それを横取りして、連れ去ったのは貴方でしょう!?」
「香耶乃がお前に心を寄せていると本気で思っているのか?思い上がりも甚だしい」

志皇様が私の背をさすり、そっと壁に降ろしてくれた。
志皇様が態勢を整えた宗珠様の元へ歩み寄る。宗珠様が眉を吊り上げ、口元を歪めて笑う。

「僭越ながら、貴方こそどういうおつもりでしょうか?幼い香耶乃に呪印だけ刻んで16まで放置するなど、いくら北の暁領の当主と言えど勝手が過ぎるのではないでしょうか」
「人間の女は16まで嫁げないのだろう?俺はその法律に従ってやったまでだ」
「香耶乃があなたの呪印のせいでどれだけ苦労したかご存じないので?」
「ああ、お前達人間がここまで私利私欲にまみれた醜い生き物だとは思わなかったよ。巫女巫覡の由緒ある家系が、聞いて呆れる」

志皇様が口の端を持ち上げると、唇に隠れていた牙が薄く覗く。
志皇様は宗珠様の元へ歩み寄って、その胸倉を掴み上げた。

「神聖な私に触るな!妖風情があ!」

宗珠様が懐から護符を取り出して志皇様に投げつける。志皇様はそれを空いている手の指先で弾くと、護符がさらさらと灰と化して風に流された。

「は……?」
「全く、人間は傲慢でいけないな。……そんな物がこの俺に効くと思うなよ」

宗珠様の額から冷や汗が流れ落ちる。志皇様が嗜虐的な笑みを浮かべると、宗珠様の耳元に顔を寄せた。

「残念だったな。……香耶乃の心は、初めから俺のものだ」

志皇様が胸倉を掴んでいた手を乱暴に払い、宗珠様を庭園の砂利に投げ飛ばす。
バランスを崩した宗珠様が砂利に倒れ込む。

「俺の妻の尊厳を踏みにじった分、しっかり歓迎してやらないとな。――文車妖妃」
「はあい。暁家のご当主様ぁ」

空に影が差し、片目を幾つもの文で覆い隠した艶姿の文車妖妃が雲の隙間から姿を現す。
黒い着物に身を包んだ文車妖妃は、夜の闇を凝縮した様にそこに佇んだ。

「この文を東伊家の現当主に送れ。そこに転がってる男の、裏取引の帳簿の書き写しだ」
「はァい。承りました~」
「……は?」

その言葉に、宗珠様が限界まで目を見開いた。窄まった黒目がガタガタと揺れ始める。
志皇様が真白の文をひらひらと風に遊ばせ、嘲笑混じりの声を上げる。

「西の博徒、南の犯罪組織……随分手広く繋がっている様じゃないか。ここまで犯罪者と懇意にしている聖職者は初めて見たぞ」
「貴様、どこでそれを……!?」
「貴様の神社に行った時に式紙に蔵を調べさせた。……式を使ったことにすら気付かないとは恐れ入ったが」

その言葉に合点がいった。
だから、宗珠様はあんなにも霊花を求めていたんだ。常に死と隣り合わせの博徒や犯罪組織に、霊花を横流しする為に。

「だが、こんな無茶なやり取りが出来たのは香耶乃の霊力があってこそだ。その香耶乃がお前の元を去れば、取引はままならないだろう」
「違う!!私は心の底から香耶乃を愛しているのだ!!」
「世迷い事は大概にしろ。貴様の働いた悪事は東全土に喧伝してやるから有難く思え」
「ふざ……っ、ふざけるな!!そんな事をして許されると思っているのか!?」
「今まで貴様の神社に妖が寄って来なかったのは、貴様らが蔑み続けていた香耶乃の刻印のおかげだ。神社の評判が落ちれば、賽銭や祈祷の依頼も無くなるだろうな」
「ヒッ!や、やめろ!!何を考えている!?東伊家を没落させる気か!?」
「ああ」

笑顔のままさらりと告げられた言葉に、宗珠様の顔がざあっと青ざめる。

「なに、を……?」
「耳の遠い奴だな。そうだ、と言っている」

宗珠様が脂汗をだらだらと流し、その場にどさりと崩れ落ちた。
ザザッと、砂利が宗珠様の体重を受けて跳ね飛ぶ。

「さあ、そろそろお引き取りを。東伊神社のご子息」

志皇様が手を上げると同時に、鬼の使用人達がザッと境内に隊列を組んで立ち並ぶ。
文車妖妃が真白の文を持って姿をくらますのと同時に、鬼の角を生やした使用人達が宗珠様を拘束し始めた。

「さ、触るな無礼者!香耶乃!香耶乃おおおおおお!」
「軽々しく俺の妻の名を呼ぶな。お前達、その男を東に送り返せ。――地獄への良き旅路を、東伊 宗珠」
「い、嫌だ!嫌だああああああああ!!」

鬼達に飲み込まれるように、宗珠様は離れの庭園から引きずられて行った。
志皇様が私に向き直る。
砂利を踏みしめて私の元へ来ると、片膝を折って私と視線を合わせ、真綿で包むように優しく私の身体を抱き寄せた。

「無事で良かった」
「も、申し訳、ありません……」
「香耶乃。……俺を呼んでくれて、ありがとう」
「私の方こそ、来て下さって……っ、ありがとうございます……!」

目に涙が滲んで、私は志皇様の腕に縋りついた。
私はもう一人じゃない。
私を見つけてくれたこの人と、幸せになりたい――。