虐げられた呪印の巫女は、あやかし旦那様からは逃げられません。

side:香耶乃

暁領、夜の離れの霊花に囲まれた縁側。
私は口元を押さえ、目を見開いて俯いてしまった。
そうだ、思い出した。私達の出会いを。
東伊家で虐げられる事に慣れて、私を想ってくれる人などいるはずが無いと心に蓋をしてしまった。私にとって宝物のような、大切な思い出だったのに。

「思い出したか?」

志皇様が私の顔を覗き込む。
金色の瞳が少しだけ気づかわし気に揺れる。その顔が、初めて出会った時の今より少しだけ幼い志皇様の面影と重なる。

「は、い……。すみません、私。志皇様が呼んでも良いって言ってくれたのに……一度も、呼ばないで……っ!」
「俺の方が迂闊だった。妖さえ退ければどうにかなるというのは、浅はかだった」
「ちが、違います!私が……私の言葉が、足りなかったせいで……!」

否定する事にいっぱいいっぱいになっていると、志皇様が私に手を伸ばし、私の体をそっと包み込んだ。
温かい。冷たい夜風も気にならない。

「……ずっと辛い思いをさせて悪かった、香耶乃」

志皇様の掠れた声が心に染み入るように伝わる。
私は志皇様の肩口で首を振りながら、その温もりにぎこちなく触れた。

「香耶乃。もう一度聞く。……お前は本当に、東伊宗珠に心は無いのか」
「あんな人本当に、好きじゃありません……っ!私が結ばれたいのは志皇様です……!」
「……このまま俺と結婚して、お前は後悔しないか?」
「はい」

揺れる黄金色の瞳を見つめて、しっかりと頷く。
志皇様が私の首筋に顔を埋めて、ちゅっと黒い芍薬の刻印の上に口付けを落とした。

「それならこの場でお前の刻印を完成させる。完成させれば、お前はもう一生俺から逃げられない」

志皇様がすっと体を離して、真剣な眼差しで私を見つめる。
私達の視線が交わる。志皇様の唇が弧を描いて、勝気な笑みを浮かべる。

「でも良いだろ?お前は俺が好きなんだから」
「……はい。旦那様」
「お前の素直な所は、気に入ってるよ」

首筋にキスされて、次いでチクリとした痛みが走った。
志皇様は私の首筋に白い牙を立てている。初めて刻印を付けられた時も感じたけれど、志皇様は私の身体を気にして、痛みが少ないように浅く刺してくれている。
その気遣いが、私はなんだかこそばゆい。
志皇様が私の血を少しだけ飲み干す。そのまま自分の唇にも牙を立て、自身の血を口に含んだ。

「香耶乃」

すっと体が離れて、志皇様の指が顎下に差し込まれる。くいっと軽く力を入れて上を向かされると、蜂蜜の様に蕩けそうな黄金色の瞳と目が合った。

「俺もお前をずっと待っていた。……俺と、結婚してくれ」
「……っ、はい。旦那様」

私が応えた瞬間優しく引き寄せられて、志皇様と唇が重なる。
形を確かめるようにピッタリと重なり合った唇から少量の血が流し込まれる。私はどうしてか、それが甘く感じられた。
不意に、首筋がちりちりと焼けるような熱を帯びる。
少しだけ瞼を持ち上げて肩口を見下ろすと、私の黒い芍薬の刻印がじわじわと侵食されるように赤く染まってゆく。

すっと唇が離される。肩口を覗き込むと、墨のように黒かった芍薬の刻印は、夕日を閉じ込めたような鮮やかな茜色に染まってた。

「これでもう、お前は俺のものだ」

志皇様が滲むような笑みを浮かべる。
霊花と化した桜の花びらが夜風を舞い、志皇様の緋色の髪と黄金色の瞳を薄く照らした。

「……っ……!」

なんだか胸がいっぱいで苦しくて。私は一筋だけ涙を零した。悲しいからじゃない。幸せだと、心から思ったから。
頬に落ちる雫を志皇様が優しく拭ってくれる。

「近いうちに町に行くぞ。婚礼衣装を選ばないといけないからな」
「わ、私が選んでも良いのですか……?」
「当たり前だろ?これからは、お前の物はお前が選んで良いんだ。我慢する必要は無い」
「あ、ありがとうございます……」

ふっと志皇様が微笑む。そっと髪に触れて桜の花びらを掬われる。
それだけで、胸がどきどきして高鳴ってしまう。
藍色の空が星月夜に照らされる離れの庭園で、私達は少しの間そうやって寄り添っていた。



side:宗珠

「あいつらの婚姻など認めない」

夜の東伊神社にしとしとと雨が絶え間なく降り注ぐ。
私は本殿で祭壇に手を合わせ、ふっと唇を吊り上げた。

「おや、こんなにこんなに大量の雨を降らせて。龍神様も香耶乃が居なくなった事が許せないのですね?」

分かっておりますよ。私も同じ気持ちです。
香耶乃が居なくなってから、東伊神社の評判はがた落ちだ。
収入源だった妖の護符は、東伊神社に妖が大量に出現するようになって以来鳴かず飛ばず。
香耶乃一人居れば間に合っていた霊花の生成が滞り、大口契約をしていた取引先はそっぽを向いてしまった。
全て北の鬼神せいだ。結納金を納めに来た時の不遜な態度を思い出す。

「あいつが香耶乃を攫うから……っ!全て、あの男のせいだ!!」

木製の床をダンッと力任せに叩く。
その音を聴きつけた見習いの巫女が、オロオロと本殿に入っていた。

「宗珠様!?どうされたのですか?凄い音が……!」
「ああ、丁度良い所に。他の者にお伝え頂けますか?私は明日、北の地へ行ってまいります」
「き、北の地でございますか?何用で……?」
「私の所有物を取り戻しに」

祭壇に一礼して踵を返す。
後ろで巫女が何か騒いでいたが、何も耳に入らない。
私は北の地に居る香耶乃を想い、行灯に照らされた本殿の中で甘やかに微笑んだ。

「香耶乃を……私の妻を、返して頂きましょう」