虐げられた呪印の巫女は、あやかし旦那様からは逃げられません。

side:香耶乃

離れの自室の畳に正座して、私は窓の外の夜空を眺めた。
北の地は自然が多くて空気が澄んでいるから、夜空の星も白く澄み渡って美しい。
私はそれを眺めながら、ちらりと玄関に視線を送る。

「……志皇様」

窓の外の暮れなずんだ星月夜を見上げてポツリと呟く。

『明日は部屋から一歩も出るな。東から帰ったら離れに行く』

お帰りは、少し遅くなるのかな。
日課の黙祷でもしようかと手を合わせた瞬間、ノックもせずに離れの扉が開かれた。

「ホラ、夕餉を持って来てあげたわよ。さっさと食べて」
「ありがとうございます。美操さん」

美操さんが私の前の畳に、御膳をガチャリと音を立てて置く。
私は深々と頭を下げて、箸に手を伸ばした。

「……そういえばぁ、さっき見たわよ。離れの庭。アンタって凄い霊力持ちなのねエ」

美操さんが急に猫なで声を発し、にいっと口元が吊り上がった。
私はぎくりとして、背筋がうっすら寒くなった。

「でもさあ、霊花って生花と同じで枯れたら元も子もないでしょう?あんな大量の霊花を持て余すのは勿体ないじゃない?……だからあ、あたしが売り捌いてあげる♪」
「え」

美操さんが両手を合わせて見た事も無いくらい愛想よく微笑む。
私が断ろうと口を開くと、その気配を察したのか瞬時に眉根を吊り上げて睨みつけられる。

「なによ文句あんの?世話してやってる駄賃として受け取ってあげるって言ってんのよ」
「霊花は霊力治療に使える花です。この北の地で貴重な物なら、私は志皇様にお送りしたいです」
「その旦那様は今居ないじゃない。だから代わりにあたしが貰ってやるって言ってんの。頭悪いわね、アンタ」
「志皇様は警邏の時に腕に傷を負っていました。私の作る霊花には傷を癒す力があります。どうか、志皇様の為に使わせて下さ……っ!」
「五月蠅いのよ!呪印ごときが!!」

バシッと乾いた音が部屋に響き、頬を打たれたのだと気づいた。
バランスを崩して御膳に倒れ込んだ私は、御膳をひっくり返してしまった。中のお漬物やお味噌汁が、畳に広がってゴザの凹凸に沿って染み入る。

「由緒ある暁家の侍女頭のあたしに、呪印如きが指図するんじゃないわよ!」

ガッと頭を蹴りつけられて、起き上がる事も許されずに畳に倒れ伏す。
視界がグラグラと揺れる。鬼の力は、こんなに強いの?
東伊家でも暴力を振られることは幾度もあったけれど、美操さんの一撃はそれよりもずっと重い。
着物の襟を掴まれて、強引に上を向かされる。着物がはだけて、私の首筋に咲く黒い芍薬が露わになる。

「あーきったない黒色。旦那様が本当にアンタなんかと結婚する気があるなら、その印はとっくに赤く染まっているでしょうに」
「……っ」

私はきゅっと唇を引き結んだ。
怒りが納まるまで大人しくしていれば、いつかは反応を返さない私に飽きるはずだから。

『何かあったら俺を呼べ』

昨夜の志皇様の言葉がよぎるけれど、開きかけた下唇を、グッと噛みしめて堪える。
駄目だ。志皇様に迷惑なんて、かけちゃいけない。

「アンタなんか所詮霊力が高いだけの捨て駒よ!!あたしが利用してやるって言ってんだから感謝しなさ――っ!?」

眼前で私を睨みつける美操さんの顔が強張る。サッと青ざめると、慌てて私の襟から手を放した。

「ヒッ……!?」

美操さんが栗色の髪をカタカタと震わせる。
何が起こったのか分からない私は、美操さんの視線の先を追った。
離れの玄関に視線を送った瞬間、私はヒュっと息を呑んだ。

「……し、志皇様……?」

開け放たれた離れの玄関扉の前に佇んでいたのは、志皇様だった。
金色の瞳が美操さんを静かに射抜く。静かだけど……その瞳には、怒りがありありと滲んでいる。

「俺の妻に何をしている?お前は殺されたいのか?」
「もっ、申し訳ありません!!どうか……どうかご容赦下さい!!」

空気を振るわせるような高圧的な物言いに、美操さんの顔が血色を失って紙のように白く染まる。
美操さんは瞬時に畳に這いつくばって、栗色の波がかった髪が乱れるのも構わず畳に頭を擦り付けた。
青ざめてガタガタと震える姿は、さっきまでの威圧的な態度とは別人の様だ。

「香耶乃の霊花を俺の許可なく売り捌いて良いとでも思っているのか?侍女頭が聞いて呆れる」
「も……申し訳……っ」
「今この時を持って貴様は侍女頭では無い。出ていけ。二度と暁家の敷地に足を踏み入れるな」
「そっ、そんな!わたっ、私が間違っておりました!お許しください、旦那様!!」
「許しを請うのは俺にではないだろう」

美操さんがばっと体の向きを変えて私に向き直る。そのまま、黒い角を畳に押し付けて土下座した。

「た、大変失礼致しました!私がどうかしていたのです!お許し下さい……っ、奥方様!!」
「……っ」

奥方様、だなんて言われると思わなくて私は二の句が継げない。
誰かに謝罪されたのなんて、何年ぶりだろう?
その姿に居心地の悪さを覚えて、私はしゃがみ込んで美操さんの頬に触れた。

「顔を上げてください」
「奥方様……」
「私の作る霊花に触れないとお約束頂けるのなら、私はそれ以上の罰は望みません」
「お、お慈悲に感謝致します!奥方様……っ!」

旦那様が私の傍まで歩み寄って、そっと肩を抱き寄せられる。

「随分寛大じゃないか。東の巫女の名は伊達じゃないな」
「そんな事は……」
「だが俺は、そこまでの慈悲の心は持ち合わせていないんだ。即刻この離れから出ていけ。沙汰は追って伝える」
「た、大変……申し訳ありませんでした……!!」

志皇様に睨みつけられると、美操さんは再度地に頭を擦り付けて、そそくさと離れから立ち去って行った。
二人だけになった離れに静寂が落ちる。
志皇様は私の肩から手を放し、私の手を引いた。

「御膳は片付けさせる。縁側に行くぞ」
「は、はい……」

志皇様がすっと手を上げると同時に、鬼の角を持った使用人が一礼して離れに入室する。
私は志皇様に手を引かれるまま、霊花の咲き誇る縁側に足を踏み入れた。

離れから縁側に繋がる扉を開くと、建物から張り出した木製の廊下――濡れ縁がある。夜風はさらさらと靡き、風に流された霊花の花びらが蛍のように流れてゆく。
濡れ縁に志皇様と二人並んで腰を下ろしと、志皇様が金色の瞳で私を見据えた。

「どうして俺を呼ばなかった?」

空気を震わせるような低い声にビクリと肩が震える。
見下ろされる目は氷柱のように冷たく、視線が痛いほど突き刺さる。
志皇様が私に向けるのも……静かな怒りだった。

「志皇様に、迷惑をかける訳には……」
「何かあったら呼べと言っただろう?俺では役不足だとでも言うつもりか?」
「ち、違います……!」
「……そんなに、あの男がいいのか?」

志皇様の言葉に身が縮こまる。
あの男って、誰の事を言っているの……?

「東伊家に行った時に東伊 宗珠と会った。あいつはお前と長年恋仲だと言っていたが」
「そっ、そんな……っ!?」

おぞましさに顔から血の気が引く。
宗珠様と私がそんな仲だった事は、一度だって無い。

『霊花の生成しか能の無い愚図が!さっさと作りなさい。これは命令ですよ』
『私に逆らうというのですか?――汚らわしい呪印の巫女が』

光を写さない黒水晶の瞳が頭をよぎる。
宗珠様は私が高い霊力を持っていると知ったその瞬間から、霊花を作り続けるように告げた。
離れに何百、何千と運び込まれる花々を私は来る日も来る日も霊花に変え続けた。
霊力が尽きて作れないと訴えれば髪を掴まれて殴られた。だがら、私の身体には宗珠様に付けられた生傷が絶えなかった。それを今更恋仲だなんて、どうしてそんな事を。

「自分達の関係を引き裂くな、東に帰せと懇願された。香耶乃、正直に言え。東伊宗珠とは恋仲だったのか?」
「め、滅相もありません……っ!」
「ならば、お前は東伊 宗珠に気があるのか?」
「……っ」

無い。そんな甘い感情を抱いたことなんて一度も無い。
それなのに私は、東の地で受けた体罰や凍てつくような視線が頭にこびりついて、言葉が喉にへばりついて上手く外に出ない。
志皇様がふっと口角を上げる。慈愛に満ちたものでは無い。暗夜の様な冷ややかな笑みだ。

「それは残念だったな。あの男とお前が結ばれる事は無い」

志皇様の骨ばったしなやかな手が、私の首筋に刻まれた黒い芍薬に伸びる。

「人間の法律に従って、16まで待ってやった結果がこれか」
「し、志皇様……っ!?」

グッと首を掴まれていた手に力が込められる。バランスを崩した私は、縁側に仰向けに倒れ込んだ。
私の上に志皇様が覆いかぶさり、ゆっくりと首にかかるれの力が強まる。
両手で志皇様の手を掴むけれど、びくともしない。

「しおう、さ……っ!」

志皇様を見上げた私は、ぼやけた視界で見えた志皇様の表情にハッとする。
傷つけられた様な、悲しみを称えた瞳。悔しさを噛み殺す様に引き結ばれた唇。
そんな悲壮感に彩られた表情を見たのは初めてで、私は思わず志皇様の腕にかかる手の力が抜けた。

「……っ」

違う。これは、私のせいだ。
美操さんに蹴られた時に志皇様を呼べばよかったのに。
宗珠様との関係を、ちゃんと否定すれば良いだけだったのに。

「……好きなように、して下さい」

私は手を解いて縁側に付けた。
このまま殺されるかもしれない。でも、東の地に戻るよりずっとましだ。
私は唇を開けた。もし最後なら、最後に1度だけ彼の事を呼びたい。
対面したあの日に、言えなかった呼び名を――。

「……旦那、様」
「っ!?」

志皇様がビクリと肩を震わせる。私の首にかかった手の力が、ふっと緩んだ。
気道に冷たい空気が入って来て、私は軽くむせた。
すう、はあと呼吸を繰り返し、今度はしっかりと志皇様の揺れる金色の瞳を見上げた。

「旦那様、私は……っ、東伊宗珠に恋慕していた事なんて、一度もありません……!」
「香耶、乃……?」
「東伊家には、帰りたくありません……っ!」
「……香耶乃。なんだコレは」

志皇様が私の襟元に視線を落とす。
その視線を追うと、私の着物が着崩れて胸元が露わになっている。
私の――古傷や青痣が刻まれた肌がさらされていた。

「誰に付けられた傷だ?妖であるはずが無い」
「こ、これは……」
「お前の霊力を欲する妖は、お前に傷を付けられるはずが無い。……その為に、俺はお前に印を刻んだのだ」
「……え?」

私はゆっくりと起き上がる。
見上げた志皇様の顔は驚きと焦りで揺れている。

「これは……東伊家で、付けられた物です」
「……何だと?」
「私は東伊家でずっと霊花を作っていました。作るのが遅れたり、宗珠様の思う本数が作れない時に、傷、を……」

ギリ、と志皇様が歯噛みする。
それと同時に、月に照らされた金色の瞳が戸惑いに揺れている。少しの間黙っていたけれど、志皇様はゆっくりと私に向かって頭を下げた。

「……悪かった」
「し、志皇様?」
「妖さえ遠ざければそれでいいと思い上がっていた。東伊家の人間がお前を虐げるなんて想像もしていなかった。……人間への理解が、足りていなかった」

頭を下げて謝られるなんて思っていなくて、私は目を泳がせてしまう。
志皇様の頬に両手を伸ばして、すっと顔を上向かせる。

「顔を上げてください。志皇様が私に謝る事なんてありません」
「そんな筈はないだろう。俺が幼いお前に刻んだ刻印を、あの時完成させなかったせいで……!」
「……」

確かに、志皇様が刻んだ刻印があるから私は蔑まれてきた。でも、この刻印を嫌だと思った事なんて一度も無い。
ずっとこの刻印が、私の生きる支えだったの。

「志皇様、話して欲しいです。私に印を刻んだ日の事を」
「……そう、だな」

志皇様が私の手に頬をすり寄せる。
さらりとそよ風が吹いて、淡い水色に光る霊花の花びらが私達の間を通り抜ける。
志皇様が、静かに唇を開いた。