「覚えていないのか」
落とされたのは、案外静かな声だった。
「……申し訳ありません」
志皇様に深々と頭を下げる。
私に呪印を刻んだのはこの方。でも、いつ呪印を付けられたのか私は上手く思い出せない。
志皇様の手が私の首筋に伸び、するりと呪印を撫でられる。
「香耶乃」
「……はい」
志皇様がしゅるしゅると包帯を解く。その腕には、塞がりかけた切り傷が手首から前腕にかけて刻まれていた。
「お前と初めて会った時も、俺は怪我を負っていた。お前は今と同じように自身の霊花で癒してくれたんだ」
その腕を、すっと私に向けて差し出した。
「妖の俺は、この程度の傷は放っておいても塞がる。だが、お前がそこまでなら治療させてやる。――あの日と同じようにな」
ふっと微笑む姿は勝気そうに見えるけど、少しばかりの嗜虐心も感じる。
「教えては、くれないのですか?」
「出会いを覚えていないなんて言われてみろ。意趣返しもしたくなる」
「……すみません」
どうや簡単には教えてくれない様だ。
私はそっと志皇様の腕に芍薬を押し当てる。すると、すうっと水色の輝きが濃くなり、志皇様の腕に吸い込まれるように花びらが溶け消えた。
志皇様の腕に刻まれた傷は、跡形もなく塞がって消えていた。
「相変わらず凄いな、お前の霊力は」
「ありがとうございます。東の地では、これが私のお役目でしたので」
「ずっと作り続けていたのか?」
「はい。部屋に数百の花が運び込まれて、それを毎日霊花に変えていました」
「……何?数百だと?」
私がそう言った瞬間、志皇様の眉根がグッと寄せられた。
「どういう事だ?普通の人間ならば一日に数本……多くとも数十本が限界のはずだが」
「私は霊力が高いので……」
「だとしてもだ。毎日出力し続ければ身体が保たないだろう?……香耶乃、お前は東の地でどんな扱いだったんだ?」
「……っ」
志皇様の問いかけに私は体を強張らせた。
俯いて唇を噛む。言いたくない。私が漏らしたことが東伊家にバレたら、あの人達に何をされるか分からない。
「と、とても良くして頂きました。孤児だった私を拾って下さって、住み込みで巫女として働かせて頂けたので」
嘘じゃない。
暴力を振るわれて蔑まれることは日常的だったけど、住まわせてくれた事を感謝しているのは本当だから。
「本当か?」
「はい」
「……東の地は、そんなに居心地が良かったか?」
その問いかけに、私は曖昧に微笑んで俯いた。
志皇様に嘘は吐きたくない。でも、正直に話す事で心配もさせたくない。
「――東の地に、想い人でも居るのか?」
「え」
その言葉に目を見開いた。
そんな人はいない。東の地で、私はまともな扱いは受けてこなかったから。
「い、いえ、私にそのような方は……」
言い淀んでさらに俯いてしまう。
東伊家であった事は、あまり思い出したくない。体が小刻みに震えるのを腕をきつく掴むことで堪える。
ふっと、志皇様が短く息を吐き出した。
「まあ良い。想い人が居ようが居まいが、お前が東の地を踏むことはもう無い。――この家に来た時点で、お前はもう俺から逃げられないのだから」
志皇様が私に手を伸ばす。
殴られるのかもしれないと思って体を強張らせると、その手は私の長い黒髪をひと房掬った。
あっけに取られて顔を上げると、志皇様はその髪を唇に寄せ、ちゅっと吸い付くよう口付けた。
「……っ!?」
私の頬がボッと赤く染まる。髪に神経は通っていないはずなのに、肌に触れられたような錯覚を起こす。
所有の証の様な口付けをされた事なんて初めてで、私はどうしていいか分からなくなってしまう。
そんな私を見て、志皇様がふっと至近距離で微笑む。
「どうした?暗夜でも分かるほど頬が赤いぞ」
「し、志皇様……その、ど、どうされたのですか?」
「夫が妻の髪に触れるのに理由がいるのか?」
「……い、いいえ」
所在なさげに縮こまると、志皇様が私の髪を手放して居住まいを正す。
その気配を察して、私も志皇様を見上げた。
「香耶乃、俺は明日結納金を持って東の地へ行く」
「でしたら、わ、私も……」
「言っただろう。お前に東の地は踏ませないと」
すっと目が細められ、私はびくりと肩を震わせてしまう。
執着に似た感情の籠った金色の瞳は美しくて――少しだけ、恐ろしい。
「明日は部屋から一歩も出るな。東から帰ったら離れに行く」
「……お待ちしております」
私がもう一度頭を下げようとした所を、手で制される。
「何度も頭を下げるな、鬱陶しい」
「すみません……」
「俺と結婚して鬼神の妻になるならば、胸を張って前を向け」
「善処します」
精一杯言葉を絞り出すと、志皇様は興味を無くしたように私から手を放して踵を返した。
「早く離れに戻って寝ろ。それと、何かあったら俺を呼べ」
「志皇様の名前を……ですか?」
「ああ。妖は耳が良い。お前が呼べは俺には届く」
そう言われた瞬間、ふっと頭の中の靄が少し晴れるような感覚がした。
『何かあったら俺を呼べ。東でも南でも、お前が呼ぶなら俺はどこへでも行ってやる』
桜舞う東伊神社の境内。
今よりも少しだけ幼い志皇様の真っすぐな眼差しが、私の脳裏によぎった。
まただ。これはもしかして……志皇様と初めて出会った時の記憶?
「香耶乃?」
「……っ、すみません。分かりました」
「分かったのなら良い」
短い会話だけ済ませると、志皇様はお屋敷に消えていった。
それを見つめて、私も足早に離れに戻って行った。
◇
side:志皇
青く染まった枝垂れ桜の咲き誇る離れの庭園を背に、俺は髪にかかった花びらを一片摘まんだ。
やはり香耶乃の霊力は本物だ。本来ならば一国の姫の様に丁重に扱われていても不思議じゃない。
それなのに香耶乃はいつも自信が無さそうで、不気味ほど従順だ。
「東伊家、か……」
東でも有数の神社、東伊神社を経営する一族。
清廉潔白を地で行くような家系のはずだが、香耶乃からは大切にされてきた雰囲気を微塵も感じられない。
俺の勘が告げている。あの家系には、きな臭い何かがある。
「明日、直接調べるか」
俺は屋敷に向かって砂利を踏みしめる。
夜には満月が光り、藍色に染まる花びらを静かに照らしていた。
◇
夜が空けて太陽が天高く上る正午。
しっとりとした空気に爽やかな風が吹き込む田園に、瓦屋根の屋敷が立ち並ぶ。
東の国、壬生(みぶ)領。東伊(あずまい)神社。
そこに足を踏み入れた瞬間、俺は不快感に眉を顰めた。
空気が淀んでいる。とても神を祀る神社とは思えない。
「ようこそお越し下さいました。暁家のご当主様」
うすら寒い笑みを向けたのは東伊家の長男であり、この神社を経営する東伊 宗珠だった。
それに応えるように、俺も作り笑いを浮かべた。
「これはお出迎えどうも。宗珠殿」
「突然の書簡に大変驚きました。本日はどういったご用件で?……なんて、聞くまでもありませんね」
糸のように細められていた宗珠の目が開かれ、光を通さない暗澹とした瞳で俺を見据える。
「我が家の巫女、鹿条 香耶乃を攫ったのは貴方ですね?」
東伊神社の境内に風が吹く。
宗珠のその言葉に、俺はさらに笑みを濃くした。
「攫ったとは人聞きが悪いですね。香耶乃は元より俺の妻ですが」
「そんな事実はございません。速やかにこの神社にお戻し下さい」
「お断り致します」
「何だと……?」
宗珠の目が眇められる。俺は大仰に肩を竦めると、肩にかかる赤髪をばさりと払いのけた。
「いつまでここで会話をするおつもりですか?結納金の持参に来たのに、本殿には上げないおつもりで?」
「……失礼しました」
宗珠が後ろにひとまとめにした黒髪を靡かせながらくるりと踵を返した。
俺と従者はそれに続いて東伊家の本殿に進む。
「……」
ちらりと石造りの境内を見渡し、すっと袖で口元を覆う。
俺は懐から人型の和紙を取り出して、軽く息を吹きかけた。
「行け」
それをシュッと境内に放ると、人型の紙は風の中の溶け消えた。
この俺が直々に来てやったんだ。――東伊家の内情を、暴かせて貰おうか。
落とされたのは、案外静かな声だった。
「……申し訳ありません」
志皇様に深々と頭を下げる。
私に呪印を刻んだのはこの方。でも、いつ呪印を付けられたのか私は上手く思い出せない。
志皇様の手が私の首筋に伸び、するりと呪印を撫でられる。
「香耶乃」
「……はい」
志皇様がしゅるしゅると包帯を解く。その腕には、塞がりかけた切り傷が手首から前腕にかけて刻まれていた。
「お前と初めて会った時も、俺は怪我を負っていた。お前は今と同じように自身の霊花で癒してくれたんだ」
その腕を、すっと私に向けて差し出した。
「妖の俺は、この程度の傷は放っておいても塞がる。だが、お前がそこまでなら治療させてやる。――あの日と同じようにな」
ふっと微笑む姿は勝気そうに見えるけど、少しばかりの嗜虐心も感じる。
「教えては、くれないのですか?」
「出会いを覚えていないなんて言われてみろ。意趣返しもしたくなる」
「……すみません」
どうや簡単には教えてくれない様だ。
私はそっと志皇様の腕に芍薬を押し当てる。すると、すうっと水色の輝きが濃くなり、志皇様の腕に吸い込まれるように花びらが溶け消えた。
志皇様の腕に刻まれた傷は、跡形もなく塞がって消えていた。
「相変わらず凄いな、お前の霊力は」
「ありがとうございます。東の地では、これが私のお役目でしたので」
「ずっと作り続けていたのか?」
「はい。部屋に数百の花が運び込まれて、それを毎日霊花に変えていました」
「……何?数百だと?」
私がそう言った瞬間、志皇様の眉根がグッと寄せられた。
「どういう事だ?普通の人間ならば一日に数本……多くとも数十本が限界のはずだが」
「私は霊力が高いので……」
「だとしてもだ。毎日出力し続ければ身体が保たないだろう?……香耶乃、お前は東の地でどんな扱いだったんだ?」
「……っ」
志皇様の問いかけに私は体を強張らせた。
俯いて唇を噛む。言いたくない。私が漏らしたことが東伊家にバレたら、あの人達に何をされるか分からない。
「と、とても良くして頂きました。孤児だった私を拾って下さって、住み込みで巫女として働かせて頂けたので」
嘘じゃない。
暴力を振るわれて蔑まれることは日常的だったけど、住まわせてくれた事を感謝しているのは本当だから。
「本当か?」
「はい」
「……東の地は、そんなに居心地が良かったか?」
その問いかけに、私は曖昧に微笑んで俯いた。
志皇様に嘘は吐きたくない。でも、正直に話す事で心配もさせたくない。
「――東の地に、想い人でも居るのか?」
「え」
その言葉に目を見開いた。
そんな人はいない。東の地で、私はまともな扱いは受けてこなかったから。
「い、いえ、私にそのような方は……」
言い淀んでさらに俯いてしまう。
東伊家であった事は、あまり思い出したくない。体が小刻みに震えるのを腕をきつく掴むことで堪える。
ふっと、志皇様が短く息を吐き出した。
「まあ良い。想い人が居ようが居まいが、お前が東の地を踏むことはもう無い。――この家に来た時点で、お前はもう俺から逃げられないのだから」
志皇様が私に手を伸ばす。
殴られるのかもしれないと思って体を強張らせると、その手は私の長い黒髪をひと房掬った。
あっけに取られて顔を上げると、志皇様はその髪を唇に寄せ、ちゅっと吸い付くよう口付けた。
「……っ!?」
私の頬がボッと赤く染まる。髪に神経は通っていないはずなのに、肌に触れられたような錯覚を起こす。
所有の証の様な口付けをされた事なんて初めてで、私はどうしていいか分からなくなってしまう。
そんな私を見て、志皇様がふっと至近距離で微笑む。
「どうした?暗夜でも分かるほど頬が赤いぞ」
「し、志皇様……その、ど、どうされたのですか?」
「夫が妻の髪に触れるのに理由がいるのか?」
「……い、いいえ」
所在なさげに縮こまると、志皇様が私の髪を手放して居住まいを正す。
その気配を察して、私も志皇様を見上げた。
「香耶乃、俺は明日結納金を持って東の地へ行く」
「でしたら、わ、私も……」
「言っただろう。お前に東の地は踏ませないと」
すっと目が細められ、私はびくりと肩を震わせてしまう。
執着に似た感情の籠った金色の瞳は美しくて――少しだけ、恐ろしい。
「明日は部屋から一歩も出るな。東から帰ったら離れに行く」
「……お待ちしております」
私がもう一度頭を下げようとした所を、手で制される。
「何度も頭を下げるな、鬱陶しい」
「すみません……」
「俺と結婚して鬼神の妻になるならば、胸を張って前を向け」
「善処します」
精一杯言葉を絞り出すと、志皇様は興味を無くしたように私から手を放して踵を返した。
「早く離れに戻って寝ろ。それと、何かあったら俺を呼べ」
「志皇様の名前を……ですか?」
「ああ。妖は耳が良い。お前が呼べは俺には届く」
そう言われた瞬間、ふっと頭の中の靄が少し晴れるような感覚がした。
『何かあったら俺を呼べ。東でも南でも、お前が呼ぶなら俺はどこへでも行ってやる』
桜舞う東伊神社の境内。
今よりも少しだけ幼い志皇様の真っすぐな眼差しが、私の脳裏によぎった。
まただ。これはもしかして……志皇様と初めて出会った時の記憶?
「香耶乃?」
「……っ、すみません。分かりました」
「分かったのなら良い」
短い会話だけ済ませると、志皇様はお屋敷に消えていった。
それを見つめて、私も足早に離れに戻って行った。
◇
side:志皇
青く染まった枝垂れ桜の咲き誇る離れの庭園を背に、俺は髪にかかった花びらを一片摘まんだ。
やはり香耶乃の霊力は本物だ。本来ならば一国の姫の様に丁重に扱われていても不思議じゃない。
それなのに香耶乃はいつも自信が無さそうで、不気味ほど従順だ。
「東伊家、か……」
東でも有数の神社、東伊神社を経営する一族。
清廉潔白を地で行くような家系のはずだが、香耶乃からは大切にされてきた雰囲気を微塵も感じられない。
俺の勘が告げている。あの家系には、きな臭い何かがある。
「明日、直接調べるか」
俺は屋敷に向かって砂利を踏みしめる。
夜には満月が光り、藍色に染まる花びらを静かに照らしていた。
◇
夜が空けて太陽が天高く上る正午。
しっとりとした空気に爽やかな風が吹き込む田園に、瓦屋根の屋敷が立ち並ぶ。
東の国、壬生(みぶ)領。東伊(あずまい)神社。
そこに足を踏み入れた瞬間、俺は不快感に眉を顰めた。
空気が淀んでいる。とても神を祀る神社とは思えない。
「ようこそお越し下さいました。暁家のご当主様」
うすら寒い笑みを向けたのは東伊家の長男であり、この神社を経営する東伊 宗珠だった。
それに応えるように、俺も作り笑いを浮かべた。
「これはお出迎えどうも。宗珠殿」
「突然の書簡に大変驚きました。本日はどういったご用件で?……なんて、聞くまでもありませんね」
糸のように細められていた宗珠の目が開かれ、光を通さない暗澹とした瞳で俺を見据える。
「我が家の巫女、鹿条 香耶乃を攫ったのは貴方ですね?」
東伊神社の境内に風が吹く。
宗珠のその言葉に、俺はさらに笑みを濃くした。
「攫ったとは人聞きが悪いですね。香耶乃は元より俺の妻ですが」
「そんな事実はございません。速やかにこの神社にお戻し下さい」
「お断り致します」
「何だと……?」
宗珠の目が眇められる。俺は大仰に肩を竦めると、肩にかかる赤髪をばさりと払いのけた。
「いつまでここで会話をするおつもりですか?結納金の持参に来たのに、本殿には上げないおつもりで?」
「……失礼しました」
宗珠が後ろにひとまとめにした黒髪を靡かせながらくるりと踵を返した。
俺と従者はそれに続いて東伊家の本殿に進む。
「……」
ちらりと石造りの境内を見渡し、すっと袖で口元を覆う。
俺は懐から人型の和紙を取り出して、軽く息を吹きかけた。
「行け」
それをシュッと境内に放ると、人型の紙は風の中の溶け消えた。
この俺が直々に来てやったんだ。――東伊家の内情を、暴かせて貰おうか。



