怪異、お持ち帰り注意

 配信開始のカウントが、モニターの端で静かに進んでいく。
三、二、一。
「こんばんはー」
 最初に明るく声を出したのは壱太だった。  その隣で、昂夜が少しだけ苦笑する。
「元気だな、お前」 「黙ってる方が緊張するじゃん」 「お前が緊張とか言うと嘘くせえな」 「失礼すぎるだろ」
 そんなやり取りだけで、コメント欄が一気に流れ始める。  いつもの視聴者たちが、待ってましたと言わんばかりに文字を重ねてくる。冗談めかした挨拶、今日の企画への予想、壱太への茶々、昂夜の声に対する反応。それらが画面の中で賑やかに動いていて、この場所がもう“誰かを失う前提の空気”ではないことを教えてくれる。
 カメラの向こうでは、司が機材を確認していた。  少し角度を変え、音量を見て、淡々と最終調整を終える。その横顔は相変わらず静かだが、以前よりほんの少しだけ柔らかい。壱太が配信前に「今日の俺、盛れてる?」とくだらない確認をした時も、以前なら無言で流しただろうに、今は「照明が強いので大丈夫です」と、ちゃんと返すようになっていた。
「司、音どう?」  昂夜が聞く。
「問題ないです」  司は短く答える。  それからほんの少しだけ間を置いて、 「壱太さん、さっきから椅子揺らしすぎです。ノイズ入ります」  と付け足した。
 壱太がすぐに笑う。 「はいはい、すみません司先生」 「先生ではないです」 「でも最近ちょっと言い方優しくなったよね」 「気のせいです」
 コメント欄が、そのやり取りにまたざわつく。  昂夜は呆れたように笑いながらも、どこか安堵したような顔をしていた。
 部屋の隅、画面にぎりぎり映るか映らないかくらいの位置に、朔也が立っている。
 以前みたいに無造作に呪物を開ける役ではない。  今夜の配信は、最近届いた軽めの怪談投稿を読みつつ、過去の動画の裏話を交えていく雑談寄りの生配信だ。だから朔也は、半分スタッフ、半分居候みたいな曖昧な立ち位置でそこにいた。
 それでも、前よりずっと自然だった。
「朔也も座れば?」  壱太が声をかける。
「映るだろ」 「少しくらい映っても今さらじゃん」 「今さらって何だよ」
 そう返しながらも、朔也は完全には離れない。  壁にもたれたまま、何となくこの部屋の空気の中にいる。  最初の頃みたいに、どこへ自分を置けばいいのか分からない感じはもう薄れていた。
 全部を思い出したわけじゃない。  それでも、ここにいる理由をいちいち確認しなくていいくらいには、この空気へ馴染み始めている。
 昂夜がそれを横目で見て、少しだけ口元を緩めた。
「じゃあ始めるか」  そう言って、目の前の投稿文へ視線を落とす。 「今日は最近届いた中から、軽めのやつを何本か読む。心霊写真とか呪物回収とかみたいなガチめのやつじゃなくて、ちょっとした話中心な」
 その言い方に、コメント欄がすぐ反応する。  ガチめじゃないの助かる。  でもどうせ何か起きるんでしょ。  朔也さん今日は呪物ないの?  そんな文字が流れていく。
 壱太がそれを読んで吹き出した。 「ほら、もう言われてる」 「何が」  朔也が少し眉を上げる。
「呪物ないの、って」  壱太は面白そうに笑う。 「だいぶそういう枠で見られてるよ、朔也」
「嫌な枠だな」 「まあ実績がね」  昂夜がぼそっと言う。
 その一言に、朔也がそちらを見る。  昂夜も視線を返す。
 ほんの一瞬、音のない間が落ちる。
 けれどそれは、あの古びた廃墟の中にあった沈殿した空気とはまるで違った。沈黙が怖さを孕んでいるんじゃない。ただ、言葉にしなくても互いの位置が分かるだけの、静かな間だ。
「……何だよ」  朔也が言う。
「いや」  昂夜は少しだけ笑った。 「今はここにいるなって思っただけ」
 コメント欄は当然、その温度までは拾えない。  ただ壱太だけが、横で小さく「はいはい」と呟いている。  そのすぐ横で司が、無言のまま壱太の椅子の位置を数センチだけ直した。自然すぎる動きだったので、壱太は何も言わず、そのまま座り直す。  そのやり取りが妙に馴染んでいて、朔也は一瞬だけ目を止めた。
「……お前らも、何か前より自然だな」  思わずそう言うと、壱太がきょとんとする。
「何が?」 「いや、別に」
 朔也はそこで言葉を切る。  上手く説明できなかった。  でも、司と壱太の間にもちゃんと積み重なったものがあるのだと、何となく分かる。  それは思い出として知っているわけではない。ただ、いま目の前で空気として見えている。
 昂夜は投稿文を読み始める。  穏やかな怪談。少しだけ不思議で、少しだけ可笑しくて、最後にぞくりとするようなやつ。壱太が横から茶化し、司が時々必要な補足を入れる。コメント欄はにぎやかで、画面越しの視聴者たちも一緒にその場を作っている。
 朔也は、その様子を少し離れたところから見ていた。
 何でここにいるのか。  どうしてこの声が気になるのか。  どうして昂夜が笑うと、少しだけ胸の奥がほどけるのか。
 まだ全部は説明できない。  でも、説明できないままでも、この場所から離れたくないことだけは分かる。
「朔也」  不意に昂夜が呼ぶ。
「何」
「次の投稿、そっちにあるだろ」 「……ああ」
 机の端に置いてあった紙を手に取って、朔也は自然に昂夜の隣へ寄った。  画面には、その動きが少しだけ映り込む。  コメント欄がまたざわつく。  距離近い。  今日四人の空気いいな。  司さん無言で有能。  壱太うるさいけど好き。  そんな文字が流れていく。
 朔也は紙を差し出す。  その時、昂夜の指先が少しだけ触れた。
 ほんの一瞬。  それだけなのに、胸の奥で小さく何かが鳴る。
 既視感とは少し違う。  もっと静かな、納得に近い感覚だった。
 思い出せなくても、知っている。  そういう感覚だけが、微かに残る。
 昂夜もそれに気づいたのか、紙を受け取る手を一瞬だけ止めた。  それから何も言わず、いつもの調子で視線を戻す。
「ありがと」 「ん」
 短いやり取りだけで済む。  でも、それで十分だった。
 配信は続く。  明るい声。茶化すコメント。司が動かすカメラ。壱太の笑い声。昂夜の低い声。朔也が時々挟む、素っ気ないのに妙に場へ馴染む一言。
 あの湿った廃墟の中、箱を開けた瞬間に始まったものは、もうここにはない。
 代わりにあるのは、ちゃんと光の入る部屋と、四人分の気配と、うるさいくらいに流れていくコメント欄と、思い出せないままでも隣にいることを選び続ける小さな日常だった。
 全部思い出せなくても、  今ここにいることだけは、もう十分だった。