神社から戻って数日経っても、朔也の記憶はきれいには戻らなかった。
日常生活に困るほどではない。 バイトにも行けるし、簡単な会話もできるし、自分の部屋で過ごす分には大きな支障もない。 けれど、昂夜たちとの距離だけが、相変わらず曖昧なままだった。
名前は分かる。 顔も知っている。 でも、どういう温度で接すればいい相手なのかが分からない。
そんな朔也に対して、昂夜は変わらず世話を焼いた。
昼を回れば、飯食ったか、とLINEが来る。 夕方になれば、配信部屋来るのか、と聞かれる。 返信が遅れれば、既読くらいつけろ、とうるさい追撃が来る。
朔也はスマホの画面を見ながら、小さく息を吐いた。
「……何なんだよ」
そう呟くのは、もう何度目か分からない。
理由が分からない。 なぜここまで気にかけられているのか思い出せないし、思い出せないままなので、少しだけ居心地が悪い。 でも、うっとうしいと切り捨てきれないのも事実だった。
来ないと妙に気になる。 返していないと落ち着かない。 そんな感覚だけが残る。
結局その日も、朔也は配信部屋へ顔を出した。
ドアを開けると、司がノートパソコンへ向かったまま何かを打っていて、その横で壱太が紙パックのカフェオレを二本持って立っていた。
「はい、司の」 「ありがとうございます」 司が画面から目を離さず受け取る。 「また甘いのですか」 「またって何。疲れてる時は糖分でしょ」
そのやり取りが妙に自然で、朔也は一瞬だけ目を止めた。 前からこうだったのか、最近こうなったのか、自分には分からない。 でも、二人の間に変に引っかかる空気はなかった。
壱太が朔也に気づいて、片手を上げる。 「来たじゃん」
「来ただけで褒めるなよ」 朔也が返すと、 「そこは素直に喜ばれといて」 と壱太が笑った。
昂夜は少し離れたところでスマホを見ていたが、朔也が来たのを確認すると、短く言った。
「遅い」
「はいはい」 「はいは一回でいい」
その返し方が、なぜだか少しだけ胸に引っかかった。 うざいはずなのに、落ち着く方が近い。 それが余計に意味不明だった。
昂夜は冷蔵庫の方を見てから、 「何か飲むか」 と聞いた。
「別にいらない」 「昼からほとんど何も飲んでねえだろ」 「見てたのかよ」 「わかるんだよ」
そう言って、昂夜は勝手にミネラルウォーターのペットボトルを一本取り出した。
「ほら」
机の上へ置かれたそれを、朔也は少しだけ胡散臭そうに見る。
「……世話焼きすぎじゃね」 「今さらだろ」 昂夜はあっさり返す。
壱太がその横で、わざとらしく小声を出す。 「はいはい、そういうやつね」 すると司がすぐ、 「煽らないでください」 と静かに挟む。
その言い方が叱るほど強くないのに、壱太は「はーい」と肩をすくめて引いた。 朔也はそのやり取りを見ながら、また少しだけ不思議に思う。 司は壱太に対してだけ、最近、注意の仕方が少し柔らかい。
そんな空気の中で、自分だけが輪から半歩ずれている感じがした。
夜になる頃には、朔也の中でその違和感は少しずつ重くなっていた。
昂夜は何かにつけて気にする。 壱太は壱太で勝手に距離が近い。 司は静かだが、全部見ている。
なのに自分だけ、その理由が分からない。
分からないまま、その中心にいるのが妙に落ち着かない。
「……俺、今日は帰る」
ふいに朔也が言った。
部屋の空気が少しだけ止まる。
「早くね?」 壱太が言う。
「別に」 朔也は答える。 「もういいだろ」
昂夜は何も言わなかった。 けれど、その沈黙が逆に少し冷たかった。
朔也はそれに気づかないふりをして、鞄を取る。 そのままドアへ向かった。
止められるかと思った。 でも、止められない。
背中に視線だけが刺さる。
ドアノブへ手をかけた時、後ろから昂夜の声がした。
「……好きにしろよ」
それは怒鳴り声でも何でもなかった。 低くて、ひどく静かな声だった。
朔也は振り返る。
昂夜はもうこちらを見ていなかった。 机の端へ視線を落としたまま、続ける。
「覚えてねえなら、もう俺があれこれ言うのも押しつけだろ」
壱太が息を止めたのが分かった。 司も何も言わない。
「鬱陶しいなら、もういい」 昂夜はそこでやっと顔を上げた。 「俺も少し引く」
その言葉は、朔也が思っていたよりずっと重かった。
鬱陶しい。 たしかに、少し思った。 理由も分からないのに近い、と思った。 でも、本当に引かれると、胸の奥がすっと冷える。
何だそれ、と思う。 自分でそうしたかったはずなのに。
昂夜が一歩だけこちらから目を逸らした。 それだけで、朔也の中に妙な焦りが生まれる。
何でか分からない。 でも、それは駄目な気がした。
気づけば、体が先に動いていた。
「……待て」
声にするのとほとんど同時に、朔也の手が伸びる。 昂夜が部屋を出ようとしたわけでもないのに、その腕を掴んでいた。
触れた瞬間、熱が走る。
「っ」
朔也は一瞬だけ息を止めた。
デジャブみたいな感覚だった。 前にもこうした気がする。 離れる誰かを、逃がさないように掴んだことがある。 あるいは、自分の方が必死で引き止められたことがある。
でも、そこから先は何も出てこない。 光の断片みたいなものが一瞬よぎって、すぐ消えた。
「……何」 昂夜が低く聞く。
その声も、少しだけ掠れていた。
朔也は腕を掴んだまま、自分でも何を言うつもりなのか分からなかった。
思い出せない。 説明もできない。 何で止めたのかも、きれいには分からない。
でも、放したくなかった。
「……分かんねえけど」 朔也はようやく声を絞る。 「それは違う」
昂夜が黙る。 壱太も司も、今は何も言わない。
「うざいとか、そういうんじゃなくて」 朔也は言葉を探す。 「何でそうなのか分かんねえけど、お前が急に引くのは……気持ち悪い」
我ながらひどい言い方だと思う。 でも、それがいちばん近かった。
昂夜の目が少しだけ揺れる。
「気持ち悪いって何だよ」 掠れた声でそう返しながらも、その語尾にはさっきまでの冷たさがなかった。
「知らねえよ」 朔也は思わず言い返す。 「でも、離れる方が嫌だ」
その一言が落ちた瞬間、部屋の空気が静かに変わった。
壱太が息を呑む。 司は目を伏せて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
朔也はまだ腕を掴んだままだった。 思い出していない。 意味も分からない。 でも、選ぶならこっちだと体の方が先に知っている。
昂夜はしばらく何も言わなかった。 やがて小さく息を吐いて、低く言う。
「……それで十分だ」
その声音は、怒りでも呆れでもなかった。 ずっと張りつめていたものが、ようやく少しだけ解けたような声だった。
朔也はそこでやっと、自分がまだ腕を掴んでいることに気づいて、少しだけ手を離した。 でも完全には離れきれず、指先だけが布地へ残る。
壱太が耐えきれなくなったみたいに小さく言う。 「何これ……めちゃくちゃ重いんだけど……」
「静かにしてください」 司がすぐに返したが、その声は少しだけ柔らかかった。
壱太は口をつぐんだあと、横目で司を見る。 「でも今の、ちょっと安心した」 「……俺もです」 司は短く答えた。
そのやり取りを聞きながら、昂夜はようやく少しだけ肩の力を抜いた。
思い出してはいない。 たぶん、これからもすぐには戻らない。
それでも、今こうして自分を引き止めた。 理由もないまま、説明もできないまま、それでも離れない方を選んだ。
それだけで、十分だった。
朔也はまだ少し居心地悪そうな顔で目を逸らしている。 でも、その立ち位置だけはさっきより近かった。
思い出があるから大事なんじゃない。 思い出せなくても、なお手放せない。
その形が、ようやく輪郭を持ち始めていた。
日常生活に困るほどではない。 バイトにも行けるし、簡単な会話もできるし、自分の部屋で過ごす分には大きな支障もない。 けれど、昂夜たちとの距離だけが、相変わらず曖昧なままだった。
名前は分かる。 顔も知っている。 でも、どういう温度で接すればいい相手なのかが分からない。
そんな朔也に対して、昂夜は変わらず世話を焼いた。
昼を回れば、飯食ったか、とLINEが来る。 夕方になれば、配信部屋来るのか、と聞かれる。 返信が遅れれば、既読くらいつけろ、とうるさい追撃が来る。
朔也はスマホの画面を見ながら、小さく息を吐いた。
「……何なんだよ」
そう呟くのは、もう何度目か分からない。
理由が分からない。 なぜここまで気にかけられているのか思い出せないし、思い出せないままなので、少しだけ居心地が悪い。 でも、うっとうしいと切り捨てきれないのも事実だった。
来ないと妙に気になる。 返していないと落ち着かない。 そんな感覚だけが残る。
結局その日も、朔也は配信部屋へ顔を出した。
ドアを開けると、司がノートパソコンへ向かったまま何かを打っていて、その横で壱太が紙パックのカフェオレを二本持って立っていた。
「はい、司の」 「ありがとうございます」 司が画面から目を離さず受け取る。 「また甘いのですか」 「またって何。疲れてる時は糖分でしょ」
そのやり取りが妙に自然で、朔也は一瞬だけ目を止めた。 前からこうだったのか、最近こうなったのか、自分には分からない。 でも、二人の間に変に引っかかる空気はなかった。
壱太が朔也に気づいて、片手を上げる。 「来たじゃん」
「来ただけで褒めるなよ」 朔也が返すと、 「そこは素直に喜ばれといて」 と壱太が笑った。
昂夜は少し離れたところでスマホを見ていたが、朔也が来たのを確認すると、短く言った。
「遅い」
「はいはい」 「はいは一回でいい」
その返し方が、なぜだか少しだけ胸に引っかかった。 うざいはずなのに、落ち着く方が近い。 それが余計に意味不明だった。
昂夜は冷蔵庫の方を見てから、 「何か飲むか」 と聞いた。
「別にいらない」 「昼からほとんど何も飲んでねえだろ」 「見てたのかよ」 「わかるんだよ」
そう言って、昂夜は勝手にミネラルウォーターのペットボトルを一本取り出した。
「ほら」
机の上へ置かれたそれを、朔也は少しだけ胡散臭そうに見る。
「……世話焼きすぎじゃね」 「今さらだろ」 昂夜はあっさり返す。
壱太がその横で、わざとらしく小声を出す。 「はいはい、そういうやつね」 すると司がすぐ、 「煽らないでください」 と静かに挟む。
その言い方が叱るほど強くないのに、壱太は「はーい」と肩をすくめて引いた。 朔也はそのやり取りを見ながら、また少しだけ不思議に思う。 司は壱太に対してだけ、最近、注意の仕方が少し柔らかい。
そんな空気の中で、自分だけが輪から半歩ずれている感じがした。
夜になる頃には、朔也の中でその違和感は少しずつ重くなっていた。
昂夜は何かにつけて気にする。 壱太は壱太で勝手に距離が近い。 司は静かだが、全部見ている。
なのに自分だけ、その理由が分からない。
分からないまま、その中心にいるのが妙に落ち着かない。
「……俺、今日は帰る」
ふいに朔也が言った。
部屋の空気が少しだけ止まる。
「早くね?」 壱太が言う。
「別に」 朔也は答える。 「もういいだろ」
昂夜は何も言わなかった。 けれど、その沈黙が逆に少し冷たかった。
朔也はそれに気づかないふりをして、鞄を取る。 そのままドアへ向かった。
止められるかと思った。 でも、止められない。
背中に視線だけが刺さる。
ドアノブへ手をかけた時、後ろから昂夜の声がした。
「……好きにしろよ」
それは怒鳴り声でも何でもなかった。 低くて、ひどく静かな声だった。
朔也は振り返る。
昂夜はもうこちらを見ていなかった。 机の端へ視線を落としたまま、続ける。
「覚えてねえなら、もう俺があれこれ言うのも押しつけだろ」
壱太が息を止めたのが分かった。 司も何も言わない。
「鬱陶しいなら、もういい」 昂夜はそこでやっと顔を上げた。 「俺も少し引く」
その言葉は、朔也が思っていたよりずっと重かった。
鬱陶しい。 たしかに、少し思った。 理由も分からないのに近い、と思った。 でも、本当に引かれると、胸の奥がすっと冷える。
何だそれ、と思う。 自分でそうしたかったはずなのに。
昂夜が一歩だけこちらから目を逸らした。 それだけで、朔也の中に妙な焦りが生まれる。
何でか分からない。 でも、それは駄目な気がした。
気づけば、体が先に動いていた。
「……待て」
声にするのとほとんど同時に、朔也の手が伸びる。 昂夜が部屋を出ようとしたわけでもないのに、その腕を掴んでいた。
触れた瞬間、熱が走る。
「っ」
朔也は一瞬だけ息を止めた。
デジャブみたいな感覚だった。 前にもこうした気がする。 離れる誰かを、逃がさないように掴んだことがある。 あるいは、自分の方が必死で引き止められたことがある。
でも、そこから先は何も出てこない。 光の断片みたいなものが一瞬よぎって、すぐ消えた。
「……何」 昂夜が低く聞く。
その声も、少しだけ掠れていた。
朔也は腕を掴んだまま、自分でも何を言うつもりなのか分からなかった。
思い出せない。 説明もできない。 何で止めたのかも、きれいには分からない。
でも、放したくなかった。
「……分かんねえけど」 朔也はようやく声を絞る。 「それは違う」
昂夜が黙る。 壱太も司も、今は何も言わない。
「うざいとか、そういうんじゃなくて」 朔也は言葉を探す。 「何でそうなのか分かんねえけど、お前が急に引くのは……気持ち悪い」
我ながらひどい言い方だと思う。 でも、それがいちばん近かった。
昂夜の目が少しだけ揺れる。
「気持ち悪いって何だよ」 掠れた声でそう返しながらも、その語尾にはさっきまでの冷たさがなかった。
「知らねえよ」 朔也は思わず言い返す。 「でも、離れる方が嫌だ」
その一言が落ちた瞬間、部屋の空気が静かに変わった。
壱太が息を呑む。 司は目を伏せて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
朔也はまだ腕を掴んだままだった。 思い出していない。 意味も分からない。 でも、選ぶならこっちだと体の方が先に知っている。
昂夜はしばらく何も言わなかった。 やがて小さく息を吐いて、低く言う。
「……それで十分だ」
その声音は、怒りでも呆れでもなかった。 ずっと張りつめていたものが、ようやく少しだけ解けたような声だった。
朔也はそこでやっと、自分がまだ腕を掴んでいることに気づいて、少しだけ手を離した。 でも完全には離れきれず、指先だけが布地へ残る。
壱太が耐えきれなくなったみたいに小さく言う。 「何これ……めちゃくちゃ重いんだけど……」
「静かにしてください」 司がすぐに返したが、その声は少しだけ柔らかかった。
壱太は口をつぐんだあと、横目で司を見る。 「でも今の、ちょっと安心した」 「……俺もです」 司は短く答えた。
そのやり取りを聞きながら、昂夜はようやく少しだけ肩の力を抜いた。
思い出してはいない。 たぶん、これからもすぐには戻らない。
それでも、今こうして自分を引き止めた。 理由もないまま、説明もできないまま、それでも離れない方を選んだ。
それだけで、十分だった。
朔也はまだ少し居心地悪そうな顔で目を逸らしている。 でも、その立ち位置だけはさっきより近かった。
思い出があるから大事なんじゃない。 思い出せなくても、なお手放せない。
その形が、ようやく輪郭を持ち始めていた。
