神社に着いた頃には、夜気はかなり冷えていた。
境内はもう人気もなく、石畳の上に落ちる足音だけがやけに大きく響く。社務所の明かりだけが静かに灯っていて、その前で待っていた宮司がこちらへ目を向けた。
「来たか」
短いその声に、司が一歩前へ出る。 布に包んだ写真立てを抱えたまま、手短にここまでの経緯を説明した。宮司は途中で余計な口を挟まず、最後まで聞いてから一度だけ朔也を見た。
その視線は、相手の顔色や様子を見るというより、もっと奥の薄くなった輪郭ごと確かめるような鋭さだった。
「……だいぶ食われとるな」
低く落ちたその一言に、壱太が小さく息を呑む。 朔也だけが、まだ状況を飲み込めていない顔のまま立っていた。
「写真立てを一度、拝殿の前へ持っていく」 宮司が言う。 「ただし、これだけで全部戻るとは思わん方がええ」
昂夜はそれを聞いて、無言のまま小さく頷いた。 分かっていた。ここで止められるのは暴走であって、失われたものそのものじゃない。
拝殿の前へ移動すると、宮司は司へ合図を出し、司はすぐに写真立てを布ごと石段の上へ置いた。周囲に小さな紙札が四方へ打たれ、短い祝詞が落ちていく。風はあるのに、その一角だけ空気が妙に動かない。
朔也はその様子を見ていたが、やがて少しだけ顔をしかめた。
「……変な感じする」
「当たり前だ」 昂夜が低く返す。
朔也はその声へ視線を向ける。 まだ全部は分かっていない。 でも、さっき部屋で言われた時より、その言葉を拒みきれない顔をしていた。
祝詞が途切れた瞬間、写真立てのガラスがぴし、と小さく鳴った。
目に見えるほどの割れではない。 ただ、長く張りつめていたものが、ようやく少しだけ緩んだような音だった。
宮司が息を吐く。
「暴れとった芯はこれで弱る」 「弱る、だけですか」 司が確認する。
「記憶そのものは本人の中や」 宮司は淡々と言った。 「外から祓うだけで、きれいに元通り戻るほど都合ようできとらん」
その言葉を受けた沈黙の中で、朔也がぼそりと漏らす。
「……やっぱ意味分かんねえ」
だが、その声はさっきまでより少しだけ力が抜けていた。 写真立てへ向いていた妙なざわつきが、完全ではないにせよ薄れているのが分かる。
壱太が、おそるおそる口を開く。 「じゃあ、これで写真立てはもう大丈夫ってこと?」
「少なくとも、これ以上好き勝手に食うことはない」 宮司は写真立てへ新しい札を貼りながら答えた。 「しばらくはこちらで預かる」
そこで、司がふと目を細めた。 「そういえば」
視線が朔也へ向く。
「ポケット、見てもらえますか」
朔也は怪訝そうな顔をしたが、言われるままズボンのポケットへ手を入れた。 出てきたものを見て、昂夜も壱太も同時に息を止める。
小さな貝殻だった。
「……あ」 壱太が間の抜けた声を出す。
朔也本人はそれを見下ろして、少しだけ眉を寄せる。 「何これ」
「お前、まだ持ってたのかよ」 昂夜が思わず言う。
朔也は首を傾げた。 「知らねえよ。でも入ってた」
そのやり取りを見て、宮司が低く鼻で笑う。
「癖になっとったんやろな」 「癖?」 壱太が聞く。
「身につけることが、や」 宮司は言う。 「呪いが解けかけても、体の方が覚えとることはある」
その言葉に、昂夜は無意識に自分のポケットへ手をやった。 指先に当たる硬い感触。 自分もまだ、ちゃんと持っている。
取り出した片割れを見た瞬間、壱太が「あー……」と妙に納得した声を出した。
「昂夜も持ってたんだ」 「……当たり前だろ」
その返しは少しだけぶっきらぼうだったが、否定できるわけもなかった。 ここまで毎日、意識の底ではずっとそれを前提に夜を過ごしてきたのだから。
宮司は二つの貝殻を順に見て、小さく頷いた。
「ちょうどええ」 「ええ?」 壱太が聞き返す。
「これもついでに封じ直す」 宮司はそう言って、司へ目配せした。 「本来の形のまま放っとくには、もう気味が悪い」
たしかにその通りだった。 一度は切れたも同然になった呪いだ。このまま持ち続けるには不安が残る。
宮司は二つの貝殻を白い紙の上へ並べた。 ほんの少しだけ離れていた片割れが、石の上で再び揃えられる。 その光景を見た瞬間、昂夜の胸の奥で、説明のつかない感覚が小さく揺れた。
これまで散々振り回された、面倒で厄介な呪いだ。 なのに、揃うのを見てほっとしている自分がいる。
宮司は二枚の札を重ねるようにして貝殻の上へ貼り、短く封を切る言葉を落とした。空気がひやりと張る。だが、オルゴールや写真立ての時みたいな重たさではない。もっと静かな、片づけのための気配だった。
「これでええ」 宮司が言う。 「以後は預かる」
壱太が安堵したように肩を落とす。 「持たなくてよくなるの、普通に助かる……」
司も静かに頷いた。 「ええ、さすがに二つ同時進行は危険すぎます」
朔也だけが、まだ少し不思議そうな顔で封じられた貝殻を見ていた。 「……そんな大事なもんだったのか、これ」
昂夜は一瞬だけ返事に詰まる。 大事、という言葉が妙に引っかかった。
「大事っていうか」 壱太が先に口を挟んだ。 「厄介っていうか」 「最悪だったと言った方が正しいですね」 司が淡々と重ねる。
朔也は小さく息を吐いた。 「へえ」
その気の抜けた返しに、壱太が苦笑する。 けれど、昂夜はその横顔から目を離せなかった。
思い出してはいない。 何があったかも、どうして持っていたかも、たぶんまだきれいには戻っていない。 それでも、なくした貝殻を無意識にまだ持っていた。
その事実だけが、胸のどこかへ静かに残る。
写真立ては神社へ。 二枚貝もまた神社へ預けられた。
これでようやく、呪物そのものは二つとも手元から離れる。 なのに、昂夜の中にはまだ終わった感じがなかった。
たぶん、本当に片づけなければならないのは、もっと別のところにある。
宮司が写真立てへ最後の札を重ねながら、低く言った。
「物はこれで止まる」 その声に、四人の視線が集まる。 「せやけど、人の中に空いたもんまでは別や」
昂夜はその言葉を、黙って受け止めた。
そうだ。 写真立ても貝殻も封じられた。 でも、ここから先は呪物の話じゃない。
思い出があるから大事なんじゃなくて、 思い出がなくても、なお手放せないものの話になる。
冷たい夜風が、境内を抜けていった。
境内はもう人気もなく、石畳の上に落ちる足音だけがやけに大きく響く。社務所の明かりだけが静かに灯っていて、その前で待っていた宮司がこちらへ目を向けた。
「来たか」
短いその声に、司が一歩前へ出る。 布に包んだ写真立てを抱えたまま、手短にここまでの経緯を説明した。宮司は途中で余計な口を挟まず、最後まで聞いてから一度だけ朔也を見た。
その視線は、相手の顔色や様子を見るというより、もっと奥の薄くなった輪郭ごと確かめるような鋭さだった。
「……だいぶ食われとるな」
低く落ちたその一言に、壱太が小さく息を呑む。 朔也だけが、まだ状況を飲み込めていない顔のまま立っていた。
「写真立てを一度、拝殿の前へ持っていく」 宮司が言う。 「ただし、これだけで全部戻るとは思わん方がええ」
昂夜はそれを聞いて、無言のまま小さく頷いた。 分かっていた。ここで止められるのは暴走であって、失われたものそのものじゃない。
拝殿の前へ移動すると、宮司は司へ合図を出し、司はすぐに写真立てを布ごと石段の上へ置いた。周囲に小さな紙札が四方へ打たれ、短い祝詞が落ちていく。風はあるのに、その一角だけ空気が妙に動かない。
朔也はその様子を見ていたが、やがて少しだけ顔をしかめた。
「……変な感じする」
「当たり前だ」 昂夜が低く返す。
朔也はその声へ視線を向ける。 まだ全部は分かっていない。 でも、さっき部屋で言われた時より、その言葉を拒みきれない顔をしていた。
祝詞が途切れた瞬間、写真立てのガラスがぴし、と小さく鳴った。
目に見えるほどの割れではない。 ただ、長く張りつめていたものが、ようやく少しだけ緩んだような音だった。
宮司が息を吐く。
「暴れとった芯はこれで弱る」 「弱る、だけですか」 司が確認する。
「記憶そのものは本人の中や」 宮司は淡々と言った。 「外から祓うだけで、きれいに元通り戻るほど都合ようできとらん」
その言葉を受けた沈黙の中で、朔也がぼそりと漏らす。
「……やっぱ意味分かんねえ」
だが、その声はさっきまでより少しだけ力が抜けていた。 写真立てへ向いていた妙なざわつきが、完全ではないにせよ薄れているのが分かる。
壱太が、おそるおそる口を開く。 「じゃあ、これで写真立てはもう大丈夫ってこと?」
「少なくとも、これ以上好き勝手に食うことはない」 宮司は写真立てへ新しい札を貼りながら答えた。 「しばらくはこちらで預かる」
そこで、司がふと目を細めた。 「そういえば」
視線が朔也へ向く。
「ポケット、見てもらえますか」
朔也は怪訝そうな顔をしたが、言われるままズボンのポケットへ手を入れた。 出てきたものを見て、昂夜も壱太も同時に息を止める。
小さな貝殻だった。
「……あ」 壱太が間の抜けた声を出す。
朔也本人はそれを見下ろして、少しだけ眉を寄せる。 「何これ」
「お前、まだ持ってたのかよ」 昂夜が思わず言う。
朔也は首を傾げた。 「知らねえよ。でも入ってた」
そのやり取りを見て、宮司が低く鼻で笑う。
「癖になっとったんやろな」 「癖?」 壱太が聞く。
「身につけることが、や」 宮司は言う。 「呪いが解けかけても、体の方が覚えとることはある」
その言葉に、昂夜は無意識に自分のポケットへ手をやった。 指先に当たる硬い感触。 自分もまだ、ちゃんと持っている。
取り出した片割れを見た瞬間、壱太が「あー……」と妙に納得した声を出した。
「昂夜も持ってたんだ」 「……当たり前だろ」
その返しは少しだけぶっきらぼうだったが、否定できるわけもなかった。 ここまで毎日、意識の底ではずっとそれを前提に夜を過ごしてきたのだから。
宮司は二つの貝殻を順に見て、小さく頷いた。
「ちょうどええ」 「ええ?」 壱太が聞き返す。
「これもついでに封じ直す」 宮司はそう言って、司へ目配せした。 「本来の形のまま放っとくには、もう気味が悪い」
たしかにその通りだった。 一度は切れたも同然になった呪いだ。このまま持ち続けるには不安が残る。
宮司は二つの貝殻を白い紙の上へ並べた。 ほんの少しだけ離れていた片割れが、石の上で再び揃えられる。 その光景を見た瞬間、昂夜の胸の奥で、説明のつかない感覚が小さく揺れた。
これまで散々振り回された、面倒で厄介な呪いだ。 なのに、揃うのを見てほっとしている自分がいる。
宮司は二枚の札を重ねるようにして貝殻の上へ貼り、短く封を切る言葉を落とした。空気がひやりと張る。だが、オルゴールや写真立ての時みたいな重たさではない。もっと静かな、片づけのための気配だった。
「これでええ」 宮司が言う。 「以後は預かる」
壱太が安堵したように肩を落とす。 「持たなくてよくなるの、普通に助かる……」
司も静かに頷いた。 「ええ、さすがに二つ同時進行は危険すぎます」
朔也だけが、まだ少し不思議そうな顔で封じられた貝殻を見ていた。 「……そんな大事なもんだったのか、これ」
昂夜は一瞬だけ返事に詰まる。 大事、という言葉が妙に引っかかった。
「大事っていうか」 壱太が先に口を挟んだ。 「厄介っていうか」 「最悪だったと言った方が正しいですね」 司が淡々と重ねる。
朔也は小さく息を吐いた。 「へえ」
その気の抜けた返しに、壱太が苦笑する。 けれど、昂夜はその横顔から目を離せなかった。
思い出してはいない。 何があったかも、どうして持っていたかも、たぶんまだきれいには戻っていない。 それでも、なくした貝殻を無意識にまだ持っていた。
その事実だけが、胸のどこかへ静かに残る。
写真立ては神社へ。 二枚貝もまた神社へ預けられた。
これでようやく、呪物そのものは二つとも手元から離れる。 なのに、昂夜の中にはまだ終わった感じがなかった。
たぶん、本当に片づけなければならないのは、もっと別のところにある。
宮司が写真立てへ最後の札を重ねながら、低く言った。
「物はこれで止まる」 その声に、四人の視線が集まる。 「せやけど、人の中に空いたもんまでは別や」
昂夜はその言葉を、黙って受け止めた。
そうだ。 写真立ても貝殻も封じられた。 でも、ここから先は呪物の話じゃない。
思い出があるから大事なんじゃなくて、 思い出がなくても、なお手放せないものの話になる。
冷たい夜風が、境内を抜けていった。
