怪異、お持ち帰り注意

 朔也の部屋へ向かう道中、三人ともほとんど喋らなかった。
 司が運転する車の中には、エンジン音とタイヤが路面を擦る音だけが淡く満ちている。信号待ちで止まるたび、昂夜は助手席で無意識に膝の上の拳を握り直した。壱太も後部座席で珍しく静かだった。さっきまで配信部屋にあった現実感の薄い不穏さが、いまはもうはっきり形になって迫ってきている。
 朔也は部屋にいる。  電話にも出た。  声もあった。
 なのに、そこへたどり着いた時に、まだ間に合うのかどうかが分からない。
「司」  昂夜が低く呼ぶ。
「何ですか」
「神社、行くんだよな」
 司は前を見たまま、小さく頷いた。
「最終的には」 「最終的には、ってことは」 「いきなり連れて行って終わる種類の呪物ではないと思っています」
 その答えは、昂夜にも予想がついていた。  写真立ては穢れそのものというより、欠けた輪郭へ食い込んで根を張る類のものだ。だからただ祝詞を上げて祓えば済むなら、あんなふうに持続していない。
「部屋で一度、状態を見ます」  司が続ける。 「写真立てから引き離せるかどうか。どこまで記憶が落ちているか。神社へ連れていける段階なのか」 「嫌がったら?」  壱太が後ろから聞く。
「その時は、嫌がられても連れていきます」  司の声は静かだったが、はっきりしていた。
 昂夜は窓の外へ視線を向ける。  流れていく街灯の光が、フロントガラスへ淡く反射しては消えていく。
 嫌がられても。  知らない相手を見るみたいな目で見られても。  それでも連れていくしかない。
 その現実が、今になってじわじわと重く胸へ沈んでいた。
 車が朔也のアパートの前に止まった時、夜はもうかなり深くなっていた。
 古びた外階段を三人で上る。  昂夜は先に立って部屋の前まで行き、ほんの一瞬だけ躊躇ってからインターホンを押した。
 沈黙。
 もう一度押す。  今度は、中で何かが引きずられるような音がした。
 やがてドアが少しだけ開く。
 隙間から覗いた朔也の顔を見た瞬間、昂夜の喉がひりついた。
 ひどく疲れた顔をしている。  でも、ただ疲れているだけじゃない。  表情の焦点が薄い。目の前に三人立っているのに、その意味を掴みきれていない顔だった。
「……」
 朔也の視線が、まず昂夜で止まる。  次に司、壱太へ流れる。  けれど、そこに驚きも警戒も、ちゃんとした認識もない。
「何」
 低い声だった。
 そのたった二文字が、遠い。
「入るぞ」  昂夜はそう言った。
「いや、何で」
 返ってきた声には、本気の困惑だけがあった。
 昂夜は一歩踏み出しかけて、そこで止まる。  無理やり押し切れば入れる。  でも、ここで正面からぶつかれば余計にこじれる気がした。
 代わりに司が一歩前へ出た。
「朔也さん」  落ち着いた声だった。 「あなた、今かなり危ない状態です」 「……は?」 「写真立てはどこですか」
 その言葉に、朔也の表情がわずかに曇った。  完全に意味が分からないわけではないらしい。  だが、その曇り方も、記憶というより不快感に近かった。
「知らない」  短く返す。
「嘘つけ」  昂夜が低く言った。
 朔也の目が、少しだけ鋭くなる。  その反応だけは、まだ朔也だった。
「……何でそんな言い方すんの」
 その一言に、昂夜の胸が一瞬詰まる。
 分からない。  でも、傷つく感じだけは残っている。  ファミレスの時と同じだ、と昂夜は思った。
 壱太が空気を和らげようとでもするみたいに、少しだけ身を乗り出す。
「とりあえずさ、中で話そ? 寒いし」 「……」
 朔也はすぐには頷かなかった。  けれど、玄関先で三人を見たまま立ち尽くしているのも面倒になったのか、やがて無言でドアを大きく開けて背を向けた。
 部屋へ入った瞬間、昂夜は息を止めた。
 空気が重い。  オルゴールの時の閉ざされた湿気とは違う。  もっと乾いていて、静かで、空白そのものが部屋に満ちているみたいな重さだった。
 机の上に、あの写真立てが置かれている。
 ガラスは曇り、夜の部屋の明かりを鈍く映している。中にあるはずの写真は相変わらず輪郭だけが薄く残っていて、そこに誰がいたのか、見ようとするほど頭の奥がざらつくような不快感があった。
「……触ったのか」  昂夜の声が自分でも分かるほど低くなる。
 朔也は振り返り、写真立てを見た。  その視線に執着はない。  でも、捨てようともしない。
「分かんない」  朔也は答える。 「でも、何かずっとそこにあった感じする」
 司が部屋の中を見回し、写真立てへ視線を固定した。
「近づかないでください」  壱太へ向けた声だった。
「う、うん」
 司は写真立ての前まで行くと、数歩手前で止まる。  じっと見つめたあと、低く言った。
「やはり、かなり深く食い込んでいます」 「取れそうか」  昂夜が聞く。
「今すぐここで完全には無理です」  司ははっきり答えた。 「でも、神社へ持ち込むために一度切り離すことはできるかもしれません」
 朔也がそこで小さく眉を寄せた。
「何の話」
 その声音に、昂夜はどうしようもなく苛立つ。  でも苛立っている場合じゃないのも分かっている。
「お前、覚えてねえのかよ」 「だから、何を」  朔也の返しは本気で戸惑っていた。 「何かあったんだろうけど、話が飛びすぎて分かんない」
 その言葉の端々に、自分が置いていかれている感覚だけが滲んでいる。  記憶が抜けているせいで、怒る筋道も立てられない。  ただ、相手が強い温度で自分を見ていることだけが不快で、怖い。
 司はそんな二人の間へ割って入るように静かに言った。
「朔也さん、今から神社へ行きます」 「は?」 「その写真立てを持ったままだと、さらに落ちます」 「落ちるって何が」 「あなた自身です」
 その言葉に、部屋が一瞬静まった。
 朔也は司を見る。  昂夜を見る。  壱太を見る。  でもそのどれも、まだ輪郭がはっきりしないらしい。視線がどこにも定まりきらず、妙に心許ない。
「……意味分かんない」  朔也が小さく言う。 「何でそんな大げさなの」
 その時、写真立てのガラスに、立っている朔也の顔がぼんやり映り込んだ。
 昂夜は反射的に声を上げた。
「見るな!」
 朔也がびくりと肩を震わせる。
 その一瞬の隙に、司がポケットから取り出した小さな紙片を写真立てへ向けて投げた。白い紙はふわりと飛び、写真立ての前へ落ちる。同時に、部屋の空気がぴんと張った。
 見えない糸が何本も引き絞られたような、そんな緊張だった。
 写真立てのガラスが、一瞬だけ鈍く白く曇る。
 司は低く何かを唱えていた。  神社で聞く祝詞ほど長くはない、もっと短い、封じに近い言葉だ。
 壱太が息を詰める。  昂夜は動けないまま、ただ写真立てを睨んでいた。
 やがて、重く乾いた空気がほんの少しだけ緩む。
 司が短く息を吐いた。
「今です」 「何が」  朔也が混乱した声を出す。
「連れていきます」  司はそう言って、写真立てへ近づいた。  直接手では触れず、持ってきていた布で包む。 「完全には止まっていません。ですが、いまなら移動できる」
 朔也がそこでようやくはっきりと不快感を示した。
「いや、待って」  声が少し強くなる。 「何でそれ持ってくの」
「それがあなたを削っているからです」  司の返答は一切ぶれない。
「そんなの知らない」 「あなたが知らなくても、起きていることは変わりません」
 そのやり取りを聞きながら、昂夜は朔也の顔を見た。
 知らない。  分からない。  でも、今この部屋から写真立てがなくなることに、朔也は確かにざわついている。
 執着ではない。  もっと空虚な、不安のようなものだ。  理由も分からないのに、ぽっかり空いた場所だけが気持ち悪い、そんな顔だった。
 それが、たまらなく嫌だった。
「……行くぞ」  昂夜が言う。
 朔也が反射的にそちらを見る。
「何でお前が」 「何ででもいい」  昂夜は一歩近づいた。 「今のお前、ここにいたらもっとひどくなる」
「だから何がひどいんだよ」
 返ってくる言葉はまだ鋭い。  けれど、その鋭さの奥にある芯がもう弱い。自分でも何に苛立っているのか掴みきれていない感じがあった。
 昂夜は目の前まで行って、低く言った。
「分かんなくてもいいから来い」
 その言葉に、朔也がわずかに息を止める。
 命令口調に近い。  でもそれは、突き放しではなかった。  置いていかないための強さだと、記憶の抜けた朔也ですら何となく分かってしまう声音だった。
 壱太が小さく言う。 「……来た方がいいと思う」  その声ももう冗談じゃない。
 部屋の中の沈黙が、じりじりと長くなる。
 やがて朔也は、ひどく面倒くさそうに、けれど完全には拒まない顔で目を逸らした。
「……分かった」
 その返事に、昂夜はようやく少しだけ息を吐いた。
 司が写真立てを包んだ布を抱える。  壱太が先に玄関の方へ回る。  朔也はまだ状況を飲み込めていない顔のまま、上着を引っかけた。
 部屋を出る直前、昂夜は一度だけ振り返った。
 あの写真立てが部屋の真ん中にあるだけで、そこは妙に閉じた空気になっていた。  神社へ行く。  でも、たぶんそれだけでは終わらない。
 写真立てが食っているのは、ただの記憶じゃない。  朔也の中の空白と、そこへつながる何かだ。
 外階段を下りながら、昂夜は胸の奥でそれを確かめていた。
 止めなきゃいけない。  でも、最後に戻すのはたぶん祓いの力じゃない。
 思い出があるからじゃなく、  思い出がなくても、なお手放せないもの。
 そこまで辿りつかなければ、きっと写真立ては本当には終わらない。