あれから数日が経った。
結論から言えば、山猫を蛇から助けたのは正解だった。
僕が感じた異質な空気は当たっていたようで、あの蛇は本来、断崖絶壁を縄張りとしている種類で、滅多に森に迷い込んではこないのだとか。
他の獲物を追ってきたか、断崖絶壁を追われたのか、とにかく一匹とはいえ、森の生態系に影響を与える恐れがあったかもしれないと、シルヴァ兄が教えてくれた。
山猫の方も少し不思議な生態で、気に入った相手……つまりは自分と共生するに足ると思った相手と、行動を共にする習性があるらしい。
もちろん、その相手のほとんどは同じ種族の山猫で、つまりはつがいになるらしいのだけど、今回は命を助けた僕を、共生するに足る相手だと考えてくれたらしい。
そんな都合のいい習性があるなんて、この世界はなんと素晴らしいのか。
前世ではペット不可の賃貸アパートで涙を飲んでいたので、小躍りしたくなるような話だ。
「他種族をパートナーに選ぶ例がないわけじゃないけど、人を選んだ例は初めて聞いたよ」
山猫を撫でようとして威嚇され、少し涙目になりながら、シルヴァ兄が教えてくれる。
「ソル、シルヴァ兄は怖くないから大丈夫だよ」
「……キュ?」
返事してくれた!
などと考えるのは、猫好きの傲慢なのはわかっている。わかっているとも。
それでも、さっそく山猫に名前をつけた僕は、通じ合った気分でほくほく顔だ。
父さんと母さんにも話は通してあって、一緒に暮らす許可をもらっている。
食べ物も調べたし、お風呂にも入れた。いるかいないかはわからないけど、ダニとかノミとか、怖いからね。お風呂で水を怖がらなかったのは意外だったけど、水浴びも好きな種類だから、とこれまたシルヴァ兄が教えてくれた。
これだけ詳しいのだから、きっとシルヴァ兄も無類の猫好きに違いない。それなのにソルは、シルヴァ兄に対しては完全に塩対応だ。少しずつ慣れていってほしいものである。
「帰ったら、また撫でさせてよ」
またというか、今度こそというか。涙目のシルヴァ兄が、いそいそと出かける支度を始める。
「今日はどこに行くの?」
「本当は父さんやマグナ兄がいた方がいいんだけど、人が足りなくて。視察に行くんだよ」
まだ十歳なのに、視察とかすごい。僕は目を輝かせて、シルヴァ兄に飛びついた。
「視察……かっこいい。ねえ、僕も一緒に行っていい?」
「ソルも一緒にってこと?」
「ソルも一緒にってこと」
「そうか。ほ、本当に遊びじゃないんだからね? 僕の言うことをしっかり聞くって約束できる?」
ソル様様だ。しっかりしているように見えるシルヴァ兄も、やっぱり猫にはメロメロだね。
僕は真剣な顔で頷いてから、「ソルもいい子にできるよね?」と肩の上でくつろぐソルを撫でた。
羨ましそうに僕たちをじっとり眺めてから、シルヴァ兄が窓から城下町の先を指さす。
「城下町を抜けた先、ここから見るとあのあたりかな。あそこの橋の様子を見にいくんだよ」
視察の内容がピンとこないままついていった僕は、現地で改めて、ステラロード王国の現状を知ることになった。
断崖絶壁の崖と崖を結んでかけられた吊り橋が、頼りなくキイキイと揺れる。橋の両側には、使用禁止を示す走り書きのされた看板が立っていた。見るからに老朽化していて、一度に大勢が渡ったり、重いものをまとめて運ぼうとしたら壊れてしまいそうだ。
「こういう橋が、ちょっと増えてきてるんだ」
「……直さないの?」
「どの橋から直すかを考えるための、視察なんだよ」
思わず言葉に詰まる。苦笑いのシルヴァ兄は、ここ以外にも危ない橋がたくさんあり、修繕が間に合っていないと言っているのだ。
「そんな顔しなくても大丈夫だよ。橋の修理やかけなおしは、魔法と土木技術を組み合わせた特別な仕事が必要なんだ。ほら、向こうを見て。橋はたくさんあるでしょ?」
ひとつの修理が間に合わなくても、すぐさま困りはしないのだと暗に示されても、僕はぎこちない笑顔しか返せずにいた。
シルヴァ兄の言う通り、ここの崖だけ見ても、ある程度の間隔でいくつも橋がかかっている。すぐさま渡れなくて困るような事態にはならないだろう。問題は、この橋ほどではないにしても、そのどれもが古びて見えることだ。
これまでの僕は、それこそソルを助けた森に出かけるくらいしか王城や城下町の外には出なかったし、もちろん視察も初めてだ。
あまり裕福ではない国とは言っても、前世に比べたら随分と広い城に住んで、ある程度の賑わいを見せる城下町で暮らしてきたから気づけなかった。
想像以上に、ステラロード王国の状況は厳しかったのだ。
「今日はここ以外にも、いくつか視察するの?」
「そうだね、この辺りの橋をひととおり見ようと思ってる」
「そっかあ」
「ちょっと疲れちゃった? 先に戻っててもいいよ?」
僕は首を横に振る。むしろ逆だ。いい機会なので、橋以外も見ておきたいと思った。
「父さんは港でお仕事だよね? 船が見てみたいなって思って」
シルヴァ兄は、顎に手をやって考え始めた。話の切り替えが急すぎたかな。言うことを聞くと約束したのに、別の場所を見たいと言い出したのはよくなかったかも。
「港も視察はしておく必要があるし、確か何日か前から外の船もきてるはず。行ってみようか?」
「いいの? ありがとう」
「港に行くのは体力いるよ。大丈夫?」
うん、と元気よく返事をしたことを、僕はすぐに後悔した。
港は当然ながら断崖絶壁の下にある。そこまで行くにはどうするか。
答えは簡単。とんでもなく急で終わりが見えないような、階段か坂を下りていくしかない。
もちろん階段も坂も、前世のようにしっかり舗装されているわけではない。
階段を選んだ僕は、港に到着する頃には足が棒のようになっていた。
それでも、僕が下りてきた階段はまだいい方らしい。
坂を選んでいたら、断崖絶壁ぞいを強引に削った、手すりのない細くて凸凹の道を行くことになっていたそうだ。想像しただけで怖すぎる。
「ぜえ……はあ……これ、荷物を運ぶ時とか、どうしてるの?」
「どうって。もちろん、頑張って運んでるんだよ」
「頑張って……大変すぎない? あ、でもすごい。大きな船があるね」
「あれはイグナイト王国の紋章だね。大国にしては珍しく、なんて言うと怒られそうだけど、よくしてくれてる国だよ。もうひとつは……どこだろう、国の紋章は見当たらないから、どこかの商船かな」
シルヴァ兄の解説を聞きながら、船に近づいていく。
「ほら、沖にもいくつか船が見えるでしょ? うちの港に大きな船は入れないから、商品を積んだ中型の船だけ入ってもらって、残りの船団は停泊して待っていてもらうんだよ」
ステラロード王国の地形は、断崖絶壁以外にも特殊な場所が多い。
港から出てある程度進むと、港を囲むようにぐるりと岩の壁がある。
その中に、中型程度の船が一隻ずつなら通れるくらいの隙間が空いている。他の場所は断崖絶壁で、港を切り開いてもいないので、ステラロード王国に出入りするにはここを使うしかない。
天然の要塞よろしく、この岩壁のおかげで、嵐や海の魔物、海賊などの影響を最小限にしている側面はあるものの、もう少しだけ利便性を重視して整備できた方が、本当はいいのかもしれない。
「そういえば、うちの船は?」
「ああうん。イグナイト王国の船の隣……紋章がない商船とは反対側に、シンプルな感じの船があるでしょ? あれがうちの船だよ。他にも三隻あるはずだけど、沖に停泊した船団をもてなしにいってるんじゃないかな」
「シン……プル?」
シルヴァ兄が、よくいえばシンプル、正直に言えば古めかしい船を指さす。
僕自身、前世で船に縁があったわけでも詳しかったわけでもない。それでも残念ながら、その差は歴然だった。
ステラロード王国の船は、サイズとしてはイグナイト王国のものと同じくらいだ。
ただし、きらきらと輝く金属のパーツや装飾が使われて、優雅かつ堅牢なイメージのイグナイト王国のものと比べると、格差を感じずにはいられない。下手をすると紋章なしの、おそらく個人所有の商船にも、見劣りしてしまうかもしれない。
「海の向こうには、沖に停まっているような大きな船がたくさんあるんだ。装備もしっかりしていて、たくさんの物を運べるんだよ」
僕たちは、せっかくなので船の前までやってきて、荷下ろしを眺めていた。
積み荷の上げ下ろしは、当然ながら人力で、中型船でも数日かかるのが普通だ。
色々な人が行き来していて、城下町より活気があるのでは、というくらいの賑わいを見せている。
「何度見てもすげえ崖だな」
「船長は初めてか、なかなかの眺めだろう?」
紋章がない方の商船から降りてきたふたりの男が、断崖絶壁を見上げて目を細めた。
ひとりは小ぎれいなシャツとパンツ、船長と呼ばれたもうひとりはゴテゴテした感じで、石でできたアクセサリーを首や腕にいくつもつけている。
「ああ、こいつはひでえや」
船長が顔をしかめた。
なかなかの眺め、と聞いて一瞬だけ期待したけど、会話はまったく逆の方へ走り始める。
「上にはもう行ったか? そっちはもっとびっくりするぞ。ぼろい橋で無理やり崖を繋いであるんだ。よくもまあ、こんなところに国なんておったてたもんだよ」
「南のガレドーラ共和国か、東のゼム帝国あたりに、あっさり落とされそうだけどな」
国の名前をいくつかあげて、船長がげらげらと笑った。
もうひとりも軽薄そうな笑みを浮かべて、首を横に振る。
「そりゃあ皮肉がききすぎだ。ゼム帝国は内輪揉め専門みたいなもんじゃねえか。ガレドーラ共和国だって、よそを落とす感じじゃないだろ? まあそもそも、落とすメリットもないけどな。攻めにくい上に、実入りが少なすぎる。ああでも、ガレドーラ共和国はここにもたまに顔を出してるらしいぜ」
「ほお、どこにでも顔を出すんだな。ここ数年のフェスタも仕切ってるし、弱小国にも気を遣ってますよってアピールかね。俺はあの国、嫌いだね。小綺麗すぎて気持ち悪い」
「滅多なこと言うなよ。ガレドーラ共和国に目をつけられたら、この辺の海で商売できなくなるぞ」
「それがおかしいってんだよ。海賊を撲滅しましょうだの、平等で公平な取引をだの、綺麗な話ばっかりうたってる割には、まわりの国が遠慮しすぎてないか?」
「そうかあ? このステラロード王国もフェスタには出てるんだろ? こんなとこまで気にかけて寄ってくれる大国なんて、なかなかないだろ。すげえ国だと思うけどな」
「はあ? ここもフェスタに出てんのかよ。外で見栄はってる暇があったら、国内をどうにかしろっての」
「はっは、そりゃあそうだな」
思わず一歩前に踏み出した僕の腕を、シルヴァ兄が掴む。
「どうして止めるの。いくらなんでも失礼じゃない? 完全に僕たちを馬鹿にしてるのに」
「船乗りの軽口なんて珍しくないし、放っておくのが一番だよ。それに、父さんたちが頑張って呼び込んだ商人かもしれないのに、勝手に追い返しちゃったら悪いよ」
そうかもしれなくても、腹は立つ。この国の人間がどこにいてもおかしくない場所で、あの物言いが軽口で済むのだとしたらひどい話だ。
「僕だって怒ってないわけじゃない。いつかきっと、見返してやろう」
いつかなんて、待っているだけでやってくるわけがない。
収まらない気持ちはあるものの、ここで子供ふたりが文句を言ったところで、軽くあしらわれるだけなのも確かだ。
男たちの言い方はあんまりだけど、話自体は残念ながら的を射ている。
立ちはだかる岩壁、断崖絶壁をどうにか切り開いた急で険しい階段や坂。
整備するにしても、どこから手をつければいいのやら、という感じの古い橋。
侵略する価値すらない、ひどい暴言を吐かれても、頭を下げて商船を呼び込まなければならない弱小国。それが、ステラロード王国の現状なのだ。
きっと父さんも母さんも、そんなことはわかっている。
わかったうえで、無理をしてでもこちらから出ていかなければ、新しい技術や商品、世界情勢などの情報が入ってこない。
こんなの、悔しすぎる。
僕の記憶にあるステラロード王国の人たちは、いい人ばかりだ。なんとかしてみんなの役に立ちたいし、本当に笑顔でいてほしい。
そんなみんなを侮辱されて、やっぱり黙ってはいられない。僕がシルヴァ兄の手を振りほどいて一歩踏み出した、その時だった。
結論から言えば、山猫を蛇から助けたのは正解だった。
僕が感じた異質な空気は当たっていたようで、あの蛇は本来、断崖絶壁を縄張りとしている種類で、滅多に森に迷い込んではこないのだとか。
他の獲物を追ってきたか、断崖絶壁を追われたのか、とにかく一匹とはいえ、森の生態系に影響を与える恐れがあったかもしれないと、シルヴァ兄が教えてくれた。
山猫の方も少し不思議な生態で、気に入った相手……つまりは自分と共生するに足ると思った相手と、行動を共にする習性があるらしい。
もちろん、その相手のほとんどは同じ種族の山猫で、つまりはつがいになるらしいのだけど、今回は命を助けた僕を、共生するに足る相手だと考えてくれたらしい。
そんな都合のいい習性があるなんて、この世界はなんと素晴らしいのか。
前世ではペット不可の賃貸アパートで涙を飲んでいたので、小躍りしたくなるような話だ。
「他種族をパートナーに選ぶ例がないわけじゃないけど、人を選んだ例は初めて聞いたよ」
山猫を撫でようとして威嚇され、少し涙目になりながら、シルヴァ兄が教えてくれる。
「ソル、シルヴァ兄は怖くないから大丈夫だよ」
「……キュ?」
返事してくれた!
などと考えるのは、猫好きの傲慢なのはわかっている。わかっているとも。
それでも、さっそく山猫に名前をつけた僕は、通じ合った気分でほくほく顔だ。
父さんと母さんにも話は通してあって、一緒に暮らす許可をもらっている。
食べ物も調べたし、お風呂にも入れた。いるかいないかはわからないけど、ダニとかノミとか、怖いからね。お風呂で水を怖がらなかったのは意外だったけど、水浴びも好きな種類だから、とこれまたシルヴァ兄が教えてくれた。
これだけ詳しいのだから、きっとシルヴァ兄も無類の猫好きに違いない。それなのにソルは、シルヴァ兄に対しては完全に塩対応だ。少しずつ慣れていってほしいものである。
「帰ったら、また撫でさせてよ」
またというか、今度こそというか。涙目のシルヴァ兄が、いそいそと出かける支度を始める。
「今日はどこに行くの?」
「本当は父さんやマグナ兄がいた方がいいんだけど、人が足りなくて。視察に行くんだよ」
まだ十歳なのに、視察とかすごい。僕は目を輝かせて、シルヴァ兄に飛びついた。
「視察……かっこいい。ねえ、僕も一緒に行っていい?」
「ソルも一緒にってこと?」
「ソルも一緒にってこと」
「そうか。ほ、本当に遊びじゃないんだからね? 僕の言うことをしっかり聞くって約束できる?」
ソル様様だ。しっかりしているように見えるシルヴァ兄も、やっぱり猫にはメロメロだね。
僕は真剣な顔で頷いてから、「ソルもいい子にできるよね?」と肩の上でくつろぐソルを撫でた。
羨ましそうに僕たちをじっとり眺めてから、シルヴァ兄が窓から城下町の先を指さす。
「城下町を抜けた先、ここから見るとあのあたりかな。あそこの橋の様子を見にいくんだよ」
視察の内容がピンとこないままついていった僕は、現地で改めて、ステラロード王国の現状を知ることになった。
断崖絶壁の崖と崖を結んでかけられた吊り橋が、頼りなくキイキイと揺れる。橋の両側には、使用禁止を示す走り書きのされた看板が立っていた。見るからに老朽化していて、一度に大勢が渡ったり、重いものをまとめて運ぼうとしたら壊れてしまいそうだ。
「こういう橋が、ちょっと増えてきてるんだ」
「……直さないの?」
「どの橋から直すかを考えるための、視察なんだよ」
思わず言葉に詰まる。苦笑いのシルヴァ兄は、ここ以外にも危ない橋がたくさんあり、修繕が間に合っていないと言っているのだ。
「そんな顔しなくても大丈夫だよ。橋の修理やかけなおしは、魔法と土木技術を組み合わせた特別な仕事が必要なんだ。ほら、向こうを見て。橋はたくさんあるでしょ?」
ひとつの修理が間に合わなくても、すぐさま困りはしないのだと暗に示されても、僕はぎこちない笑顔しか返せずにいた。
シルヴァ兄の言う通り、ここの崖だけ見ても、ある程度の間隔でいくつも橋がかかっている。すぐさま渡れなくて困るような事態にはならないだろう。問題は、この橋ほどではないにしても、そのどれもが古びて見えることだ。
これまでの僕は、それこそソルを助けた森に出かけるくらいしか王城や城下町の外には出なかったし、もちろん視察も初めてだ。
あまり裕福ではない国とは言っても、前世に比べたら随分と広い城に住んで、ある程度の賑わいを見せる城下町で暮らしてきたから気づけなかった。
想像以上に、ステラロード王国の状況は厳しかったのだ。
「今日はここ以外にも、いくつか視察するの?」
「そうだね、この辺りの橋をひととおり見ようと思ってる」
「そっかあ」
「ちょっと疲れちゃった? 先に戻っててもいいよ?」
僕は首を横に振る。むしろ逆だ。いい機会なので、橋以外も見ておきたいと思った。
「父さんは港でお仕事だよね? 船が見てみたいなって思って」
シルヴァ兄は、顎に手をやって考え始めた。話の切り替えが急すぎたかな。言うことを聞くと約束したのに、別の場所を見たいと言い出したのはよくなかったかも。
「港も視察はしておく必要があるし、確か何日か前から外の船もきてるはず。行ってみようか?」
「いいの? ありがとう」
「港に行くのは体力いるよ。大丈夫?」
うん、と元気よく返事をしたことを、僕はすぐに後悔した。
港は当然ながら断崖絶壁の下にある。そこまで行くにはどうするか。
答えは簡単。とんでもなく急で終わりが見えないような、階段か坂を下りていくしかない。
もちろん階段も坂も、前世のようにしっかり舗装されているわけではない。
階段を選んだ僕は、港に到着する頃には足が棒のようになっていた。
それでも、僕が下りてきた階段はまだいい方らしい。
坂を選んでいたら、断崖絶壁ぞいを強引に削った、手すりのない細くて凸凹の道を行くことになっていたそうだ。想像しただけで怖すぎる。
「ぜえ……はあ……これ、荷物を運ぶ時とか、どうしてるの?」
「どうって。もちろん、頑張って運んでるんだよ」
「頑張って……大変すぎない? あ、でもすごい。大きな船があるね」
「あれはイグナイト王国の紋章だね。大国にしては珍しく、なんて言うと怒られそうだけど、よくしてくれてる国だよ。もうひとつは……どこだろう、国の紋章は見当たらないから、どこかの商船かな」
シルヴァ兄の解説を聞きながら、船に近づいていく。
「ほら、沖にもいくつか船が見えるでしょ? うちの港に大きな船は入れないから、商品を積んだ中型の船だけ入ってもらって、残りの船団は停泊して待っていてもらうんだよ」
ステラロード王国の地形は、断崖絶壁以外にも特殊な場所が多い。
港から出てある程度進むと、港を囲むようにぐるりと岩の壁がある。
その中に、中型程度の船が一隻ずつなら通れるくらいの隙間が空いている。他の場所は断崖絶壁で、港を切り開いてもいないので、ステラロード王国に出入りするにはここを使うしかない。
天然の要塞よろしく、この岩壁のおかげで、嵐や海の魔物、海賊などの影響を最小限にしている側面はあるものの、もう少しだけ利便性を重視して整備できた方が、本当はいいのかもしれない。
「そういえば、うちの船は?」
「ああうん。イグナイト王国の船の隣……紋章がない商船とは反対側に、シンプルな感じの船があるでしょ? あれがうちの船だよ。他にも三隻あるはずだけど、沖に停泊した船団をもてなしにいってるんじゃないかな」
「シン……プル?」
シルヴァ兄が、よくいえばシンプル、正直に言えば古めかしい船を指さす。
僕自身、前世で船に縁があったわけでも詳しかったわけでもない。それでも残念ながら、その差は歴然だった。
ステラロード王国の船は、サイズとしてはイグナイト王国のものと同じくらいだ。
ただし、きらきらと輝く金属のパーツや装飾が使われて、優雅かつ堅牢なイメージのイグナイト王国のものと比べると、格差を感じずにはいられない。下手をすると紋章なしの、おそらく個人所有の商船にも、見劣りしてしまうかもしれない。
「海の向こうには、沖に停まっているような大きな船がたくさんあるんだ。装備もしっかりしていて、たくさんの物を運べるんだよ」
僕たちは、せっかくなので船の前までやってきて、荷下ろしを眺めていた。
積み荷の上げ下ろしは、当然ながら人力で、中型船でも数日かかるのが普通だ。
色々な人が行き来していて、城下町より活気があるのでは、というくらいの賑わいを見せている。
「何度見てもすげえ崖だな」
「船長は初めてか、なかなかの眺めだろう?」
紋章がない方の商船から降りてきたふたりの男が、断崖絶壁を見上げて目を細めた。
ひとりは小ぎれいなシャツとパンツ、船長と呼ばれたもうひとりはゴテゴテした感じで、石でできたアクセサリーを首や腕にいくつもつけている。
「ああ、こいつはひでえや」
船長が顔をしかめた。
なかなかの眺め、と聞いて一瞬だけ期待したけど、会話はまったく逆の方へ走り始める。
「上にはもう行ったか? そっちはもっとびっくりするぞ。ぼろい橋で無理やり崖を繋いであるんだ。よくもまあ、こんなところに国なんておったてたもんだよ」
「南のガレドーラ共和国か、東のゼム帝国あたりに、あっさり落とされそうだけどな」
国の名前をいくつかあげて、船長がげらげらと笑った。
もうひとりも軽薄そうな笑みを浮かべて、首を横に振る。
「そりゃあ皮肉がききすぎだ。ゼム帝国は内輪揉め専門みたいなもんじゃねえか。ガレドーラ共和国だって、よそを落とす感じじゃないだろ? まあそもそも、落とすメリットもないけどな。攻めにくい上に、実入りが少なすぎる。ああでも、ガレドーラ共和国はここにもたまに顔を出してるらしいぜ」
「ほお、どこにでも顔を出すんだな。ここ数年のフェスタも仕切ってるし、弱小国にも気を遣ってますよってアピールかね。俺はあの国、嫌いだね。小綺麗すぎて気持ち悪い」
「滅多なこと言うなよ。ガレドーラ共和国に目をつけられたら、この辺の海で商売できなくなるぞ」
「それがおかしいってんだよ。海賊を撲滅しましょうだの、平等で公平な取引をだの、綺麗な話ばっかりうたってる割には、まわりの国が遠慮しすぎてないか?」
「そうかあ? このステラロード王国もフェスタには出てるんだろ? こんなとこまで気にかけて寄ってくれる大国なんて、なかなかないだろ。すげえ国だと思うけどな」
「はあ? ここもフェスタに出てんのかよ。外で見栄はってる暇があったら、国内をどうにかしろっての」
「はっは、そりゃあそうだな」
思わず一歩前に踏み出した僕の腕を、シルヴァ兄が掴む。
「どうして止めるの。いくらなんでも失礼じゃない? 完全に僕たちを馬鹿にしてるのに」
「船乗りの軽口なんて珍しくないし、放っておくのが一番だよ。それに、父さんたちが頑張って呼び込んだ商人かもしれないのに、勝手に追い返しちゃったら悪いよ」
そうかもしれなくても、腹は立つ。この国の人間がどこにいてもおかしくない場所で、あの物言いが軽口で済むのだとしたらひどい話だ。
「僕だって怒ってないわけじゃない。いつかきっと、見返してやろう」
いつかなんて、待っているだけでやってくるわけがない。
収まらない気持ちはあるものの、ここで子供ふたりが文句を言ったところで、軽くあしらわれるだけなのも確かだ。
男たちの言い方はあんまりだけど、話自体は残念ながら的を射ている。
立ちはだかる岩壁、断崖絶壁をどうにか切り開いた急で険しい階段や坂。
整備するにしても、どこから手をつければいいのやら、という感じの古い橋。
侵略する価値すらない、ひどい暴言を吐かれても、頭を下げて商船を呼び込まなければならない弱小国。それが、ステラロード王国の現状なのだ。
きっと父さんも母さんも、そんなことはわかっている。
わかったうえで、無理をしてでもこちらから出ていかなければ、新しい技術や商品、世界情勢などの情報が入ってこない。
こんなの、悔しすぎる。
僕の記憶にあるステラロード王国の人たちは、いい人ばかりだ。なんとかしてみんなの役に立ちたいし、本当に笑顔でいてほしい。
そんなみんなを侮辱されて、やっぱり黙ってはいられない。僕がシルヴァ兄の手を振りほどいて一歩踏み出した、その時だった。



