そして、パレードは終わる



【1】

1ー1

 待ち合わせの時間よりも少し早く到着すると、黒い傘をさした人影が見えた。雨は降っていない。だが、その人は強い雨風にでも耐えるように、両手で強く傘の柄を握りしめ、その場を動こうとしなかった。 
 僕は少し離れた場所からその様子を見て、すぐに声をかけるべきか迷っていた。だが、そうしているうちに、改札から出てきた大勢の人の波にかき消され、彼女の姿が一瞬、見えなくなってしまった。ほんのわずか見失ってしまっただけなのに、心臓が凍りつき、思わず駆け出しそうになる。
 ようやく掴んだ糸口を失う訳にはいかない。
 傘の隙間、かすかに横顔しか見えなかったが、確信した。彼女で間違いない。
 あの動画に映り込んでいたときと同じように、両肩を窮屈そうにすぼめ、長い背丈を折り曲げていた。

 新たなDMが届いていないか確認すると、彼女から、最新のメッセージが届いていた。
『もう、待ち合わせの場所にいます。もし、迷ってるなら、ドタキャンとかぜんぜん慣れてるんで大丈夫です』

 人の流れが途切れ、改めて彼女の方へ目をやると、やっと雨が止んだことに気がついたのか、傘をスマートフォンに持ち替えていた。猫背をさらに折り曲げ、画面を真上から覗き込むように凝視している。
 タイムラインに新しい投稿はない。僕からは返信はせず、既読だけを残した。

 妻には、仕事の取材で夜まで帰れないと嘘をついた。その間に、妻が一人で外に出ていかぬよう、僕らの事情を知っている共通の友人に監視を頼み、もし強引に外に出て行こうとしたら、警察を呼んででも、止めてほしいと伝えた。友人も最初は冗談だろと笑ったが、僕がもう一度真剣な顔で頼むと、わかったと頷き、それ以上は何も聞いてこなかった。

 次の信号が変わったら声をかけよう。そう決めて、もう一度スマートフォンを見ると、メッセージの続きが届いていた。
『すみません、一番大事なことを忘れていました。わたしは』
 メッセージはそこで一度途切れ、チャット欄に僅かな沈黙が流れた。
 僕はまた既読だけを残し、あえて何も送らず、道路を隔てた向こうにいる彼女の様子を伺った。

 駅へと向かう人の流れが、彼女の目の前を通るたびに、怯えたように後ずさる。
 誰かと通話しているのだろうか、スマートフォンに顔を近づけ、彼女の口元が、かすかに動いているように見えた。

 僕の返信を待たずに、彼女から続けてメッセージが届いた。
「ベージュのワンピースに、黒いリュックの女です」
 待ち合わせのために、自分の目印を送ってきた。肩まで伸びた黒髪、リュックにぶら下がっているクマのぬいぐるみ、僕は答え合わせをするように、彼女を改めて確認していく。
『あと、173センチあるので、でかいです(笑)』
 自嘲を交え、そうやってメッセージを締め括った。

 一ヶ月前、妻のスマートフォンを見たときに、僕の知らないSNSアカウントを見つけた。
 これまで、家族だからと言って、不躾にプライベートに踏み込むことはしてこなかった。妻には妻だけの世界があって、互いに詮索しないことが、長く続く夫婦の秘訣なのだと、十年の結婚生活の中で矜持のように思っていた。

 だがあの日は、妻のプライベートを覗き見ることに、ためらいも罪悪感もなかった。集中治療室に入った妻が、なぜ一人で死のうと決めたのか、どんな小さな痕跡を知りたかったのだ。

 タイムラインもDMの履歴も全て削除されていたが、妻が自殺を図った数時間後、新着のメッセージが一件届いていた。
 送り主はホタルの写真がアイコンになっているアカウントで、名前も「蛍」とだけ書かれていた。

「動画を共有してもいいと、先生から許可を頂きました」
 そう書かれたメッセージのすぐあとに、動画のリンクが送られてきた。
 妻が自殺未遂を図った理由が何か分かるかもしれないと思い、僕はリンクをコピーし、自分のパソコンから動画をダウンロードした。
 
 動画を再生すると、古い民家の寝室が映った。色褪せた襖、シールが剥がされた跡の残るカラーボックス、どこにでもある家、日常の風景そのものだ。

 部屋の中央に置かれたベッドには、初老の男性が腰掛けていた。息をするたびに、胸が上下し、掠れた嗚咽のような声が漏れる。呼吸すら苦しいという様子だった。
 
 ジャケットの男が紙コップに液体を注ぎ終えると、予め用意した文章を読み上げるような淡々とした口調で、初老の男性に語りかけた。
「この薬を飲むと、どのようなことが起きるか、あなたは理解していますか?」
 ジャケットの男がそう尋ねると、初老の男性は一呼吸置いたあと、虚空を見上げ、天井を仰ぎ見たまま、まばたきすらしなかった。

 その場にいる誰も声を出さず、部屋には不気味な静寂が流れ、外から車道を走る車の音が、かすかに聞こえるだけだった。
 初老の男性は紙コップを受け取り、応える。
「はい、この薬を飲めば、わたしは死にます」
 まるで、演劇のセリフを読み合わせるように、道筋をなぞりながら二人は話す。
 初老の男性が、コップの中身を一息に飲み干した。

 その様子を確認したジャケットの男は、初老の男性をベッドに寝かせたあと、部屋の隅にいた女性に目配せをした。
 その女性は動画越しでもはっきりと分かるほど、緊張した様子だったが、腕時計で時刻を確認し、小さく二度頷いた。
「2025年1月23日・・・」
 声がかすかに震え、裏返っていた。それでも女性は、最後まで日付と時刻を読み上げ続けた。

 そして、僕が動画を見終えたのを見計らったように、送り主からの新たなメッセージが届いた。
「あなたの願いも、いつか叶うことを祈っています」 
 そう、最後に添えられていた。

 その女性こそが、たった今、僕が待ち合わせをしている相手、「蛍」アイコンの彼女だった。

 「蛍」さんのタイムラインには、4時間前の投稿があった。
『長生きって言葉怖くないですか? もうとっくに映画の上映は終わってるのに、ずっと劇場に取り残されるみたいで』
 遡っても、同じような内容の投稿ばかりで、もっと直接的に「死にたい」という言葉も何度も残していた。

 蛍さんがどこの誰で、なぜ安楽死が行われている現場にいたのかは分からない。だが、タイムラインを見ると、彼女も国内で安楽死を受けることを切望していることは分かった。

 傘の影に隠れて気が付かなかったが、彼女の手元に白い棒のようなものが見えた。
 それが何なのか、何を意味するのか、気づいた瞬間、彼女の不自然な挙動の意味がようやく理解できた。
 彼女が手にしていたのは、街中で視覚障害者を見かけたときに目にする杖、白杖だった。

 これまで、メッセージのやり取りでも、彼女のタイムラインでも、視覚障害があるということは書かれていなかった、はずだ。

 しばらく考えた末、蛍さんにメッセージを送った。
『目の前に赤い看板の喫茶店が見えますか? 少し到着が遅れるので、そこに入って待っていてもらえませんか?』

 駅前に、赤い看板の店は一軒もない。だが、彼女が本当に一人で来ているのか、そして本当に目が見えていないのか、試すために嘘をついた。

 既読マークが表示される。
 だが、彼女は周囲を見回したり、誰かに助けを求める素振りはなく、ただその場から動かなかった。

 自分は酷く間違ったことをしているのではないかと気付き、息がうまく吸えない。それでも目は離せなかった。
 今は何も考えないように感情に蓋をして、ただ彼女の様子を観察した。

 すると、蛍さんは白杖で地面を探りながら、改札とは反対方向に迷いなく一直線に歩き出した。

 僕も慌てて、彼女の後を追う。
『駐車場が見つからず遅れました、あと5分以内に到着します』
 続けて、短い謝罪の言葉も送ったが、どちらも既読にはならない。10メートルほど前を歩く蛍さんは、スマートフォンを気にする様子もなく、ただ速足で歩き続けている。

 大通りにさしかかると、他の歩行者と同じように、彼女も信号の前で立ち止まった。
 午後6時、迎えの車やロータリーへと向かうバスなど、車通りの最も多い時間だ。彼女は車が巻き上げる風で、服がなびくほど、車道近くで立っている。

 その姿に、危うさを感じ、思わず息が止まってしまった。

 妻とのやり取りを発見したあと、僕も安楽死を希望する30代の男としてアカウントを作った。
 「蛍」さんとコンタクトを取り、何度かDMのやり取りを続けていくうちに、彼女は何度か自殺未遂をしたことを話してくれた。

 死のうと考え始めた頃、いつの間にか偶然に身を委ねるようになった、と言う。今日、星占いが悪ければ死のう、コンビニでお気に入りのスイーツがまだ売っていたら生きよう、そう思いながら綱渡りのように生きていたと、まるで他人事のように、淡々と教えてくれた。

『でも、いつも逃げ道を残していたと思うんですよね』
 家を出る時には、今日死のうと考えていたはずなのに、サブスクは解約せずそのままにしていた。食べ残した食事は、夜に食べるつもりでラップをかけて冷蔵庫に入れた。
『全部、綺麗に整理してしまうことが怖かったんだと思うんです。思い残すことなく、身辺整理をしてから、線路の脇に立つと、きっと後戻りが出来なくなっちゃう気がして』

 妻もそうだったのだろうか。本当は死ぬ気などなかったのに、思いがけない何かが重なって、引き返せなくなってしまったのだろうか。それとも、すべて計画通りだったのだろうか。

 仕事で帰りが遅くなったその日、妻は睡眠薬を飲んで、湯船に浸かったまま意識を失った。

 メッセージボックスを更新するが、やはり蛍さんからのメッセージもなく、既読にもならない。
もう一度、横断歩道へと目を向けた瞬間、彼女の背中がゆらゆらと縦になびいているように見えた。
 そして、吸い込まれるように重心が車道の方へと傾いた。
「蛍さん」
 どう呼べばいいか分からず、気付いた時にはアカウント名を叫んでいた。信号待ちをしていた数人が怪訝そうに振り返る。
 その中で、蛍さんだけが行き交う車に対峙するように、白線の縁に立って前を見据えていた。

「あの、すみません、蛍さんですよね?」
 駆け寄って、息を整える間も惜しく、そのままの勢いで声をかけた。返事はない。

 僕は、彼女の腕を掴んで、歩道へと引き戻した。周りの怪訝な目は、さらに険しくなっていたが、構わず車道から遠ざけた。

「大丈夫です、死のうとしてたとかじゃないです、今は」
 蛍さんはそう言い終えたあとに、ふと言葉の重みに気づいたように、急ぎ足で付け加えた。
「今はとかじゃないか。でもとにかく、大丈夫なんで」
 僕もようやく冷静になって、掴んでいた手を離した。

「駅前にファミレスがあるので、そこに入りませんか?」
 この場を収める言葉に迷い、とりあえず思いつくまま口にした。

 蛍さんは、手の平で顔を隠しながら、申し訳なさそうに頭を下げた。
 長い前髪で顔が隠れて、表情が読み取れない。それでも何かこちらの不安を掻き立てるような、沈んだ気配を漂わせていた。

「案内します」
 そう言うと、蛍さんは安堵したように、ゆっくりと頷き、僕の腕にそっと手を置いた。