旦那様が私を愛しているはずがない。完全無欠の公爵様が離縁しない理由

帝都に着き車を降りた旦那様が向かわれたのは、帝国中央銀行だった。銀行員といくつか言葉を交わすと、旦那様は私へ振り向く。
「すぐに戻る。君はここで待っていてくれ」
そう言い、旦那様は銀行員に奥の部屋へ通される。私は一人、銀行の壁際に立ち待つことに。
「すいません」
一人の若い紳士が私の元へやって来る。
「お尋ねしたいのですが、ここら辺に花屋はありますか?」
被っていた帽子を外し、若い紳士は私に言う。
「お花屋さんでしたら、この銀行を出て、呉服店を右に曲がったところにありますよ」
私の道案内に、若い紳士は安堵したような笑みを浮かべる。
「そうでしたか、いや、帝都はあまり来ないもので、広くて迷います」
「ふふっ、分かります」
賛同した私に、若い紳士は辺りを見回すと、また私を見る。
「もしよろしければ、この後お茶でもいかがですか?」
「え……? あっ、申し訳ありません。私は用事がありまして」
「そう言わず、ここで会えたのも何かの縁だ」
「いえ、本当に」
断る私をよそ、若い紳士は私の腕を掴み、強引に連れて行こうとする。
「離してください」
そう言い、腕を振り解こうとするが、私の力では抵抗できず、ずるずると引きずられてしまう。
(嫌……っ旦那様……!)
心の中でそう叫んだ時だった。後ろから片手が伸びてきて、若い紳士の腕をガシッと掴んだ。
「私の妻に、何かご用でしたか?」
「旦那様……」
間に割って入った旦那様に、若い紳士は掴んでいた私の腕を離す。旦那様は私の肩を掴むと、自分の胸に抱き寄せる。ふわりと、ムスクのような甘い香りが、私を包み込んだ。
旦那様を見上げた若い紳士は、有無を言わせない旦那様の圧力にたじろぐ。
「い、いえ。その、私は……」
そんな若い紳士を、旦那様は氷のように冷たい目で見下ろす。
(旦那様、なんだか怒っているみたい……)
「用がないのなら、私たちはこれで失礼します」
そう言い、旦那様は背を向けようとするが、何を思ったのか足を止める。
「ああ……一つだけ言っておきましょうか」
旦那様は背中を丸めると、若い紳士の耳元で呟く。
「二度と俺の妻に気安く触るな」
ドスの利いた声と、鋭い視線に、若い紳士は身を震えさせる。
旦那様は若い紳士を睨みつけながら背を向けると、私の肩を抱いたまま、今度こそ銀行を出た。
「申し訳ありません」
「……なぜ君が謝る?」
「私が不甲斐ないばかりに、旦那様にお手間を取らせてしまいましたので」
旦那様は足を止めると、深く息をつく。
「君は悪くない」
そう言うが、眉間に皺を寄せているあたり、旦那様はやはり怒っている。
「怒って、ますよね……」
「あの男が君に触れて、虫唾が走っただけだ」
「えっ……」
言葉通り、不快だったかのように旦那様は顔を険しくさせる。まるで、私のことが特別だとでも言っているようだ。
(……そんなはずはないのに)
「あの男とは、何を話していたんだ?」
「お花屋さんまでの道を聞かれました」
「道? はっ、よくあるお誘い手段だな。君もそんなのに騙されるとは」
そう、旦那様は吐き捨てるように言う。
「ですが、道に困っていたのは事実かもしれませんし、助けたいと思うのは、悪いことではありません」
私がそう言い返すと、旦那様は気に入らなさそうに眉を釣り上げ、私を見下ろす。
「……」
「……」
(喧嘩はしたくないわ)
「行きましょう。次はどちらへ__」
そう、私が歩き出そうとすると、グイッと腰を引き寄せられ、私は旦那様の腕の中へ。
「だ、旦那様……何を」
「君は俺の妻だろ? だったら、他の男のことなど考えるな」
耳に旦那様の熱い吐息がかかる。強まる抱擁とムスクの甘い香りが、私の心臓を激しく波打たせる。
(顔が、熱い……)
身を縮こまらせていると、腕がズキっと痛んだ。
「っ……」
顔を顰めた私を、旦那様は心配そうに覗き込む。
「……痛むのか?」
抱擁を解いた旦那様は、私の前に回り込む。
「大したことありません。すぐによくなります」
私は気丈に言ったが、旦那様にはお見通しだったようで。
「嘘を言うな。医者に見てもらったほうがいい。屋敷に戻って主治医を呼ぼう」
「いえ、私は平気です」
「いいから」
膝裏に腕を差し込まれたかと思うと、体が宙に浮く。私を横抱きにした旦那様は足早に歩く。
「だ、旦那様、下ろしてください……!!」
「大人しくしろ」
バタバタと体を動かす私にそう言うと、旦那様は私を車に乗せた。
屋敷に戻ると、連絡を受けていた主治医がすでに来ていた。リビングで診察を受けている間、旦那様は少しも私から目を離さなかった。主治医は旦那様からの圧を感じながら、水で濡らしたタオルで私の腕を冷やす。
「骨に異常もないですし、大丈夫でしょう。二、三日は痛むかもしれませんが、こうして冷やしていれば、問題ありませんよ」
主治医の言う通り、氷で冷やしたことで痛みも軽減され、楽になった。
「旦那様、私はもう大丈夫です」
壁に寄りかかっていた旦那様は、徐に壁から背中を離す。
「……そうですか。ありがとうございました」
旦那様がそう言うと、主治医はドアの側に控えていた梅津さんに見送られながら、リビングを出ていく。
「本当に大丈夫なのか」
旦那様はソファに座っている私の前にしゃがみ込み聞いてくる。
「はい、だいぶよくなりました」
「……あの男、許せないな」
そう言い、旦那様はサイドテーブルにある私の腕に片手を置く。
「もう一度あの男に会ったら、俺は何をするか分からない」
「そんな怖いこと言わないでください」
旦那様なら、本当に何かしかねないと思う。
私の片腕を心配そうに見る旦那様。こんな顔を見るのも、初めてだ。
「……知りませんでした。旦那様が過保護な方だったなんて」
あの男性から私を守るように間に割って入ったことも、こんな風に、私を見守ることがあることも、今までの旦那様からは想像もつかない。
「離縁の件だが、考え直してはもらえないだろうか」
目を伏せていた旦那様が、私を見る。
「これまで、君にとって俺は、良い夫ではなかっただろう。傷つけたことも分かっている。だが……それでも、俺には君が必要なんだ」
「旦那様……」
「もう一度、俺にチャンスをくれないか?」
この三年、私が使用人の嘲笑いや由香子さんからの嫌がらせに耐えられたのは、旦那様を愛しているからだ。始まりは政略結婚だったかもしれない。だが、私は初めて彼を目にしたその瞬間から、彼に恋をしていた。彼のブルー色の瞳も、穏やかだけど気高さのある低い声も、ゆっくりとポケットに手を入れる仕草も、全てが好きだった。
(……だからこそ、虚しかった)
私がどんなに彼を求めようとも、嘲笑いに耐えようとも、彼からの愛が返ってくることはなかった。だが、それが今、変わろうとしている。無関心だった旦那様が、私と向き合おうとしてくれている。
「旦那様、私は旦那様をお慕いしております。だからもし、もう一度、同じようなことになれば、私はこのお屋敷を去るでしょう」
「絶対にそうならないと約束する」
真っ直ぐに私を見つめる旦那様。
(傷つくのはもう嫌。嘲笑いにだって、耐えたくない。だけど、こんな思いをしてもなお、私は旦那様を愛している……)
だから信じたい。私が信じたい旦那様を。
私は自分の片腕に置かれた旦那様の手に、そっと自分の片手を乗せた。
「旦那様、離縁の件は白紙にしましょう」