執務室で事務作業に追われていると、ドアがノックされた。
「失礼いたします」
入ってきたのは梅津さんだった。梅津さんは両手に書類を抱え、こちらにやってくる。
「旦那様、追加の書類でございます」
「……これはまた、ずいぶんな量ですね」
デスクには、すでに書類の束がある。
「実業家の方々からすると、旦那様がお屋敷にお戻りになられた今が、事業を成功に導けるチャンスだと言ったところでしょうか」
梅津さんは誇らしげな笑みを浮かべながらそう言うと、書類をデスクに置く。デスクの上は書類の山ができた。
「上から緊急性が高い順に並べてあります」
「ありがとうございます。助かります」
「いえ、私は奥のお部屋をお借りして仕事をしておりますので、他に何かあれば、なんなんりとお申し付けください」
会釈した梅津さんは、併設している使用人用の執務室に入っていく。ドアが閉まると、俺はペンを置き、天井を見上げた。
一ヶ月そこらで、また基地に戻らなければいけない。やらなければならない仕事は他にもある。それなのに、俺の頭の中は彼女のことで埋め尽くされていた。
二年間に及ぶ海外での服務を終え、久しぶりに屋敷に戻ると、妻に離縁してほしいと言われた。一瞬、彼女が何を言ったのか理解ができず、呆然とした。顔には出ていなかったと思うが、全くの予想外の出来事に、内心、動揺してしまい、スーツを選べなどと意味の分からないことを言ってしまった。
聞き間違いかもしれないと思ったが、テーブルの上に置かれた離婚届を見た時、鈍器で頭を殴られたかのような強い衝撃が起きた。
自分で離婚届まで用意していた。それは単に、俺の多忙さを気遣ってのことだとも考えられるが、彼女の離婚に対する強い意志を感じた。
(一体、いつから離縁を考えていた?)
彼女との結婚は、一条院家の希望、俺の強い意志で取り付けたものだった。
__俺はあの日から、彼女だけを見ていた。
俺が彼女を知ったのは、今から三年前。ある華族が主催したパーティーでのことだった。
「お嬢様、おやめください!!」
庭園を歩いていると、使用人と思われる女が、木の上に向かって何やら焦った様子で叫んでいた。少し離れた位置で足を止めた俺は、その木を見上げた。するとそこには、黒髪の少女がいた。少女は着ていた着物を捲し上げ、華奢な足を見せながら、木の幹に抱きついていた。
(これはまた……随分とお転婆な娘だ)
少女が片手を伸ばす先には、怯えた様子の子猫がいた。どうやら、木に登って降りられなくなってしまったところを、あの少女が助けようとしているらしい。
(お淑やかに生きるよう教育されているはずの華族の娘が、木に登るとはな……)
変わった娘。それが、彼女の第一印象だった。
(だが、見応えがありそうだな)
面白そうだったので、俺はその様子を見学させてもらうことにした。
少女の母親はパニックになり、今にでも失神してしまいそうな勢いだ。そんな心配をよそに、少女は必死に子猫へと片手を伸ばす。そして、子猫を片手で掴むことに成功すると、華奢な足を木の幹に巻き付け上体を起こした。
「大丈夫。もう大丈夫だから」
怯える子猫を安心させるようにそう言いながら、少女は宝物のように、そっと子猫を引き寄せ、胸に抱いた。
「ほら、言ったでしょ?」
そう言い、ヘラっと笑う少女に、子猫は返事をするように、「ミャー」と泣いた。危ない橋を渡っている少女に、周りは行きた心地がしないだろうに、当の本人は楽しんでいる。
「ふふふっ、良い子ね」
愛しむように猫を頬に寄せる少女。弾けるように明るいその無邪気な笑顔が、なぜか俺の胸に焼き付いた。
それから少しして、お母様にある子爵家の話をされた。イギリス人だった俺のお父様は、日本に来て間もない頃、言葉も分からず仕事もなく困っていたところを、彼女のお父様である現美園家当主が助けてくれたのだという。美園家当主のおかげでお父様は日本で事業に成功し、当時一条院家の公爵令嬢であったお母様と巡り合い結婚。その後、一条院家の当主となり、俺が生まれた。一条院家の今があるのは、美園家のおかげだということだ。
「美園家には、気前の良い素敵なお嬢さんがいるんだけど会ってみない?」
お母様がその令嬢と俺を結婚させたがっているのは分かっていたが、俺の心の片隅には、あの少女がいた。理由は分からないが、俺はあの少女に強い興味を持っていた。だが、恩がある美園家を無碍にはできなかった。
(俺は一条院家の当主として、義務を果たすべきだ)
「はい、お会いしたいです」
だから、俺はお母様の話を承諾した。そして、数週間後、俺は美園邸を訪れた。
「はじめまして公爵様、美園子爵令嬢の美園文乃と申します」
そう言い、お淑やかな少女が、俺に綺麗な一礼をする。何という運命の巡り合わせなのかと思った。そこにいたのは、あの少女だったのだ。あのとき見たお転婆な姿とは違い、少女は松竹梅の豪華な着物に身を包み、化粧をしていたが、俺には分かった。
よく見ると、顔も可愛かった。日本人特有の丸顔に、奥二重の目。鼻筋は控えめで、肌は白く、艶のある美しい黒髪。全体的に優しい顔立ちをしている印象だ。
(フッ……こんな淑女が、あんな活発な少女だとは、誰も思わないだろうな)
正座をしていた彼女は足が痺れてきたのか、だんだんと顔を顰める。唇を二の字にし、頑張って耐えている姿が、なんだか可愛らしかった。今まで幾度となく女を目の前にしてきたが、感情を動かされたのは、初めてだった。お母様には、彼女が女学院を卒業し、俺が将校としてのキャリアを積んだ後の結婚でも遅くはないと言われたが、それでは彼女の気が変わってしまうかもしれないと思った。だから、正式に将校となる前に、彼女と結婚した。誰かに彼女を取られるのが、嫌だったんだと思う。数ヶ月後に行われた結婚式の日、白無垢姿の彼女を見て、今までに感じたことのない感情を持った。胸の奥底から湧き上がるこの気持ちが何なのか、俺には分からない。ただ、彼女を大切にしたいと思った。
(……それなのに)
あのお茶会の日、彼女は言った。俺に嫌われているのでは__と。そんな風に思っているとは知らず、俺は彼女が離縁を申し出た理由は何なのかと考えていた。
(否定したらあの驚きよう……本当に俺に嫌われていると思っていたんだな)
結婚して三年、寝室は別で、二人で出かけるのも社交での場だけだった。会話も必要最低限で、彼女のプライベートには触れなかった。風に身を委ね自由を愛する十六歳の少女が、公爵邸という厳粛な場で女主人として過ごすだけでも荷が重いだろうと言うのに、妻としての責務を果たせやら、子供を産めなど、あまりにも酷な話だと思った。だから、彼女が大人になるのを待つことした。
もとあと言えば、俺の都合で早めた結婚。彼女は俺としたくて結婚したわけではない。家のために俺と結婚した。
全ては彼女のためだった。だが、それが逆に誤解を与えてしまっていたのなら? だったら、存在自体を無視しているように思えた。なんてことを思わせてしまうことになりうるのかもしれない。
外から物音が聞こえ、俺は椅子から腰を上げた。窓に近づくと、彼女が自動車に乗り込む姿が見えた。
(確か、今日は婦人会のバザーだと言っていたな)
デスクに置いてあるベルを軽く鳴らす。すぐに梅津さんが使用人用の執務室から出てくる。
「お呼びでしょうか、旦那様」
「梅津さん、今日中に目を通さないといけない書類は、ここにあるので全部ですか?」
「はい」
自動車が発車するのを見送ると、デスクの椅子に座る。
「午後はバザーに行きます」
「え? ですが、この書類を午前中に終わらせるのは……」
梅津さんは、デスクの上に置かれた書類の山を見て言う。
「可能です」
そう言うと、ペンを取った俺は目にも止まらぬ速さで書類に目を通し、片付けていく。その光景を、梅津さんはポカーンとした様子で見ていた。
「失礼いたします」
入ってきたのは梅津さんだった。梅津さんは両手に書類を抱え、こちらにやってくる。
「旦那様、追加の書類でございます」
「……これはまた、ずいぶんな量ですね」
デスクには、すでに書類の束がある。
「実業家の方々からすると、旦那様がお屋敷にお戻りになられた今が、事業を成功に導けるチャンスだと言ったところでしょうか」
梅津さんは誇らしげな笑みを浮かべながらそう言うと、書類をデスクに置く。デスクの上は書類の山ができた。
「上から緊急性が高い順に並べてあります」
「ありがとうございます。助かります」
「いえ、私は奥のお部屋をお借りして仕事をしておりますので、他に何かあれば、なんなんりとお申し付けください」
会釈した梅津さんは、併設している使用人用の執務室に入っていく。ドアが閉まると、俺はペンを置き、天井を見上げた。
一ヶ月そこらで、また基地に戻らなければいけない。やらなければならない仕事は他にもある。それなのに、俺の頭の中は彼女のことで埋め尽くされていた。
二年間に及ぶ海外での服務を終え、久しぶりに屋敷に戻ると、妻に離縁してほしいと言われた。一瞬、彼女が何を言ったのか理解ができず、呆然とした。顔には出ていなかったと思うが、全くの予想外の出来事に、内心、動揺してしまい、スーツを選べなどと意味の分からないことを言ってしまった。
聞き間違いかもしれないと思ったが、テーブルの上に置かれた離婚届を見た時、鈍器で頭を殴られたかのような強い衝撃が起きた。
自分で離婚届まで用意していた。それは単に、俺の多忙さを気遣ってのことだとも考えられるが、彼女の離婚に対する強い意志を感じた。
(一体、いつから離縁を考えていた?)
彼女との結婚は、一条院家の希望、俺の強い意志で取り付けたものだった。
__俺はあの日から、彼女だけを見ていた。
俺が彼女を知ったのは、今から三年前。ある華族が主催したパーティーでのことだった。
「お嬢様、おやめください!!」
庭園を歩いていると、使用人と思われる女が、木の上に向かって何やら焦った様子で叫んでいた。少し離れた位置で足を止めた俺は、その木を見上げた。するとそこには、黒髪の少女がいた。少女は着ていた着物を捲し上げ、華奢な足を見せながら、木の幹に抱きついていた。
(これはまた……随分とお転婆な娘だ)
少女が片手を伸ばす先には、怯えた様子の子猫がいた。どうやら、木に登って降りられなくなってしまったところを、あの少女が助けようとしているらしい。
(お淑やかに生きるよう教育されているはずの華族の娘が、木に登るとはな……)
変わった娘。それが、彼女の第一印象だった。
(だが、見応えがありそうだな)
面白そうだったので、俺はその様子を見学させてもらうことにした。
少女の母親はパニックになり、今にでも失神してしまいそうな勢いだ。そんな心配をよそに、少女は必死に子猫へと片手を伸ばす。そして、子猫を片手で掴むことに成功すると、華奢な足を木の幹に巻き付け上体を起こした。
「大丈夫。もう大丈夫だから」
怯える子猫を安心させるようにそう言いながら、少女は宝物のように、そっと子猫を引き寄せ、胸に抱いた。
「ほら、言ったでしょ?」
そう言い、ヘラっと笑う少女に、子猫は返事をするように、「ミャー」と泣いた。危ない橋を渡っている少女に、周りは行きた心地がしないだろうに、当の本人は楽しんでいる。
「ふふふっ、良い子ね」
愛しむように猫を頬に寄せる少女。弾けるように明るいその無邪気な笑顔が、なぜか俺の胸に焼き付いた。
それから少しして、お母様にある子爵家の話をされた。イギリス人だった俺のお父様は、日本に来て間もない頃、言葉も分からず仕事もなく困っていたところを、彼女のお父様である現美園家当主が助けてくれたのだという。美園家当主のおかげでお父様は日本で事業に成功し、当時一条院家の公爵令嬢であったお母様と巡り合い結婚。その後、一条院家の当主となり、俺が生まれた。一条院家の今があるのは、美園家のおかげだということだ。
「美園家には、気前の良い素敵なお嬢さんがいるんだけど会ってみない?」
お母様がその令嬢と俺を結婚させたがっているのは分かっていたが、俺の心の片隅には、あの少女がいた。理由は分からないが、俺はあの少女に強い興味を持っていた。だが、恩がある美園家を無碍にはできなかった。
(俺は一条院家の当主として、義務を果たすべきだ)
「はい、お会いしたいです」
だから、俺はお母様の話を承諾した。そして、数週間後、俺は美園邸を訪れた。
「はじめまして公爵様、美園子爵令嬢の美園文乃と申します」
そう言い、お淑やかな少女が、俺に綺麗な一礼をする。何という運命の巡り合わせなのかと思った。そこにいたのは、あの少女だったのだ。あのとき見たお転婆な姿とは違い、少女は松竹梅の豪華な着物に身を包み、化粧をしていたが、俺には分かった。
よく見ると、顔も可愛かった。日本人特有の丸顔に、奥二重の目。鼻筋は控えめで、肌は白く、艶のある美しい黒髪。全体的に優しい顔立ちをしている印象だ。
(フッ……こんな淑女が、あんな活発な少女だとは、誰も思わないだろうな)
正座をしていた彼女は足が痺れてきたのか、だんだんと顔を顰める。唇を二の字にし、頑張って耐えている姿が、なんだか可愛らしかった。今まで幾度となく女を目の前にしてきたが、感情を動かされたのは、初めてだった。お母様には、彼女が女学院を卒業し、俺が将校としてのキャリアを積んだ後の結婚でも遅くはないと言われたが、それでは彼女の気が変わってしまうかもしれないと思った。だから、正式に将校となる前に、彼女と結婚した。誰かに彼女を取られるのが、嫌だったんだと思う。数ヶ月後に行われた結婚式の日、白無垢姿の彼女を見て、今までに感じたことのない感情を持った。胸の奥底から湧き上がるこの気持ちが何なのか、俺には分からない。ただ、彼女を大切にしたいと思った。
(……それなのに)
あのお茶会の日、彼女は言った。俺に嫌われているのでは__と。そんな風に思っているとは知らず、俺は彼女が離縁を申し出た理由は何なのかと考えていた。
(否定したらあの驚きよう……本当に俺に嫌われていると思っていたんだな)
結婚して三年、寝室は別で、二人で出かけるのも社交での場だけだった。会話も必要最低限で、彼女のプライベートには触れなかった。風に身を委ね自由を愛する十六歳の少女が、公爵邸という厳粛な場で女主人として過ごすだけでも荷が重いだろうと言うのに、妻としての責務を果たせやら、子供を産めなど、あまりにも酷な話だと思った。だから、彼女が大人になるのを待つことした。
もとあと言えば、俺の都合で早めた結婚。彼女は俺としたくて結婚したわけではない。家のために俺と結婚した。
全ては彼女のためだった。だが、それが逆に誤解を与えてしまっていたのなら? だったら、存在自体を無視しているように思えた。なんてことを思わせてしまうことになりうるのかもしれない。
外から物音が聞こえ、俺は椅子から腰を上げた。窓に近づくと、彼女が自動車に乗り込む姿が見えた。
(確か、今日は婦人会のバザーだと言っていたな)
デスクに置いてあるベルを軽く鳴らす。すぐに梅津さんが使用人用の執務室から出てくる。
「お呼びでしょうか、旦那様」
「梅津さん、今日中に目を通さないといけない書類は、ここにあるので全部ですか?」
「はい」
自動車が発車するのを見送ると、デスクの椅子に座る。
「午後はバザーに行きます」
「え? ですが、この書類を午前中に終わらせるのは……」
梅津さんは、デスクの上に置かれた書類の山を見て言う。
「可能です」
そう言うと、ペンを取った俺は目にも止まらぬ速さで書類に目を通し、片付けていく。その光景を、梅津さんはポカーンとした様子で見ていた。


