旦那様が私を愛しているはずがない。完全無欠の公爵様が離縁しない理由

翌日、私は春のお茶会に参加するため、旦那様と二人、帝国第一ホテルへ赴こうとしていた。
(これは……)
玄関を出た私は驚いた。目の前に、銀色の自動車が停まっていたから。自動車の後部座席には、すでに旦那様の姿がある。
「おはようございます。若奥様」
ドアの前に立っていたメガネをかけた男性が私に言う。どうやら、男性がこの自動車の運転手のようだ。
「おはようございます」
挨拶を返した私に微笑みながら、運転手の男性は私に片手を差し出す。私は運転手の男性に軽く会釈をすると、彼の手を借り、車に乗り込んだ。
すぐに運転手の男性が前の座席に乗り込み、車が発車する。車内は天井が高く、窓もないことで開放感があった。何より驚いたのは、走行中の静粛性に優れていたことだ。
(これなら快適に過ごせそう)
初めての自動車に内心わくわくする私の隣、旦那様は組んだ足の上に置いた書類に目を通している。移動時間も仕事に費やすなんて、目が回るくらいの仕事量があるのか。それとも、単に私との時間が退屈なのか。
「自動車に乗るのは初めてか」
書類に視線を落としたまま、旦那様は私に聞く。
「はい、初めてです」
子爵邸にいた時も、私は馬車を使っていた。自動車の輸入が進んでいるとはいえ、こんな高級車に乗れるのは、華族の中でも公爵という特権階級にいる旦那様だからこそだろう。
(移り変わる景色は早いけど、風が心地良い……)
私は風が好きだ。子爵邸にいる時は、毎日のように乗馬をしていた。まだ小さかった頃、お父様が私の誕生日に家族に迎え入れてくれた馬のブラウニーは、私の相棒で親友だ。見知った華族達に会う社交の場より、彼に乗って森を走り風を切るのが、何よりも楽しかった。お嫁に行くのに、ブラウニーとは離れ離れになってしまい、乗馬はしばらくしていない。
(あの子は元気かしら……)
私はブラウニーのことを思いながら、目を閉じ風を感じていた。
「気に入ったのなら、今度からこの車を使うといい」
目を開けた私は、旦那様を見る。
「えっ……よろしいのですか?」
私の問いに、旦那様は私を見て頷く。
「自動車は屋敷においていく。運転は森に頼め」
運転席に座っていたメガネをかけた男性、森さんは、ミラー越しに私に穏やかな笑みを浮かべてくる。
私は書類に目を通す旦那様を横目で盗み見た。
(昨日のスーツの件と言い、今回は戻られてからの言動がよく分からない)
書類には、旦那様の滑らかで美しい直筆のサインが書かれる。
(離婚届も、いまだにサインしてくれていないようだし……サインなんて、こうやってすぐに終わるのに、どうしてしてくれないのかしら)
ふと、私の視線に気づいた旦那様が、書類から顔を上げ私を見る。ブルー色の瞳が、じっと私を見る。その視線に、私はパッと目を逸らし俯く。
「……その着物」
旦那様の呟きに、私はゆっくりと顔を上げ、俯きがちに旦那様を見る。旦那様の視線は、私が着る着物にあった。
「はい、春らしく、桜のお着物にしてみました」
淡いピンクの着物には、金銀の刺繍が施され、彩豊かな豪華な桜の花が散りばめられている。春の訪れを象徴する縁起の良い吉祥模様の桜は、気品さと華やかさを兼ね備え、今日のお茶会にぴったりだと思った。
「いいんじゃないか」
「え??」
聞き間違えたのかと思った。旦那様が、私を褒めるはずがないから。
「いつも着ている深みのある色も良いが、君には、そういう淡い色の方が似合っている」
「……あ、ありがとうございます……」
奇妙とも感じる旦那様の言動に、私は一人首を捻った。
(やっぱり変だわ……)
そもそも、旦那様はこんなにお話しをする方ではなかった。
(何かおかしな物でも口にしたのかしら)
車は帝国第一ホテルの敷地内にある庭園で止まる。先に車を降りた旦那様が私に片手を差し出す。私は旦那様の手を取ると車を降りた。ホテルの庭園には、何本もの桜の木が埋められていて、この季節になると、毎年見事に咲き誇っている。今年も美しい桜の花びらが、また一枚、一枚と春風に乗り空に舞う。美しい桜吹雪に見入っていると、隣に立っている旦那様に腕を差し出される。私が旦那様の腕を取ると、二人で辺り一面に広がる芝生の上を歩き出した。すぐ周りにいる人たちの視線が注がれる。旦那様はいつどこに行っても、注目の的。神秘的な容姿は物珍しいだろうし、高い身長に、スラリとした長い手足。気品ある優雅な身のこなしは、骨の髄まで染み込んでいるかのようだ。そんな旦那様を見れば、どんな貴婦人も息を呑むだろう。
「湊さん」
蜜のように甘い声が旦那様の名を呼ぶ。声の先にいたのは、紺青色の上品な着物に身を包んだ、スタイルの良い綺麗な女性。侯爵令嬢の東條由香子さんだ。由香子さんは赤い紅が刺された唇に上品な笑みを浮かべながら、旦那様の元へやって来る。
「……由香子さん」
「お戻りになられたのですね」
「ええ、昨日戻りました」
由香子さんは旦那様に微笑むと、私に目を向ける。
「文乃さん、お久しぶりですね」
「はい、お久しぶりでございます。由香子さん」
由香子さんは私を品定めするように上から下までじっと見てくると、「フッ」鼻で笑い、唇の端を釣り上げ、蔑んだ目で私を見る。その目で分かる。華やかな自分に、あなたは劣っていると言いたいのだろう。
「そうだわ、湊さん。この間……」
すぐに旦那様に視線を戻した由香子さんは、さりげなく旦那様の腕に触れながら、その蜜のように甘い声で会話をする。私は早々に一人蚊帳の外だ。由香子さんは、私を心底嫌悪している。それは、由香子さんが旦那様の妻候補の一人だった方で、今でも旦那様に想いを寄せているから。彼女にとって、私は邪魔者なのだ。だが、こうもあからさまに態度に出してくるのは、彼女も知っているから。私が旦那様に愛されない、お飾りの妻だということを。由香子さんと旦那様はご親戚で、お二人は幼少期からの仲。由香子さんのお父様と旦那様は仕事での関わり合いも深く、パーティーなどでうちの屋敷を訪れることもあった。その際、由香子さんは花江と親しくなった。
クスクスと馬鹿にするような声が聞こえ、由香子さんの後ろに目を向けると、少し離れた位置で、三人の令嬢が私を見て、コソコソと会話をしている。由香子さんの取り巻きたちだ。蚊帳の外のされる私を見て、三人は良い気味だと言うように、私に蔑みの笑みを浮かべている。
「見てよあれ」
「相変わらず公爵様に相手にされてないって感じ?」
「哀れよねー」
(……)
陰湿な嫌がらせにも、いつもただ耐えるしかない。私が騒ぎ立てれば、旦那様の顔に泥を塗ることになる。一条院の家門を傷つけるようなことはしたくない。だから私は息を押し殺し、人形のように立っていた。早くこの時間が過ぎ去るようにと、願いながら。
「では、また後ほど」
どのくらいの時間が経ったかは分からない。そう言って由香子さんが去っていくと、私は再び旦那様の腕を取り、芝生の上を歩き出した。芝生の上には、白いレースのテーブルクロスが敷かれた、高質な木製の楕円形テーブルがいくつも並んでいる。私と旦那様はホテルの従業員に案内され、並んで椅子に腰を下ろした。
終始和やかな雰囲気で進んだお茶会は、桜を見ながら和菓子をいただき、日本の伝統的な抹茶、爽やかな香りと程よい渋みのある煎茶。春にぴったりで縁起に良いとされる桜茶を楽しんだ。
「そういえば、公爵夫人、この間いただいたハンカチ、娘がとても喜んでいましたわ」
話を振ってくれたのは、正面に座っていた伯爵夫人の明菜さんだ。三つ年上の明菜さんは、私が会長を務める婦人会のメンバーで、彼女には三歳になる娘さんがいる。私は以前、その娘さんに刺繍のハンカチをプレゼントしたのだ。
「気に入っていただけて何よりです」
「私も公爵夫人のような立派な淑女になりたいと言って。あの子、公爵夫人を敬愛しています。もちろん、私も」
「嬉しい限りです」
「今度、母校でバザーをすると妻から聞きました」
明菜さんの隣に座っていた伯爵が私にそう言う。
「ええ、そうなんです。婦人会でバザーをするのは初めてのことなので、私もとても楽しみにしています」
「バザー……?」
私たちの話を聞いていた旦那様は、疑問げに言う。そんな旦那様に、明菜さんは私を見る。
「あっ……」
(そうだった。バザーをすること、まだ旦那様にお伝えしていなかった)
お茶会に参加するんだから、こういう話が出るのは予想ができていたはずなのに、頭の中が離縁のことばかりで、大事な連絡をするのをすっかり忘れていた。
明菜さんは不思議そうに私と旦那様を見ている。伯爵も戸惑った様子だ。
(どうにか誤魔化さないと。でも、どうやって……)
本当のことを言えるわけがない。私たち夫婦の間には、自然と互いの出来事を話す日常がないなんて。
「実は、私は昨日この地に戻ってきたばかりでして、妻ともまだゆっくり話ができていないんです」
旦那様のその言葉に、伯爵と明菜さんは納得した様子で顔を見合わせる。
「公爵様は、将校としてのお役目がありますからね」
「ええ、大変光栄なことに」
笑みを浮かべそう言う伯爵に、旦那様も笑みを浮かべ返す。
旦那様のフォローに、私は密かに胸を撫で下ろした。
(よかった……怪しまれていない)
横目で旦那様を見ると、旦那様は私と違って、少しも動揺することなく、優雅にお茶を飲んでいる。
(旦那様って、こういうことをさらとできちゃう方なのよね)
湯呑みを茶托に乗せた旦那様が私を見る。
「バザーをするのか」
「はい、社会貢献活動の一環でして、母校の女学院で行う予定です」
各自、手作りの手芸品などを持ち寄り売る。売上金は全て、貴婦人教育の資金とされることになっている。
「そうか、それは良いことだ。私に何かできることがあれば、いつでも言ってくれ。君の助けになりたい」
「はい、ありがとうございます。旦那様がいてくだされば、とても心強いです」
私たちのやりとりに、伯爵と明菜さんは微笑む。
「お二人は本当に仲がよろしいですわよね。私たちはよく喧嘩をしてしまいますの。この間も」
「よさないか、明菜。そんなこと、お二人の前で話すことでないだろ?」
「でも、あなたが」
可愛らしくムスッとする明菜さん。そんな明菜さんを伯爵は優しく宥める。
仲が良いのはお二人の方だ。旦那様が私に関心を示し、優しい言葉をかけるのは、こうした公の場でのみ。それも本当に関心があるのではなく、公爵として、夫として周りが望む姿を演じているだけ。だから私も同じように返す。公爵夫人として、周りが望む、旦那様がお求めになってる姿を。
(私は二人の時でさえも、名前で呼ばれたこともなければ、喧嘩だって、一度もしたことがない。……第一、私の名前なんて、覚えてもいないかもしれない)
こんな私たちを知ったら、伯爵たちは言葉を失うだろう。そんなことを思いながら、私が一人心の中で自嘲していると、ホテルの従業員が旦那様に耳打ちをする。
「申し訳ありません。少し席を外します」
そう言い、旦那様は立ち上がると、私を一瞥し、テーブルを離れる。
(仕事でトラブルでも起きたのかしら……)