⚓︎ ⚓︎ ⚓︎
時は大正、西洋文化が定着しはじめた日本は、和と洋が融合した華やかでモダンな文化が開花した。そんな時代の中、子爵令嬢である私、美園文乃は、公爵家の当主、一条院湊様の元へ嫁いで早三年。夫婦関係は冷え切っていた。
自室に戻った私はベッドに腰掛けると、大きくため息をつく。
「ハァ……」
心休まる場所であってほしかった公爵邸は、使用人達からの嘲笑いが絶えず、心がいくつあったとしてもすり減っていく。
ふと、棚の上に置いてある写真が目に留まった。腰を上げた私は棚の前に立つと写真を手に取る。写真には、白無垢に身を包み、緊張した面持ちで椅子に腰を下ろす私がいる。その隣には、軍服を着た旦那様が立っている。その顔は、ニコリともしていない。無表情だ。恋愛結婚なんていうものだったら、この写真も少しはまともになっていたのだろうか。
私と旦那様の結婚は、華族の血筋と地位を守るためにされた、政略結婚だった。それは何も珍しいことなどではない。私たち華族は帝を支え、この国を守る責務がある。その責務を果たすために、同じ華族で血族を増やし、互いの家門を盤石にする。子爵令嬢として生まれた私にも、その責務がある。
いつかは華族の男性と結婚するのだと思っていた。でもまさか、それが公爵家の嫡男とは思いもしなかった。
三年前のあの時は驚いた。公爵家の一条院家から結婚を申し込まれるとは、夢にも思っていなかったから。
私のお父様と旦那様のご両親は、古い知人らしく、その繋がりで私たちは出会った。華族と言っても、美園家が持つ子爵という爵位は最下位。そんな美園家と、公爵という最高位の爵位を持つ一条院家との結婚は、美園家にとって願ってもない機会。美園家の家門を今以上に盤石にし、家を存続させるには、私がこの結婚を断るわけにはいかなかった。
(女は家の財産。結婚に、私の意思は関係ない。それでも、子供だったあの頃の私は、夢を見ていた……)
当時、私は十六歳。女学院の高等部に進学が決まっていた。旦那様は五つ上の二十一歳、海軍兵学校ご卒業されたばかりだった。タイミング的には少し早い気もしたが、一条院家の希望もあり、私たちは結婚した。だから私は期待してしまったのだ。旦那様が私を愛してくれるかもしれないと。
結婚式の日の夜、つまりは初夜、旦那様は私を抱かなかった。翌日、広い寝室で一人目を覚ました私を見た使用人により、そのことは瞬く間に屋敷に広まった。何もなかった初夜の数日後には、旦那様は将校としての任を全うするため船艦に乗った。そして次にお会いしたのは、半年後の夏のことだった。私は今度こそ初夜があると思っていた。だが私がいくら待てど、旦那様は寝室に現れなかった。旦那様が私を抱いたことは、今現在に至って一度もない。
結婚してすぐの頃は、ただお仕事がお忙しいだけだと思っていた。家業のこともあるし、屋敷に戻られても、忙しくて私と一緒に過ごす時間は作れない。疲れているから、私が待つ寝室ではなく、自室で眠り、会話も最低限で、業務連絡のように淡々としているのも仕方のないことだと。使用人が思うように、決して私を顧みていないわけではない。そう思っていた。でも、結婚して一年も経つと、嫌でも思わずにはいられなかった。彼は私を愛する気など、はなからなかったのだと__。悲しい気持ちよりも、虚しさの方が大きかった。それは使用人からの嘲笑いにより、溝のように大きくなっていった。
(私が馬鹿だったんだ。政略結婚でも愛が芽生えるかもしれないと思った、私が……)
私はもう、限界だった。
春の恒例行事であるお茶会を明日に控えた今日、海外での服務を終えた旦那様が、二年ぶりにこの屋敷に戻られる。私はずっと、この日を待っていた。
写真を棚の上に戻したところで、コン、コン、コン、と、ドアが丁寧に三回ノックされる。
「はい」
私が返事をすると、入って来たのは美弥だった。
「失礼いたします。奥様、旦那様がお戻りになられました」
ついにこの時が来た。
「分かったわ」
私はこの日のために用意した書類を引き出しの中から取り出すと、着物の懐に入れる。
今日、私は三年間の夫婦生活に終止符を打つ。
「……あ、あの奥様。先ほどは、誠に申し訳ございませんでした」
神妙な面持ちで謝ってくる美弥に、私は明るく言う。
「いいのよ。それより、あなた年はいくつ?」
「十六になります」
「十六……」
若く初々しい美弥に、私は嫁いできた頃の自分が重なった。
私はバッグをから丸い入れ物を取り出すと、美弥に差し出す。
「これ、よかったら使って。婦人会で仲の良い伯爵夫人がいらっしゃるんだけど、ご主人が化粧品会社を経営されている方で、今度発売されるクリームの試供品をいただいたの」
いくつかもらったので、その一つを美弥にあげることにした。
「あ、ありがとうございます。その……お気持ちは大変嬉しいのですが、女中ごときの私が、奥様からいただけません」
そう言って、美弥はハッとし、またしまったというような顔をする。
「も、申し訳ありません……! 奥様からのお気持ちを無碍にするようなことを言ってしまい」
深々と頭を下げる美弥。焦りと、少しの怯えを感じる。
(この子は、息をするかのように謝る。花江さんや蘭子さんからのあの扱いが原因なのかしら)
「大丈夫だから、頭を上げて。ね……?」
美弥は迷うような動作をしながら、ゆっくりと頭を上げ、私を見た。
「うん、それでいいわ」
私は美弥に微笑むと、美弥の片手を取りクリームを渡す。
「これを塗れば、少しはそのあかぎれも良くなると思うの。もしよければ、このクリームの感想を聞かせて。あなたの意見があれば、伯爵夫人も喜ぶわ」
美弥は手の中にあるクリームを見つめると、両手で包み込むように握る。
「ありがとうございます……」
お礼を言う美弥に頷くと、私は自室を出た。
旦那様の自室へと続く廊下が異様に長く感じる。近づくほどに大きくなる胸の音は、久しぶりに夫に会うことへの緊張かなのか、それとも、これから感じるであろう虚しさへの警告音なのか。何にせよ、この夫婦関係が終われば、全てどうでもよくなる。
旦那様の自室の前に立った私は、何度か深呼吸をする。そして、ドアをしっかりめに三回ノックした。
「入れ」
すぐに中から声が聞こえ、私はドアを開け部屋に入る。ドアを閉めると、丁寧に腰を折り曲げ、一礼する。
「失礼いたします」
そう言い、顔を上げると、執事の梅津さんがいることに気づく。梅津さんは私に一礼すると、旦那様が脱いだ軍服のジャケットを受け取り、ハンガーラックにかける。
私は今一度背筋を伸ばし、公爵夫人としての威厳を見せる。
「おかえりなさいませ旦那様。ご無事で戻られたこと、何よりの悦びでございます」
敬意をもちそう口にした私へ、背の高い体格の良い男が振り向く。細く切れ長の二重の目に、高く筋の通った鼻。少しクセのある暗いミルクティー色の髪は、軍人らしく耳が出るように短く切り揃えられ、前髪は七三分けで掻き上げるようにセットされている。この彫刻品のように美しい男が、私の夫である一条院湊だ。
「……」
旦那様はじっと私を見据える。旦那様の瞳は、空のように澄み渡る美しいブルー色をしている。不覚にも、私はこの瞳に胸をときめかせてしまう。だが、この瞳が優しく私を見つめることはない。その瞳が、より一層、私を惨めにさせているのが現実だ。
私から視線を外した旦那様はソファに腰を下ろすと、すぐに梅津さんと仕事の話を始める。すでに私の存在を忘れているのか、旦那様はそれからちらりとも私を見ることをしない。その姿に、特に驚くこともしない。これが私の夫だ。私に無関心で、まるでいないかのように扱う。空気の方が、まだ必要とされているだろう。だが、もうこの虚しさが増えることはない。私はいたたまれない気持ちになりながらも、自分を奮い立たせる。
「旦那様、お話があります」
私がそう言うと、書類から顔を上げた旦那様は書類にサインすると、梅津さんにファイルを渡し言う。
「今から帝都に視察に行きます。十分後に車を待機させて下さい」
梅津さんは「え?」というような顔をすると、ちらりと私を見る。私たちの様子を伺うように、梅津さんは旦那様に頷く。
「……かしこまりました」
旦那様と私に向かって一礼すると、梅津さんは部屋を出ていく。二人きりになると、急に部屋の中が狭く感じた。
旦那様は立ち上がると、クローゼットからスーツを選び始める。
(ついに話すらもしてもらえないっていうの……?)
あまりにも酷い扱いに、私は泣きたくなる気持ちをグッと堪える。
(これだけは聞いてもらえないといけない)
「……あの、旦那さ__」
「それで……? 話とはなんだ」
無視されるのかと思ったが、聞いてくれるようだ。
私は意を決した。
「旦那様、離縁して下さい」
私の言葉に、スーツを選んでいた旦那様の手が、ピタリと止まる。シーンとする部屋の中。数秒、旦那様は石のように動かなくなると、また手を動かし始める。
「どれがいい?」
「……はい?」
「スーツ、どれがいいかと聞いているんだ」
私はポカーンとしてしまった。
(聞こえてたわよね……??)
旦那様は私を見ると、顎でスーツを示す。
(……こっちに来て選べってこと?)
迷ったが、ここはとりあえず言うことを聞いておくとして、私は旦那様の隣に立つ。クローゼットの中には、仕立ての良い高級なスーツが、ハンガーにかけられてずらりと並んでいる。
(帝都に行くんだったら、少し華やかな感じの方がいいかしら。でも、視察だから、フォーマルさはあったほうが良いわよね)
頭を捻る私を、旦那様はじっと見てくる。
(……いつも思うけど、なんでこんなじっと見てくるのかしら)
悩んだ末、私は薄いベージュ色のスーツを手に取り、旦那様にお見せした。
「こちらはいかがでしょうか」
旦那様はちらりとだけスーツを見ると、私を見下ろす。
「あと、シャツにベスト、ネクタイも必要じゃないか……?」
そう言い、旦那様は私の手からスーツを取る。
「このスーツとセットのものをお召しになると良いかと」
「いいから選んでみろ」
命令口調の旦那様。
(なんでそこまで私に……)
不満と疑問が生まれるも、私は早く離縁を進めるために、ここも言われた通りすることにした。クローゼットの引き出しを開けると、色取り取りのネクタイの中から、水色とオフベージュ色のストライプネクタイを選ぶ。ベストはスーツと同じ薄いベージュ色にし、シャツはネクタイと合わせて水色にした。全て選び終わると、私は旦那様に選んだそれら渡す。受け取った旦那様は、自室に隣接されたドレッシングルームに入り、着替え始めた。
「ふぅ……」
一難去った気持ちで胸を撫で下ろしたが、本題はまだ終わっていない。
書類が入っている着物の懐に、そっと手を置く。
(旦那様が出てこられたら、これをお渡ししよう)
五分ほどが経ち、ドレッシングルームから出てきた旦那様は、文句のつけようなしに、私が選んだコーデを着こなしていた。
「旦那様、こちらを」
そう言い、私は懐から書類を取り出し、テーブルの上に置く。テーブルの前に立った旦那様は、無表情でその書類__離婚届を見下ろす。
「私の分はすでに記入済みです」
少し前の時代までは、妻からの離縁の申し出はしずらかったが、新しい時代がきた今は、そんなことはない。
(それに、お父様とお母様だって、私の気持ちを分かってくれる。愛されもせず、虚しく死ぬ運命を受け入れたくないという、私の気持ちが……)
旦那様だって、すぐに了承してくれるはずだ。
「この書類、君が用意したのか?」
旦那様は、目の前に置かれた離婚届に視線を落としながら聞いてくる。
「はい」
「君が自ら役所に赴き、この書類を今日まで保管してたと? そういうことか?」
少し強めな旦那様の言い方に、私は内心、首を傾げる。
「……はい」
(どうしてそんなことを聞くのかしら)
背中を丸め、ゆっくりとした動きで離婚届を手にした旦那様。
「……」
無言でじっと離婚届を見つめると、棚の引き出しにしまい、部屋を出て行こうとする。
(え、サインしてくれないの……??)
「だ、旦那様」
動揺し呼びかける私に、ドアの前に立った旦那様が振り向く。
「視察に行く」
(このことは帰ったら……ということかしら)
「はい……いってらっしゃいませ」
パタリと閉められたドア。一人部屋の中に残った私の肩の力は抜けていく。ただ旦那様と話をしただけなのに、心身共にとても疲れた。
時は大正、西洋文化が定着しはじめた日本は、和と洋が融合した華やかでモダンな文化が開花した。そんな時代の中、子爵令嬢である私、美園文乃は、公爵家の当主、一条院湊様の元へ嫁いで早三年。夫婦関係は冷え切っていた。
自室に戻った私はベッドに腰掛けると、大きくため息をつく。
「ハァ……」
心休まる場所であってほしかった公爵邸は、使用人達からの嘲笑いが絶えず、心がいくつあったとしてもすり減っていく。
ふと、棚の上に置いてある写真が目に留まった。腰を上げた私は棚の前に立つと写真を手に取る。写真には、白無垢に身を包み、緊張した面持ちで椅子に腰を下ろす私がいる。その隣には、軍服を着た旦那様が立っている。その顔は、ニコリともしていない。無表情だ。恋愛結婚なんていうものだったら、この写真も少しはまともになっていたのだろうか。
私と旦那様の結婚は、華族の血筋と地位を守るためにされた、政略結婚だった。それは何も珍しいことなどではない。私たち華族は帝を支え、この国を守る責務がある。その責務を果たすために、同じ華族で血族を増やし、互いの家門を盤石にする。子爵令嬢として生まれた私にも、その責務がある。
いつかは華族の男性と結婚するのだと思っていた。でもまさか、それが公爵家の嫡男とは思いもしなかった。
三年前のあの時は驚いた。公爵家の一条院家から結婚を申し込まれるとは、夢にも思っていなかったから。
私のお父様と旦那様のご両親は、古い知人らしく、その繋がりで私たちは出会った。華族と言っても、美園家が持つ子爵という爵位は最下位。そんな美園家と、公爵という最高位の爵位を持つ一条院家との結婚は、美園家にとって願ってもない機会。美園家の家門を今以上に盤石にし、家を存続させるには、私がこの結婚を断るわけにはいかなかった。
(女は家の財産。結婚に、私の意思は関係ない。それでも、子供だったあの頃の私は、夢を見ていた……)
当時、私は十六歳。女学院の高等部に進学が決まっていた。旦那様は五つ上の二十一歳、海軍兵学校ご卒業されたばかりだった。タイミング的には少し早い気もしたが、一条院家の希望もあり、私たちは結婚した。だから私は期待してしまったのだ。旦那様が私を愛してくれるかもしれないと。
結婚式の日の夜、つまりは初夜、旦那様は私を抱かなかった。翌日、広い寝室で一人目を覚ました私を見た使用人により、そのことは瞬く間に屋敷に広まった。何もなかった初夜の数日後には、旦那様は将校としての任を全うするため船艦に乗った。そして次にお会いしたのは、半年後の夏のことだった。私は今度こそ初夜があると思っていた。だが私がいくら待てど、旦那様は寝室に現れなかった。旦那様が私を抱いたことは、今現在に至って一度もない。
結婚してすぐの頃は、ただお仕事がお忙しいだけだと思っていた。家業のこともあるし、屋敷に戻られても、忙しくて私と一緒に過ごす時間は作れない。疲れているから、私が待つ寝室ではなく、自室で眠り、会話も最低限で、業務連絡のように淡々としているのも仕方のないことだと。使用人が思うように、決して私を顧みていないわけではない。そう思っていた。でも、結婚して一年も経つと、嫌でも思わずにはいられなかった。彼は私を愛する気など、はなからなかったのだと__。悲しい気持ちよりも、虚しさの方が大きかった。それは使用人からの嘲笑いにより、溝のように大きくなっていった。
(私が馬鹿だったんだ。政略結婚でも愛が芽生えるかもしれないと思った、私が……)
私はもう、限界だった。
春の恒例行事であるお茶会を明日に控えた今日、海外での服務を終えた旦那様が、二年ぶりにこの屋敷に戻られる。私はずっと、この日を待っていた。
写真を棚の上に戻したところで、コン、コン、コン、と、ドアが丁寧に三回ノックされる。
「はい」
私が返事をすると、入って来たのは美弥だった。
「失礼いたします。奥様、旦那様がお戻りになられました」
ついにこの時が来た。
「分かったわ」
私はこの日のために用意した書類を引き出しの中から取り出すと、着物の懐に入れる。
今日、私は三年間の夫婦生活に終止符を打つ。
「……あ、あの奥様。先ほどは、誠に申し訳ございませんでした」
神妙な面持ちで謝ってくる美弥に、私は明るく言う。
「いいのよ。それより、あなた年はいくつ?」
「十六になります」
「十六……」
若く初々しい美弥に、私は嫁いできた頃の自分が重なった。
私はバッグをから丸い入れ物を取り出すと、美弥に差し出す。
「これ、よかったら使って。婦人会で仲の良い伯爵夫人がいらっしゃるんだけど、ご主人が化粧品会社を経営されている方で、今度発売されるクリームの試供品をいただいたの」
いくつかもらったので、その一つを美弥にあげることにした。
「あ、ありがとうございます。その……お気持ちは大変嬉しいのですが、女中ごときの私が、奥様からいただけません」
そう言って、美弥はハッとし、またしまったというような顔をする。
「も、申し訳ありません……! 奥様からのお気持ちを無碍にするようなことを言ってしまい」
深々と頭を下げる美弥。焦りと、少しの怯えを感じる。
(この子は、息をするかのように謝る。花江さんや蘭子さんからのあの扱いが原因なのかしら)
「大丈夫だから、頭を上げて。ね……?」
美弥は迷うような動作をしながら、ゆっくりと頭を上げ、私を見た。
「うん、それでいいわ」
私は美弥に微笑むと、美弥の片手を取りクリームを渡す。
「これを塗れば、少しはそのあかぎれも良くなると思うの。もしよければ、このクリームの感想を聞かせて。あなたの意見があれば、伯爵夫人も喜ぶわ」
美弥は手の中にあるクリームを見つめると、両手で包み込むように握る。
「ありがとうございます……」
お礼を言う美弥に頷くと、私は自室を出た。
旦那様の自室へと続く廊下が異様に長く感じる。近づくほどに大きくなる胸の音は、久しぶりに夫に会うことへの緊張かなのか、それとも、これから感じるであろう虚しさへの警告音なのか。何にせよ、この夫婦関係が終われば、全てどうでもよくなる。
旦那様の自室の前に立った私は、何度か深呼吸をする。そして、ドアをしっかりめに三回ノックした。
「入れ」
すぐに中から声が聞こえ、私はドアを開け部屋に入る。ドアを閉めると、丁寧に腰を折り曲げ、一礼する。
「失礼いたします」
そう言い、顔を上げると、執事の梅津さんがいることに気づく。梅津さんは私に一礼すると、旦那様が脱いだ軍服のジャケットを受け取り、ハンガーラックにかける。
私は今一度背筋を伸ばし、公爵夫人としての威厳を見せる。
「おかえりなさいませ旦那様。ご無事で戻られたこと、何よりの悦びでございます」
敬意をもちそう口にした私へ、背の高い体格の良い男が振り向く。細く切れ長の二重の目に、高く筋の通った鼻。少しクセのある暗いミルクティー色の髪は、軍人らしく耳が出るように短く切り揃えられ、前髪は七三分けで掻き上げるようにセットされている。この彫刻品のように美しい男が、私の夫である一条院湊だ。
「……」
旦那様はじっと私を見据える。旦那様の瞳は、空のように澄み渡る美しいブルー色をしている。不覚にも、私はこの瞳に胸をときめかせてしまう。だが、この瞳が優しく私を見つめることはない。その瞳が、より一層、私を惨めにさせているのが現実だ。
私から視線を外した旦那様はソファに腰を下ろすと、すぐに梅津さんと仕事の話を始める。すでに私の存在を忘れているのか、旦那様はそれからちらりとも私を見ることをしない。その姿に、特に驚くこともしない。これが私の夫だ。私に無関心で、まるでいないかのように扱う。空気の方が、まだ必要とされているだろう。だが、もうこの虚しさが増えることはない。私はいたたまれない気持ちになりながらも、自分を奮い立たせる。
「旦那様、お話があります」
私がそう言うと、書類から顔を上げた旦那様は書類にサインすると、梅津さんにファイルを渡し言う。
「今から帝都に視察に行きます。十分後に車を待機させて下さい」
梅津さんは「え?」というような顔をすると、ちらりと私を見る。私たちの様子を伺うように、梅津さんは旦那様に頷く。
「……かしこまりました」
旦那様と私に向かって一礼すると、梅津さんは部屋を出ていく。二人きりになると、急に部屋の中が狭く感じた。
旦那様は立ち上がると、クローゼットからスーツを選び始める。
(ついに話すらもしてもらえないっていうの……?)
あまりにも酷い扱いに、私は泣きたくなる気持ちをグッと堪える。
(これだけは聞いてもらえないといけない)
「……あの、旦那さ__」
「それで……? 話とはなんだ」
無視されるのかと思ったが、聞いてくれるようだ。
私は意を決した。
「旦那様、離縁して下さい」
私の言葉に、スーツを選んでいた旦那様の手が、ピタリと止まる。シーンとする部屋の中。数秒、旦那様は石のように動かなくなると、また手を動かし始める。
「どれがいい?」
「……はい?」
「スーツ、どれがいいかと聞いているんだ」
私はポカーンとしてしまった。
(聞こえてたわよね……??)
旦那様は私を見ると、顎でスーツを示す。
(……こっちに来て選べってこと?)
迷ったが、ここはとりあえず言うことを聞いておくとして、私は旦那様の隣に立つ。クローゼットの中には、仕立ての良い高級なスーツが、ハンガーにかけられてずらりと並んでいる。
(帝都に行くんだったら、少し華やかな感じの方がいいかしら。でも、視察だから、フォーマルさはあったほうが良いわよね)
頭を捻る私を、旦那様はじっと見てくる。
(……いつも思うけど、なんでこんなじっと見てくるのかしら)
悩んだ末、私は薄いベージュ色のスーツを手に取り、旦那様にお見せした。
「こちらはいかがでしょうか」
旦那様はちらりとだけスーツを見ると、私を見下ろす。
「あと、シャツにベスト、ネクタイも必要じゃないか……?」
そう言い、旦那様は私の手からスーツを取る。
「このスーツとセットのものをお召しになると良いかと」
「いいから選んでみろ」
命令口調の旦那様。
(なんでそこまで私に……)
不満と疑問が生まれるも、私は早く離縁を進めるために、ここも言われた通りすることにした。クローゼットの引き出しを開けると、色取り取りのネクタイの中から、水色とオフベージュ色のストライプネクタイを選ぶ。ベストはスーツと同じ薄いベージュ色にし、シャツはネクタイと合わせて水色にした。全て選び終わると、私は旦那様に選んだそれら渡す。受け取った旦那様は、自室に隣接されたドレッシングルームに入り、着替え始めた。
「ふぅ……」
一難去った気持ちで胸を撫で下ろしたが、本題はまだ終わっていない。
書類が入っている着物の懐に、そっと手を置く。
(旦那様が出てこられたら、これをお渡ししよう)
五分ほどが経ち、ドレッシングルームから出てきた旦那様は、文句のつけようなしに、私が選んだコーデを着こなしていた。
「旦那様、こちらを」
そう言い、私は懐から書類を取り出し、テーブルの上に置く。テーブルの前に立った旦那様は、無表情でその書類__離婚届を見下ろす。
「私の分はすでに記入済みです」
少し前の時代までは、妻からの離縁の申し出はしずらかったが、新しい時代がきた今は、そんなことはない。
(それに、お父様とお母様だって、私の気持ちを分かってくれる。愛されもせず、虚しく死ぬ運命を受け入れたくないという、私の気持ちが……)
旦那様だって、すぐに了承してくれるはずだ。
「この書類、君が用意したのか?」
旦那様は、目の前に置かれた離婚届に視線を落としながら聞いてくる。
「はい」
「君が自ら役所に赴き、この書類を今日まで保管してたと? そういうことか?」
少し強めな旦那様の言い方に、私は内心、首を傾げる。
「……はい」
(どうしてそんなことを聞くのかしら)
背中を丸め、ゆっくりとした動きで離婚届を手にした旦那様。
「……」
無言でじっと離婚届を見つめると、棚の引き出しにしまい、部屋を出て行こうとする。
(え、サインしてくれないの……??)
「だ、旦那様」
動揺し呼びかける私に、ドアの前に立った旦那様が振り向く。
「視察に行く」
(このことは帰ったら……ということかしら)
「はい……いってらっしゃいませ」
パタリと閉められたドア。一人部屋の中に残った私の肩の力は抜けていく。ただ旦那様と話をしただけなのに、心身共にとても疲れた。


