「か、返して下さい……!」
屋敷に戻り、旦那様を執務室までお見送りしたところだった。美弥の必死な叫び声が聞こえたのは。何事かと思い中庭を覗くと、そこには花江と蘭子、そして、なぜか由香子さんとあの取り巻き達がいた。
「それは若奥様からいただいた、大切なものなんです」
花江の手には、私が美弥にあげたハンドクリームがあった。
「捨てろって言ったわよね?」
「……そんなこと、できません」
「なんですって……?」
反論する美弥に、花江は気に食わなさそうに眉を釣り上げる。すると、後ろでその様子を見ていた由香子さんが、品の良い笑みを浮かべながら花江の横に立つ。
「花江、私に貸してみせて」
花江は由香子さんにハンドクリームを渡す。由香子さんはハンドクリームを一瞥すると、あろうことか、井戸に放り投げたのだ。
「あっ、ごめんなさい。手が滑ったわ」
由香子さんはなんの悪びれる様子もなくそう言い、取り巻き達と顔を見合わせクスクスと笑っている。
井戸に駆け寄った美弥は、膝をつき井戸の中に必死に手を伸ばす。
(なんてことを……っ)
私は美弥の元へ行くと、そっとその小さな背中に片手を置いた。振り向き、私に気づいた美弥は、大きな瞳に涙を浮かべ、今にでも泣き出してしまいそうだ。
「若奥様……」
「美弥、もういいわ」
「申し訳ありません……っせっかくいただいたのに、私……っ」
両手で顔を覆い、泣き崩れてしまう美弥。私はかがみ込むと、美弥の背中を摩った。
「あなたが悪いのよ。そんな人からもったものを、いつまでも大切に持っているから」
身を縮こまらせ泣くのを我慢する美弥を、由香子さんは哀れそうに見てそう言う。
「あーあ、由香子さんが公爵夫人になってくだされば良いのに。こんなお飾りなんて、早く消えて欲しいです」
天を仰ぐように退屈そうにそう言う花江。
「ほんとそうですよ。いるだけで迷惑。この家の格式を下げています」
花江に便乗するように蘭子はそう言う。もはや私がいようとも、二人はお構いなしに私を嘲笑う。そんな二人の言葉に気分をよくしたのか、由香子さんの顔には機嫌の良い笑みが浮かぶ。
「それはそうと文乃さん。湊さんはどこ? 会いに来たの」
「……」
「ちょっと、聞いてるの?」
何も答えない私に、由香子さんは苛立つ。ゆっくりと立ち上がった私は、由香子さんの前に歩み出る。
「由香子さん、何をしに来られたのですか」
「何って、だから湊さんに会いに来たのよ」
「そんなことを聞いているのではありません」
冷静に詰め寄る私に、由香子さんは面倒そうに小さくため息をつくと、そっぽを向く。
「……これだからお飾りは」
ボソッと呟いた由香子さんに、花江と蘭子は俯き、笑うのを耐えている。
「美弥に謝ってください」
「は……? なんでこの私が、女中ごときに謝らないといけないのよ」
「今、身分など関係ありません……!! あなたが彼女に酷いことをした。それが事実でしょう?」
腹の底から声を出し怒る私に、由香子さんは驚いたように目を見開く。
(私に対する嘲笑いは構わない。だけど、美弥は関係ない)
怒りを露わにしている私が気に食わなかったのか、由香子さんは逆上する。
「……何よ。あんたなんか、湊さんに愛されない哀れな女じゃないの!!」
「そうかもしれないです」
「じゃあ」
「でも、たとえ旦那様の愛が私に向けられることがなくとも、私を妻として必要としてくださる限り、私は彼の側を離れるつもりはありません」
「なっ……」
今一度、背筋を伸ばした私は、由香子さんを見据え、凛とした態度を見せる。
「それに、あなたが言う身分を踏まえるのなら、私は公爵家当主、一条院湊様の妻、一条院文乃です。侯爵令嬢であるあなたのその態度は、無礼なのでは?」
強気にそう言った私に、由香子さんは更に苛立ち、悔しそうに歯を食いしばる。美しい顔が、みるみる歪んでいく。
「ああそう! もういいわよ!」
由香子さんは蘭子が持っていた水の入ったバケツを乱暴に取り上げると、荒々しい足取りで、井戸にいる美弥の元へ向かう。
(まさか)
悪い予感がした。
「美弥……!!」
私は咄嗟に美弥の前に出る。目を瞑ると、バシャーンと勢いよく水がかかった音がする。だが、私の体は濡れない。
「えっ……」
由香子さんの酷く動揺したような声と共に、バケツが地面に転がる音が聞こえた。不思議に思い目を開けると、目の前に、水に濡れた旦那様が立っていたのだ。
「だ、旦那様……!!」
唖然としていた由香子さんは、顔を青ざめさせた。
「み、湊さん。どうして」
「……騒がしいと思って来てみれば……」
焦る由香子さんに背を向け、旦那様は私の方を向く。
「大丈夫か」
「は、はい。それより旦那様が……」
水をかけられた旦那様の体は濡れ、頭からは水が滴っている。
「すぐにタオルをお持ちします」
そう言い、その場を去ろうとする私の手を旦那様は掴む。
「旦那様?」
私の手を掴んだまま、旦那様は由香子さんに見合う。
「……由香子さん」
旦那様のドスの利いた声に、由香子さんはビクッと肩をすくめる。
「お父上との仕事上、あなたのわがままで身勝手な一面には目を瞑っていましたが、これはさすがに見過ごせませんね」
そう言い、片手で濡れた髪を掻き上げた旦那様の目は、鋭く光っていた。
「あ、あの……私は」
「言い訳はいい。ここでハッキリと言わせてもらうが、俺が生涯愛し妻とするのは、文乃ただ一人だ」
その場にいた全員が息を呑む。
(旦那様……)
「っ……どうしてですか。そんな女なんかより、私の方が良いに決まっています! 私なら湊さんを支えていけます……!!」
「何か勘違いしているようだが、お前のような女など、俺は微塵も興味ない」
旦那様の恐ろしいほどの冷淡さに、由香子さんは何も言えなくなる。取り巻き達も視線を泳がせ、ごくりと唾を飲み込む。
旦那様は由香子さんの後ろにいる花江と蘭子に目を向ける。
「俺の妻を侮辱するような者は、この屋敷に不必要だ。今日付けで解雇する。二度と俺の前に姿を見せるな」
吐き捨てるような言い方と、冷ややかで鋭い視線に、花江と蘭子は微塵も動かなくなる。
「梅津さん」
傍に控えていた梅津さんが、スッと旦那様の横に来る。
「はい、旦那様」
「後の処理はお任せします」
「かしこまりました」
旦那様は私の手を引き屋敷の中に入ると、そのまま自室にやって来た。私は急いでバスルームに行きタオルを手にすると、ソファの背に寄りかかるようにして立っている旦那様の頭にタオル被せ拭いていく。
「申し訳ありません。私を庇って……」
旦那様は私の腕を掴む。
「謝るのは俺だ。俺のせいで、君は言われのない誹謗中傷を受けいた。本当につくづく自分が嫌になる……」
そう、旦那様は酷く思い詰めたような顔をする。
「あの、さっきの……俺が生涯愛し妻にするのは、文乃だけだって……」
言った私は恥ずかしさで顔を赤くしてしまう。
(あの言葉は、嘘じゃないのよね……?)
嬉しさが湧き出てしまいそうな私を、旦那様は一瞥すると、タオルをソファに置き、私を真っ直ぐに見る。
「文乃。言うのが遅くなってすまない。俺は__君を愛している」
私の頬に、そっと旦那様の片手が添えられる。太陽が、私と旦那様を温かく照らす。旦那様のブルー色の瞳が、私を優しく見つめていた。
(私はずっと、旦那様からのこの言葉が欲しかったんだ……)
私は旦那様を真っ直ぐに見つめ返し言う。
「私も……旦那様、愛しています」
微笑んだ旦那様が、私の腰を引き寄せる。顔を寄せ合うと、私は目を閉じた。ふわりと私の唇を塞ぐ、旦那様の唇。湧き上がる幸せが、私の胸をいっぱいにした__。
屋敷に戻り、旦那様を執務室までお見送りしたところだった。美弥の必死な叫び声が聞こえたのは。何事かと思い中庭を覗くと、そこには花江と蘭子、そして、なぜか由香子さんとあの取り巻き達がいた。
「それは若奥様からいただいた、大切なものなんです」
花江の手には、私が美弥にあげたハンドクリームがあった。
「捨てろって言ったわよね?」
「……そんなこと、できません」
「なんですって……?」
反論する美弥に、花江は気に食わなさそうに眉を釣り上げる。すると、後ろでその様子を見ていた由香子さんが、品の良い笑みを浮かべながら花江の横に立つ。
「花江、私に貸してみせて」
花江は由香子さんにハンドクリームを渡す。由香子さんはハンドクリームを一瞥すると、あろうことか、井戸に放り投げたのだ。
「あっ、ごめんなさい。手が滑ったわ」
由香子さんはなんの悪びれる様子もなくそう言い、取り巻き達と顔を見合わせクスクスと笑っている。
井戸に駆け寄った美弥は、膝をつき井戸の中に必死に手を伸ばす。
(なんてことを……っ)
私は美弥の元へ行くと、そっとその小さな背中に片手を置いた。振り向き、私に気づいた美弥は、大きな瞳に涙を浮かべ、今にでも泣き出してしまいそうだ。
「若奥様……」
「美弥、もういいわ」
「申し訳ありません……っせっかくいただいたのに、私……っ」
両手で顔を覆い、泣き崩れてしまう美弥。私はかがみ込むと、美弥の背中を摩った。
「あなたが悪いのよ。そんな人からもったものを、いつまでも大切に持っているから」
身を縮こまらせ泣くのを我慢する美弥を、由香子さんは哀れそうに見てそう言う。
「あーあ、由香子さんが公爵夫人になってくだされば良いのに。こんなお飾りなんて、早く消えて欲しいです」
天を仰ぐように退屈そうにそう言う花江。
「ほんとそうですよ。いるだけで迷惑。この家の格式を下げています」
花江に便乗するように蘭子はそう言う。もはや私がいようとも、二人はお構いなしに私を嘲笑う。そんな二人の言葉に気分をよくしたのか、由香子さんの顔には機嫌の良い笑みが浮かぶ。
「それはそうと文乃さん。湊さんはどこ? 会いに来たの」
「……」
「ちょっと、聞いてるの?」
何も答えない私に、由香子さんは苛立つ。ゆっくりと立ち上がった私は、由香子さんの前に歩み出る。
「由香子さん、何をしに来られたのですか」
「何って、だから湊さんに会いに来たのよ」
「そんなことを聞いているのではありません」
冷静に詰め寄る私に、由香子さんは面倒そうに小さくため息をつくと、そっぽを向く。
「……これだからお飾りは」
ボソッと呟いた由香子さんに、花江と蘭子は俯き、笑うのを耐えている。
「美弥に謝ってください」
「は……? なんでこの私が、女中ごときに謝らないといけないのよ」
「今、身分など関係ありません……!! あなたが彼女に酷いことをした。それが事実でしょう?」
腹の底から声を出し怒る私に、由香子さんは驚いたように目を見開く。
(私に対する嘲笑いは構わない。だけど、美弥は関係ない)
怒りを露わにしている私が気に食わなかったのか、由香子さんは逆上する。
「……何よ。あんたなんか、湊さんに愛されない哀れな女じゃないの!!」
「そうかもしれないです」
「じゃあ」
「でも、たとえ旦那様の愛が私に向けられることがなくとも、私を妻として必要としてくださる限り、私は彼の側を離れるつもりはありません」
「なっ……」
今一度、背筋を伸ばした私は、由香子さんを見据え、凛とした態度を見せる。
「それに、あなたが言う身分を踏まえるのなら、私は公爵家当主、一条院湊様の妻、一条院文乃です。侯爵令嬢であるあなたのその態度は、無礼なのでは?」
強気にそう言った私に、由香子さんは更に苛立ち、悔しそうに歯を食いしばる。美しい顔が、みるみる歪んでいく。
「ああそう! もういいわよ!」
由香子さんは蘭子が持っていた水の入ったバケツを乱暴に取り上げると、荒々しい足取りで、井戸にいる美弥の元へ向かう。
(まさか)
悪い予感がした。
「美弥……!!」
私は咄嗟に美弥の前に出る。目を瞑ると、バシャーンと勢いよく水がかかった音がする。だが、私の体は濡れない。
「えっ……」
由香子さんの酷く動揺したような声と共に、バケツが地面に転がる音が聞こえた。不思議に思い目を開けると、目の前に、水に濡れた旦那様が立っていたのだ。
「だ、旦那様……!!」
唖然としていた由香子さんは、顔を青ざめさせた。
「み、湊さん。どうして」
「……騒がしいと思って来てみれば……」
焦る由香子さんに背を向け、旦那様は私の方を向く。
「大丈夫か」
「は、はい。それより旦那様が……」
水をかけられた旦那様の体は濡れ、頭からは水が滴っている。
「すぐにタオルをお持ちします」
そう言い、その場を去ろうとする私の手を旦那様は掴む。
「旦那様?」
私の手を掴んだまま、旦那様は由香子さんに見合う。
「……由香子さん」
旦那様のドスの利いた声に、由香子さんはビクッと肩をすくめる。
「お父上との仕事上、あなたのわがままで身勝手な一面には目を瞑っていましたが、これはさすがに見過ごせませんね」
そう言い、片手で濡れた髪を掻き上げた旦那様の目は、鋭く光っていた。
「あ、あの……私は」
「言い訳はいい。ここでハッキリと言わせてもらうが、俺が生涯愛し妻とするのは、文乃ただ一人だ」
その場にいた全員が息を呑む。
(旦那様……)
「っ……どうしてですか。そんな女なんかより、私の方が良いに決まっています! 私なら湊さんを支えていけます……!!」
「何か勘違いしているようだが、お前のような女など、俺は微塵も興味ない」
旦那様の恐ろしいほどの冷淡さに、由香子さんは何も言えなくなる。取り巻き達も視線を泳がせ、ごくりと唾を飲み込む。
旦那様は由香子さんの後ろにいる花江と蘭子に目を向ける。
「俺の妻を侮辱するような者は、この屋敷に不必要だ。今日付けで解雇する。二度と俺の前に姿を見せるな」
吐き捨てるような言い方と、冷ややかで鋭い視線に、花江と蘭子は微塵も動かなくなる。
「梅津さん」
傍に控えていた梅津さんが、スッと旦那様の横に来る。
「はい、旦那様」
「後の処理はお任せします」
「かしこまりました」
旦那様は私の手を引き屋敷の中に入ると、そのまま自室にやって来た。私は急いでバスルームに行きタオルを手にすると、ソファの背に寄りかかるようにして立っている旦那様の頭にタオル被せ拭いていく。
「申し訳ありません。私を庇って……」
旦那様は私の腕を掴む。
「謝るのは俺だ。俺のせいで、君は言われのない誹謗中傷を受けいた。本当につくづく自分が嫌になる……」
そう、旦那様は酷く思い詰めたような顔をする。
「あの、さっきの……俺が生涯愛し妻にするのは、文乃だけだって……」
言った私は恥ずかしさで顔を赤くしてしまう。
(あの言葉は、嘘じゃないのよね……?)
嬉しさが湧き出てしまいそうな私を、旦那様は一瞥すると、タオルをソファに置き、私を真っ直ぐに見る。
「文乃。言うのが遅くなってすまない。俺は__君を愛している」
私の頬に、そっと旦那様の片手が添えられる。太陽が、私と旦那様を温かく照らす。旦那様のブルー色の瞳が、私を優しく見つめていた。
(私はずっと、旦那様からのこの言葉が欲しかったんだ……)
私は旦那様を真っ直ぐに見つめ返し言う。
「私も……旦那様、愛しています」
微笑んだ旦那様が、私の腰を引き寄せる。顔を寄せ合うと、私は目を閉じた。ふわりと私の唇を塞ぐ、旦那様の唇。湧き上がる幸せが、私の胸をいっぱいにした__。


