旦那さま、ずっと私と生きてくれませんか?

 暗い空から、ついに雨が落ち始める。夕立が、心結の足元を一気に濡らした。

「……」

 雨粒なのか、自分の涙なのか。どちらとも言える透明の粒が、幾重にも頬を流れていく。

 透き通った水滴とは裏腹に、心結の心は泥水みたいに淀んでいて。同時に、倒れたナギのことを思い出す。ナギの命を削った自分自身が、憎くて仕方ない。

「ドレス、せっかく買ってもらったのに……」

 着の身着のまま屋敷を飛び出した。雨のせいで泥が跳ね返り、ドレスに茶色の点が広がっている。

 靴は履き忘れた。あの白い靴、いま履いていなくて良かった。茶色く汚れてしまったら、せっかくナギに買ってもらった思い出が……――しかし心結は立ち止まる。

(二人の思い出を汚したのは、雨ではなく私だ)

 この期に及んで天候へ責任転嫁しようとする、浅ましい自分が心底キライだ。考えの足らない、未熟な自分。

「ごめんなさい、ナギ様……っ」

 広告なんて作らなければ良かった。だまり屋のことはナギが管理しているのに、なぜ首を突っ込もうと思ったのか。

 どうして自分の手で何かを変えられると思ったのだろう。浅ましい。自意識過剰な自分など、穴へ放り込んでやりたい。

 その時、道に埋まる石に躓き、心結は泥水へ飛び込む。桜色のドレスは、もはや見る影もなかった。

 その光景に、ついに心結の心は折れる。

「もう、いなくなりたい……。
 私の命を、誰がナギ様に渡して……っ」
「へー。じゃあ俺がもらってもいい?」
「え……?」

 見上げると、黒い服を身にまとった男性がいた。いや、男性というにはまだ若い。心結よりも少しだけ年下だろうか、あどけない顔をしている。黒の長い髪は三つ編みで一つにまとまっていた。

 しかし格好は忍びに似ていて、まとう空気が妙に鋭い。それが殺気だと、心結は遅れて気づく。

「あなた、誰ですか……?」
「俺? 怪しーもんじゃない。どこにでもいる、ただの殺し屋」
「殺し屋……?」

 男は、すっかり怯えた心結へ不敵な笑みを送る。心結など一捻り、と言わんばかりの余裕だ。

 いや、それよりも職業だ。殺し屋と言ったか? その殺し屋がさっき「心結の命をちょうだい」と言った。つまり男は、心結の命を狙っている?

「俺の名前はアスマ。アンタを抹殺するよう頼まれた」
「私を……。依頼人は、どなたですか」
「それは守秘義務だ。だがヒントはやるよ。
 もしもアンタを抹殺すれば、俺はがっぽり報酬が貰えることになっている」
「!」

 殺し屋ことアスマの一言で、心結は腑に落ちた。心結を殺したいほど憎んでいて、報酬をたっぷり渡せる人物――それは久我冴より他ない。

 結婚式で、冴から浴びた鋭い視線。あれだけの憎悪を向けられたのだ。殺したいと思われていても不思議ではない。

「私を殺して……狙いは、ナギ様ですか?」
「へぇ。アンタ、ただの令嬢だろ? えらく察しがいいな」
「……」

 アスマは否定しなかった。ということは、おそらく心結の予想は合っている。

 冴は、心結を亡き者にして、ナギを手に入れようとしているのだ。

「……っ」

 二人が並ぶ姿を想像して、心結の心に暗雲が立ち込める。嫌だ。自分が殺されることよりも、ナギの隣に冴が並ぶ方が、嫌だ。

「消えたいと、さっきまで思っていました。でも……殺されるわけにはいかない理由が、いま出来ました」

 心結は目を瞑り、脳裏にナギを思い出す。

 口数が少なくて、静かな人だったけれども。だけどナギには、見えない優しさが確かに存在した。数えきれないほど救ってくれたのだ。

「だから今度は、私が救います」

 救う、なんておこがましい。ナギを倒れさせたのは、紛れもない自分なのに。

 しかし冴にはつかまってほしくない。

 冴は勝吾と一緒にいたせいで、思考がかなり似通って来た。異能嫌い、かつ冷酷――そんな冴と一緒にいては、ナギが何をされるか分からない。

(だから救いたい、あの方を。
 私の旦那さまを――)

 泥水の中から立ち上がる。さっきよりも足に力が入る。悲観するばかりの昔の自分では、もう無い。

 しかし心結が顔を上げた、その時だった。

「おい、なんでお前がここにいる」

 この場に響く、第三者の声。
 振り向くと、背広姿の勝吾がいた。

 どうやら結婚式は終わったらしく、車で客を帰していたらしい。さっきとはうって変わった心結の姿に、勝吾は目を丸くする。

 汚れたドレス、泥だらけの裸足。こらえきれなくなり、勝吾は声を上げて笑う。

「はは! なんだよ、その恰好! やっぱり皇家に捨てられたか! 俺の元へ戻らなかった罰だな、いい気味だ!」
「……っ」

 罵声を聞くと久我家での生活を思い出し、体が勝手に震えだす。

 一方、頭に血が上った勝吾は、アスマの存在に気付いていないらしい。脇目も振らず心結へ近寄った。

「泣いているのか。ふん、やはりお前には泣き顔がお似合いだな」
「……っ」
「ん?おい、この男はなんだ」

 やっとアスマの存在に気付いた勝吾が、睨むように視線を送る。対してアスマは、にこやかに答えた。

「俺、そこの女を狙ってんだ」
「……狙う?」

 心結を口説いていると勘違いしたらしい。勝吾は「あの男に言い寄られて困っているのか」と、心結へ尋ねた。

 どう答えるのが正解か、心結は迷う。

 いや、それより気になるのが勝吾の反応だ。どうやら勝吾は、冴がアスマに暗殺を依頼したと知らないらしい。

 (だったら、巻き込む訳にはいかないわ……)

 無関係ならば、勝吾をここから逃がさなければ。もし勝吾が負傷すれば、更なる問題へ発展しかねない。

 心結が考えを巡らせる。そのさなか、勝吾がとんでもない取引を持ちかけた。

「お前はさ、父さまの言うように顔だけはいいんだよ。今日の格好も悪くなかった、また俺の妻になってもいいくらいだ」
「っ!」

 何を、言っているの――衝撃の言葉に、頭へ隕石がぶつかったように、ぐらりと目眩が起きた。この後に及んで、また凄惨な過去を繰り返そうとするとは。

 すると「でもなぁ」と、勝吾は顎に手を当てる。

「嫁をとっかえひっかえなんて、久我家の体裁が悪くなる。だから心結、俺の愛人になれ」
「……え?」
「愛人になるっていうなら、今あの男から助けてやるよ」
「っ!」

 心結をジロジロ眺める勝吾の目が、独立した生き物みたいで気持ち悪い。まるで品定めされているようだ。

 (愛人、だなんて……っ)

 やはり自分の価値などその程度なのだと、捨てられた日のことを思い出す。なんと欲にまみれた人だろう、そして、なんと欲に忠実な人だろう。それはもう吐き気がするほどに――勝吾を見るのも嫌になり、心結は両目を閉じる。

 反対に勝吾は断られないことをいい事に、一歩また一歩と心結へ近づいた。

「冴の代わりに、今日からお前が愛人だ。しっかり俺を楽しませろよ、心結」
「勝吾、様……っ」

 久我家に嫁いでいた時と同じように、心結は自分の意見が言えずにいた。口が強張るのだ。まるで喋ってはいけないと、呪いをかけられたように。

 またつかまってしまうのだろうか。ナギと会うこともなく、この場で――心結は絶望に襲われる。

 しかし低く重たい声が、この場へ響いた。

「勝吾って、あの久我勝吾か」

 ボソリと呟いたアスマの声は、何の感情も乗っていない。しかし目に光がない。代わりに殺気が満ちている。

 どうやらアスマは気づいたらしい。目の前にいる男が、自分たち異能者を邪険に扱う久我家の人間だということに。