旦那さま、ずっと私と生きてくれませんか?

 元にいた一階へ戻ると、和服へ着替え終えたナギが既に待っていた。

「遅くなってしまい、申し訳ありません……」
「……急ぐな。転ぶ」

 近くまで寄ると、ナギが手を差し出した。いくら心結でも、手を出された意味は分かる。

 だけど手を重ねるにはどうにも恥ずかしくて、ついに握らないまま引っ込めてしまった。

「あ、ありがとう、ございます……でも、大丈夫です」
「……行くぞ」

 志乃婦に挨拶をし、教えられた道を二人で歩く。もう少しでお昼が近い。どうりで汗ばむはずだ。心結は、高く上がった太陽を見る。

「……あれ?」

 視線を戻した時。前を歩いていたはずのナギが姿を消していた。ついさっきまでいたのに、一体どこへ?

 辺りを見回す。いくら雑踏の中とは言え、ナギほど目立つ容姿をしていれば見つけることは容易いはず。

 そう思っていたが、どこを見てもナギは見つからない。心結は焦り始めた。

(まさか……また捨てられた?)

 勝吾に選ばれなかった日を思い出す。久我家と離れられたことは良かったが、自分の価値を改めて知った日だ。あの衝撃は、今も心結の心へ傷を作っている。

「旦那、さま……っ」

 もう会えないのだろうかと、そこまで考えた時だった。

「ここだ」

 ポンと、頭上に軽い何かが乗る。見上げると、太陽を遮断する白色の帽子。触ると帽子全体に丸みがあり、まるで釣り鐘のような形をしている。

「これ……」
「今日は暑い。また倒れられたら困るから被っておけ」
「ありがとう、ございます……」

 わざわざ買って来てくれたんだ――心結は帽子の下で、目にたまった涙を拭く。まさか自分に買い与えてくれるなんてという嬉し涙と、捨てられたわけではないと安堵した涙。

 しかし安心してばかりもいられない。一度苦い経験をした心結だからこそ、複雑な気持ちが顔を出す。

 捨てられたわけではなかった。
 だけど、たまたま……かもしれない。
 今日は捨てられなかった、と言うだけかもしれない。


 ――頼むから冴を治してくれ。妻の心結は、お前にくれてやる


 あの日の勝吾の言葉が頭をよぎる。心結は思い出さないようにと、きつく目を瞑った。

(捨てられたくない。旦那さまにだけは、どうしても……)

 また捨てられることがないよう頑張らないと。
 ナギと、ずっと一緒にいるために――

 心結は決心して、足を止める。隣を歩くナギがそれに気づき、長い髪が風にあおられながら、切れ長の瞳を心結へ寄こす。

「旦那さま、昨日お話したことですが……私がお店のお手伝いをすると、迷惑ですか?」
「なんだ、急に」
「旦那さまの妻になったからには、ちゃんとお勤めを果たしたいのです」
「……」

 いつも目を合わせようとしない心結だが、この時ばかりはナギから目を離さなかった。真っ向から、ナギと向かい合う。

 一方のナギは……僅かにだが、視線をさ迷わせた。その先で、ゴザに座る青年を見つける。ナギに続いて青年を見た心結は、「あの方は?」と首を傾げる。

「似顔絵師だ。人や動物を模写する。たまに面白可笑しく描く奴もいるがな」
「絵、ですか……」

 似顔絵師は、紙の上をすべるように筆を動かしている。その光景を見て、心結はあることを思いついた。

 久我家へ嫁ぐ前、心結は一通りの教養を身につけたため字が書ける。これが店の役に立たないかと考えたのだ。

「旦那さま……私が、だまり屋の広告を書いてもよろしいでしょうか?」
「広告?」
「一人でも多くのお客様に来店していただきたくて……」
「……」

 だまり屋が儲かれば皇家は発展する。ナギの役に立てる。
 そのために自分が出来ることは、来客の数を増やすこと。

「もちろん広告は、旦那さまに確認して頂いた後に配ります……いかがでしょうか」

 ナギの役に立てるかもしれない。そう思うと嬉しくて心が弾む。しかし反対に、ナギはやや眉を下げて心結を見つめた。何かを言いたそうに口を開いている。

(だめ、なのかしら……)

 ナギと同じように心結も眉を下げた、その時だった。「いいだろう」とナギの声。なんと許可がおりたのだ。

「む、無理に、ということはないので……。ダメでしたら、ダメとおっしゃってください」

 さっきのナギが、何か言いたそうな素振りだっただけに引っかかる。何らかの心配ごとがあるのでは?

 しかしナギは頷いた。

「広告の案を認める。好きにやってみるといい」
「ですが……」
「頼んだぞ」

 まるで「期待している」と言わんばかりに、肩に手を置かれる。心結は頼られた気がして嬉しくなった。
 
「ありがとう、ございます」

 まさか認めてもらえるとは思わなかった。期待に応えられるように頑張らなければ。

(だけど……)

 やりがいを見つけ、心が浮足立つ。しかし心の奥底で、ナギの機微の変化が引っかかていた。ナギが言葉を飲んだ、あの一瞬の出来事――もしかして何か隠し事があるのでは?と。心結はこの時、初めて違和感を覚えた。