旦那さま、ずっと私と生きてくれませんか?

 だまり屋の店主と結婚する前。久我家で過ごしていた心結は、口にするのも憚られるほどむごい仕打ちを受けていた。

 鳥のさえずりさえ聞こえない早朝。薄明るい日差しが久我家の屋敷へ差し込む。早朝春の季節にふさわしい桜の花は屋敷を囲むように植えられており、まるで合図したように一斉に開花していた。その鮮やかな光景を、久我心結は無表情で見つめている。

 着古された浴衣を着る心結は、こじんまりした自分の部屋から窓の外を眺めていた。使われない布を部屋の床へ敷き、体に掛けるものがなかった心結の体は、いくら春といえ冷えていた。冷たくなった両手をもみながら、心結は己の考えを正すように首を振る。

(部屋を与えて貰っているだけ幸運だわ……凍死することなく冬を越えられたもの)

 名家である久我家の次期当主、久賀勝吾の妻である心結が「凍死」の心配をするなんて――初めて聞く人は驚くことだろう。心結自身も、勝吾の妻でありながら使用人以下の扱いを受け始めた頃は、理解が追い付かず苦労した。自分は使用人として久我家へ来たのだろうか?と、何度も自問自答した。

 しかし使用人の価値すらもないのだと遅れて気づく。使用人からも嫌がらせを受け始めたからだ。久我家で心結を「奥様」と呼ぶ者はいなかった。その状態から、結婚して一年が経った。最初はどうなる事かと思ったが、さすがに理不尽な生活にも慣れた。……本来は慣れるべきではないだろうが慣れざるを得なかったのだ。屋敷に住む久我家から、ありとあらゆる冷遇を受け続けていれば。

 はぁとため息をついた後。心結は食堂へ向かう。勝吾の朝ごはんを用意するためだ。使用人よりも早く起き、ある程度の下ごしらえをしておく。そこから心結は、勝吾の分だけ料理するのだ。勝吾は味にうるさく、気に食わなければ名指しで怒るからと使用人から嫌煙されていた。

 そこで白羽の矢が立ったのが心結だ。面倒事は全て心結に任せればいいと、最近は次から次に仕事を押し付けられる始末。心結は休む暇はおろか、ご飯を食べる時間もない。いつも残ったご飯をおにぎりにして部屋に持ち帰るのだが、最近は一日一食食べられればいい方だった。

「旦那様、朝ごはんをお持ち致しました」

 もう空腹の感覚を忘れつつあった心結だったが、体に力が入らない。それでも勝吾のご飯を作らねばと、体に鞭を打ちながら完成させた。しかし勝吾の部屋から返事はない。障子に写る影から、部屋の中へ座っているのは確かだけど。

「……ここへ置いておきます」

 いつものことだと、心結は部屋の前へご飯を置いた。まだ台所の片付けが終わってないから、急がねばならないのだ。しかし「待て」と勝吾に呼び止められる。同時に襖が開き、鋭い視線が心結へ突き刺さった。ご飯が乗った膳へ手を伸ばす。どうやらコレを取りにきたようだ。

「そこで待っておけ」
「え……?」

 勝吾は事あるごとに心結へ「暗い・顔を見せるな・どこか行け」と暴言を浴びせる。それなのに呼び止めるなんて――不思議でならなかったが、一分後。どうして自分がこの場に残されたのか、身をもって実感する。

「不味い」

 部屋に戻り味噌汁を一口飲んだ勝吾は、心結を睨む。

「この味噌汁を作ったのは誰だ」
「わ、私です……」

 頭を下げて答えると、勝吾は強く舌打ちを鳴らした。

「味噌汁も満足に作れないとは。お前、何のために屋敷にいるんだ?」
「も、申し訳ありません。すぐに作り直してきます……っ」

 廊下の床へ額をつけ、深く頭を下げる。頭上で布の擦り切れる音。どうやら勝吾が近づいたようだ。

「こっちを向け」
「え……あっ!」

 顔を上げた瞬間、出来たての熱い味噌汁が降って来た。言わば熱湯。それを顔面で受け止めた心結は、声にならない声を上げ廊下へ突っ伏す。

「……~っ」

 熱さ以外に何も感じない。しかし暫くすると皮膚の細胞が一つずつ燃えていく感覚を覚えた。火傷による症状だ。皮がはがれて、身がむき出しになっている。すぐに冷水につけたい、そうでないととても堪えられる痛みではない――しかし身もだえる心結を見ても、勝吾は知らん顔をした。まるで心結が見えていないみたいだ。いつもと変わらない表情で、淡々と用事を告げる。


「今日は外出するから支度をしろ。冴を待たせたら承知しないからな」

 冴は勝吾が心酔している愛人で、休日になると二人は街へ出かける。荷物持ちとして心結を同行させながら。

(また、あの場に居合わせないといけないのね……)

 火傷の痛みに耐えつつ、心結は「はい」と姿勢を正した。