旦那さま、ずっと私と生きてくれませんか?

 どうにも最近は体の調子が芳しくない。

 まだ空が暗い早朝だが、既にナギは目を覚ましていた。布団から体を起こすと、肩に何かが乗っている感覚がある。

「……響丸」

 早朝と言えど、使用人たちは起きて主人のために朝ごはんの準備をしている。当然起きていた響丸は、間髪入れずに、襖越しに返事をした。

「おはようございます、ナギ様。いかがされましたか?」
「ヒスイを呼べ」
「お体、よくないのですね?」
「……直に治る」

 ナギの声色が低くなる。これ以上の詮索は不要、という合図だ。もう長い付き合いの響丸は「かしこまりました。朝の内にお呼びします」と一礼して去る……と思ったら「ナギ様!」と混乱した様子で帰って来た。襖の扉を、勢いよく開けながら。

「心結さまがおられません! お布団がもぬけの殻です!」
「な……」

 確かに目は治療したが、あの風邪の症状だと長引くはず。その予想は綺麗に打ち砕かれ、ナギは羽織を肩にかけて部屋を出る。

「昨日の夜は、ちゃんとお休みになられていたのですが」
「……おい」

 ナギは、中庭に出来た足跡を見つける。この大きさは心結だと、すぐに分かった。

「この先にいるだろう、後は頼んだ」
「ご冗談を! もしも倒れて居たらどうするのですか。わたし一人ではお運びできません」
「……はぁ」

 下駄を履き、二人で中庭を歩く。足跡は、中庭から屋敷の外へ続いている。

「逃亡したか」
「まさか! 心結さまはそういうことをされるお方ではないと、ナギ様もお分かりになるはず!」
「知らん」

 昨日から離婚、再婚、病気と、災難続きに遭っている心結だ。逃げたいと思うのはおかしいことではない。問題は、どこへ逃げるか、だ。今の心結に帰る場所はどこにもない。久我家も花本家も、心結にとっては針の筵だ。

 すると二人の足音の他に、何か別の音が聞こえ始める。

「水?」

 ナギの鼓膜が揺れる。さほど遠くない場所で、不定期に水がはねる音が聞こえた。この近くに川や滝はない。あるのは小さな井戸だけ。

「あ、心結さま!」

 響丸が声を上げる。その先を見ると、心結の姿があった。衣を一切まとわない格好で、井戸水を浴びている。

「ひゃっ!」
「響丸、目をつむれ」
「わ、ナギ様⁉」

 まさか裸を見られるとは思っていなかったのか、心結は急いで袖を体にまとった。咄嗟の判断でナギは背を向け、響丸の目を手で覆う。誰も何も見ていないと、そう信じながら。

「そこで……何をしている」
「す、すみません。お風呂を、と思い……」
「風呂?」

 風呂場に行くなら分かるが――と思ったところで、昨日の心結を思い出す。勝吾と冴から虐げられていた心結だ。当然、家でも同じ扱いだったろう。

「風呂に入れてもらえなかったのか」
「いえ! あの……」
「……もういい」

 言いたくないのなら聞かない。そもそも思い出させる話ではない。見えない傷をえぐるだけだ。

 浅い息を吐いたナギは、既に肌を隠した心結へ近寄る。そして流れるような動きで、いともたやすく濡れた心結を抱き上げた。

「ひゃっ」
「恥ずかしいなら目をつむっていろ。風呂場へ連れて行く」
「で、でも私は……」
「風呂に入れない理由でもあるのか?」
「それは、ありませんが……」

 義母から「一緒の風呂に入るな」ときつく叱られた時から、心結は自分のことをどこか汚いと思っていた、だから皇家のお風呂も、当然使えるわけがない――そんな心結の気持ちを知らないナギ。しかし彼女が怯えていることだけは分かった。「やっぱり私」と腕の中でもがく心結を、叱るように一瞥する。

「言ってなかったが、ここにはクマが出る。人喰いクマだ」
「っ!」
「引き返せというなら……」
「こ、このままで!」
「よかろう」

 心結の答えに満足したのか、ナギはニッと口角を上げる。前髪が長くてやはり顔は見えないが、時おり吹く春風が、たまにナギの瞳を露わにさせる。景色を切り取ったような鮮やかな空色が、諦めたのか大人しくなった心結を映した。