雨にほどける




 雨は、夜を越えてもまだやまなかった。

 瞬は窓辺に立ったまま、カーテンの隙間から外を見ている。空は明るくなりきれず、早朝の灰色が雨に薄く滲んでいた。ガラスを叩く音は細く、一定で、昨日の夜から途切れない。眠っていない。眠れるはずがない。

 夜中、庇の下で――朔に会った。会った、と思った。呼んでも答えず、触れようとした手は通り抜けて、最後に悲しい目だけを残して消えた。思い出すほど、胸の奥が痛む。恋しい、という言葉だけが正しくて、それ以外は全部ずれている。

 会いたい。会えない。それなのに、見えてしまう。雨粒がガラスを滑っていく。その筋を目で追いながら、瞬は自分の呼吸だけを確かめた。生きている。それが、いちばん腹立たしい。

 ――あのとき。傘に入っていれば。それは最後の夜だけじゃない。もっと前から、分かれていた。分かったふりをして、守るふりをして、切った。


 中学三年の、あの日。体育祭が終わって少しして、空気が受験の匂いに変わり始めた頃。最後の授業参観があった。瞬の母親は仕事で来られなかった。そのことを、瞬は気にしていないふりをしていた。気にしていないわけがなかった。廊下に立つ親の声や、教室の外から覗く視線の数が、普段より少しだけ世界を窮屈にする。そういう日に限って、朔はいつも通りだった。

 体育の授業。瞬は朔と目が合うたび、わざと大きく笑った。ふざけて、肩をぶつけて、受験だなんだって空気を蹴散らすみたいに。朔も、ほんの少しだけ口元を緩めて、付き合ってくれた。

 授業が終わって、休み時間。瞬はトイレに行った。水を流す音が、やけに大きく響く。鏡の中の自分は、さっきまで朔とふざけ合って笑っていた、そのままの顔をしていた。

 教室へ戻る。廊下の角を曲がったところで、瞬は足を止めた。反射的に、壁の影へ身を寄せる。自分でも理由が分からない。見つかりたくない、ただそれだけだった。

 朔が、両親と話していた。授業参観の名札を下げた大人の背中。瞬は、その背中を知っていた。一流大学を出て、一流企業に勤めている。朔が「ちゃんとしている」のは、環境ごとそうだからだ。世間体を気にするのも当然で、正しさで子どもを守ろうとするのも分かる。朔の姿勢は常にまっすぐで、声は落ち着いている。――それだけなら、ただの「良い家庭」に見えた。

「朔」
 低い声。朔の父親のものだ。近づくほど、言葉の輪郭がはっきりする。

「朔。お前も、もう三年だ。受験もある」
「……うん」
 朔の声が一段だけ硬くなる。瞬は息を止める。そのまま息を殺して、影の中にいる。朔も、その両親も、気づかない。

「交友関係は、選べ。今は特に」
 母親が、父親の言葉をなだめるように繋ぐ。

「あなたの将来のために言ってるの。今のうちに、守れるものは守りなさい」
「高校に入れば、周りはもっと“ちゃんとした”子ばかりになるわ」

 朔は黙らない。普段、先生に当てられても淡々と答える朔の、あの「淡々」が消えている。
「交友関係を選べって、どういうことだよ」
「そのままの意味だ。朔、お前は――」
「意味は分かってる。そういうことじゃない」
 朔が遮る。

「分かってるなら、距離を取れ」
 父親の声は落ち着いている。落ち着いているからこそ、どこにも逃げ場がない。

「変な噂が立つ前に、切れ」
「瞬は不良じゃないよ」
 朔はそう言った。言い切った。
「見た目や噂で決めるなよ」
「噂の話をしているんじゃない。巻き込まれるな、ということだ」
「だから何」
 朔の声が、初めて鋭く跳ねた。怒りが、隠しきれない。

「巻き込まれるって、何にだよ」
 言葉の端が、普段の朔じゃない。抑えた声なのに、廊下の空気が張り詰める。
「瞬は、誰かを巻き込むようなことしてない」
 父親が眉をひそめる。
「朔、落ち着け」
「落ち着いてる」

 父親の声が、ほんの少しだけ冷たくなる。
「朔、感情で判断するな」
「高校も大学も、その先も、全部繋がっている」
「お前が努力して積み上げてきたものを、わざわざ崩す必要はない」

 母親が小さく息を吐く。
「朔、お願い。分からないの?」
「仲が良いだけで済まないことだってあるのよ」
 朔は両親を強く睨み、次の瞬間、自分の拳をぎゅっと握りしめた。爪が掌に食い込むのが見える。それでも声だけは震えないように、無理に整えている。

「……俺の前で、瞬のことをそういうふうに言うな」
 そんなふうに、朔は本気で信じている。だから、両親の言葉を受け流せない。父親が一歩、朔に近づく。

「朔の将来の話だ。余計なものを背負うな」
 余計なもの。それが、自分のことだと瞬は分かった。朔の目が、まっすぐ父親を射抜く。

「余計じゃない」
 短い。でも、朔の声は折れていなかった。
「瞬は、俺の――」
 言いかけて、朔は息を飲む。その続きを、朔自身が飲み込むみたいに。

「……俺の大事な人だ」
 母親が、困ったように眉を寄せる。
「朔、もっと良い友達はできるでしょう」
「良い友達ってなんだよ。瞬が悪い友達だって言いたいのか」

 朔は一度も瞬の方を見ない。見ていないのに、瞬は自分がそこにいるのを知られている気がして、心臓がうるさくなる。もちろん、そんなはずはない。瞬は壁の影に貼りついたまま、身動きができなかった。

 朔は親に反発している。自分のために。その事実が、瞬の喉を締めつけた。嬉しい、より先に、怖いが来る。このままだと、朔が壊れる。朔の「正しさ」が、傷つく。瞬はそう思ってしまった。

 雨音じゃない。廊下の静けさが、胸の内側を叩いていた。この光景が見られていたことを、朔も両親も知らない。そして、知らないままになる。瞬は、喉の奥で息を飲み込んだ。自分がここにいることより、聞いてしまったことの方が怖い。

 ――朔の将来を、俺が台無しにする。

 そんなこと、あるはずがないと打ち消したいのに、言葉がうまく出てこない。朔が頭が良くて、運動もできて、何でもできる人間だってことを、瞬は痛いほど知っている。優しくて、穏やかで、ユーモアだってある。容姿も整っていて、みんなに好かれている。
その朔が、今、親に食ってかかっている。自分のために。胸の奥が冷える。嬉しい、じゃない。怖い。

 このままじゃ、朔が己の未来まで傷つける。世間体を気にするのは当然だ。朔の両親が正しい、とは言わない。でも「間違っている」とも言い切れない。その曖昧さが、瞬を最も追い詰めた。朔には幸せになってほしかった。不幸な未来は、朔には絶対に似合わない。

 瞬の家は片親で、狭いアパートだ。自分は勉強なんてできない。いくら努力しても、朔とは生まれ持った何もかもが違う。本来は――朔の隣に立つべき人間ではないのかもしれない。だから、瞬は決めた。朔の将来のために、自分にできることは一つだけ。

 朔との関係を、絶つ。

 決めた瞬間、胸の中が静かになった。泣きたさも、怒りも、一度全部、奥へ押し込む。これは感情の話じゃない。選ぶべき道の話だ。

 朔には受験に集中してもらう。授業中にふざけるのも、帰り道に寄り道するのも、俺が誘うのは終わり。余計な噂も、余計な心配も、余計な争いも、全部、俺の側で止める。良い高校に入って、良い友達と、ちゃんとした未来を歩けばいい。朔ならできる。できるに決まってる。俺は、その隣に立たない。立ちたいと思うほど、立ってはいけない。近づけば近づくほど、朔が背負うものが増える。それだけは嫌だった。

 明日から、距離を取る。笑いかけられても、返さない。呼ばれても、聞こえないふりをする。冷たいやつだと思われてもいい。嫌われてもいい。朔が幸せになるなら。朔の未来が守れるなら。瞬は、そうやって自分に言い聞かせるしかなかった。

 言い聞かせるたび、胸の奥が薄く裂けていく。呼吸をするたび、そこに雨が溜まるみたいに冷たい。本当は、切りたくなんてない。明日も隣で笑っていたい。いつもみたいに「うるせえ」と言って、朔が小さく笑うのを見たい。でも、それを望んだ瞬間に、朔の未来が曇る気がした。瞬が手を伸ばせば伸ばすほど、朔はそれに応えようとして、苦しくなる。

 自分が一番大事なものを、自分の手で捨てる。その感覚が、喉の奥を焼いた。瞬は奥歯を噛みしめる。痛みで、決意がほどけないように。涙が出そうになるたび、瞼の裏に押し戻す。誰にも見せない。朔にも、絶対に見せない。見せたら、朔はまた、守ろうとする。瞬が怖いのは、その優しさだった。


 ――そこで、回想が途切れる。瞬は、早朝の部屋に戻ってきていた。カーテンの隙間から、窓の外を見続ける。雨はやまない。どれだけ見つめても、空の色は変わらない。灰色が、じっとりと部屋の中へ染みてくる。

 瞬は、息を吸おうとして、喉の奥をつかえた。吸ったはずの空気が胸まで落ちてこなくて、肺が置き去りになる。情けない音が漏れそうで、瞬は唇を噛む。次の瞬間、頬が熱くなって、涙が落ちた。

 一滴だけじゃない。(せき)が切れたように、勝手に滲んで、勝手に溢れて、止め方が分からない。袖で拭っても追いつかない。泣くつもりなんてなかった。泣いたって戻らないことを、知っている。それでも、身体のほうが先に壊れていく。腹の底が攣って、肩が震えて、息が細切れになる。静かに落ちるのに、瞬の中だけが崩れていく。

 心臓が痛いんじゃない。胸の真ん中に穴が開いて、そこへ雨粒が落ち続けている。濡れて、冷えて、何も埋まらない。本当に、これが望んだ未来だったのか。朔にとって、幸せな未来だったのか。どうして俺が未来へ羽ばたいて、朔は過去に沈んだのか。守ったつもりだった。切ったつもりだった。それで朔が笑えるはずだった。なのに、残ったのは、俺だけだ。答えなんてない。雨音だけが、同じ調子で続く。

 瞬は泣き続けた。今年の梅雨は長い。夏空は、まだ見えてきそうにない。