雨の香りが鼻の奥を、薄く刺した。
瞬は夜中の街を、コンビニへ向かって歩いていた。どこかへ行きたいわけじゃない。何かがほしいわけでもない。ただ、部屋の中に溜まったままの空白から、一度距離を取りたかった。今夜の雨は珍しく小ぶりで、傘を差さなくても濡れ方が知れている。それでもシャツの袖口はじわじわ重くなって、肌が冷える。
街灯の下を通るたび、雨粒が光っては消える。真夜中の静寂のせいで、雨音だけがやけに大きい。足音も、呼吸も、ぜんぶその中へ吸い込まれていく。アパートから近いはずなのに、今夜は道のりが遠く感じた。遠いのは距離じゃない、と分かっている。
ふと、思い出す。中学の頃。雨の日。朔と、コンビニに入った。
狐の嫁入りみたいな急な雨に追い立てられて、雨宿りがてら駆け込んだ。昼間のコンビニは、まだ人の気配があった。濡れた前髪の向こうで、朔が何か言って、瞬は笑った。
「ほら」
朔が自分のポケットから取り出したのは、折りたたまれたハンカチだった。瞬の髪から落ちた雫が、床のタイルに小さな丸を作っている。
「いらねえ」
「いらない顔してるけど、滴ってる」
朔は淡々と言って、瞬の前髪を指先でつまんで持ち上げた。冷たい指。濡れた髪。瞬は反射で一歩引く。
「触んな」
「じゃあ自分で拭け」
「……拭く」
瞬がハンカチを奪うみたいに取ると、朔は目だけで笑った。店の中は、あたたかかった。蛍光灯の白が雨粒を乾かしていくようだった。
「狐の嫁入りってやつか」
瞬が言う。
「晴れてたのに降ってくる」
「知ってるよ、瞬」
朔は棚の列を見ながら答える。視線は商品に向いているのに、声は瞬の近くにある。
「でも、嫁入りって誰のだよ。つーか意味不明……なんで雨のことを」
朔は一拍置いて、棚から目を離さないまま言う。
「晴れてるのに雨が降ると、昔は理由が分からないだろ。だから、狐に化かされた、とか……嫁入りの途中だ、とか。そういう説明にしただけさ」
「ふーん」
瞬が鼻で笑うと、朔はようやく瞬の方を見て、ほんの少しだけ肩をすくめた。
「適当だなぁ、昔の人間って」
「まあ……そういうものだろ」
朔はそう言って、店のガラス越しに外を見た。雨の線が太陽の光を引き裂いて、地面に細い音を落としている。
「瞬、腹減った?」
「いや全然」
「腹減ったって顔」
「お前がうるせえから」
朔は小さく笑って、レジ横のホットケースの前に立った。
「肉まん」
「は?」
「一個」
「いらねえって」
「じゃあ、俺が食べる」
そう言いながら、朔は勝手にレジへ向かう。瞬は追いかけるみたいに後ろをついていって、結局、財布を出した。
「俺が払う」
「いい」
「よくない。俺が――」
「じゃあ半分」
朔は譲らない。瞬はむっとして、でも、少しだけ笑ってしまった。
「お前さあ、ほんと変なとこで頑固だよな」
「瞬も」
「俺は普通」
「普通じゃないよ」
朔は当然みたいに言った。その当然が、瞬には嬉しくて、腹が立つ。レジ袋が一枚、手に渡る。二人はレジ袋をぶら下げたまま、店の外へ出た。自動ドアが閉まると、雨音が一段近くなる。
庇の下。昼の白い空が明るすぎて、雨は細い糸みたいに見えた。コンビニの明かりが雨粒を照らして、落ちていくたび小さく光る。道路には薄い水の膜が張って、通り過ぎる車が静かにそれを切った。朔が袋から肉まんを取り出して、半分に割る。
「熱いぞ、瞬」
「知ってる」
瞬は受け取って、指先で温かさを確かめる。かじると、甘い熱が口の中に広がった。二人で、庇の縁から落ちる雨を眺める。肩がぶつからないくらいの距離で並んでいるのに、息は近い。雨は線になって、途切れず地面を叩き続けた。その音の上に、朔の短い呼吸と、瞬の噛む音が重なる。言葉は要らなくなって、二人ぶんの沈黙だけがちゃんと残った。
「文字通りの雨宿りってやつ」
瞬が言うと、朔は一拍置いて頷いた。
「だな」
雨は、まだ降っている。二人の間だけ、少しだけ晴れた気がした。
そして今。あのときも、雨はうるさかった。でも、空白はまだ、こんなに響かなかった。
自動ドアが開いて、蛍光灯の白が瞬を迎える。夜中のコンビニはがらんとして、客は瞬一人だけだった。レジの横。ホットケースの中で、肉まんが湯気を曇らせている。空腹じゃない。それでも目だけが、そこに吸い寄せられた。
「……肉まん、一個ください」
自分の声が、雨音の余韻に薄く混じる。店員が頷き、レジ袋が軽い音を立てた。欲しかったわけじゃない。ただ、手の中に温度がほしかった。レジ袋を受け取って、瞬は店の外へ出た。
自動ドアが閉まると、蛍光灯の白は背中で途切れて、雨の気配だけが戻ってくる。庇の下。小ぶりの雨が、街灯の光を薄く削りながら落ちていた。水たまりに触れるたび、音が小さく弾んで、夜の静けさに穴を開ける。
瞬はレジ袋から肉まんを取り出して、両手で包む。湯気が指の間から逃げて、眼鏡も何もない視界を一瞬だけ曇らせた。一口。熱い。でも、その熱さが喉を通っていくのを確かめるみたいに、もう一口。
庇の縁から落ちる雨を眺める。並ぶ相手は、いない。自分の影だけが足元に落ちている。雨は軽いのに、音は意外と重い。ひとつひとつが同じ場所を叩いて、時間だけを刻んでいく。瞬は黙って噛んだ。咀嚼の音が、やけに大きい。味は分かる。でも、そこに重なるはずだった呼吸がないぶん、空白だけが増えていく。
胸の奥が、遅れて痛みを思い出したように軋んだ。雨音がずっと同じ調子で降っているのに、瞬の中だけが急に騒がしくなる。あのとき。一緒の傘に入っていれば。そうすれば――と、何回も考えたことを、また考える。意味がないのに、止まらない。
手に持った、肉まんを噛む。味は、あるはずだ。甘いとか、しょっぱいとか、熱いとか、そういうのは分かるはずだ。なのに、舌の上を通り過ぎていくだけで、何も残らない。感じているはずなのに、感じない。そのことが、最も怖かった。瞬は喉の奥で息を詰まらせて、笑いそうになる。笑う理由なんてないのに、笑いの形だけが浮かんでくる。後悔が、遅い刃みたいに胸を引く。
――あのとき、あの瞬間。
コンビニの庇の下。一人のはずだった。なのに。隣に、朔が立っていた。
目線が合う。最後に別れたときの姿のまま。進学校の制服をきちんと着て、前髪ひとつ乱さない。雨に濡れたはずの気配だけが、そこだけ乾いているみたいに静かだ。朔は何も言わない。瞬が知っている顔のまま、ただ、瞬を見つめている。
「……朔」
呼んでも、返事はない。もう一度、名前を呼ぶ。喉が震える。
「朔……!」
それでも朔は黙ったまま、瞬の方を見る。
何かを責めるでも、慰めるでもなく、ただそこにいる。瞬は手を伸ばした。確かめたかった。この温度が、幻じゃないって。指先が、朔の輪郭に触れた――はずの瞬間。
手は、何も掴めずに通り抜けた。空気だけが冷たく揺れて、朔の目だけが、少しだけ悲しそうに細くなる。次の瞬間、雨の白に溶けるみたいに、朔は消えた。残ったのは、雨音と、肉まんの湯気と、触れられなかった手のかたちだけだった。瞬はその手を、行き場もなく宙に残した。握っても、ほどいても、何も変わらない。
肉まんはまだ温かい。けれど、その温度は誰にも渡せず、自分一人ぶんのまま指の中で冷えていく。雨は変わらず降って、庇の縁から同じ場所へ落ち続ける。音だけが正確で、瞬だけが置き去りだった。瞬はもう一口かじって、飲み込んだ。味は分かる。それでも胸の中は空っぽで、名前のない穴だけが広がっていった。
