雨の音が、窓の向こうを白いノイズで満たしていた。
瞬は薄い布団に沈んだまま、惰眠を貪っている。雨の日は、時間の目盛りが溶ける。起き上がろうと思う前に、瞼が先に閉じてしまう。枕元でスマホが一度だけ震えた。通知の光が天井に薄く跳ねて、すぐ消える。瞬は手を伸ばさない。
カーテンの隙間から差し込む昼みたいな灰色が、部屋の輪郭をぼかしている。湿った空気が肌にまとわりつき、Tシャツが背中に張りついた。隣人の足音。階段を上る金属の鳴り。遠くの車の水を切る音。それら全部が、雨音に薄く溶けていく。
もう一回だけ眠ったら、何かが少しだけマシになる。そう思って、瞬は顔を枕に押しつけた。ざあ、という雨音が体育館の屋根を叩く音に似ていると気づいた瞬間、記憶が勝手に引き出された。
中学の体育祭。あの日も朝から空が落ち着かなかった。晴れると言われていたのに、湿った風がグラウンドの上を撫で、土の匂いだけが濃かった。青空には少しの灰色が浮かぶ。テントの布はまだ乾ききらず、白いシートに落ちた水滴が小さな星みたいに光っていた。
クラスのやつらが騒いでいる。色の付いたハチマキを頭に巻き、全身に日焼け止めを塗り、意味もなくテンションを上げている。瞬は、そういう空気が嫌いじゃなかった。嫌いじゃないのに、どこか落ち着かない。その理由は、分かっていた。
朔が、そこにいる。朔は派手に騒がない。テントの柱の影で、結び目を直している。ハチマキの端を揃える指先が、いつもと同じくらい静かだ。
「お前、ちゃんと結べてる?」
朔は瞬の方を見ずに言った。声だけが近い。手元は、自分のハチマキの端を揃えている。
「結べてるし」
瞬はわざと強めに返す。体育祭の日まで、朔に世話を焼かれるのが気に入らないふりをしてみせた。
「じゃあ、ほどけたら自分で結び直せよ」
「余裕」
「ほんとかよ」
朔が小さく笑った。瞬はその笑い方に、いつも腹が立つ。腹が立つのに、安心する。
「お前さ、マジ細けえ」
「細かくない。瞬が雑」
「うるせー」
朔は「はいはい」とでも言いたげに息を吐いて、それでも手が伸びてくる。瞬の後頭部で結び目をつまむ。少しだけきつく。少しだけ整えて。
「痛っ」
「ほどけるよりいい」
淡々と、いつも通り。結び目を整える指先が、やけに慣れている。瞬は自分が、何度こうやって触れられてきたかを思い出してしまう。
「朔、将来ぜったい奥さんに嫌われるぞ。うるさすぎ」
「嫌われないよ」
「根拠は」
「だって、必要なことしか言ってないだろ」
真面目な顔で言うから、瞬は笑いそうになる。笑うと負ける気がして、わざと咳払いをした。朔は結び目を離して、今度は瞬のゼッケンの角を指で弾いた。
「曲がってる」
「いいだろ別に」
「よくない」
そう言いながら、朔は結局直す。瞬はため息みたいに舌打ちして、でも肩をすくめて任せた。
「ほら」
朔が一歩引いて、瞬の胸元を見上げた。
「……なんだよ」
「それで、カッコよくなったろ」
一瞬だけ、朔の声が軽くなる。瞬は耳まで熱くなる気がして、すぐに顔を背けた。
「元から俺はカッコいいだろが」
「ふっ、そうだな」
朔はまた小さく笑って、瞬の腕を軽く叩いた。
「次、出るんだろ。転ぶなよ」
瞬は舌打ちして頷く。
「転ばねえよ」
瞬は言い切ってから、わざと朔の方を見ない。見たら、余計に落ち着かなくなる。朔は一歩近づいて、瞬の肩のあたりを指でつついた。
「瞬、足は速いんだから。余計なこと考えなくていい」
「余計なことって何だよ」
「カッコつけるとか」
「うっせ」
「ふふ、じゃあ無心でやれ。緊張してるんだろ」
瞬は一瞬だけ言葉が詰まった。図星を突かれたみたいで腹が立つ。腹が立つのに、朔に言われると少しだけ緊張がほぐれた。
「……別に緊張してねえ」
「そうか。じゃあ、勝て」
朔は軽く言って、瞬の背中を掌で一回だけ押した。押すというより、送り出す。
「行ってこい」
瞬は舌打ちで返して、でも口元が少しだけ上がった。
「言われなくても行くわ!」
胸の奥が、どくり、と跳ねる。
「おい、瞬!」
呼ばれて振り返ると、クラスのやつらが寄ってきた。ハチマキがずれて、頬に白い粉がついて、みんな笑っている。笑いながら、目だけは妙に真剣だ。
「アンカーだろ! 頑張れよ、瞬」
誰かが言って、瞬の背中を叩いた。次のやつが、肩を掴んで揺さぶる。
「一番でゴールしろ、マジで!」
「当たり前」
瞬が口だけで返すと、今度は別の声が被さった。
「こけんなよ! あと、バトン落とすな!」
「落とさねえって」
笑い声。紙のメガホンの乾いた音。誰かが背中を押す。
「瞬、ここで決めたらヒーローだぞ」
「別にヒーローとか要らねえ」
そう言いながら、瞬は胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
「ほら、行けって!」
背中をもう一回、押される。押す手は乱暴で、でも温かい。瞬は笑って手を上げた。
「余裕」
余裕なわけがない。走る前の足はいつも少しだけ軽く震える。それでも瞬は、その震えを見せない。
アンカーの走者は、スタートラインに立たない。瞬はコース脇、バトンゾーンの白線の内側で、膝に手をついて呼吸を整えていた。土が湿っている。靴の裏に土がつく。踏み出すたび、足元がほんの少しだけ吸い付く。前の走者が、遠くでカーブを曲がった。クラスの声が一段大きくなる。
「来るぞ!」
瞬は顔を上げる。目線の先で、同じ色のハチマキが跳ねている。バトン。濡れた光を帯びたその棒が、手から手へ渡っていくのを見ているだけで、胸の奥が熱くなる。走って、勝って、みんなに見られて。それで何かが埋まる気がした。
瞬は肩を落として、腕を後ろへ引いた。手のひらは開く。指先は揃える。バトンの逃げ道を作らない形。受け取る前に軽く走り出す。足音が近づく。地面を蹴る音。荒い息。
「瞬、行くぞ!」
前の走者の声が背中から刺さる。瞬は強く前へ踏み出して、同時に右手を後ろへ差し出した。
「任せろ!」
返事は、叫びというより合図だった。
バトンが来る。叩きつけるんじゃなく、滑り込ませる。前の走者の指が離れる瞬間、瞬の指が閉じていく。硬い感触が掌の骨に乗り、重みが自分のものになる。遅れるな。止まるな。瞬は受け取った瞬間から加速した。二歩目で腰を前へ。三歩目で視界が開く。
湿った土を蹴ったはずなのに、足が軽い。日差しが背中を押して、風が汗をさらっていく。視界の端で旗が揺れて、空の色が一瞬だけ見えた。前を走る他クラスの背中が近い。ハチマキの色。肩の上下。呼吸の荒さ。
瞬は外側へ一歩だけラインをずらした。舞い上がった土を避けるためじゃない。抜くための角度。並ぶ。追い越す。靴音が一つ、後ろへ落ちる。もう一人。また一人。風の抵抗が変わるたび、身体が前へ出る。誰かの視線が刺さって、歓声が一段上がる。コーナーに入る。砂埃が細く舞い、光の筋がそこに刺さる。瞬は腕を振った。足を回した。呼吸が焼ける。喉が乾く。それでも、まだ出る。
前方には、ゴールテープの白が見える。最後の直線。瞬は歯を食いしばって、もう一段だけ上げた。世界がまっすぐになる。音が遠のく代わりに、空の明るさだけが濃くなる。ごぼう抜きにした分だけ、背中に風が生まれる。テープだ。瞬は胸を突き出した。白い布が弾けて、乾いた音がした。
一拍遅れて、歓声が波みたいに押し寄せる。途中で一度だけ、横目で朔を探してしまう。クラスの応援が、熱で膨らんでいた。赤い旗がばさっと翻り、紙のメガホンが叩かれて乾いた音が跳ねる。土の上を走るたび、砂埃が薄く舞って、日差しがそれを金色に光らせた。
その向こう。コースの外、テントの影から一歩だけ出て、朔が腕を上げていた。普段は大声を出さないくせに、口が動いている。声は歓声に潰されて届かない。それでも、名前だけは読めた気がした。
――瞬。
見てる。見張ってる、じゃない。ちゃんと、応援してる。その事実が、瞬の足をもう一度だけ前へ出した。胸が痛い。喉が焼ける。瞬は笑った。笑って、朔を探した。朔は少し遅れて、コースの外側から瞬の方へ歩いてきた。さっきまで上げていた腕を下ろして、呼吸だけを整えている。汗で前髪が額に張りついているのに、涼しい顔をしている。その余裕が、瞬には腹立たしい。
「ほら、瞬」
朔が差し出したのは、水じゃなくて小さなタオルだった。瞬は受け取って、乱暴に顔を拭く。タオルが湿って、火照った皮膚の上をすべる。
「水は?」
「あとで。今は顔」
「意味わかんねえ」
「土」
朔は淡々と答えて、瞬の頬の横を軽く指で示した。そこに土が跳ねているのを、瞬は今さら気づく。
「……ついてんの?」
「ついてる」
「最悪」
瞬がタオルを押し当てると、朔はその手首を軽く止めた。止めるというより、いつものように手つきを直す。
「いや、こっち拭けよ」
指先で角度を変えて、タオルの端をちょいと引く。布が頬に当たって、くすぐったい。
「……自分でできるし」
「できてないから」
「うるせーな、朔」
瞬はタオルを奪い返すみたいに拭き直した。その様子が面白かったのか、朔がふっと笑う。
「勝ったか? 瞬」
「見てたくせによ」
「見てたよ」
朔は当然のように言った。当然のように、瞬のことを。瞬はその言い方が、なぜかむず痒くて誤魔化すように朔へタオルを返す。
「……お前、マジで保護者」
「幼馴染」
「同じじゃねえ」
「同じじゃないけど、似てるよ」
朔はそう言って、受け取ったタオルの端を揃えて、丁寧に畳んだ。
「ほら。水」
朔はさっきまで自分が持っていたペットボトルを、何でもない顔で差し出した。ラベルの水滴が、指先で光る。
「お前のだろ」
「半分残ってる。飲め」
命令みたいなのに、声は穏やかで。瞬は文句を言う口を開けて、結局閉じた。
「……ありがとう」
小さく言ってしまって、瞬は自分で驚いた。朔は返事をしない。代わりに、また笑う。
「次、なんの種目だっけ、朔」
「ああ、確か――」
そこへ、遅れて歓声が雪崩れ込んできた。
「瞬!!」
クラスのやつらが走ってくる。ハチマキを振り回し、紙のメガホンを叩きながら、声だけで地面を揺らす。
「やばい、あれマジでごぼう抜きじゃん!」
「アンカー最強!」
「ヒーロー! ヒーロー!」
背中を叩かれ、肩を掴まれ、腕を引っぱられる。息がまだ整っていないのに、笑いだけは先に出た。
「うっせえなあ!」
照れ隠しに吐き捨てると、誰かがもっと大きく笑った。
「照れてんじゃねえよ! ほんとに勝ったな!」
朔は少し後ろで、その騒ぎを見ていた。言葉は挟まない。でも、目だけが一瞬だけ柔らかくなる。そのまま視線を外して、誰にも聞こえないくらい小さく「よかった」と息を落とした。そして、また笛が鳴った。
次の種目の整列。放送の声。クラスのやつらの、無駄に大きい返事。瞬はまだ息が落ち着かないまま、列の端に押し込まれる。汗が乾く前に、また走って、また笑って。気づけばタオルは首に引っかかり、ペットボトルは空になっていた。応援の声は何度も波みたいに寄せて、引く。土の匂いに混じって、甘い焼きそばの匂いが流れてくる。朔は相変わらず、必要なときだけ近くにいて、必要なことだけ言った。そうして一日が、騒がしさごと少しずつ軽くなっていく。
――夕方。遠くの空が薄く明るい。グラウンドの隅に残った水たまりが、夕陽をすくって橙に輝いた。朔が、ぽつりと言う。
「楽しかったな。中学最後の体育祭」
瞬は「は?」と返すつもりだったのに、言葉が出なかった。その一言が、胸の奥で何かを柔らかくした。
今になって思えば、あれが最後だった。二人で、同じ場所を見て、笑ったのは。
