雨にほどける




 雨は、途切れることなく降りしきっていた。

 窓の外は、ずっと同じ色だ。濡れた街灯が鈍く光って、空は低いところで重たく垂れている。雨は世界を洗い流すというより、薄い膜で世界を覆っているようだった。

 今日は母が仕事だ。台所は静かで、冷蔵庫のモーター音だけが時々鳴った。瞬は布団から起き上がれないまま、天井の染みをぼんやり数えていた。何もする気が起きなかった。この空模様じゃ、現場の作業はできないだろう。それは建築のバイトが中止になる、という現実的な理由のはずなのに、瞬の中ではただの免罪符みたいに響いた。

 学校には――目が覚めるまでは行くつもりだった。目を開けたとき、行こうと思った。意識が完全に覚醒してからは、身体が動かなかった。

 部屋の中はひんやりとしている。梅雨寒。夏のはずの暦だけが先に走り、部屋はまだ春の体温を引きずっている。畳んだTシャツには乾ききらない匂いが残り、布は空気の重さを覚えたまま冷たい。素足で踏む床は、薄い氷みたいにひやりと貼りつく。窓辺の壁紙は、雨の息を吸って、うっすらと湿る。

 蝉だけが来ない。来るはずの夏の声が欠けている。その代わりに、換気扇の低い唸りと冷蔵庫の脈が、家の中の季節を決めている。今年の梅雨は長くなるらしい。瞬にとっては、過ごしやすくて助かった。湿度はあれど、冷房を点けなくても快適だ。

 その冷房という単語が、ふと胸の奥を撫でた。そういえば――朔は冷房の風が苦手だった。夏だというのに、いつもカーディガンを手放さない。薄い布を肩に掛けたまま、涼しい顔で、いつも瞬の近くにいた。


 放課後の教室。冷房の風が、教室の端を斜めに切っていた。瞬は平気だった。むしろ汗が引いて助かるくらいで、机に頬杖をついてぼんやりしていた。けれど朔だけは、風の通り道にいると肩をすくめる。背中の首筋を押さえるみたいに、薄いカーディガンを引き寄せた。

「またそれ。暑くねえの、朔」
「まあ、正直暑い」
「じゃあ脱げよ」
「無理。風が嫌いなんだよ」
 朔はそう言って、肩をすくめた。それから、涼しげに――爽やかに、笑った。夏の教室の白い光に、その笑みだけがやけに澄んで見える。瞬は、なぜか目を逸らしてしまった。胸の奥が、冷房の風とは別のもので撫でられた気がして。それが何なのか分からないまま、指先で机の端をなぞる。誤魔化すみたいに、瞬は声を荒くした。

「朔、消しゴム半分くれよ」
「また無くしたのか」
 朔は当たり前のように言って、瞬の机に自分の消しゴムを転がして寄こす。

「うるせー」
 もう帰るだけの時間なのに、瞬の机の上はひどかった。開いたままのノート。配られたプリントが何枚も、重なったまま斜めにずれている。消しゴムのカスと、シャーペンの芯。誰かが落としていったヘアゴムまで混じって、机の端から今にも床へ散らばりそうだった。朔はそれを見て、小さく息をついた。呆れたように。それでも怒鳴ったりはしない。

「つーか、瞬。机の上が汚いぞ」
 言いながら、もう手が動いていた。朔の指が、瞬のノートの端を押さえる。散らかったプリントを一枚ずつ揃えて、角をぴたりと合わせる。瞬はそれを邪魔だと言うくせに、片付ける朔の姿をじっと見ていた。鼻先をかすめる柔軟剤みたいな匂いに、瞬は視線を泳がせる。それを誤魔化すみたいに、朔の肩に掛かった薄い布を指でつつく。

「それ女みたいだな」
 瞬は、そうやって笑った。笑って、朔の眉が少しだけ寄るのを見て、それで満足した。朔は反論しなかった。


 今になって思えば、あれは朔の反応が見たかっただけの、子どもじみた意地悪だった。本心では、女みたいだなんて思っていない。似合っていたし、その姿を見ると夏という季節を感じられた。でも、もう訂正できない。雨の向こうへ流れていった言葉は、戻ってこない。

 瞬は枕に顔を押しつけた。布が湿っている気がした。自分の息のせいか、雨のせいか、分からない。その湿り気が、いつの間にか部屋の隅まで広がっている。押し入れの襖の境目。机の脚。カーテンの裾。触れていないのに、そこだけが濡れたみたいに色が濃い。

 瞬は顔を上げた。部屋に風はない。窓も閉まっている。それなのに、カーテンがほんの少しだけ揺れた。揺れたというより、誰かが通り過ぎた痕みたいに、布が遅れて追いつく。次の瞬間。

 ぽた。水滴の落ちる音がした。天井からだ。瞬は反射的に見上げた。天井は乾いている。染みはある。でも、今落ちたはずの水の筋はない。もう一度。ぽた。同じ場所じゃない。部屋の真ん中。まるで、見えない誰かが濡れた指先で、床を確かめているように。

 瞬は息を止めた。雨音が、いきなり遠くなる。耳が塞がれたみたいに、外の世界が薄い。その代わり、部屋の音が浮く。冷蔵庫のモーター。換気扇の唸り。自分の呼吸。そして――床の上を、何かが擦る音。

 す、と。濡れた布が床を撫でるような音が、部屋の奥から手前へ来る。瞬は動けなかった。目だけを動かして、床を見た。床に、足跡があった。はっきりとした形じゃない。水の輪郭だけが、うっすらと人の足の形をしている。一つ。また一つ。外から続いてきたみたいに、部屋の中へ伸びている。瞬の喉が鳴った。

 ――朔。

 名前を呼ぶ寸前で、瞬は口を閉じた。呼んだところで、どうせ。そう思った瞬間、足跡の終わりが、布団の脇で止まった。止まった、というより――そこで向きを変えた。布団の端が、す、と沈む。誰も触れていないのに、重みだけが落ちたみたいに。瞬の膝の横。そこに置きっぱなしだった制服の上着が、湿った指で撫でられたように、しわをほどいていく。

 瞬は息を吸えなかった。怖いのに、確かめたくないのに。それでも耳だけが拾ってしまう。雨音の奥に。かすかに、布の擦れる気配が混じる。――いや。擦れるのは、近づいてくる音じゃない。押し入れの襖が、ほんのわずかに軋んだ。瞬が投げ込んだままの鞄が、床の上で、見えない何かに押し戻される。玄関へ行く道を、塞ぐみたいに。瞬は背中の皮膚が粟立(あわだ)つのを感じた。

 誘っている、そう思った。行け、と。来い、と。雨の向こうへ、境目の向こうへ。それが“止める”手つきだったのかどうかは、瞬には判断できなかった。ただ、部屋の中に残ったのは、逃げ道ごと塞がれるような静かな圧だった。朔らしき気配が、確かにこの部屋に立っているのだと分かった瞬間、瞬は気づいてしまう。それすら、己は欲しがっている。会いたい。

 意を決して、瞬は布団を押しのけ、床に足をつけて立ち上がる。湿った空気が肌に張りついて、服の内側まで冷えた。部屋中を見渡す。何も変わったことはない。いつもの狭苦しい自分の部屋だ。

 壁際には、開きっぱなしの教科書が山になっている。その横で、授業のプリントが床にまばらに散らばっていた。一枚は机の脚に引っかかり、もう一枚は踏まれて角が湿気で波打っている。黒いインクがところどころ滲んで、赤で書いた丸だけがやけに生々しい。椅子の背に掛けたままのタオル。床に転がった空き缶と、半分だけ潰れた菓子の袋。安い整髪料の匂いが、雨の匂いに混じって薄く残っている。不良高校生らしい、だらしない部屋。そこに、死んだ朔がいるはずがない。

 ――それでも。胸の真ん中に、穴が空いている。埋めようとしても埋まらない。何かを詰めれば詰めるほど、逆に輪郭だけがはっきりして、冷たい。朔がいない。その事実が、毎朝いちいち新しくなる。目を開けるたびに、まず欠けている場所を探してしまう。探して、見つからなくて、息が浅くなる。

 会えない。触れない。声も聞けない。それなのに、たった今、部屋の中に残った気配は雨の匂いよりも濃くて。瞬の中の空白に、ぴたりと合う形をしていた。怖い。けれど、怖さより先に、飢えが来る。一度でも満たされたら、もう戻れないと分かっているのに。

「……朔」
 名前だけが、喉の奥から落ちた。欲しい。この空白を埋められるのは、結局お前しかいない。そう思ってしまう自分が、一番嫌だった。瞬は拳を握りしめた。爪が掌に食い込む痛みで、今ここで生きているのを確かめる。それでも、胸の穴は痛みひとつで塞がらない。

「朔……会いたい」
 声は、願いというよりも、呪いのように部屋へ落ちた。