雨にほどける




 雨は、世界の輪郭をほどきながら降り続いていた。

 中学生の頃。瞬が、ほんの少しだけ――勉強を頑張ろうと思った時期があった。中二、同じ学年で、同じ教室で、同じように制服を着ているのに。朔の未来は、もう輪郭がはっきりしていた。

「次は、ここ」
 朔はノートの端を指で押さえ、瞬の教科書を真っすぐにした。ページの角が揃う。開き癖のついた紙が、朔の指先に従って一瞬だけ素直になる。その手つきが落ち着いていて、指先まで整っている。瞬はいつも、それを見てしまう。朔は頭がいい。それだけじゃない。朔は、最初から“まっすぐな未来”の側にいる。

 朔の家は、いい家だった。大きな一軒家。玄関の前に、小さな庭がある。雨が降ると、石畳が濃い色になって、植木の葉が艶を増す。家の中はいつも静かで、階段を上る音さえ、どこか吸い込まれる。朔の両親は、一流の大学を出て、一流の企業に勤めている。家の中にある言葉が違う。

 進路。成績。将来。それが特別な話じゃなくて、食卓に並ぶ味噌汁のように自然と置かれていた。

 対して瞬は違う。お世辞にも広いとは言えないアパート。壁は薄くて、隣人の生活音が夜になるとよく聞こえた。階段は外にむき出しで、雨の日は鉄が冷たく鳴った。母子家庭。母親と二人。同級生の中でも、瞬の母は若い。十八の頃に瞬を産んだ。瞬は父親の顔を知らない。写真も、名前も、まともに聞いたことがない。訊くと母は笑う。笑って、終わりにする。

 その違いを、瞬はずっと“分かっているふり”で飲み込んでいた。でも――中学に上がってから、一度だけ夢を見た。朔と離れたくない。朔と同じ高校に通えたらいい。それは願いというより、祈りに近かった。中学までは一緒でも、高校からは離れる。馬鹿な瞬でも、それくらいは容易く理解している。朔が行くのは、制服がきっちりした進学校。瞬が行くのは、名前を書ければ入れるようなところ。そんなふうに、勝手に線を引く自分がいる。

 だから、もし。自分が今よりも賢くなれたなら。朔と同じ制服を着て、同じ坂を上って。同じ校門をくぐって。同じ帰り道を、当たり前みたいに歩けるかもしれない。

 瞬はそれを、口には出さなかった。口に出したら笑われる気がした。笑われなくても、自分で自分を笑ってしまう気がした。朔の当たり前の中に、自分を置きたがっているのがバレるのが怖かった。でも朔は、言葉にしない瞬の夢みたいなものを、当たり前の顔で拾ってくる。

 拾う、というより。朔は最初から、そこに瞬の席があるように扱う。

「ここ、符号。変えないと」
 朔は淡々と指摘する。怒っていない。馬鹿にもしない。ただ、できるようになって当たり前みたいな声だ。その声が、瞬にはずるい。

「……何でそんな偉そうなんだよ。腹立つ」
「落ち着いてるだけ」
 朔は即答して、瞬のノートの一部分を指で叩いた。

「ここ。符号を間違えると、次が全部ずれる」
「分かってるし」
 強がって言った。朔の前だと、ついそうなる。本当は、分かっていない。分かっていないことよりも、分かっていない自分が嫌だった。朔は一度見れば解ける。瞬は同じところで何度も躓く。それが恥ずかしい。朔の家の静けさや、机の上の整い方みたいに。朔の“当たり前”の中に、自分の鈍さだけが浮いて見える。

 瞬は視線を落とし、ノートの余白に爪を立てた。紙が少しだけへこむ。
「……やっぱ俺、向いてねえわ。勉強」
 冗談みたいに言ったつもりだったのに、声が軽くならない。朔はそこで、初めてシャーペンを止めた。

「向いてないって、決めるのは早いよ」
 朔の声は優しいわけじゃない。でも、突き放しもしない。いつもと同じ温度で、瞬の言葉だけをちゃんと拾う。

「だって俺、遅いじゃん」
「遅くない。今やってる」
 朔はそう言って、瞬のノートの端を軽く指で押さえた。逃げないように、じゃない。一緒に見よう、という合図。

「できるまでやればいい。俺、ここにいるし」
 “いる”という言い方が、瞬の胸の奥に小さく刺さる。優しい棘。瞬は顔を上げられずに、笑ってごまかした。

「……何その、当たり前みたいな言い方」
 朔は肩をすくめない。真面目な顔のまま、当然みたいに言う。

「当たり前だろ。幼馴染なんだから」
 その一言で、瞬の劣等感が少しだけ形を変える。恥ずかしさに混じって、救われるみたいな気持ちが出てきてしまう。朔は笑わない。でも、呆れたように口元だけが少し緩む。

「やろうよ、瞬」
 動かない眉。変わらない声。シャーペンの先で式の頭に小さくマイナスを書き足して、朔は言った。

「……ほら、こう」
 淡々。いつも通り。その“いつも通り”が、瞬には安心で、少し悔しい。

「うっせ。今やる」
 瞬が教科書に顔を近づけると、朔は瞬の前髪を避けるみたいに、ノートを少しだけずらした。指が紙の端を押さえる。

「はい、次」
「……先生かよ」
「先生じゃない」
 朔は短く返して、それから珍しく小さく笑った。その笑いが出ると、瞬もつられて笑いそうになる。

「じゃあ何。俺の専属?」
「専属でいいから、やる」
 朔はさらっと言う。からかいじゃなく、本気の声で。瞬は一瞬だけ黙って、わざとシャーペンをくるくる回した。わざと指先を滑らせて、床に落とす。かちん。朔の視線が、一瞬だけ瞬の手元に落ちる。

「また」
 責める声じゃない。「またか」っていう、慣れた声。

「わざとじゃないし」
「落ち方がわざとだ」
 朔は言い返しながら、椅子を引く音を立てずに屈んで、シャーペンを拾って、瞬の指先に戻した。そのとき、指が触れた。ほんの一瞬。朔は何も気づかないみたいに、すぐに手を離して、またノートに目を落とす。

「続き。次、これ解いて」
 命令形。でも、突き放しじゃない。朔は淡々と言って、シャーペンで途中式を書き直した。シャーペンの芯が紙を擦る音が、静かな部屋で、やけに大きい。見下しているわけじゃない。諦めてもいない。朔は、瞬を“できない側”に置かない。

 それが怖かった。嬉しいのに。胸の奥が熱くなるのに。同時に、冷える。自分の方が、先に折れる未来を知っているように。折れた瞬間、朔の手を振り払ってしまう未来を。まだ何も起きていないのに、瞬はそれを先に想像して、勝手に苦しくなる。

「朔」
 瞬が呼ぶ。
「なに」
 朔は顔を上げた。目が真っすぐで、いつもより近い。その目で見られると、瞬はどこにも逃げられない。自分の中の汚いところも、弱いところも、全部見透かされる気がする。瞬は「同じ高校」と言いかけて、やめた。代わりに、いつものふざけた声を作る。

「なあ。朔ってさ、何でそんなに決めてんの」
「なにを」
「進路とか。将来とか」
 朔は少し考える。考える、というより、言葉を整える。

「決めてるっていうか……」
 朔は視線を逸らさずに言った。
「やりたいことがあるだけ」
 瞬は喉の奥がきゅっとなる。やりたいこと。それを持っていていい、って感じがする。

「ふーん」
 瞬は笑って、鼻で息を吐いた。
「俺にはねえわ。やりたいこと」
 朔は即座に否定しない。否定しないまま、瞬のノートの余白に、丸を一つ書いた。

「今はなくてもいい」
「……なにそれ」
「そのうち、できるよ」
 朔の声は、当然みたいだった。当然みたいに、瞬の“そのうち”の中に自分も入っているみたいだった。瞬は、そこで急に怖くなる。同じ高校。同じ道。言葉にしたら壊れる。だから、またふざける。

「俺、天才になったらどうすんの」
 ふざけた声を作ったのに、喉の奥だけが本気だった。朔は一拍置いて、ほんの少しだけ口元を緩めた。

「そんときは、ちゃんと行きたいとこに行けばいい」
 さらっと言う。まるで、瞬が行きたい場所を“持っていていい”と最初から決まっているように。瞬の胸の奥が、どくりと鳴る。ちゃんと。行きたいとこ。その言葉が、瞬には眩しすぎた。まっすぐすぎて、直視すると目が痛い。瞬は笑ってごまかそうとして、失敗した。口元がひきつって、息だけが出る。

 ――もし、自分が少しでも賢くなれたなら。その続きは、希望じゃなくて。朔の隣に立ちたい、という願いと。朔の隣に立てない、という現実が。同じ重さで胸の中に落ちる感覚だった。そしてその二つが、いつか自分を壊す。瞬は、なぜかもう知っていた。だから、怖さの方に繋がり始めていた。