雨にほどける




 雨は、瞬の行く先を全部同じ色に塗りつぶしていた。

 空も、電柱も、看板も、車のボディも、濡れたアスファルトも。灰色の膜を一枚被せられて、輪郭だけが滲んでいく。さっきまで、確かに見えた。交差点をいくつも越えた、街灯の粒の向こうに。傘も差さずに、整った制服姿で、瞬を見ていた。

 氷室朔。どくり、と胸の内側が鳴った。鼓動が一度跳ねて、その反動で息が詰まる。心臓は胸の中にあるはずなのに、喉の奥で鳴ったように近い。瞬はその方向へ歩いた。歩きながら、途中で走った。

 靴の中で水が鳴る。ぐちゅ、と踏むたびに、水が指先へ押し上げられてくる。制服は雨を吸って重く、袖口が手首にまとわりつく。息を吸うと冷たい。吐くと白い湯気みたいに見えそうで、でも見えない。喉がひりつく。

 ――どこだよ。目を凝らす。街灯の下。バス停の屋根。濡れた看板のガラス。水たまりの反射。朔の輪郭が映りそうな場所を片っ端から探すのに、どこにもいない。

 瞬は交差点を渡り、また渡った。傘の列を避け、走ってくる自転車の水跳ねを受け、靴下がさらに冷たくなる。コンビニの前を通る。さっきの傘立てが見えた。ビニール傘は、さっきより増えている。透明な柄の先に水滴がぎっしり付いて、無数の目みたいに光っている。

 人は入れ替わっている。言葉も、足音も、生活の匂いもある。でも、朔はいない。舌打ちが雨に吸われて、音にならない。たった一瞬。まばたき、ひとつで消える。それが――優しさのはずがない。

 守ってるなら、残れよ。言いたいことがあるなら、言えよ。声も出さない。触れもしない。遠くで見つめるだけ。そういうものほど、たちが悪い。

 瞬は歩道の端で立ち尽くして、濡れた前髪をかき上げた。髪の間から冷えた水が、眉の上をすべって落ちる。指先からも、雨が落ちる。手が震えている。寒さのせいじゃない。会えない。会えないまま、時間だけが過ぎる。

 スマホを開く。画面の明かりが雨粒にぼやけ、文字がにじむ。通知も、時刻も、どれも遠い。空はますます暗くなっていた。雨は止む気配がない。瞬は息を吐いた。

「……帰るか」
 自分でも驚くくらい、声が乾いていた。口の中は濡れているのに、言葉だけ乾く。帰ったところで何も変わらない。でも、このまま歩き回っても、朔は出てこない。

 瞬は踵を返した。アパートの階段を上る頃には、制服はぐしょぐしょで、靴の中まで完全に水が回っていた。階段の鉄が湿って、手すりが冷たい。鍵を差し込む指が滑る。金属が指先で鳴って、何度も入れ損ねる。ドアを開けた瞬間、自宅の中の空気と、台所の匂いが混じって流れ出た。

「瞬?」
 母の声。瞬が顔を上げると、母がエプロンのまま玄関まで歩いてきた。母の休日だからか、家の中は相変わらず“生活”の匂いがする。温かい油と、濡れた布と、洗剤。母の視線が、瞬の足元から肩までを一気に辿った。

「……ずぶ濡れじゃん。何してたの」
 責める言い方じゃない。心配が先に出ている。瞬は答えるのが面倒で、靴を脱いだ。床に水が落ちる。ぽた、ぽた、と音が残る。

「ちょっと、歩いてただけ」
 母は眉をしかめる。

「もう……そんな濡れたら風邪ひくわよ」
 その言い方が、朔のようだった。一瞬だけ笑いそうになって、すぐに喉の奥が詰まった。

 瞬は制服を脱ぎながら、風呂場へ向かった。背中に、母のため息が刺さる。洗濯機の中に濡れた衣服と下着を放り込んだ。浴室のドアを閉めると、外の雨音が少しだけ遠のく。代わりに、換気扇の低い唸りが耳に入った。瞬はシャワーをひねった。

 最初の水は冷たい。肩に当たって、雨と同じ温度だと錯覚する。すぐに熱が混じり、湯気が立つ。雨で冷えた背筋に、熱い湯が落ちる。皮膚の上だけが一瞬、生き返ったみたいに痛い。シャワーの音に、外の雨音が重なる。

 ざあ、ざあ。水が落ちる音。水が叩く音。境目がなくなっていく。瞬は目を閉じた。恐怖は、なかった。怖がるほどの気力がない。ただ、虚しい。その虚しさは、朔が死んだ直後からずっと同じ形をしている。朔がいなくなった次の日も。次の週も。次の月も。世界は、何事もなかったように進んでいった。

 朝、教室に入る。笑い声がある。誰かが誰かの机を蹴って、くだらないことで騒いでいる。窓の外は晴れている。黒板のチョークの粉が舞う。当番が雑に開けた窓から、生ぬるい風が入ってくる。全部、ちゃんと“現実”なのに、瞬の中だけ、音が薄い。水の中にいるみたいに、遠い。

「瞬、今日、寄る?」
「お前またサボったろ」
「マジでヤバいって。留年すんぞ」
 言葉は全部、耳に届く。届くのに、意味が抜け落ちていく。相槌を打つ。笑う。肩をぶつけられても、痛いのは皮膚の上だけ。胸の奥は、ずっと空っぽのまま。昼休み、廊下の端。教師の目が届きにくい場所に、同じように制服を着崩した連中が溜まっている。瞬もそこに混ざった。

「おい瞬、昨日のやつ、マジでウケたわ」
「次、駅前の裏、行く?」
 軽いノリ。荒い笑い方。ポケットの中で鳴るスマホ。目で合図するだけのやりとり。瞬は頷いた。断る理由がない。断る気力もない。誰かの肩を叩く。誰かに肩を抱かれる。それなのに、触れられている感覚だけが、やけに他人事だった。

 放課後、駅前のコンビニの裏。雨上がりの路地は、古い油と生ぬるい排気の匂いがこもっている。自販機の白い光が、濡れた地面に細く伸びる。誰かが買った缶コーヒーが開く音。安いライターの火。笑い声。全部、色があるはずなのに、薄い。輪郭が紙みたいに軽い。

 瞬だけが、そこに立っていないようだ。朔がいたら、たぶん、こういう場所には来なかった。瞬は、そこに気づいた瞬間だけ、心臓の奥が鈍く痛んだ。痛いのに、泣けない。怒れない。何かを壊すほどの熱も出てこない。代わりに、身体が勝手に動く。

 バイト。雨の日は中止になったり、急に呼ばれたりする建築の現場。ヘルメットの中は蒸れて、汗と雨が混じる。手袋の中まで泥が入る。

「お疲れ。今日も助かったわ、沢渡」
 そう言われて、封筒に入った日給を受け取る。紙幣の手触りだけが妙に現実的で、指先が冷える。家に帰って、母に少しだけ渡す。母は「ありがと」と言って、優しい笑顔を見せながら、受け取って、それで終わりだ。瞬はそれが楽だった。何も言われない。何も言えない。

 一日が終わる。終わっても、何も残らない。その繰り返しの中で、瞬の中だけが、少しずつ空洞になっていった。そして今になって、遅れて分かる。朔と一緒にやりたいことは、山ほどあった。

 小学生の頃。中学生の頃。同じ傘の下で、くだらないことで言い合って。帰り道に意味もなく遠回りして。二人して、バカみたいに笑って。あの頃は、そんな時間がずっと続くと思っていた。貴重だなんて、考えたこともなかった。

 失くしてから、やっと分かる。「もっと一緒にいればよかった」「一緒にやりたかった」その全部が、今はもう遅い。遅いくせに、胸の奥だけはしつこく生きていて、息をするたびに痛い。回想は、湯気の中で滲んで、また消える。

 この一年間ずっと胸の奥に住みついていた虚しさが、湯気と一緒に膨らんで、浴室の天井まで満ちていく。そのとき。背後が、重くなった。誰かが入ってきたわけじゃない。足音もない。でも、空気だけが変わる。狭い浴室の壁が一枚増えたみたいに、圧がかかる。瞬は、分かった。

 ――いる。振り向かなくても、分かる。朔。瞬はシャワーを浴び続けた。振り向かなかった。振り向いたら、いなくなる。それが一番、腹が立つ。熱い湯が背中を流れる。雨音とシャワーの音が混じり合う。その中で、瞬の胸の奥だけが、冷えたままだった。