雨にほどける




 雨は、同じ形で降り続ける。

 瞬は歩道を歩いていた。どこへ行くわけでもない。帰るでもない。駅へ向かう道でも、事故現場へ向かう道でもない。ただ、足だけが前へ出る。濡れた制服が肌に貼りつく。シャツの襟元から冷えが入り、背中の骨が一本ずつ浮くみたいに寒い。それなのに、瞬は傘を差さなかった。

 雨を避けたら、朔を避けることになる気がした。そんな理屈はないのに、そう思ってしまう。コンビニの前を通る。店先の傘立てには、透明なビニール傘がぎゅうぎゅうに刺さっている。誰かが急いで放り込んだのか、一本だけ骨が曲がったままの傘が混じっていた。

 瞬は足を止めた。傘。――入れよ、瞬。声が、また蘇る。瞬は舌打ちし、視線を逸らした。買えばいい。けれど瞬は、店の自動ドアの前で立ち尽くして、結局中へ入らなかった。濡れるのが嫌なんじゃない。入れてもらうという行為が、今は怖い。

 瞬が歩き出した、そのときだった。頭上だけ、雨音が薄くなった。ぽつ、ぽつ、と肩に当たっていた冷たい粒が、ふっと消える。瞬の耳が先にそれに気づく。雨が止んだわけじゃない。周りは相変わらず、白い線のように雨が落ちている。

 なのに。瞬の頭の上だけ、まるで何かが覆っているみたいに、雨が当たらない。瞬は立ち止まり、顔を上げた。何もない。空は灰色で、雲が低く垂れている。それでも雨粒は、瞬の頭上を避けるように落ちていく。瞬の喉が、乾いた音を立てた。

「……はは」
 笑い声にならない。否定しようとした。偶然だ、風向きだ、建物の(ひさし)だ。けれど、庇はない。風は一定じゃない。偶然なら、こんなにぴたりと丸いはずがない。瞬はその場で、じっと立っていた。雨の膜が、頭上に一枚ある。見えない傘みたいに。瞬は拳を握りしめる。その瞬間、頭の中で別の雨が降り始めた。


 小さな頃の、短い夕立。視界が、幼い背丈に落ちる。小学生の頃。放課後の校門の前。空は晴れていたはずなのに、急に風が湿って、雲が割れたみたいに雨が落ちてきた。瞬は傘を持っていなかった。ランドセルの中に折りたたみ傘を入れておく、という発想がない。

「うわ、最悪」
 瞬は舌打ちして、雨の中へ飛び出そうとした。濡れても平気だ。走ればいい。そう思ったのは、強がり半分、諦め半分。

 そのとき。肩に、影が落ちた。隣に誰かが立った気配。雨の落ちる音が、少しだけ遠のく。朔だった。細い腕に、子ども用の傘。柄をぎゅっと握って、言葉もなく傘を傾ける。傘の内側に、瞬の濡れそうな肩が入る。

「……なんだよ」
 瞬はぶっきらぼうに言った。本当は、分かっている。それでも何も分かっていないふりをして、相手の手だけをどけたかった。朔は何も言わない。ただ、傘をもう少しだけこちらに寄せる。雨粒が傘の縁で弾けて、瞬の頬の横を冷たい風が撫でた。

「俺も一緒に入ったら……お前、濡れるだろ」
 瞬が言う。朔は一瞬だけ瞬を見る。目がまっすぐで、子どもなのに大人みたいだ。

「いい」
 それだけ。瞬は舌打ちした。

「よくねえ。お前、いつもそうやって」
 “自分の方を”という言葉が喉で止まる。朔はまた黙る。黙ったまま、瞬の肩が傘の内側に入る角度を探すみたいに、傘をほんの少し回した。瞬はそれが嫌だった。優しくされるのが嫌なんじゃない。“自分は大丈夫じゃない”と認めさせられるのが嫌だった。

「いーって。俺、走るし」
 瞬は傘の外へ出ようとする。朔は瞬の袖を、指先で軽く掴んだ。引っ張らない。強く止めもしない。でも、その小さな接触だけで、瞬は止まる。瞬は振り返って、朔の顔を見た。朔は眉を寄せていない。怒ってもいない。ただ、困ったように瞬を見ている。

「……おい」
 朔はようやく口を開いた。

「風邪ひくぞ」
 子どもの声なのに、妙に落ち着いている。瞬はむっとした。

「ひかねえし」
「ひくよ」
 朔は同じ言葉を、同じ温度で繰り返す。それが悔しい。言い返しても意味がないくらい、朔の方が正しい気がする。瞬はわざと乱暴に言った。

「……傘、狭いだろ」
「狭くないよ」
「狭いって」
 瞬は自分の肩をわざと大きく揺らして、傘の縁を雨の方へ押し出した。冷たい雨粒が、朔の洋服の袖に当たる。

「ほら。濡れた」
 瞬は勝ったみたいに言った。朔は瞬の手首を掴んだ。今度は、さっきより少しだけ強い。

「やめろよ、瞬」
 叱る声じゃない。お願いに近い。瞬の胸の奥が、変なふうに熱くなった。

「いやだ」
 子どもみたいに言ってしまう。朔は一拍置いて、傘をさらに傾けた。自分が濡れる側へ。

「じゃあ、俺が濡れる」
 瞬は言葉に詰まった。本当は自分が濡れるより、朔が濡れることの方が、ずっと嫌だ。

「……バカ」
 瞬は小さく言って、結局、傘の内側へ戻った。二人の肩が、少しだけ触れる。触れたところが熱い。雨粒が傘の外側を叩く音が、近い。その近さが、なぜだか安心だった。

「……お前、なんでそんなに」
 言いかけて、瞬は黙った。朔は「なに」と聞かない。代わりに、傘の柄を持つ指に力を込めて、瞬の分の角度を守る。瞬は顔を背けたまま、ぼそっと言った。

「……別に、ありがたくねえし」
 朔は笑わない。でも、否定もしない。

「うん」
 それだけ言って、傘は傾いたまま。瞬の分だけ、いつも少し多めに。


 回想が、そこで途切れる。現実の雨が、また耳に戻る。瞬は歩道の真ん中で立ち尽くしていた。頭上の雨は、まだ当たらない。

「一緒に帰ったよな」
 誰に向けた言葉か分からない。朔に。昔の朔に。駅の朔に。それを拒んだ自分に。

「……同じ傘に入れたくせに」
 瞬はゆっくり歩き出した。不意に、肩の冷たさが消えた。背中の上を滑っていた雨が、遮られる。――誰かが、傘を差した。そうとしか思えない感覚。瞬は振り向いた。そこには誰もいない。ただ、雨だけが降っている。なのに、背後の“気配”だけが近い。

 瞬の首筋を、ひやりとしたものが撫でた。それは雨じゃない。もっと内側の、骨に触れる冷たさ。喉の奥がきゅっと縮む。――守ってる? そんな都合のいい言い方をしたくない。瞬の頭に浮かぶのは、もっと別の想像だ。

 昨夜、あの場所で。自分が「会いたい」と口にした瞬間に現れた朔。喋らない。濡れていない。傘もない。それでも、確かに“そこにいた”。

 そして今。雨が当たらなくなる。肩の冷たさが消える。背後を歩くみたいに、乾いた輪郭がついてくる。それはまるで――生きている側を、濡らさないようにして。その代わりに、どこか別の場所へ連れていくために、道を作っているみたいだ。

 瞬は足を止めた。止めた瞬間、背後の気配も止まる。一歩進むと、また一歩ぶん、ついてくる。合わせている。ぴ、ぴ、ぴ。音響式信号機の音が、すぐ耳元で鳴った気がした。雨の反響だけじゃない。誰かが、合図を出している。瞬は唾を飲み込み、うっすら笑った。

「恨んでんだろ。連れてきたいんだろ」
 声に出すと、現実味が増す。朔が自分を許していないから。朔が自分を連れていくから。そう思ってしまえば、全部が一本の線で繋がってしまう。

「……だったら、さっさと出てこいよ」
 返事はない。ただ、雨だけが降っている。それでも。瞬の頭上の“乾いた輪郭”は、もう一歩ぶん、瞬の背後へ追いかけてきていた。

 瞬は歩き出した。濡れた靴底が水を吸って、歩くたびに小さく鳴る。雨の匂いが鼻の奥に溜まり、視界の端がにじむ。顔を上げる。視線の先――遠い向こう側。交差点を二つ、三つ越えたあたり。街灯の光が雨に砕けて、白い粒になって漂う、その向こう。

 そこに、人影が立っていた。傘を差していない。濡れていない。整った制服姿。襟元は乱れていないのに、雨の中で輪郭だけが浮いて見える。

 氷室朔だった。瞬は息を飲む。どくり、と心臓が鳴った。雨音よりも大きい。胸の内側を叩く音が、全身に響く。朔は動かない。瞬のことを、見ている。視線が合った気がした瞬間、世界の色が一段だけ冷える。

「……っ」
 声が出ない。瞬はまばたきをした。ほんの一瞬。瞼を閉じて、開けただけ。

 ――いない。さっきまで、確かにそこにあったはずの輪郭が、雨の粒にほどけるみたいに消えていた。街灯の光と、水たまりの反射と、車のライト。それだけが同じ調子で流れている。

 瞬は立ち尽くし、唇を噛んだ。見間違いだ、と言い聞かせる前に。胸の奥が、もう一度どくりと鳴った。見間違いなら、このように心臓は覚えていない。瞬は、濡れた息を吐いた。そして、朔が立っていたはずの方向へ、足を向けた。