雨にほどける




 雨の音は、今日も止まる気配がなかった。

 学校へ行くべき時間に、瞬は自宅のアパートにいた。制服は着ているのに、シャツの裾は出たまま。ズボンも腰まで落ちて、たわんでいる。鏡を見ても、衣服の乱れは直す気が起きない。

 昨夜のことが、まだ湿って張りついている。事故現場で朔を見た。……見た、はずだ。

 あの暗い堤防の下で、横断歩道の向こうに立っていた輪郭。雨に濡れているのに、濡れていないみたいに静かで、傘もなくて、それでも確かに氷室朔だった。夢だったのかもしれない。そう思いたいのに、そう思うほど、生活の隙間から昨夜の“雨音”が差し込んでくる。

 瞬は耳を塞ぐように髪をかき上げた。湿気で膨らんだ茶髪のパーマが指に絡む。苛立ちが、そのまま髪型に残っている。
「……行かねえ」
 誰に言うでもなく呟いて、瞬は鞄を放り投げた。

 台所から、まな板を置く音がした。
「瞬、昼。食べるー?」
 母の声だった。今日は仕事が休みだ、と昨日言っていた。母の休日は、特別な行事があるわけじゃない。洗濯と、買い物と、冷蔵庫の整理。いつもより少しだけ家にいる時間が増えるだけだ。

 瞬は返事をせず、いったん廊下へ出た。口の中が、昨夜の雨みたいに苦い。洗面所のドアを開け、電気を点ける。薄い蛍光灯の光が肌に冷たく当たった。蛇口をひねる。水はすぐに温まらず、指先がきゅっと縮む。瞬は顔を洗った。水滴が頬を伝って落ちる。手で乱暴に拭い、顔を上げる。

 鏡の中に、見慣れた自分がいる。茶髪のパーマは湿気でふくらみ、目の下はうっすらと黒い。制服だけは着ているのに、どこにも“行く”感じがない。――本当に、昨夜のは。考えかけた瞬間、背中の空気が変わった。

 洗面所の狭い空間を、誰かが通り過ぎた気配。瞬は息を止めた。鏡の端、肩越しに。黒い影が、すっと横切る。制服の上着をきちんと着た、細い輪郭。濡れていないのに雨の日みたいに冷たい、あの立ち姿。

 氷室朔。瞬が振り向くより早く、影は鏡から消えた。――いない。洗面所には自分の呼吸だけが残る。水滴が洗面台の陶器に落ちる音が、やけに大きい。瞬は鏡を睨みつけた。

「……ふざけんなよ」
 声は小さく、震えていた。台所の方から、母がまた呼ぶ。

「瞬ー。冷めるよー」
 瞬はタオルで顔を乱暴に拭き、何もなかったように顔を作ってから台所へ戻った。狭いダイニングテーブルに、皿が二枚並んでいる。簡単な炒め物と、味噌汁と、ご飯。湯気が立っているのに、湿った空気のせいで温かさが薄い。

「学校は?」
 母は箸を持ったまま、さらっと聞いた。瞬の喉が一瞬だけ固くなる。

「……行くつもりだった」
 嘘ではない。行く“つもり”は、いつだってあった。玄関のドアを開けるところまでは。母は「そっか」とだけ言って、味噌汁を一口すすった。叱らない。責めない。深刻な顔もしない。その淡さが、瞬にはむしろ刺さる。

「バイト、また中止?」
 母が続けて言う。瞬は箸を動かしながら、苛立ちを飲み込む。

「……雨だし。建築は無理だろ」
「そりゃそうだね」
 当たり前みたいに肯定されて、瞬は余計に言葉を失った。愚痴る相手でも、慰めてくれる相手でもない。母はただ、現実を現実として置く。瞬は食べ物を噛みながら、ふと床に目を落とした。

 ――濡れている。椅子の脚の近くに、小さな水のしずくが落ちている。ぽつ、ぽつ、と続く痕が、食卓の下を横切っていた。瞬の背筋が冷えた。

「……母さん、さっき外出た?」
「出てないわよ。今日も雨だし」
 母は瞬の視線の先を追わない。気づいていないのか、気づいていても興味がないのか。水の痕は、足跡の形をしていない。ただ、誰かが濡れたまま、ここを通ったみたいに見える。

 瞬は箸を置き、立ち上がった。椅子の脚が床を擦り、音が響く。その音に重なるように、窓の外を白い光が走った。トラックのライトみたいな、横長の光。瞬は反射的に窓の方を見た。外には雨しかない。車道は見えない角度だ。それなのに、光だけが、部屋の壁を撫でて消えた。

「……やっぱり、いる」
 口から出た声が、自分のものじゃないみたいに震えていた。母は茶碗を置いて、瞬を見上げた。

「瞬――」
 呼ぶだけで、続きを言わない。その呼び方が、不意に別の記憶を引っ張り出す。瞬の頭の中で、雨音が薄くなった。


「瞬、ここ。符号変えろ」
 中学生の頃。夕方の自室。窓の外がまだ明るいのに、机のライトだけが白く浮いている。瞬は数学の教科書を開いたまま、机に突っ伏していた。ノートには途中式がぐちゃぐちゃに伸びて、消しゴムのカスが散っている。

「分かんねえー!」
 投げるみたいに言うと、向かい側に座る朔はため息をついた。進学校に行く前から、朔はもう“ちゃんとしている”顔だった。制服の袖口を汚さないように気をつけて、鉛筆を持つ指先まで落ち着いている。

「分からないじゃない。見て」
 朔は瞬のノートを自分の方へ引き寄せて、途中式を指で追った。

「ここでマイナス掛けたのに、次の行で戻ってる。……ほら、これ」
 朔の声は小さくて、怒っていないのに厳しい。瞬はそれが気に入らなくて、わざと椅子を傾けた。

「朔先生、厳しー。俺、落第生なんで」
「先生じゃない」
 即座に返される。瞬はニヤついて、さらに煽った。

「えー、じゃあ何だよ。こんな丁寧にいつも教えてくれて。俺の恋人かあ?」
 朔の鉛筆が止まった。ほんの一拍。それだけで、瞬の胸の奥が変な熱を持つ。

「……ばか。そういうの、いいから」
 朔は顔を上げずに言った。耳の先が、ほんの少し赤い。瞬はそれが見たくて、わざと机に顔を近づける。

「顔赤くね?  もしかして照れてる?」
「照れてない。早くやれ」
 朔は瞬の額を指で軽く弾いた。痛くない。ただ、触れられたところだけが熱くなる。

「……なあ、朔」
「なに」
 瞬は“難しいから助けて”と言う代わりに、ふざけた声を作った。

「朔の言うことを聞いたら……勉強できるようになるのか?」
 朔はペン先を止めて、瞬を見た。目が合った瞬間だけ、優しい。

「なる。だから、やれ。瞬」
 その一言が、瞬にはずるいほど効いた。記憶が、そこまでで切れる。


 現実の食卓に戻ると、母の視線がまだ瞬の顔に置かれている。瞬は息を吐いた。瞬は母の目を見られず、視線を逸らした。

 朔。お前、何なんだよ。恨んでるのか。それとも――俺を、呼んでるのか。

 瞬は胸の奥で、昨夜の感覚をなぞった。行ってもいいと思った瞬間の、妙な楽さ。何も選ばなくていい、という甘い諦め。その甘さの手前で、いつも何かが瞬を止める。それが朔なら、余計に腹が立つ。

「……出かける」
 瞬はそう言って、台所を出た。母が何か言いかけた気配がしたが、追ってこない。玄関に立つ。靴を履こうとして、瞬はふと立ち止まった。手首が、冷たい。掴まれた。錯覚だ。瞬は振り返った。誰もいない。けれど、そこに“いた”感触だけが残っている。

 瞬は唇を噛んで、雨の匂いのする外へ出た。アパートの階段を降りると、雨粒がすぐに肩に当たった。傘は差さない。濡れるのが嫌なんじゃない。濡れる理由が欲しいだけだ。

 歩道に出る。アスファルトは黒く光り、街灯の輪郭が水たまりの中で歪んでいる。車が通るたび、タイヤが水を裂く音がして、瞬の足元まで冷たい飛沫が飛んだ。瞬はポケットに手を突っ込んだまま、だらだらと歩く。目的は決めていない。決めた途端に、朔に“止められる”気がした。

 ぴ、ぴ、ぴ。すぐ近くで鳴っている。音響式信号機の音だった。雨の中だと、やけに近く感じる。交差点が見えてきた。横断歩道の白線が、水を吸ってぼやけている。

 瞬は車道側に寄って歩く。わざとだ。危ない場所に立てば、何かが起きるかもしれない。その瞬間、肩を押されるような感覚があった。いや、押されたんじゃない。立つ位置が、変わった。気づけば瞬は、歩道の内側――建物寄りの場所にいる。

 瞬は息を呑んで、周りを見回した。誰も触れていない。濡れたコートの袖も、通り過ぎる傘の端も、瞬には当たっていない。それなのに、位置だけが変わっている。胸の奥が、きゅっと縮んだ。――いつも、そうだった。


 瞬の視界が、また昔の色に切り替わる。中学の帰り道。梅雨の手前の、湿った夕方。交差点の手前で、瞬は何も考えずに車道側に立っていた。朔は言葉を発さない。ただ、瞬の腕のあたりを軽く掴んで、無言で引っ張った。瞬は「何だよ」と言いながら、抵抗しない。朔は瞬を建物側に押し込み、自分が車道側に立つ。それが当たり前の並びだった。

 朔の横顔は、夕方の薄い光を受けてやけに綺麗で、瞬は見ないふりをした。
「危ないだろ」
 朔はようやくそれだけ言う。短くて、命令みたいな口調。でも、声は優しい。

「瞬がそこに立つの、落ち着かないんだ」
 瞬は笑って誤魔化した。

「ふふ、過保護かよ」
 朔は笑わない。


 ぴ、ぴ、ぴ。音響式信号機の音を聞いて、瞬は現実に戻る。
「……お前、いんのかよ」
 声は雨にほどけて、すぐ消えた。瞬は濡れた息を吐いて、横断歩道を渡り終えた。車道側は、空いている。朔のいるべき場所だけが、ぽっかりと冷えていた。頭上から降り注ぐ雨が痛かった。