梅雨が明けた。朝から空が青くて、雲がやけに高い。雨の匂いが消えて、代わりにアスファルトの乾いた匂いがする。
朔の幽霊と出会って、一年が経った。瞬は留年しなかった。瞬はあれから、勉強を頑張った。正直に言ってしまえば、勉強は未だに苦手だ。公式を覚えるのも、英単語を詰めるのも、すぐに頭が熱くなる。それでも、朔から教わった勉強のやり方は覚えている。
机に向かう順番。ノートの作り方。分からないところを放置しない癖。一つできたら、ちゃんと線を引いて丸を付けること。朔との大事な思い出の一つ。瞬がそれを忘れるわけがなかった。留年ギリギリだった。でも、何とかなるものだと瞬は思う。何とかすると決めれば、だ。
学校がだるいとか、面倒くさいとか。そういう子どもじみた悪口は、口にしなくなった。言えば、朔の顔が浮かぶ。あの目で見られる気がする。だから、言わない。そうだ、あの日から。幽霊の朔と出会い、そして別れたあの日から。
瞬の周りの人間たちは驚いた。教師も、クラスメイトも――。人が変わったように、瞬は真面目に学業へ取り組み始めたのだから。自分でも、少し笑える。あれだけ机に向かうのが嫌だったのに。そんな変化に、母だけは驚かなかった。優しく、そしていつも通りに接しながら、黙って瞬の背中を支えた。
瞬はもう、建築関係のバイトをしていない。バイトは母の負担を減らしたいと思って始めた。女手ひとつで働いている母を見ていると、じっとしていられなかった。でも母は、瞬の気持ちを察したみたいに言った。
「仕事は、大人になってから嫌ってほどやることになるのよ」
「学校ってのは、今だけでしょ」
「大人になってから、私に楽させてよ」
その言葉が、辞めたきっかけと単純に言い切れるわけでもない。ただ――今、勉強を頑張ればそれは結果として未来の話になる。母が今よりも、もっと楽にできる。そう考えた。そう考えられるようになった。それが、朔と別れてからの一年間、最も大きな変化だった。朔がいない場所で、時間だけが進む。それでも、止まっていた頃の自分から、少しだけ歩けるようになった。
今日、期末テストが終わった。昔の自分のように、テストが終わった直後に不安感は生まれない。解答用紙を出してしまったあと、腹の底が冷えていく感じ。「終わった」と思った瞬間に、逆に何もかも怖くなる感じ。ああいうのが、今はない。自分から進んで努力したという背景がある。だから、こうして胸を張っていられる。
むしろ今の瞬は、テストの点数を見るのが少し楽しみになっていた。怖いけれど、確かめたい。やった分だけ返ってくるのか、と。ただ、それでもまだ先の話だが、大学受験は正直不安だ。高校三年の、今年の夏休みは勉強漬けだな、と瞬は軽くため息をつく。忙しくて、辛いと思う日も確かにあった。けれど、今の自分は確かに充実している。瞬はそう思った。
最後の解答欄を埋めて、鉛筆を置いた瞬間。肩の奥に溜まっていた重さが、遅れて落ちた。チャイムが鳴る。机が鳴る。椅子が鳴る。みんなの声が一斉に戻ってきて、教室の空気が動き出す。期末テストだから、今日は午前中で終わりだった。クラスの友人と軽く話を終えたところで、真っ直ぐ帰宅してもよかった。昼飯を食って、風呂に入って、夕飯を食って、歯を磨いて、寝て、起きて、また明日。そのほうが賢い。
でも瞬は校門を出てから、真っ直ぐと家へ向かう足をほんの少しだけずらした。――気分転換。そういう名前をつければ、まだ許される気がした。
瞬は川沿いの堤防を歩いていた。あの堤防。梅雨が明けた川は、別の顔をしている。増水の濁りは引いて、水は透けるように軽い色をしていた。光を吸って、光を返して、流れの筋がそのまま見える。川面には太陽が散っている。白く、細かく、きらきらして――目を細めないと見ていられないくらい眩しいのに、嫌じゃなかった。
湿った季節に押しつぶされていた世界が、ようやく乾いていくみたいだった。風が通るたび、水面が皺を作る。その皺がほどけて、また次の皺が生まれる。規則正しいわけじゃないのに、ちゃんと前へ進む。瞬はその動きを見ているだけで、胸の奥が少しだけ楽になるのを感じた。河原の石は日差しに焼かれて白っぽく、草は雨を吸った分だけ太くなって、青々しく揺れている。土の匂いはもう湿っていない。乾いた熱と、青い匂いが混じって、鼻の奥に夏の気配が刺さる。
ここで朔と笑ったことがある。ふざけて、未来の話をして、何でもないことで腹を抱えた。その記憶は水に流れない。流れに飲まれない。ただ、光の中で静かに残っている。歩きながら、瞬は何度も朔の輪郭を思い浮かべる。横に並んでいたはずの影。同じ景色を見て、同じ速度で笑っていたはずの背中。今はもう、どこにもいないのに。
寂しい。寂しいのに、足は止まらない。朔が止めてくれたからだ。あの夜、瞬を引き戻して、言葉で縛って、未来へ押し出した。生きろ、と。無駄にするな、と。頑張れ、と。瞬は欄干の向こうを流れる水を見て、胸の奥で小さく頷く。朔がいない世界を歩くのは、まだ痛い。それでも、朔のおかげで――瞬は今、自分の足で前へ進めている。
太陽が近い。日差しが熱い。シャツの背中がすぐに汗で張りつく。風はあるのに、風もぬるい。水面は光っている。光っているのに、眩しさの奥で流れは変わらず続いている。流れは止まらない。止まらないものだけが、ここにはある。濃い緑の草むらは、梅雨の間に育った分だけ重たそうだ。どこかで蝉が早起きしている。まだ本番じゃない声。それが、少し間抜けで。瞬は口の端を上げかけて、やめた。
一年。同じ堤防を、何度も歩いた。歩くたびに、隣の空白を確認する。確認するたびに、空白は少しだけ形を変える。痛いまま。でも、前ほど鋭くはない。瞬は川を眺める。ここから落ちたら、なんて考えが、もう浮かばないわけじゃない。浮かんだとしても。その先に朔がいる、とは思わなくなった。
あの夜、朔が瞬へ伝えた、一つ一つの大切な言葉。その全部が、瞬の中でまだ濡れている。乾かないまま。でも、ずっと腐らない。瞬は歩く。汗を拭うのでもなく。熱さに文句を言うのでもなく。ただ、歩く。帰ったら、母がいる。今日も働いている。帰ってきたら「おかえり」と言う。そういう当たり前が、奇跡のように思える日がある。今日が、そうだった。
瞬は空を見上げた。梅雨の名残りを引きずる雲は、もういない。青は一枚の布みたいに広がって、端がどこにも見えなかった。高いところにだけ、薄い雲がちぎれていて、白さが夏の入口みたいに光っている。太陽は容赦なく、輝かしい。光は真上から降ってくるのに、刺すんじゃなくて、世界ごと包んで透明にするようだった。眩しさに目が滲んで、瞬は眉を寄せる。涙が出そうになる。この陽光のせいだ、と自分に言い訳しながら。
「……暑いよなー、今日は」
独り言みたいに言う。言った瞬間、朔の声が頭の奥で重なる。
『暑いな、ほんと』
そんなふうに笑って、隣で肩をすくめる輪郭が、ありもしないのに見える。瞬は思わず、口の端を上げかけた。笑ってしまいそうで。同時に、泣いてしまいそうで。喉の奥がきゅっと痛くなる。胸の真ん中が、遅れて熱くなる。いない、と分かっているのに。分かっているからこそ、寂しさがはっきり形になる。瞬は目を伏せて、息を整える。笑い泣きのまま、声が漏れたら、きっと戻れなくなる気がした。
もう返事はない。返事がないことに、慣れた。慣れたはずなのに。それでも、瞬は歩き続けた。これからも、瞬は歩き続ける。
梅雨は長い。空が低くて、世界が湿って、理由もなく気分が落ちる日が続く。雨にほどけていく自分の輪郭を、振り返って何度も確かめた。けれど、終わる。ちゃんと、終わる。終われば、息が吸いやすくて、光が澄んでいて、風が爽やかだ。瞬はこのことを、朔との思い出と一緒に、胸の奥で忘れずにいようと誓った。
――雨にほどけた、そのあとの世界は、こんなにも美しいのだ、と。
