雨にほどける

 雨が横から叩きつけてきて、息をするたびに喉の奥が冷たくなる。橋の上は、風が強かった。川は下で荒れている。荒れている、というより、怒っている。黒い水が牙を剥くようにうねって、泡が白く裂ける。裂けた白さはすぐに飲み込まれて、また黒に戻る。

 けれど、ほんのわずかに。雨の粒の角が丸くなった気がした。頬を打つ痛みが、さっきより鈍い。風の音が、雨の壁の向こうから少しだけ聞こえる。流れは一定じゃない。押し寄せて、引きずって、持ち上げて、沈める。橋の影の下で、水は何度も形を変えて、何かを探しているみたいだった。

 浮いてくる枝。どこかの家のものみたいな板切れ。それらがぶつかって、鈍い音を立てて、すぐに消える。消えるのが早すぎて、最初からなかったみたいに見える。瞬は思う。あの黒さは、底じゃない。底の手前だ。まだ沈んでいないだけで、いずれ沈む。沈んだものは、二度と同じ形では戻らない。

 瞬は欄干(らんかん)に手をかけた。濡れた金属が掌に張りつく。力を入れれば入れるほど、指先の感覚が薄くなる。下を見ない。見れば、たぶん、何かが決まってしまう。それでも、分かってしまう。ここから一歩ずれれば、もう戻れない。戻らないほうへ行ける。朔のいるほうへ。その考えは、瞬の中では希望に近い。痛みが終わる、という意味で。欠けたままの世界が、ひとつに戻る、という意味で。

 雨が髪を濡らし、頬を打つ。瞬は瞬きをして、視界の滲みを拭いもしない。拭っても、どうせまた濡れる。頭の中で、自分の輪郭がほどけていくのが見える。闇に沈んで。雨に混ざって。名前も、形も、音も、消えて。その想像は不思議と静かで、静かすぎて、怖い。

 そこで、母の顔が浮かんだ。小さい頃から、母はずっと働いていた。学校から帰っても、家に誰もいない。ランドセルを放り投げて、冷めた部屋の匂いを吸い込む。テレビの音をつけて、誰かの声で空白を埋める。テーブルの上には、書き置きがある。

「先にごはん食べてて」
 丸い字。急いで書いたみたいに、最後のところが少し滲んでいる。冷蔵庫の奥の作り置き。レンジの「チン」の音。一人分の湯気。湯気が消えるより先に、寂しさだけが戻ってきた。友だちの家には、いつも誰かがいた。「おかえり」と言う声。台所の音。夕飯の匂い。

 ――瞬はそれが羨ましくて。羨ましいと言うのが悔しくて。何でもないふりをして、何でもない顔で笑った。でも今なら分かる。母は、いなかったんじゃない。いられなかった。女手ひとつで、子どもに不安を抱かせないように。当たり前の顔をして、当たり前の生活を守るために。

 ずっと、走り続けていた。帰ってきた母の手は、いつも少し荒れていた。石鹸の匂いと、外の匂いと、疲れの匂い。「ただいま」と言いながら笑う。笑うのに、目の下だけが薄く影になっている。瞬はそれを見ないふりをした。見てしまったら、自分が弱いと認めるみたいで。母を心配する自分を、かっこ悪いと思って。

 でも本当は、ずっと怖かった。母が倒れたら、という怖さ。母がいなくなったら、という怖さ。怖さは言葉にならないまま、溜まっていた。朔に当たる形で。瞬の指が震えた。欄干にかけた手が震える。歯の根も、どこかで小さく鳴っている。寒さのせいか、怖さのせいか、それとも――。

 今になって気づく。死んだ朔と、生きている母。瞬の中で、その二つは同じぐらいの重さで揺れているのかもしれない。天秤の上で、どちらも落ちない。どちらも救えない。朔のほうへ行けば、母が残る。母のほうへ戻れば、朔が残る。瞬は欄干を掴み直した。指が痛い。痛いのに、手を離せない。

 雨は止まない。川は荒れたまま。それでも、胸の奥で、何かがまだ決まりきっていない。決まりきっていないことだけが、瞬をここに留めている。揺れる。揺れながら、瞬の頭の中に、声が浮かんだ。

「瞬」

 呼ばれた気がした。いつもそうだった。朔はいつも見てくれていた。瞬が何も言わなくても。朔は勝手に、未来の中に瞬を置いてくれていた。瞬が俯くと、朔は覗き込んだ。瞬が黙ると、朔は黙ったまま横にいた。瞬が投げやりになると、朔は笑って引き戻した。引き戻し方が、乱暴じゃない。押しつけじゃない。「ここにいていい」と言うみたいに、ただ手を伸ばす。

 その手の温度を、瞬は覚えている。冬の朝、手袋越しに触れた指先。夏の帰り道、汗で湿った手の甲。人混みで、迷わないように掴まれた袖。どれも大したことじゃないのに、大したことだった。朔は、瞬の未来を勝手に信じた。瞬が自分を信じられない時も。その信じ方が、眩しくて。眩しいから、瞬は逃げた。逃げたくせに、今はその眩しさに戻りたくてたまらない。

 母のほうは、息をしている。今日もどこかで働いて、どこかで雨を避けて、どこかで帰り道を急ぐのだろう。帰ってくる場所に、瞬がいると信じている。朔のほうは、もう息をしていない。それなのに、声だけはずっと息をしている。瞬の耳の奥で。瞬の胸の奥で。

 ――天秤は揺れる。カチ、カチ、と雨の中で音がする気がした。右に、母。左に、朔。どちらに傾いても、何かが壊れる。

「次、どうする」

「大丈夫」

「一緒に」

 近くで笑って。近くで励まして。近くにいることが、当たり前みたいに。朔。

 瞬は欄干を強く掴む。指が白くなる。腕の筋が張って、肩が痛い。もう一歩だけ。もう少しだけ、前へ。天秤は、落ちた。音もなく。ゆっくりでもなく。ただ、落ちた。瞬は大きく息を吸った。肺の奥まで冷たい空気が入って、胸が痛い。目尻から大粒の水滴が落ちる。雨なのか、涙なのか、もう分からない。ただ一つの場所を目指して、瞬は行く。

「瞬、行こう」
 ――そうだ、朔。朔のいるほうへ。



 その時だった。
「――俺は呼んでない」
 その声が落ちた瞬間、雨脚がわずかに弱まった。叩きつけていた粒が、少しだけ細くなる。遠くで雷鳴が引いていくみたいに、雨の圧が一歩退いた。瞬はそれを、自分の耳が壊れたのだと思った。すぐ近くからだった。雨音に紛れるはずなのに、はっきり耳に届く。耳に馴染む声。瞬がずっと、ずっと聞きたかった声。瞬は息を止めた。止めたまま、振り返る。

 そこに朔がいた。あの時の姿のまま。最期に駅で別れた、あの時の朔。大雨の中にいるのに、朔は濡れていない。髪も。制服も。まつ毛の先も。雨が、朔だけを避けて落ちているみたいだった。瞬の喉が鳴る。胸が痛い。嬉しいはずなのに、怖い。怖いのに、目が離せない。瞬は声を震わせながら、朔を呼んだ。

「……朔」

 たった二文字が、喉の奥で引っかかって、掠れた。雨で冷えたせいなのか、怖さのせいなのか。瞬にはもう分からない。朔は、瞬を見た。見上げる角度も、目の細め方も、あの頃のままなのに。その目だけが、妙に遠い。

「何してるんだよ、瞬」
 叱るみたいな言い方じゃない。呆れるみたいでもない。ただ、事実を確かめるみたいな声。瞬は振り向いたまま、欄干から手を離せなかった。離したら、朔が消える気がした。自分の腕ごと、現実が崩れる気がした。

「……会いに来た、朔」
 言った瞬間、胸の奥が痛い。会いに来た。簡単な言葉のくせに、そこに辿り着くまでが長すぎた。朔は小さく息を吐いて、笑いそうな顔をして、笑わなかった。

「俺は、ここにいないよ」
 瞬の喉が鳴る。
「いるだろ。目の前にいる」
「……見えてるだけさ」
 朔の声は雨よりも静かで、静かすぎて、瞬の背中が寒くなる。

「じゃあ、見えてればいい」
 瞬は言い切ってしまう。言い切って、しまったと思う。それでも止められない。

「俺、ずっと……」
 言葉が続かない。続けたら、全部零れる。母のことも、朔のことも、自分の弱さも。朔は一歩だけ近づいた。足音はしない。水たまりも跳ねない。それなのに距離だけが縮まって、瞬の心臓が大きく鳴る。

「瞬」
 名前を呼ばれる。それだけで、瞬は泣きそうになる。

「俺を、使うな」
 瞬は息を呑んだ。

「俺を理由にして、どこかへ行くな」
 朔の声は強くない。でも、強い。

 瞬の中の何かに、まっすぐ刺さる。雨が欄干を叩く。川が下で唸る。瞬の指先はまだ金属を掴んだまま。それでも、朔の言葉だけが、はっきり聞こえていた。瞬は喉の奥で、何度も呼吸を噛んだ。吐けば全部が溢れる。溢れたら、朔が遠くなる気がした。

「……近くに、いたい」
 声が震える。雨のせいじゃない。
「俺は、朔のところへ――」
 言いかけた瞬間。

「ダメだ」
 朔が割り込むように言葉を遮った。真っ直ぐな目。瞬を叱る時の目じゃない。逃がさないための目。
「俺は死んだんだよ、瞬」
 一拍。
「俺の近くに来るのは、ダメだ」
 その言葉は冷たい。冷たいのに、瞬を突き放さない。むしろ掴んでいる。瞬の足首を。今にも落ちていきそうな場所を。

 瞬は欄干から、ゆっくり手を離した。離すたびに、指先が焼けるみたいに痛い。でも離す。離して、朔に近づく。一歩。そしてまた一歩。それだけで、世界が揺れ直す。

「朔のいない世界なんて、考えられない」
 瞬は言った。言いながら、自分の声が自分じゃないみたいに聞こえる。

「俺を呼んでたんだろ」
 雨の音に負けないように、言葉を強くする。

「だから俺の前に現れたんだろ」
 朔は首を横へ振った。小さく。でも、はっきりと。

「違うよ、瞬」
「お前が心配だから」
 朔の声が、少しだけ柔らかくなる。それが逆に痛い。
「俺に執着しすぎて」
 朔は言葉を選ぶみたいに、一度息を吸った。雨の中なのに、その息だけが妙に綺麗に聞こえる。
「死に惹かれていくお前が、心配だから」
 その言葉を聞いた瞬は、はっとした。

 ――そうか。俺は、朔が幽霊として、俺の前に現れる前から。朔が死んだあの日をきっかけに、生というものが薄れていた。呼吸はしている。心臓も動いている。学校にも行って、飯も食って、誰かと会話もして。それでも、どこか全部が薄い。光に照らされた和紙の裏から見ているように。自分の声が、自分のものじゃないみたいに。自分の時間が、あの日から止まってしまった。朔が死んでから。止まったまま、少しずつ腐っていく。そして少しずつ、俺は――。

 自分でも気づかないふりをして、死のほうへ体を傾けていた。傾けているのに、希望だと思い込んで。救いだと思い込んで。瞬は、幽霊として現れた朔を都合よく考えていた。恨んでいる、とか。死へ誘っている、とか。今思えば、そんなことはない。

 車道ぎりぎりを歩いていた時。白線の外側へ、足が半分だけ出た時。思わず、朔の名前を呼ぶ声が出てしまった。会いたいという声が。その瞬間、世界が少し静かになって、横断歩道の向こうに朔が現れて。

 包丁の刃を身体に当てる想像をしていた時。冷たい金属の感触を、ありもしないのに思い出して、指先が震えた時。あの時も。朔は止めようとしていた。瞬を引っ張り戻すみたいに。乱暴じゃなく。押しつけじゃなく。ただ、優しく手を伸ばして。

 瞬は喉の奥が痛くなる。さっきまで「朔の誘い」だと信じていたものが、全部、違う形に見え始める。誘いじゃない。警告だ。救いのふりをした、止めるための声だ。瞬は唇を開く。何か言わなきゃいけないのに、言葉が見つからない。見つからないまま、雨だけが続く。

 瞬は、言い返せなかった。朔の言葉が正しすぎて。正しいのに、救いにならなくて。橋の上の風が強く吹く。雨が二人の間を横切る。それでも朔だけは濡れない。その事実が、瞬の胸の奥をきりきりと締めつけた。朔は、そのまま瞬を見た。生きていた頃と何ら変わりない。真っ直ぐな眼差し。

「お前がそんな姿じゃ、俺も成仏できないだろ、瞬」
 瞬は朔の顔を見つめた。目尻から流れる大粒の水滴は、雨にほどけ続ける。自分が泣いているのか、濡れているのか、もう区別がつかない。

「朔、ごめん」
 言葉が、やっと出た。

「朔、俺……ガキの頃からずっとバカだった」
 雨の音に紛れそうな声で、瞬は続ける。

「朔のためだと思って、朔を拒絶した」
「でも本当は、俺、怖かったんだ」
 瞬は唇を噛んで、息を吸う。冷たい空気が肺を刺す。

「大事な朔の人生が、俺のせいで壊れるんじゃないかって」
「自分一人で勝手に思い込んで」
 言い終えるたびに、胸が痛い。痛いのに、止まらない。朔はそんな瞬を見て、ただ優しく微笑んだ。怒らない。責めない。雨の中でも、あの時の温度だけがそこにある。

「瞬は子どもの頃から、優しいやつだったよな」
 朔が言う。その声は近い。近いのに、触れられない。

「ありがとう、瞬」
「そんなに俺のことを思いやってくれて」
 瞬の喉が鳴る。ありがとう、なんて。そんな言葉を貰える資格が、自分にあるのか分からない。それでも、朔がそう言うから、瞬はただ立っている。瞬は、言葉の奥に残っていた本音を掘り起こした。掘り起こした瞬間、喉がまた痛くなる。

「本当は……駅で……あの時」
 雨が唇に当たる。瞬は一度だけ目を閉じて、続けた。
「同じ傘に入りたかった」
 言った途端、胸のどこかが、遅れて崩れた。そんなこと。子どものようで。今さらで。でも、あの時の瞬には言えなかった。

 瞬は目の前の朔に触れようとした。手を伸ばす。抱き締めようとする。目の前に朔は見えるのに、何も触れられない。霞に触れたみたいに、指先は冷たい空気だけを掴んで、すり抜ける。その感覚が、胸の奥を裂く。

「……っ」
 瞬はもう一度、腕を回そうとして。回した分だけ、空白が増えた。

「知ってる、瞬」
 朔は笑った。笑い方はあの頃のままなのに、姿だけが遠い。朔は雨の中でも濡れていない。それなのに。朔の目尻からも、瞬と同じように大粒の水滴が落ちた。水滴は雨にほどけて、すぐに区別がつかなくなる。瞬は、その水滴を見てしまって、息を呑んだ。濡れないはずなのに。涙だけは、落ちる。それが、嬉しくて。残酷で。胸の奥が、また揺れた。

「朔……」
 瞬の声は、もう声になっていなかった。喉の奥で潰れて、雨に溶ける。
「瞬、生きろよ」
 朔は真っ直ぐ言う。その言葉が落ちた瞬間、雨の勢いがふっと緩む。たまたまかもしれない。でも瞬には、朔の声が空気をほどいたみたいに思えた。言葉は強い。橋の上の風より強い。でも優しい。優しいから、瞬の胸に刺さる。

「俺と過ごした日、無駄にするなよ」
 朔の言葉は強いのに、表情は柔らかい。怒っているわけじゃない。頼んでいる。祈っている。瞬の明日を。瞬は激しく嗚咽した。息が詰まって、肩が跳ねる。朔と話したい。謝りたい。もう少しだけ、ここにいてほしい。言いたいことは山ほどあるのに、口から言葉が出ない。

 声を上げて泣いた。泣き声が雨にほどけて、形を失っていく。それでも止まらない。止められない。朔は濡れないまま、そこに立っている。その柔らかい目だけが、瞬を見ていた。雨はまだ降っている。でももう、さっきみたいに世界を殴ってこない。叩きつける音が、しとしとにほどけていく。川の唸りの中に、別の音が混じる。自分の呼吸。自分の嗚咽が引いていく音。そして、最後に――。

 雨は、止んだ。

 止んだ直後の静けさは、耳が痛い。川の音が、やっと一つの音として聞こえる。夜空はまだ深い。でも黒じゃない。雨雲が裂けたところから、青みがかった色が滲んでいる。東の空だけが、少し明るい。光が漏れかかって、濡れた欄干の表面に細い線を引いた。

 梅雨が終わった。そういう空だった。長く続いた湿り気が、ようやく息を吐くみたいに。瞬は息を吸って、吐いた。泣きながら、笑ってしまう。笑っていいのか分からないのに。笑うと胸が痛いのに。

「朔」
 名前を呼ぶと、今度は掠れない。雨が止んだからなのか。自分が少しだけ戻ってきたからなのか。

「お前のことが好きだ」
 言い切った瞬間、胸の奥が熱くなる。遅すぎる。遅すぎるのに、やっと言えた。朔は、少しだけ目を細めた。生きていた頃と同じ顔で。

「俺も、瞬が好きだ」
 その言葉は軽くない。重くて、優しくて、静かだった。瞬はまた泣きそうになる。でも、笑っている。涙が頬を伝って、もう雨と混ざらない。それが、妙に現実だった。朔はその様子を見て、瞬に言葉をかける。

「瞬、頑張れ」
 瞬は大きく頷いた。声はまだ震える。でも、逃げない。

「ああ、頑張るよ、朔」
 言いながら、瞬は朔の輪郭を見つめる。見つめるほど、また涙が出そうになる。この光が増えたら、朔が薄くなる気がした。

 東の空がもう一段明るくなる。夜から朝に変わりつつある光が、橋の上にゆっくり落ちてくる。朔の輪郭が、その光にほどける。輪郭の端から、静かに。湯気みたいに。最初からそこにいなかったみたいに。瞬は手を伸ばした。今度も触れられない。分かっている。分かっているのに、伸ばしてしまう。朔は最後に、笑った。それから、生まれたての朝の光と一緒に消えていった。