午前二時半、夜中、大雨。
雨は音じゃなくて、壁のようだった。世界と世界の間に、厚い水の膜が立っている。街灯の光は滲んで、アスファルトは黒く光る。瞬は傘も持たずに、アパートの玄関を出た。ドアが閉まる音が、やけに小さい。鍵を回す指先が濡れて、金属が冷たい。
一歩、外に出る。雨がすぐに肩に落ちてくる。髪に落ちて、額を伝って、首筋へ流れる。制服じゃない。部屋着のまま。それでも雨は容赦がなかった。アパートの前の、アスファルトの段差。その線を見た瞬間、記憶がひっくり返る。
――小学生の頃。朔とここで遊んだ。段差の下は底なし沼。黒い水が揺れていて、覗き込めば引きずり込まれる。落ちたら終わり。落ちたら死ぬ。朔が真面目な顔で、指を一本立てた。
「ルール。落ちたら、死」
瞬は笑いそうになるのをこらえて、同じ顔で頷いた。
「じゃあ、落ちたやつは幽霊な」
「幽霊は戻ってこれない」
「やだな」
「やだなら落ちるな」
朔は言い切って、瞬の袖をちょん、と引っ張る。二人で肩を寄せて、段差の上だけを歩いた。段差は細い道に見えた。二人の靴の先だけが乗れるくらい。足元を見ていると、本当に落ちそうで、胸がきゅっとなる。
「ほら、右」
朔が小声で言う。
「右、どこだよ」
「そこ。俺の靴の横」
瞬はわざと大げさに、つま先を揃えて置く。朔が笑いそうになって、口元を押さえる。
「笑ったら落ちるぞ」
「笑ってない」
「笑ってる」
二人で、肩を揺らして笑う。笑い声を出したら危ないから、声を殺して。瞬は、分かってるのにわざと端っこへ寄った。靴底が段差の角にかかる。その瞬間。
「危ない!」
朔が慌てて掴む。手首を。袖を。引っ張る力が本気で、瞬は少しだけ心臓が跳ねた。
「おい、離せ」
「離したら死ぬ」
「じゃあ死ぬわ」
瞬がふざけると、朔がさらに強く引っ張った。
「死ぬな!」
その言い方が必死で、瞬は耐えきれずに笑ってしまう。朔も笑う。怒っているのに笑っている。
「ほら、協力」
朔が言って、手を離さない。
「協力って何だよ」
「落ちないようにするのが協力」
二人で笑いながら、少しずつ進む。右足を置く場所を譲って。手を伸ばして、相手が滑らないように引っ張って。足の裏で地べたを避けるだけなのに、二人は真剣だった。段差の終わりまで辿り着くと、二人は同時に息を吐いた。
「……生還」
「生還」
その言葉が面白くて、また笑う。傍から見れば、バカみたいだ。でも、二人だけは世界の端を渡ったみたいな顔をしていた。今思えば、くだらない。傍から見れば、バカのようだ。でもあの頃は、それが楽しかった。落ちないように協力して、二人の間だけで世界を作っていた。底なし沼なんて嘘なのに。落ちたって死なないのに。それでも。落ちないでいられた。二人なら。
雨が、段差を叩く。あの頃よりずっと強い。瞬は段差を跨いだ。その感覚が、やけにあっさりしている。アパートを離れる。足音はすぐに、雨に消される。水が靴の中に入り込んで、ぐちゅ、と鳴った。冷たい。冷たいのに、頭は冴えている。
少し歩けば、駅前近くの公園に出る。街灯の下で、濡れた木々が黒く揺れている。ベンチは水を溜め、滑り台はただの金属の塊みたいだ。ここで朔と、よく待ち合わせをした。瞬と朔の家の、ちょうど真ん中にある公園。中学の頃、朝の景色の一部みたいに当たり前だった。
雨の日。晴れの日。冬の冷たい朝。夏の、汗が乾かない朝。朔はだいたい先に来ていた。ブレザーの襟を立てて、鞄の持ち手を右手で握って。吐く息を遊具の影に溶かしながら、何でもない顔で待っている。瞬の姿が見えると、朔は必ず、ほんの少しだけ眉を上げた。それが“来た”の合図。それから手を振る。指先だけ。目立つのが嫌いなくせに、瞬にだけは分かるように。
「遅い」
言う。でも怒ってない。怒ってないから腹が立つ。
「別に遅くねえし」
瞬が言い返すと、朔は「じゃあ、早く行こう」と笑う。二人で並んで歩き出す。
朝の駅前は人が多くて、制服の肩がぶつかる。朔はそういう時だけ、瞬の背中側に回って、人波を避けるみたいに歩幅を合わせた。守ってるつもりじゃない顔で。途中でコンビニに寄った日もあった。缶のジュース。菓子パン。新しいガム。「朝から食うなよ」って言いながら、瞬も結局ひと口もらう。そういうのが、妙に楽しかった。
学校の愚痴。先生の真似。席替えの話。誰が誰を好きらしいとか、くだらない噂。昨日のテレビ。テストの予想。喋っているうちに校門が見えて、二人同時に「だる」と言って笑った。
瞬が寝坊した日。朔はこの公園で待つのをやめて、わざわざ迎えに来た。玄関のチャイムを鳴らして。それでも出てこないと、ドアの向こうで低い声を作って言う。
「おーい。底なし沼に落ちたか?」
瞬は布団の中で、うるさいなと思いながら、笑ってしまった。笑うと余計に起きられないのに。
「起きろって」
今度は普通の声。少し焦った声。その焦りが、瞬には分かった。だから、わざと「知らねえ」と返す。朔が「は?」って言って、次に「早く」って言う。
起こされることが。待ってくれていることが。自分の朝に、朔が当たり前にいることが。その頃は、まだ、ちゃんと嬉しかった。本当に俺は、あの頃からバカだったな。瞬は、雨の中で笑った。笑うと口の中に雨が入る。
しょっぱい。それでも笑う。公園の真ん中に立つ。ここは真ん中だった。いつだって。朔が来る方向。瞬が来る方向。二本の道が、同じ場所に触れる。瞬は目を閉じた。雨の匂いを吸う。濡れた土の匂い。鉄の匂い。遠くの車の水音。そして、その奥に。
呼ばれている気がした。ずっと前から。今も。瞬は目を開ける。雨は止まない。止まないまま、道だけが続いている。公園を越える。駅前の明かりが背中に遠ざかって、代わりに暗さだけが濃くなる。雨粒が街灯に照らされなくなると、雨はただの重さになる。
川沿いの道が見えてくる。水の匂いが強い。土の匂いじゃない。濡れた鉄と、濁った水の匂い。堤防。あの堤防だ。大雨で、川は氾濫ぎりぎりだった。水面がいつもより高い。流れが速い。濁りが、夜の中で黒くうねっている。ときどき、流れてきた枝がぶつかって、鈍い音がした。雨の勢いは増し続ける。
頬に当たる粒が痛い。まつ毛が濡れて、視界がにじむ。瞬は瞬きをして、また前を見る。堤防の上には橋がかかっている。橋の影が、暗い帯みたいに川の上に落ちている。そこへ向かって、瞬は歩く。あの橋だ。
街灯は大雨に削られて、光の形を保てない。輪郭だけが薄く滲んで、地面まで届く前に溶ける。月も雨雲に隠れて、空はただ黒い。明かりはどこにもない。瞬は思う。あそこを、最期の場所にしよう。あそこで朔と再会するんだ。それは、瞬の中では希望だった。やっと辿り着ける、という感覚。終わりじゃなく、入口。朔が待っている場所へ戻るだけ。
でも世界は、そんなふうに見えていない。濁流は橋の下で牙を剥いて、堤防の縁を舐める。風に煽られた雨が、瞬の背中を押す。押されているのに、追い立てられているみたいだ。どこかでサイレンが鳴っている気がした。遠すぎて、本当かどうかも分からない。ただ、胸の底に薄い震えだけが残る。
堤防の入口には、普段なら“危険”と書かれた何かがあるはずなのに。今夜は雨に溶けて、文字も形も読めない。警告だけが、意味のない影みたいにそこにある。足元のコンクリートは冷たく、滑り、逃げ道がない一本道のように伸びている。街灯の薄い光は、照らすためじゃなく、影を長く伸ばすためにあるみたいだった。
瞬の足元には水が溜まり、踏むたびに小さな波紋が広がる。波紋はすぐ消える。足跡も残らない。最初から、ここに誰もいなかったみたいに。瞬だけが、光へ向かっているつもりで。傍から見れば、暗いほうへ沈んでいく。胸の奥で、その言葉が静かに沈む。沈んで、動かない。揺れない。大雨よりも確かな重さで、瞬の足を前へ押す。
瞬は黒を進む。水の音に呑まれそうになりながら。光のない道を、光のないまま。朔という明かりを求めて。雨が全身を濡らす。服が肌に張りつく。水を吸って、身体が重くなる。重くなるたびに、足が遅くなる。それでも止まらない。堤防を歩く。コンクリートの上は滑る。
足の裏が頼りなくて、何度か体が傾く。それでも、落ちない。落ちないように、体が勝手にバランスを取る。あの頃は二人で歩いていた。同じ歩幅で。同じ速度で。笑いながら。今は一人で歩く。隣の空白が、雨より冷たい。それでも、その空白の先を見てしまう。そこに、朔がいるみたいに。瞬は歩き続ける。
