梅雨の雨が降っている。
降っている、というより、まとわりついている。空気が湿って、肌の上に薄い膜が張りつく。シャツがじわじわと重くなって、息をするたびに胸の内側まで湿る。雨音はしとしと、と言いながら、どこまでも途切れない。一滴ずつなら軽いはずなのに、積もると重い。
――乾かない。乾かないまま、部屋の隅にまで染みてくる。瞬は、今日も変わらずに窓の外を見ていた。ガラスに張りついた雨粒が、ゆっくり線になって落ちる。落ちた跡がまた曇って、景色は何度もぼやけ直す。向こう側は滲むのに、雨だけは妙にはっきりしている。
川風もない。乾いた匂いもない。あるのは、濡れた匂いと、戻らない湿り気だけだ。部屋干しのタオルが、どこかで生乾きの匂いを立てている。洗剤の甘い匂いと混ざって、余計に逃げ場がない。畳んだはずの制服も、袖口だけが湿っている気がした。指先で触れれば、確かめなくても分かる。
窓枠の角に溜まった水滴が、じっとしている。落ちそうで落ちない。落ちないまま、時間だけが進む。その鈍さが、瞬を苛立たせる。スマホの画面は暗い。通知は鳴らない。誰も来ない。誰にも呼ばれない。雨の音だけが、代わりに名前を呼ぶみたいに続く。
さっきまで頭の中にあったのは、青空だった。梅雨明けの堤防。川風。二人で笑って、来年も再来年も、と当たり前に言い合った。――当たり前。その言葉が、今は喉に引っかかる。当たり前に続く未来なんて、当たり前じゃなかった。当たり前に続く日常こそが、一番の幸せだった。
朔はずっと変わらなかった。中学を卒業して、別々の高校に進んでも。あの言葉通り、瞬を追いかけ続けていた。追いかける、と笑って言った通りに。変わったのは、瞬のほうだ。瞬は思う。俺は朔に対して、なんて残酷で酷いことをしたのだろう。自分勝手だった。自分の不安を、朔に押しつけて。自分の弱さを守るために、朔を遠ざけた。それでも朔は、いつも通りの顔で追ってきた。瞬はずっと、その“いつも通り”に甘えていた。
朔は変わらない。笑う。怒る時も、ちゃんと怒る。面倒くさがるふりをして、結局最後まで付き合う。そうやって、瞬の隣に戻ってくる。瞬はそれを、当たり前だと思ってしまった。当たり前だと思ったくせに、怖くなると手を払った。本当は、手を払うほど近かった。近すぎて、息が詰まるくらい。
朔が隣にいると、世界の輪郭がはっきりした。授業のチャイムも。雨の匂いも。帰り道の信号の赤も。全部が“二人の同じ時間”になった。瞬はそれが嬉しくて、嬉しいと言うのが怖くて、わざと雑なことを言った。朔が笑うと、瞬の胸は勝手にあたたかくなった。火みたいなあたたかさじゃない。鍋の湯気のような、静かに広がるあたたかさ。その温度が、瞬には救いだった。
朔がいない世界は、寒い。梅雨の湿気みたいに冷たくて、どこまで拭いても乾かない。乾かないのに、喉だけが渇く。その渇きの正体が、朔だ。会いたい。ただ会いたい。触れたい。名前を呼びたい。呼ばれたい。朔の声で「瞬」と言われるだけで、たぶん、何度でも生き直せる。そんなふうに思うのに。思っていたのに。
瞬は朔から目を逸らして、言葉で突き放して、背中を向けた。背中を向けた時、朔が追いかけてくるのを知っていた。知っていたから、残酷になれた。好きだった。好き、なんて軽い言葉じゃ足りない。朔がいることが、瞬の基準だった。朔が笑うかどうかで、瞬の一日が決まった。朔が困ることが、自分の痛みのようだった。それなのに、瞬は朔を傷つけた。
守りたかったのに。守られていた。
救いたかったのに。救われていた。
朔がいなくなって、やっと分かる。
朔を愛していた。愛している。今も。濡れた空気みたいに、どこへ行っても離れない。真面目で。優しくて。出来ないことを出来ないと言えて。出来ない自分を笑って許して。その眩しさに、瞬は救われていた。救われていたのに、傷つけた。
どうして、朔が死んだのか。その問いだけが、雨みたいに胸の中で続いている。答えが出ない。出ないまま、同じ場所を刺し続ける。可能なら。朔の代わりになりたい。俺が。俺が――。
口に出せば、ただの願いに見える。でも瞬の中では、それは願いじゃなくて、罰のように重い。代わってやれたら、どれだけ楽だろう。代われないから、こんなふうに息をしている。
窓ガラスに手を置く。ひどく冷たい。その冷たさが、まだ生きていることを教える。それが腹立たしいのに、離せない。輝かしい未来を創造できる。ただそれだけで、二人は幸せだった。あの頃は。雨は止まない。瞬の中の「俺が、俺が――」も、止まない。同じ調子で降り続けて、胸の奥の空洞を、静かに満たし続けていく。
瞬は、朔のいない未来を考えようとした。考えなければいけない、と分かっている。母のこと。学校のこと。卒業のこと。働くこと。でも、どれも輪郭が保てない。手を伸ばすと、湿った空気みたいに形が崩れる。朔の輪郭だけが大きい。名前。声。笑い方。怒り方。歩幅。息を吸って言葉を整える癖。それが、この先の人生にずっと付きまとう。一生、離れない。瞬はもう、それを確信していた。
来年。高校三年生になった自分。その姿が、どうしても想像できない。制服の袖をまくって、進路希望を書いて、受験だと言って笑う自分。いない。想像できないのは、希望がないからじゃない。決意が固まってしまったからだ。胸の奥で、もう答えが動かない。瞬はそこで、もう一度だけ踏みとどまろうとした。
母の顔が浮かぶ。台所の灯り。濡れた傘を玄関に立てて、「ただいま」と言う声。それを思い出すほど、胸の痛みが具体的になる。でも、その痛みは止めるためのものじゃなかった。せめて最後まで、きちんと苦しむための痛みだ。生きるための痛みじゃない。朔がいない世界で生きる、という選択肢を想像し直す。想像し直しても、どこにも立てない。足場がない。足を置こうとすると、雨水みたいに崩れる。
だったら。朔のいるほうへ。朔のもとへ行く。その言葉は、恐ろしいはずなのに。口に出さなくても、舌の裏に馴染む。熱もない。震えもしない。ただ、静かだ。瞬は窓から離れて、部屋のタンスを開けた。引き出しが湿気で重い。木の匂いの奥に、生乾きの匂いがこびりついている。制服の替え。体操着。畳まれたままの古いマフラー。指が止まる。冬の匂いがする気がした。クリスマスの夜、朔が笑っていた匂い。
瞬はスマホを手に取る。画面は暗い。指で起こすと、白い光が部屋の湿り気を照らした。スマホの中のアルバムを開く。二人で撮った写真が、そこにまだ残っている。
海。眩しすぎて目を細めた瞬の隣で、朔は笑っている。泳げないくせに、浮き輪を抱えて、やけに得意そうな顔。その顔を見ているだけで、瞬はあの時、全部が大丈夫だと思えた。
クリスマス。赤い飾りが店の窓に映って、二人の顔も赤く見える。朔がケーキの箱を持っていて、瞬はそれを「重そう」と言っている。朔は「平気」と言って、笑っている。あの笑い方。息を少し吸ってから、声を上げる癖。
修学旅行。人混みの中で、朔が一瞬だけ振り返って、瞬のことを確認する。その目が「いる」と言う。「大丈夫」と言う。瞬はそれだけで歩けた。
正月の初詣。暗い空に提灯の明かりが滲んで、雪じゃなく雨の粒が光っている。朔はマフラーを巻いていて、鼻先だけ赤い。おみくじを開いた瞬間の顔が、子どもみたいだ。結果を見せびらかすみたいに、瞬の肩に寄ってくる。瞬は「近い」と言う。朔は「寒いから」と言って、笑って誤魔化す。その写真の端っこに、二人の息が白く写っている。
ボウリング場。クラスメイトたちの笑い声が、画面の向こうから聞こえてきそうだ。朔が投げたボールが変な回転をして、ピンに当たって、妙な倒れ方をしている。瞬はその場面を撮っていて、手ぶれのせいで朔の笑いだけが残っている。肩を揺らして笑っている。あの時は、みんながいた。みんながいて、朔がいて、瞬はただそこに立っていればよかった。
カラオケ。照明が紫で、顔色が現実じゃない。朔がマイクを持って、歌いながらも途中で笑っている。瞬に向けて、わざと変な振り付けをする。瞬は「やめろ」と言いながら、笑ってしまう。笑ってしまう自分が、画面の隅にちゃんといる。
写真は動かない。動かないのに、胸の奥だけが動く。痛くなる。痛いのに、指は止まらない。一つずつ、確かめる。朔が生きていた証拠を。朔が笑っていた証拠を。朔が瞬を見ていた証拠を。画面を撫でても、当然、触れられない。ガラスの冷たさだけが指に返る。それでも瞬は、何度も撫でた。朔を探すみたいに。朔の輪郭を、そこから引きずり出すみたいに。
会いたい。写真の中じゃなく。光じゃなく。記憶じゃなく。今の朔に。そう思った瞬間、胸の奥の静けさが、さらに硬くなる。受け入れてしまったのだと分かる。朔の誘いを。ずっと、見えないところから続いていた「こっちへ」という呼び声を。瞬はそれを、拒まない。拒めない、じゃない。拒まない、と自分で決める。この先を生きることよりも。朔のいるほうへ歩くことのほうが、ずっと自然に思える。
行き先は、言葉にしなくても分かる。青空の記憶の端にある場所。二人の歩幅が揃っていた、あの輪郭。そこへ向かう、と胸の奥が静かに定まっている。雨が窓を叩く。叩かれても、瞬の中はもう揺れなかった。
――もう、ここは自分の居場所ではない。今夜、行こう。
