雨にほどける




 梅雨が明けた。朝から空が青くて、雲がやけに高い。雨の匂いが消えて、代わりにアスファルトの乾いた匂いがする。

 期末テストが終わった。最後のチャイムの音は、いつもより軽く聞こえた。机の中は空っぽで、教室の空気だけが妙に熱い。瞬と朔は、並んで学校を出た。校門を抜けると、風が一段強くなる。制服のシャツが肌に張りつかない。それだけで、季節が変わったのだと分かった。

 川沿いの堤防を歩く。水面は光っていて、流れの上に空の色がそのまま揺れている。二人の歩幅は、言い合わせなくても揃う。朔が少し早くなると、瞬も同じくらい早くなる。瞬が段差を避けると、朔も同じところを避ける。そういう小さな癖が、ずっと昔から変わらない。

 朔が川の方へ顎をしゃくる。
「なあ。ここさ、昔ザリガニ釣りしたよな」
 瞬は一瞬、足を止めそうになって、誤魔化すように歩幅を変えた。川の匂いが、急に懐かしい。
「……小学生の頃ぐらいだっけ」
「それくらい」
 朔は笑う。笑いながら、堤防の下の草むらを覗き込む仕草をした。
「またやりたいな」
 瞬はつられて笑った。空が青いせいで、笑う理由も軽くなる。
「お前、絶対またザリガニのハサミにビビるだろ」
「ビビらない」
 朔は即答して、すぐ笑った。自分でも嘘だと分かっている笑いだ。瞬は肩で小さく笑って、わざと朔の肩に軽くぶつかった。朔も同じくらいの力でぶつけ返す。喧嘩じゃない。合図みたいなやつだ。

「そもそもザリガニ釣りって、俺たち今いくつだと思ってんだよ」
「はは。確かに」
 朔も笑う。笑いながら、二人はまた歩き出した。

「テスト、どうだった?」
 朔が、横を見ずに聞いた。歩幅だけが、いつも通り揃っている。瞬は目を逸らした。空が眩しい。眩しさのせいにして、答えを誤魔化す。

「……分かってるだろ」
「分かんないよ」
 朔は笑う。笑いながら、瞬の顔を覗き込もうとする。

「勉強したじゃん。大丈夫だって」
 朔はそう言って、いつものように笑う。軽く言うのに、その言葉だけは嘘じゃない。朔は歩きながら、瞬のノートの端に書いてあった落書きのことを思い出したみたいに言う。
「でもさ。この前のあれ、笑った」
「は?」
「ノートの端のやつ。俺の顔、目デカすぎ」
 瞬は一瞬だけ耳が熱くなって、目を逸らした。こういう時だけ記憶力がいいのが腹立つ。

「消したわ」
「消してないでしょ」
 朔は言い切って、嬉しそうに笑った。瞬はその笑顔から目を逸らした。褒められるのが、落ち着かない。嬉しいより先に、恥ずかしいが来る。勉強が苦手だということを、瞬はずっと気にしていた。テストの点が低いのも、先生に当てられて黙るのも。全部、朔の隣だと余計に目立つ気がする。

「……したって言っても、全然だろ」
 朔は否定しない。「全然」だとも言わない。ただ、瞬の方を見て、少しだけ目を細めた。

「十分だよ」
 それから、ほんの少し声を落として続ける。
「瞬が頑張ったの、俺は知ってる」
 瞬は返事を探して、見つからなかった。朔は笑って、肩をすくめる。

「一緒に頑張ろう。次も」
 その言い方が、約束みたいで。瞬の胸の奥が、またむず痒くなる。優しい声。その優しさが、瞬にはむず痒い。
「お前と俺は、頭の出来が違う」
 瞬はぶっきらぼうに言った。言った瞬間、言い方がひどいと分かる。でも引っ込めない。引っ込めたら、朔がまた笑って許す。それが腹立たしい。朔は怒らない。ただ、少しだけ眉を上げて、それから笑った。

「じゃあ、出来が違う分、やった分だけ増えてる」
 意味の分からない理屈。でも朔の理屈は、いつもどこかで筋が通っている。瞬は「はいはい」と言いかけて飲み込む。言ってしまうと、朔がまた勝ち誇った顔をする。そういう顔をされるのが悔しいのに、嫌じゃない。瞬は、負けた気がして、話を変えた。

「……そんなことより」
 朔が「うん」とだけ返す。それを、待っていたみたいで悔しい。
「テストも終わって、梅雨も明けた」
 瞬は空を指さした。青すぎる青。
「もうすぐ夏休みだし。何するよ」
 朔は少し考えて、堤防の向こうを見た。遠くの街が、陽炎で揺れている。

「海、行く?」
「……海かよ」
 瞬は笑った。否定の形なのに、声の端が上がる。
「いいじゃん。梅雨も明けたし」
 朔が言う。梅雨が明けた。それだけで、何かが許されるみたいに。

「海行ってさ、何すんの」
「泳ぐ」
「泳げねえだろ」
「泳ぐふり」
 朔が真面目な顔で言うから、瞬は吹き出した。朔は、泳げない。意外なくらい、泳げない。何でもできるみたいな顔をしているのに、水だけはだめだ。中学のプールの授業でも、朔は平泳ぎの形だけは綺麗で、なのに前に進まない。息継ぎのたびに水を飲んで、咳き込んで、それでも笑っていた。「苦手なんだよね」と、当たり前みたいに言って。

 プールも、海も、嫌いじゃない。怖がりもしない。苦手だと分かっているのに、恥ずかしがりもしない。できないことを、できないって言える。瞬にはそれが眩しかった。自分の弱みを隠そうとして、先に棘を立てる癖があるのは、いつも瞬のほうだ。朔は、すごい。すごいのに、すごいって言うと笑って誤魔化す。その誤魔化し方まで、瞬にとっては眩しかった。

「泳ぐふりって……何だよそれ」
「浮き輪借りればいい」
「誰が借りんだよ」
「瞬」
「俺かよ。必要なのはお前だろ」
 二人で笑う。笑いながら歩くと、影が堤防のコンクリートの上で長く伸びた。

「花火もやりたい」
 朔が言った。
「花火って、線香花火?」
「線香花火も。あと、でかいやつ」
「怒られるだろ」
「怒られない場所探す」
 未来の話は、梅雨明けの空のように広がっていく。言ったそばから次が出てきて、どれも「やってみよう」で繋がる。間違えても、笑って言い直せる。

「夏休み、長いよな」
 瞬が言う。
「長いね」
 朔が頷く。朔は指を折って数え始めた。テストが終わった日から、海。花火。自転車で遠回り。帰りにアイス。

「あと、映画」
 朔が言う。
「映画?」
「夏のやつ。怖いやつでもいいし」
「ホラーはやめろ」
「瞬、絶対びびる」
「びびらねえ」
 朔は笑って、もう一本指を立てた。

「じゃあ、祭り。屋台」
「お前、結局食いもんじゃねえか」
「だって、屋台ってさ」
 朔は少しだけ声を弾ませる。
「焼きそばも、チョコバナナも、かき氷も、買う理由が全部“夏だから”で済む」
 瞬はその言い方がおかしくて笑った。
「理由がいるのかよ」
「いる。炭水化物って食べ過ぎると罪悪感があるじゃんか」
 朔は真面目に言う。真面目に言うから、また笑える。

「じゃあさ、かき氷、二個買って」
 瞬が言う。
「二個?」
「半分ずつ交換。味変」
「……頭いいこと言うなあ」
 朔は一拍置いて、そう言いながら笑った。
「頭のいいことはお前がやれ」
「じゃあ瞬は、楽しいこと担当」
「役割分担すんな」
 朔はさらに指を折る。

「あと、川でさ」
 さっきの水面を見て、朔が言った。
「夕方に座って、風に当たるだけでもいい」
 瞬は、頷きそうになるのを堪えた。こういう時だけ、朔は変にロマンチストだ。
「……それ、地味」
「地味がいい日もある」
 朔は笑って、指を畳んだ。
「ほら。もう、夏休み足りない」
「足りねえな」
 瞬も言って、腹の底が少し軽くなる。

「じゃあ、来年もやる」
 朔が言う。瞬は一瞬、息を止めた。来年。その言葉が、あまりにも当たり前みたいに落ちてくる。朔は続ける。

「高校の夏休みも、やる。中学最後の夏より、もっと自由だろ」
「……知らねえよ」
「知らないから、楽しみなんだろ」
 朔は笑った。瞬もつられて笑う。笑いながら、何も失わない未来が、本当にあるみたいに思えた。

「高校になったらさ」
 朔が続ける。未来の話を止めない。
「帰り道、毎日変えられるぞ」
「帰り道変えて何すんだよ」
「寄り道」
 朔は当然みたいに言う。
「コンビニ寄って、ジュース買って、意味もなく遠回りする」
「意味ねえ」
「意味ないのがいい」
 朔は笑う。瞬は「くそ」と小さく言って、でも笑った。

「あとさ、夏休みの宿題」
 朔が指をもう一回立てた。
「やめろ。現実持ち込むな」
「現実も夏だよ」
 朔は真面目に言って、すぐに声を柔らかくする。
「一緒にやれば、すぐ終わる」
 瞬は鼻で笑った。
「お前の『すぐ』は信用できねえ」
「じゃあ、瞬の『すぐ』に合わせる」
 その言い方が、優しい。瞬はそれを誤魔化すみたいに、堤防の向こうへ目を投げた。

「……海の前にさ」
 瞬が言う。
「うん?」
「お前、泳げるようにしとけよ」
 朔は一瞬だけ口を尖らせて、それから笑った。
「努力する」
「絶対しないやつだ」
「するさ」
 朔は笑いながら言い切る。
「プール、付き合ってくれよ」
「は?」
「瞬、教えるの上手いから」
「上手くねえよ」
「上手い。だって、説明が雑なのに分かる」
「褒めてんのかそれ」
 朔は声を殺して笑って、指を折った。

「じゃあ決まり。プール、海、花火、祭り、映画」
「決めんな」
「決める」
 朔はまた真面目な顔をして、瞬を見た。
「決めないと、夏ってすぐ終わるぞ」
 瞬は、その言葉にだけ一瞬だけ黙る。すぐ終わる、という言い方が、なぜだか少し怖い。でも朔は続ける。

「終わる前に、いっぱいやるんだ」
 その言葉は明るい。明るいまま、背中を押す。瞬は息を吐いて、笑った。

「……欲張りすぎだろ」
「欲張っていいだろ。夏だし」
 そう言って朔が笑うと、瞬も笑うしかなかった。

「じゃあさ」
 瞬が言う。
「ん?」
「朝から行く日も作れよ。海」
 朔は目を丸くしてから、すぐに笑った。
「いいね。朝の海、絶対涼しい」
「で、帰りにラーメン」
「海なのに?」
「海だから。塩分」
 朔が声を殺して笑う。
「理屈が雑すぎる」
「雑でいいんだよ」
 朔は「じゃあ」と言って、今度は自分の案を重ねた。
「夜は、屋上とかさ。寝転んで星見る」
「屋上は入れねえだろ」
「じゃあ、河川敷。ここ」
 朔が足元の土手を軽く踏む。瞬は頷きそうになって、わざと肩をすくめた。
「虫すげえぞ」
「虫も夏だ」
「虫は夏じゃなくて虫だろ」
 二人で笑う。笑いながら、未来がどんどん増えていく。朔はまた指を折って、わざと大げさに言った。

「……夏休み、足りない」
「足りねえな」
 瞬も言って、腹の底が軽くなる。
「じゃあ、来年も」
 朔が言いかけて、瞬が先に被せる。
「来年も。再来年も」
 言ってから、瞬は自分で驚いた。そんな言葉、普段は出てこない。朔は一拍置いて、目を細めた。
「楽しみだな」
 それだけで、十分だった。朔は少し歩幅を落として、瞬と並ぶ位置をきっちり合わせる。それから、さっき自分が言った「来年」をもう一回、噛みしめるように口にした。

「高校になったらさ」
「またそれかよ」
「またそれ」
 朔は笑う。笑って、指を一本立てた。
「文化祭とか」
「出る気あんの?」
「出る。クラスで何かやるだろ」
 朔は当然みたいに言って、少しだけ声を弾ませた。
「屋台やる高校もあるらしいし」
「お前、また食いもん」
「文化祭だから」
 瞬は笑って、空を見上げた。青すぎて、目が痛い。

「あとさ、部活」
 朔が続ける。
「朔、何入んの」
「まだ分かんない」
 朔は少し考えて。
「でも、帰りが遅くなるやつもいいな」
 と続けて言った。
「真面目だな」
「真面目じゃなくてさ」
 朔は笑いながら言う。
「帰り道、暗くなるまで喋れるだろ」
 瞬は、返事をしない。返事をすると嬉しいが声に出るから、そっぽを向いて黙っていた。

「瞬は?」
「知らねえ」
「瞬は、絶対どっかで目立つ」
「目立ちたくねえ」
「目立つっていうか」
 朔は言い直す。
「気づいたら中心にいるタイプじゃないか」
 瞬は鼻で笑った。
「買いかぶりすぎ」
「買いかぶりじゃない」
 朔は笑う。川風が吹いて、二人のシャツの裾が同時に揺れた。

「夏休みのあともさ」
 朔が言う。
「あとも?」
「秋も冬も」
 朔は指を折らない。指じゃ足りないみたいに、空に言葉を並べる。

「秋は、焼き芋。コンビニの」
「また食いもん」
「冬は、肉まん」
「だから食いもんだろ」
 朔は笑って、肩をすくめた。
「春は、またここ歩く」
 朔が言った。
「桜が散る頃」
 瞬は堤防の先を見る。今は緑も薄い。でも想像する。枝の上の淡い色。
「……写真撮るか」
 瞬が言う。
「今?」
「今じゃねえ。春」
「いいね」
 朔は一拍置いて、言った。その声が、少しだけ嬉しそうだった。

「卒業の時も撮る」
 朔が続ける。
「気が早い」
「早いほうがいい」
 朔は笑う。
「先に決めておくと、逃げないから」
 瞬はそれを聞いて、また笑う。逃げない。その言い方が、朔らしい。
「じゃあ俺、逃げたらどうすんの」
「追いかける」
 即答。瞬は、負けた。負けたまま、笑った。川の匂いがする。乾いた草の匂い。遠くの土の匂い。

「梅雨が晴れたから、気分も晴れるな」
 朔が言って、少し照れたみたいに笑う。瞬は頷いた。
「晴れるって、こういうことかもな」
 二人の笑い声が、川風にほどけていく。空は青い。どこまでも青い。その青さが、永遠のように見えた。