梅雨の雨が、校舎の窓を細かく叩いていた。
グラウンドは白く霞んで、誰もいない鉄棒だけが濡れて光っている。放課後の廊下は、湿った匂いがした。雑巾の水と、古い木と、濡れた傘。中学二年。期末テストの一週間前。
図書室は、いつもより薄暗い。雨の日の空の色が、そのまま天井に貼りついているみたいだった。蛍光灯は点いているのに、明るさが足りない。本の背表紙だけが並んで、静かに息をしている。机の上に開いたノート。鉛筆の芯の匂い。消しゴムの角の白。
瞬と朔は、二人きりだった。他の生徒は、もう帰った。雨の日はみんな足が速い。朔は、真面目に教科書を開いている。ノートに、きれいな字で要点を書き写していく。書く前に一度だけ、息を吸う。言葉を整える時みたいに。瞬はその横で、数学の問題集を開いているふりをしていた。ふり、だ。目で追っているのに、頭に入らない。雨の音が、ページの上を滑っていく。
「ここ、さ」
朔が指で問題の式をなぞる。
「このまま代入して、整理すれば出る」
「……整理がむずい」
「だから整理するんだろ」
朔は顔を上げずに言う。声は淡々としている。淡々としているのに、瞬は少しだけ落ち着く。瞬は鉛筆を転がした。机の端でコツ、と小さな音がする。図書室の静けさが、その音を大きくする。
飽きた。頭の中にそういう言葉が浮かぶ。飽きた、というより、逃げたい。数字から。雨から。この真面目さから。瞬はわざと、問題集を閉じた。ばさ、と音がして、朔が一瞬だけ眉を動かす。
「おい」
「なあ朔、これさ」
瞬は急に真顔で、ノートを朔の方へ滑らせた。そこには数学の式じゃなくて、意味のない記号が並んでいる。丸。三角。矢印。そして、変な顔の落書き。朔がそれを見て、数秒、固まる。
「……何これ」
「暗号」
瞬は小声で言った。
「雨の日にしか解けないやつ」
朔の口元が、わずかに緩む。
「真面目にやれ」
言いながら、朔の声が笑っている。
「真面目にやってる」
「やってない」
「真面目に絵を描いた」
「ばか」
朔はそう言って、笑った。声を出さないように、肩だけが揺れる笑い。それが、瞬にはたまらなかった。朔が笑っている。それだけで、胸の奥があたたかくなる。梅雨の冷えた空気の中に、小さな火が点く。
瞬はその火を大きくしたくて、さらにふざけた。今度は教科書の端に、朔の横顔を勝手に描く。やたら目を大きくする。やたら眉を濃くする。朔がそれを見つけて、目を細めた。
「……お前、ほんとやめろ」
「似てるだろ」
「似てない」
「似てるって」
朔は言い返しながらも、笑いを堪えきれない。肩がまた揺れる。瞬はその揺れを見て、さらに調子に乗った。
「先生のやつ、やってよ」
「は?」
「あのさ、クセ強いやつ。ほら、国語の」
瞬が小声で言うと、朔は一度だけ眉を寄せた。やるわけない、という顔。その顔のまま、朔は机の上の鉛筆を指先で立てて、咳払いをひとつした。
「……しょ、諸君」
声が、似ていた。あの教師の、妙に芝居がかった抑揚。語尾だけ丁寧で、途中で急に怒鳴る感じ。朔は背筋を伸ばして、わざとらしく顎を上げた。
「諸君。テスト前にだな。だるい、などと言うのは――」
瞬は耐えようとして、肩を震わせた。
「――心が、梅雨だ」
朔がそこで、あの教師そっくりに間を取る。そして自分でも可笑しくなったのか、最後の一語だけ少し噛む。その瞬間、瞬の腹の底に火がついた。
「やば……っ!」
声を殺したのに、笑いが勝手に漏れる。瞬は口元を押さえて、机に額をぶつけそうになった。涙が出る。息ができない。
「お前、図書室で大声出すな」
朔が真面目な顔を作ろうとして、失敗する。
「無理だろ……!」
瞬の笑いは止まらない。図書室の静けさに、二人の肩の揺れだけが増えていく。朔はとうとう諦めて、瞬の真似をするみたいに口元を押さえた。それでも肩が揺れて、笑いが漏れる。二人の笑いは、本の背表紙の列に吸い込まれていって、雨にほどける。
瞬はそれを見て、勝った、と思う。勝った、というより。朔の中の固いものがほどける瞬間を見るのが、嬉しい。そのまま、勉強は崩れた。一度崩れると早い。ノートは閉じられて、筆記用具は転がって、教科書は開いたまま放置される。
「テストやばいぞ」
朔が言う。
「やばいなあ」
瞬も言う。
「やばいって言ってる間にやればいいのに」
「でも今、雨だし」
「雨は関係ない」
「関係ある。雨の日って、全部だるい」
朔が笑った。
「お前、さっきからだるいしか言ってない」
「だってだるい」
瞬が言うと、朔は小さくため息をついた。そのため息は怒っていない。呆れているふりをした、いつもの呼吸だ。
「……じゃあ、休憩。十分だけ」
「まじ?」
「まじ。タイマーかける」
朔は腕時計を見て、秒針を確かめる。そういうところが、朔らしい。十分。たった十分。でも瞬は、その十分が永遠でもいいと思った。
雑談が始まる。最初はどうでもいい話。給食のまずかったメニュー。体育の先生の口癖。同じクラスのやつの変な髪型。雨の日は声が小さくなる。大きい声を出すと、図書室の空気が壊れてしまう。だから二人の声は、自然と近づく。
「なあ、テスト終わったらさ」
瞬が言う。
「うん」
朔が答える。
「晴れてほしいよな」
「梅雨だし」
「梅雨でも、晴れる日あるだろ」
「……まあ、あるな」
朔は少し考えて言った。その言い方が、もう未来の話みたいだった。未来。瞬は、その言葉の手触りを確かめるように、机の木目を指でなぞった。
「高校ってさ」
瞬がふいに言う。言った自分に驚く。朔は少し首を傾げ、顎に手を当てた。目だけを瞬に向ける。
「……行くの?」
「行くだろ」
「そりゃ行くけど」
朔は言葉を選ぶみたいに、一度息を吸う。
「瞬、どこ行きたいとか、あるの?」
「ねえよ」
瞬はすぐ答えた。答えながら、笑ってしまう。
「だろうな」
朔も笑う。笑いながら、瞬は思う。朔がいる。ここにいる。
「朔は?」
「……俺は」
朔は窓の外を見る。雨の線が途切れない。
「できれば、ちゃんと勉強できるとこ」
「真面目だな」
「真面目で悪いか?」
「悪くないけど」
瞬は、すぐに言う。その言い方が、朔を少しだけ黙らせた。瞬も黙る。雨音が間に落ちる。
「高校になってもさ」
瞬が言う。
「うん」
「こうやって、テスト前に、だるいって言いながら、一緒に勉強できるかな?」
それを聞いて、朔は笑った。
「できるようにしろ」
「しろ、って何」
「するんだよ、瞬」
朔の声は、いつもの柔らかさで、少しだけ強かった。その強さが、瞬の胸を満たす。あたたかい。あたたかいまま、少しだけ苦しい。雨音が、いったん静かになった気がした。実際には止んでいない。止んでいないのに、二人の間だけが少し遠くへ浮く。
「高校の次ってさ」
瞬が言う。朔が瞬を見る。答える前に、いつものように一度だけ息を吸った。
「……大人になったら、ってこと?」
「うん。働くとか」
瞬は笑って誤魔化そうとして、上手くいかなかった。未来の話は、軽いふりをしているくせに、どこか重くて痛い。
「朔は頭いいしさ」
瞬はわざと雑に言った。
「良い大学に入って、良い会社に入って、頭のいいことするんだろ」
朔が小さく笑う。
「頭のいいことって、何だよ」
「知らねえ。難しいやつ」
朔は肩を揺らして笑って、それから、瞬の方を見た。
「じゃあ瞬は?」
「俺?」
「瞬は行動力あるから」
朔は、さらっと言う。さらっと言うのに、瞬の胸にだけ残る。
「意外と起業とかして、社長やって、成功してそう」
瞬は吹き出しそうになった。
「ねえよ。俺そんな要領よくない」
「あるって」
朔は笑いながら言う。
「要領じゃなくてさ。思ったら動くだろ、お前」
「動いてねえよ」
「動いてるさ」
朔は断言するみたいに言って、それから少しだけ声を落とした。
「瞬がいると、なんか……大丈夫な気がするんだ」
瞬は、返事が遅れた。否定したら、言葉がこぼれてしまいそうだった。だから、代わりに小さく舌打ちをして、鉛筆を指で回した。机の上で、かすかな音がする。朔はそれを見て、また笑った。未来の話は、ふつふつと湧いてくる。大きな夢じゃない。ただ、同じ場所で、同じ雨を聞いて、同じ机で笑う。
「……十分、過ぎてる」
朔が腕時計を見て言った。
「うそだ」
「ほんとだよ、ばか」
「朔、延長」
「延長なし」
朔は言いながら、また笑った。瞬も笑う。雨は止まない。でも、この図書室の中だけは、少しだけ晴れていた。
