雨風が、建付けの悪い窓枠を静かに揺らしていた。
窓ガラスを叩く音が、夜の部屋の中まで入り込んでくる。細い針みたいな雨が、同じ場所を何度も刺して、少しずつ世界の輪郭を滲ませていた。瞬は自室の窓の前に立って、降りしきる夜空を見つめている。
街灯の光が雨を白く切り取って、落ちる線だけが途切れない。外は暗い。暗いのに、雨だけがやけに見える。目を離したら、雨が止むみたいに。目を離したら、朔のことまで薄まってしまうみたいに。瞬は瞬きをするのも惜しむ。
カーテンの隙間から入る冷気が、指先を冷やす。それでも瞬は窓を閉めきったまま、ガラスに額を寄せることもしない。触れたら、現実がそこに残ってしまう気がした。ガラスの冷たさが「ここにいるのは自分だけだ」と言ってしまう気がした。
朔は、いない。その事実を、瞬は何度も言い聞かせてきた。朝起きるたび。学校へ行くたび。帰り道の信号が赤になるたび。夕飯の鍋の蓋を閉めるたび。いない、と言うたび、喉の奥が擦れていく。擦れて、血が出そうになる。それでも声にはならない。声にならないまま、身体の内側だけが摩耗していく。
梅雨は長い。雨は毎日降る。降るたびに、世界は「まだここにいる」と言う。でも朔だけが、戻らない。雨は落ちてくる。朔は落ちてこない。同じ空から落ちてくるはずだったのに。瞬の胸の奥には、ずっと空洞がある。空洞は、何かを入れれば埋まるタイプの穴じゃない。埋めようとするほど、周りの肉が裂けていく穴だ。朔の名前を思い浮かべるだけで、身体が反射する。
息が浅くなる。肩がすくむ。胃が縮む。それでも、求めてしまう。求めないと、朔が本当にいなくなってしまう気がする。瞬は、朔を求めている。それが恋しさなのか、痛みなのか、もう分からない。ただ、欲しい。欲しい、としか言えない。頭の中で、ひとつの考え方が固まっていく。固まっていく、というより、最初から形を持っていたものが、ようやく言葉になる。朔を受け入れる準備は、最初からできていた。
あの日からずっと。朔がいなくなった瞬間から。受け入れる、というのは。忘れることじゃない。諦めることでもない。朔がいる場所へ、自分が行くこと。そのほうが、筋が通る。そういう理屈が、雨の音に合わせて整列していく。なら、いるべき場所はこの世界じゃない。そう悟る。
悟った途端、胸の奥が少しだけ軽くなる。その軽さが、怖い。怖いのに、救いのように感じてしまう。雨が痛みを薄めるみたいに、決意が痛みを薄める。薄まったぶんだけ、深いところに残る。
瞬は部屋を見回す。机。教科書。畳まれた制服。机の上に置かれた鞄。どれも自分のもののはずなのに、借り物みたいだ。ここにいていい理由が、どれも薄い。朔がいなくなったあとも、世界は勝手に続いた。高校生活も、続いた。
気づけば瞬は、いつも同じ連中とつるんでいた。制服の着崩しが雑で、授業が始まっても椅子にだらりと沈んだままのやつら。煙草の匂いまではしない。万引きだとか、喧嘩だとか、そういう“分かりやすい悪いこと”に手を染めているわけでもない。ただ、いつも口が悪くて、目が濁っていて、何かに倦んでいる。
いつの間にか、瞬の周りはそういう不良生徒で囲まれていた。自分から近づいたのか。向こうが寄ってきたのか。その違いすら、もうどうでもよかった。昼休み。購買の前。放課後の校門。どこにいても、耳に入ってくるのは同じ言葉だった。
「だる……」
「マジだるい」
「授業つまんね」
「勉強とか意味あんの」
「社会に出たら数学とか何の役にも立たないだろ」
鳴き声みたいに、だるいだるい、と繰り返す。学校はつまらない。勉強はつまらない。確かにそうだと瞬も思う。つまらない。意味がない。そう言ってしまえば、胸の奥の穴に理由ができる。でも、朔が生きていた頃に、そんなことを思っていただろうか。思っていなかった。
学校は、楽しかった。少なくとも、朔が隣にいる間は。授業が退屈でも、ノートの端に小さく落書きをして、朔に見せて笑わせることができた。勉強は苦手だった。それでも、朔と一緒にやれば、少しだけ楽しいと思えた。分からないところを聞けば、朔は面倒くさがらずに、同じところを何度でも説明した。その声が、今はもうない。だから瞬は、つまらないと言う連中の輪の中にいる。
つまらない、と言い続ければ、朔がいないことの痛みを、別の言葉にすり替えられる気がした。雨が音を重ねて輪郭を潰すみたいに、だるい、という言葉で自分の輪郭を潰していく。授業は進んで。テストは来て。季節は回って。母は働いて。「続く」っていうことが、こんなに残酷だと知らなかった。終わってくれればいいのに、と何度思ったか分からない。
それでも、母のことだけが引っかかった。女手一つで働いて、瞬を育ててくれた母。雨の日も、暑い日も、愚痴ひとつ言わずに、帰ってきて「ただいま」と言った。その言葉の裏にある疲れを、瞬はずっと見ないふりをしてきた。見ないふりをして、甘えてきた。この先のことを考えると、胸が痛んだ。
母が独りになる。その未来を想像するだけで、心臓の周りが締まる。痛むのに、痛みが決意を鈍らせない。むしろ、痛みがあるからこそ、きちんと終わらせなければいけない気がした。朔に会いに行くなら、言い訳じゃなく、選び取った形にしなければいけない。母にだけは、申し訳ない。謝って済むことじゃないのに。それでも、謝りたい。謝る言葉を考える。考えるたびに、口の中が苦くなる。どんな言葉も、雨に溶けて薄まってしまう。
瞬は窓の外に視線を戻す。雨は止まらない。夜空は何も答えない。濁った雫だけが、同じ調子で落ちてくる。落ちて、砕けて、消えていく。それでも瞬の中の決意は、揺らがなかった。揺らがないまま、雨音だけが同じ調子で続いていた。胸の空洞にも、同じ調子で、雨水が満たしていくように感じられる。
瞬はカーテンを閉めて、窓から離れた。部屋の中が少し暗くなる。雨の音は変わらない。変わらないままに、背中だけが前へ押される。机の上に置きっぱなしの鞄を開けて、中身を確かめる。教科書の角が指に当たって、痛い。その痛みが、まだ生きていることを教える。
生きている。だから、行ける。朔の場所へ。今すぐじゃなくてもいい。でも、もう戻れないところまで決めてしまった。この世界に踏ん張る理由より、朔のいるほうへ傾く理由のほうが、重い。瞬は鞄のファスナーを閉めた。小さな音がして、決意に名前がつく。
雨は止まらない。夜空は何も答えない。朔はこの世界にいない。それでも、次の一歩だけは、もう迷わない。
