雨にほどける




 雨音を切り裂くようなチャイムだった。

 瞬は息を止めたまま、玄関までの距離を数え直す。廊下の床は冷たくて、足音だけがやけに大きかった。ドアノブに手をかけた瞬間、指先がわずかに震える。鍵。チェーン。覗き穴。順番を間違えたら何かが壊れる気がして、瞬はひとつずつ確かめる。

 そして、やっと扉を開ける。そこに立っていたのは、朔だった。瞬の心臓がどくりと鳴る。音が胸の内側を叩いて、次の拍までが長い。もっとも会いたかった人物。もっとも求めていた人物。死んだはずの朔。死んだはずの人間が目の前にいる。

 怖い、より先に、恋しい、が来てしまう。その順番の狂いが、瞬には一番怖かった。朔はあのときのままで、何も変わらない。服も、髪も、表情も、それが何より残酷だ。雨の中に立っているのに、濡れていない。それでも背後の暗い廊下には、雨の匂いだけが確かに漂っていた。

 瞬は喉の奥で名前を呼ぼうとして、声が形にならない。ただ息だけが白くならないまま漏れる。朔は瞬を見ていた。見ているのに、遠い。遠いのに、手を伸ばせば触れてしまいそうな距離にいる。瞬は、自分が一歩踏み出してしまうのが分かった。止める理由が、もう見つからない。瞬は、靴も履かずに朔へ歩み寄った。

 靴下越しに床の冷たさが伝わる。一歩ごとに、心臓が遅れてついてくる。近づけば近づくほど、匂いがないことが分かる。雨の匂いも、石の匂いも。朔の匂いが、ない。それでも瞬の喉は、もう言葉を抱えきれなかった。

「朔」
 名前を呼ぶだけで、胸の奥がほどけそうになる。

「会いたかった」
 声が震えた。喜びなのか、緊張なのか、自分でも分からない。震えが、唇の端まで伝わる。

「……来てくれて、ありがとう」
 言いながら、瞬は自分の言葉が幼い気がした。ありがとう、なんて。死んだはずの人に。でも他に言いようがない。会えた。会えたことだけが、今は事実みたいにそこにある。

 朔は何も言わなかった。ただ、瞬を見つめている。悲しそうな目だった。怒っているわけでも、責めているわけでもない。それなのに、瞬は息が詰まる。

「……なんで、そんな顔してるんだよ」
 瞬は問いかけた。問いかけながら、答えが出ないほうがいいと思ってしまう。答えが出たら、会えたことまで意味を持ってしまうから。

「朔」
 もう一度呼ぶ。呼ぶたびに、現実が少しずつ剥がれていく。

「なあ。何か、言ってくれよ」
 それでも朔は何も言わない。悲しそうな目のまま、瞬の方を見ていた。朔の笑顔が見たかった。瞬は自分と同じように、会えたことを喜ぶ朔が見たかった。自分と会えたら、朔はきっと笑う。そう思っていた。なのに、朔は悲しそうで、ずっと黙っている。瞬の名前も呼ばない。

「……どうして、瞬、って言ってくれないんだよ」
 言った途端、喉がひりついた。自分が最も欲しいものを、口に出してしまったみたいで。朔は何も言わない。瞬の視線だけを受け止めて、受け止めたまま、返さない。瞬は手を伸ばした。触れられる距離にいる。そう思った。触れさえすれば、ここにいることが本物になる。そう思った。

 指先が、朔の胸元に届く。届くはずだった。でも、何も触れない。指が掴んだのは、空だけだった。冷たくも、温かくもない。ただ、何もない。瞬が息を呑んだ、その瞬間。朔の輪郭が、ふっと薄くなる。雨の匂いへ溶けるみたいに。瞬の目の前から、朔が消えた。

 瞬の手は空を掴んだまま、止まっている。何も触れないまま。何もないところに、手だけが置かれている。瞬は、指を曲げることができなかった。握ったら、全部終わってしまう気がした。

 瞬は思う。朔は自分に、どんどん近づいてきている。今この時間だけじゃない。あのチャイムの音も。悲しそうな目も。触れられない手触りも。全部、少しずつ距離を詰めてくる。もう少しなのかもしれない。本当の意味で、朔が瞬を迎えに来るのは。

 それは酷く怖くて、むごいことのはずなのに。瞬は、その想像に救われてしまう。救いだと思ってしまう自分が、また怖い。でも、怖いままでもいいから、と思ってしまう。

 そうして瞬は目をつぶった。瞼の裏が暗くなると、玄関の灯りも、雨の気配も、全部一枚の膜の向こうへ押しやられる。瞬は手を動かす。さっきまで朔が立っていた場所の輪郭を、ゆっくりなぞる。肩の高さ。胸のあたり。そこにあるはずだった空気。目をつぶれば、まだそこに朔がいるような気がした。

 死んだはずの、遠くへ行ってしまった朔が。すぐ近くにいるような気がした。指先が空を掴む。掴めない。掴めないのに、瞬は手を下ろせなかった。雨の音だけが、戻ってくる。玄関の灯りだけは変わらず明るいのに、そこだけが欠けている。瞬は目を閉じたまま、小さく息を吐いた。

「朔」
 名前を呼ぶ。呼べば遠くなるかもしれないのに、それでも呼ぶ。呼ばないでいたら、今度こそ二度と届かない気がした。朔が迎えに来る、ということは。瞬も、そっちへ行く、ということだ。

 怖い、むごい。それなのに、胸の奥がほんの少しだけ軽くなる。それを望んでしまう自分が怖い。それでも、その考えを振り払えなかった。