雨にほどける




 雨粒は窓ガラスに細い線を描いていた。

 ベランダの手すりは黒く濡れて、街灯の光を鈍く返している。水の匂いがする。土の匂いも。濡れたコンクリートの匂いが、換気口から薄く部屋に流れ込んでくる。

 瞬はテレビをつけたまま、ソファの端に腰を落としていた。背中を預けるほどの気力はなくて、膝に肘をついたまま、画面の方へ視線だけを置いた。見ているというより、画面の明るさだけが部屋に残って、音が遅れて耳に届く。湿った空気に混じって、冷めた埃の匂いがした。カーテンの布が重く垂れて、部屋の音を吸い込んでいる。

 ニュースは高速道路の事故を流していた。濡れた路面。赤いテールランプ。ひしゃげたトラックの側面。散らばった積み荷。雨の中、光る安全ベスト。アナウンサーは「雨によるスリップ」と言う。何台も巻き込まれた、と。雨の日は、少しの判断の遅れがそのまま距離になる。距離が、そのまま衝突になる。

「死傷者が出ています」
 淡々とした声だ。淡々としているほうが、かえって胸に刺さる。画面の向こうでは救急車のランプが回っているのに、この部屋は静かだ。雨音と、テレビのノイズと、冷蔵庫の低い唸り。それだけ。

 瞬はリモコンを握ったまま、チャンネルも消音も押さない。指だけが、ボタンの形を確かめるように触れている。消せばいい。消したところで、雨が止むわけでも、事故がなかったことになるわけでもない。――消したところで、朔が戻るわけでもない。

 ふと、テレビの画面に自分の影が映る。暗い部屋の中で、顔だけが薄く浮かんでいる。瞬はすぐに目を逸らした。自分の顔を見るのが、嫌だ。

 コーナーが変わった。映像が切り替わって、スタジオの女性アナウンサーが映る。髪はきれいに整っていて、唇の色まで明るい。照明の下で、肌の上に影が落ちない。雨で濡れた街の映像のあとだと、その明るさが嘘みたいだ。

「記録的な長さの梅雨で――」
 彼女は一度、言葉を区切って笑った。笑って、声の高さを少しだけ上げる。

「でも今年の夏はきっとすぐそこですから、頑張りましょう」
 頑張る。何を。梅雨の間は、何か頑張るものなのか。梅雨が明けたら、頑張らなくていいのか。よく分からない。分からないまま、笑顔だけが正解のようにテレビの中で続いていく。

 瞬の中だけが、季節に取り残されている。梅雨が明けても、夏が来ても、あの日から、ここだけはずっと湿っている。

 瞬は時計を見た。十七時半。母が仕事を終えて帰ってくるまで、あと少し。針の動きだけは正確で、ためらいなく進む。秒針の音が聞こえる気がして、瞬は耳を澄ませた。実際には聞こえない。聞こえないのに、胸の中だけが刻まれていく。

 いつものようにキッチンへ向かう。立ち上がると、ソファのクッションが遅れて戻る音がした。台所の灯りをつけると、白い光が手元だけを浮かせた。影が濃くなる。濃い影が、床に貼りつく。冷蔵庫の横に掛けてあるエプロンを取る。布の端が少し湿っていて、指先に冷たい。首にかけて、腰の紐を背中で結ぶ。結び目を引いた瞬間だけ、身体が“夕食を作る形”になる。

 夕食を作り始める。母が帰ってきて、鍋の匂いを嗅いで、少しだけほっとする。そういう顔をする。それを見れば、瞬も「やってよかった」と思える。思えるはずだ。

 食料棚に目をやる。シチューのルーの箱が一番手前にあって、そこだけ妙に目立った。迷う前に手が伸びる。紙箱の角が指に当たって、少しだけ痛い。痛い。その感覚だけが、今ははっきりしている。

 鍋を出す。水を入れる。コンロのつまみを回して、火をつける。小さく青い炎が立つ。冷蔵庫を開ける。ひやりとした空気が顔にかかる。母が休日に買ってきた野菜が、袋の口を半端に閉じたまま残っていた。じゃがいもは土の匂いをまだ持っていて、にんじんは水気で表面が光る。玉ねぎの薄皮が、触れるだけで指に張り付いた。母はきっと、これを買った時には、普通に笑っていた。「安かった」とか、「今日はシチューにしよう」とか。そんなふうに、先のことを簡単に決められる。瞬にはもう、それができない。

 まな板に並べる。皮を剥く。じゃがいもの表面をなぞると、ざらつきが爪の下に残る。にんじんの匂いが、切る前から鼻に付く。玉ねぎは、目が痛くなる前に、薄皮の苦さだけが指に移る。包丁を手に取る。柄はいつも通りの重さで、手のひらに馴染んだ。この家にある道具は、みんな同じ重さをしている。昨日も。先週も。朔がいなくなる前も。

 刃を見た瞬間、頭の中が静かになる。音が遠のいて、雨とテレビの声が薄い膜の向こうに回る。換気扇の音だけが、やけに低く、長く続く。こんなもので、肌は簡単に切れる。たった一度、深く。そうしたら、全部が終わる。

 終わる。終わる、という言葉が、救いみたいに胸の内側へ落ちた。救い、なんて言葉を自分が思うのが怖い。怖いのに、その軽さを想像してしまう。指先の薄さ。手首の脈。首筋の柔らかさ。そこに刃が触れた時の、想像上の冷たさ。冷たいのは刃なのか。それとも、触れられた自分のほうなのか。

 血の温度。白い台所の灯りの下で、その赤だけがはっきりする。赤は、きっと思っているより暗い。テレビの赤色灯より、車のテールランプより、信号機の赤より、ずっと。当たり前のはずなのに、今日はそれがやけに具体的だ。具体的で、手の届く距離にある。

 野菜を切りかけて、手が止まる。刃先に映った自分の目が、妙にぼんやりして見えた。焦点が合わない。合わないまま、刃だけが綺麗に見える。瞼の奥が熱いのに、涙は出ない。泣けたら少しは楽になるのか。分からない。朔の笑顔が浮かぶ。笑っていた。いつもの顔で。何もなかったみたいに。その「何もなかった」が、一番の嘘なのに。嘘だと分かっているのに、瞬の中ではいつも、朔は笑っている。最後の言葉も、最後の顔も、そこだけが都合よく切り取られて、残っている。

 瞬は下唇を軽く噛んだ。奥歯に力が入る。噛むほどに、唇の内側がじんと熱くなる。――ここで消えたら。そうしたら、朔のいない世界を歩かなくて済む。朝のテレビを見なくて済む。母の「ただいま」を聞かなくて済む。他人の顔色も見なくて済む。そして、朔のいるであろう世界へ近づける。

 そんなふうに考える自分が、どこか他人みたいだ。明日の時間も、次の季節も、迎えなくて済む。頑張る、も、頑張らない、も、関係なくなる。ため息が、鍋のないコンロの上に落ちた。白い湯気の代わりに、息だけが広がって消える。考えるべきじゃない。考えたくない。でも考えてしまう。

 これで人は簡単に――。

 その時、玄関からチャイムが鳴った。その音に、瞬は一瞬だけ母の顔を思い浮かべた。仕事帰りの、濡れた傘。「ただいま」と言う声。でもすぐに、違う、と分かる。瞬は反射で壁の時計を見た。この時間に母が家に着くのは、物理的に不可能だ。母の勤め先から最寄り駅までの距離。改札を抜けるまでの流れ。ホームでの待ち時間。母がいつも乗る電車の間隔。それらを頭の中で並べると、結論だけが冷たく残った。

 そもそも母は鍵を持っている。帰ってくる時にチャイムを鳴らす必要なんてない。じゃあ、誰だ。セールスか。いや、この夕方を過ぎかけた時間に、そんなものは来ない。残業してまで押し売りをするような人間がいるとしたら、それは熱意じゃなくて、時代錯誤だ。間違えた場所へ向けた執着だ。

 じゃあ、近所の誰か。管理会社。配達。間違い。思いつくたびに、どれも決め手がない。決め手がないのに、チャイムの音だけが現実的だった。

 瞬は包丁をまな板の上に置いたまま、エプロンの裾で手を拭いた。指先が、まだ柄の感触を覚えている。その感触を誤魔化すみたいに、強く擦る。そして、玄関へ向かって歩き出した。