雨音はうるさいのに、家の中は妙に静かだった。
瞬はテーブルに肘をついて、母親の作り置きの朝食を食べている。冷めた味噌汁。ラップの皺が残る焼き魚。卵焼きだけが、妙に甘い。テレビは朝の情報番組を流していた。天気予報が、画面の端でずっと「雨」を並べていく。コメンテーターが笑って、スタジオの空気だけが晴れている。瞬は箸を動かす。
味は分かる。でも、噛んでも噛んでも、何かが腹に落ちていかない。シンクの方から、水滴が落ちる音がする。その音が、雨と重なって、時間の感覚をぼやかした。
――卒業式の日、そして高校へ入学して、すぐのことをを思い出す。
卒業式の日は、晴れていた。雨じゃないだけで、世界が嘘みたいに軽い。校門の前で写真を撮る声が跳ねて、制服の胸の花が白く光る。瞬は笑っていた。笑っているふりをする必要がないくらい、周りが勝手に笑わせてくる。でも胸の奥は、ずっと固い。名前を呼ばれて、肩を叩かれて、背中を押されて。
「卒業おめでとう!」
「次、写真な!」
瞬は適当に手を上げて返した。返しながら、視線だけが探してしまう。朔。式のあと、朔は担任に呼ばれていた。「推薦の書類」とか「面談」とか、そういう言葉が飛び交う場所に、朔は自然にいる。
瞬は廊下の端で、窓の外を見ていた。春の光。グラウンド。卒業の空気。それなのに、瞬の中だけが、冬のままだ。――距離を取る。中三の授業参観の日、あの廊下で決めたこと。あれから瞬は、少しずつ朔から手を引いた。話しかけられても返事を短くした。帰り道、朔がいつもの信号で足を止めても、先に歩いた。
「今日さ、帰り――」
「無理」
「まだ何も言ってない」
「用事がある」
そのやり取りを、何度も繰り返した。朔は追ってきた。追ってくるほど、瞬は荒くなった。そして卒業式の日まで、来てしまった。
「おい、瞬」
卒業証書の筒を片手に、朔が瞬に向かって歩いてくる。笑っていた。いつもの顔だ。その“いつもの”が、瞬には痛い。
「何」
瞬は声を平らにした。
「写真、撮ろう。クラスのやつら、もう集まってる」
「嫌だ。行かねえ」
朔の笑みが、ほんの少しだけ止まる。
「卒業だよ」
「だから何」
言葉が棘になる。瞬はわざと、棘を抜かない。朔は一度、息を吸った。いつもみたいに言葉を整えるための呼吸。その小さな癖が、今は腹立たしい。
「みんな待ってる。瞬も来いよ」
「俺、そういうの苦手」
「苦手でも。今日くらい」
朔は強く言わない。強く言わないのに、逃げ道がなくなる。
「……瞬」
朔は呼ぶ。責めるんじゃない。止めるように呼ぶ。その優しさが、一番まずい。瞬が折れたら、全部終わる。
「お前さ、真面目にやれよ。高校から」
瞬は、わざと雑に言った。
「なんだよ、それ」
朔が眉を寄せる。
「真面目にやれ。頭いいんだから。どうせ、良いとこ行くんだろ」
「……俺が行く高校、知ってるじゃないか」
朔の声は静かだ。瞬は知っている、知らないふりをした。朔は進学校。瞬は地元の普通科。同じ電車に乗ることも減る。
「そうだな」
瞬は頷いた。
「じゃあ朔。余計、変なやつとつるむのやめとけよ」
言った瞬間、自分の舌が腐った気がした。でも止めない。止めたら朔が、また守ろうとする。朔の目が、瞬をまっすぐに見る。中学三年のあの日と同じ、真っすぐ。
「……俺みたいな変なやつと」
瞬は笑った。うまく笑えない。
「誰のことだよ」
朔は一拍置く。
「瞬。なんで最近、そういう言い方をするんだ」
瞬は答えない。答えたら、理由が見える。理由が見えたら、朔は引かない。
「俺、何かしたか?」
「してねえ」
「じゃあ、なんで――」
「もう帰る」
瞬は背を向けた。
「待ってくれよ」
腕を掴まれそうになって、瞬は反射で距離を取る。
「触んな」
声が大きくなった。近くにいた同じ卒業生がちらり、とこちらを見る。瞬は見ないふりをした。朔の手が、宙で止まる。その止まった手が、瞬の中の何かを刺す。
「……分かった」
朔が言う。分かった、と。分かってないくせに。分かってほしくもないのに。
「でも、今日だけは、ちゃんと――」
「うるせえ」
瞬は言い捨てて歩き出した。背中に視線が刺さる。刺さっているのに、振り返らない。卒業式の校門は、春の光で白かった。その白さが、瞬にはやけに残酷に見えた。
*
高校の最初の一週間は、あっという間に過ぎた。教室が変わる。制服が変わる。周りの顔が変わる。変わっただけで、世界は前に進んだふりをする。瞬は、前に進むふりをするのが得意だった。地元の高校は、自由だった。髪型も、態度も、多少は許される。
瞬はそれに救われた。救われた、と思った。でも、救われたぶんだけ、空白が分かりやすくなった。朔が隣にいない。それだけで、信号待ちの時間が長い。ホームの端に立つクセが残っている。車道側を無意識に避ける癖も。全部、朔が直してきたものだ。
朔とは、高校の入学式を終え、少ししてから駅で一度だけすれ違った。改札の向こう。朔は新しい制服をきちんと着て、背筋が伸びていた。前髪ひとつ乱さない。周りに同じ制服の連中がいて、朔はその中に自然に収まっている。
瞬は、胸の奥がひっくり返りそうになった。――やっぱり、あっちが正しい。その正しさに、瞬は自分で影を落とす。瞬は、目を逸らした。逸らしたのに、朔は気づいた。朔は一度も迷わず、瞬の方へ歩いてくる。
「瞬」
呼び方だけが、昔のままだ。瞬は立ち止まらない。止まったら終わる。
「何」
振り返らないまま言う。
「……なあ」
朔の声が、いつもより低い。人の流れの中で、必死に瞬の歩幅に合わせてくる。
「卒業式の日から、俺、ずっと考えてた」
「考えんな」
「考えるだろ」
短く強く言う。朔の“穏やか”の底が、初めて見える。
「また話がしたい」
「しねえ」
瞬は即答した。
「高校、違っても、お前とさ……」
「違うからだろ」
瞬は吐き捨てた。朔が息を吸う。言い返すためじゃない。言葉を落ち着かせるために吸う。その仕草が、昔から変わらない。だから腹が立つ。
「俺、瞬のこと――」
朔が言いかける。瞬は足を止めた。止めてしまった。耳が熱い。息がうるさい。朔の声が、駅の放送に一瞬、かき消される。
「……言うな」
瞬は低く言った。
「言わないと、伝わらない」
朔も低い。今度は、怒っている。怒りというより、必死だ。
「伝わんなくていい」
言った瞬間、自分の胸が割れた。
「瞬」
朔が名前を呼ぶ。
「じゃあ、何が正解なんだよ。瞬」
「知らねえよ。朔」
瞬は吐いた。吐きながら、自分の喉が痛い。
「俺、自分の学業に集中したいんだよ。ほっとけ」
瞬は、わざと嘘を混ぜた。
「お前の両親、嫌がるだろ。俺みたいなのと関わってたらさ」
朔の顔色が変わる。
「それが理由か……」
「理由なんて、何でもいい」
瞬は言った。それが一番ひどい言葉だと分かっているのに。朔の喉が動く。飲み込んだのが怒りなのか、言葉なのか、分からない。
「瞬と一緒にいたいんだよ、俺――」
朔の声は震えていた。瞬の喉が詰まる。
「お前さ」
瞬は笑おうとして、失敗した。瞬の声も震える。
「俺に構うなよ」
朔が黙る。黙った瞬間、改札の音だけがやけに大きくなる。人の声も、足音も、全部遠い。瞬は、その沈黙に耐えられずに歩き出した。改札の人波が二人を分ける。瞬は、押されるように階段を降りた。背中で、朔の声が追いかけてくる。
「瞬――!」
瞬は振り返らなかった。振り返ったら、終わる。終わってしまったら、朔の未来が濁る。そうやって瞬は、自分の未来も濁ることに気づかないふりをした。
高校の春は、桜が早く散った。散った花びらは、雨じゃないのに濡れているみたいに道路へ貼りついていた。瞬はそれを踏んで、音も立てずに歩いた。瞬と朔の間に残ったのは、言葉じゃなく、言えなかった言葉の残滓だけだった。
――そして、その二か月後、朔は死んだ。
