雨にほどける

 雨の音が、窓を叩いている。

 しとしと、という可愛いものじゃない。梅雨の本番に来る、冷たくて重たい雨だ。ガラスにぶつかった雫が、筋になって落ちていく。湿った空気が部屋の隅に溜まり、息をするたびに喉の奥がぬるくなる。

 沢渡瞬(さわたりしゅん)は、布団の上に座ったまま動けずにいた。

 時計はもう日付を跨ぎかけている。眠っていないのに、起きてもいない。薄い明かりの中で、丸まったプリントと、脱ぎ捨てた制服が、床に散っている。鞄は口を開けたまま、乾ききらないタオルが椅子の背に引っかかっている。

 もう一年だ。幼馴染の氷室朔(ひむろさく)が死んでから、瞬は随分と無気力に生き続けた。

 無気力、という言葉は自分に甘い気がする。何もしないで済ませたかっただけだ。何も決めないで、何も選ばないで、ただ日々をやり過ごしていれば、いつか胸の内側の痛みが鈍くなると信じた。

 そんな都合のいいことは、起きなかった。学校からの連絡は何度も来た。担任の声も、母の「行けるときに行けばいい」という調子も、どれも雨音に紛れて消えていった。

 出席日数はぎりぎり。留年するかどうかは、もはや努力より運に近い。努力する気力すら残っていない。今年はたまたま運が良く、進級して二年生になれた。将来のことなど、何も考えられない。全部、どうでもよかった。

 堕落した日々の中でも、ただ一人のことだけは、いつも頭の片隅に残り続ける。

 今日は朔の命日だ。

 命日だから、という理由は言い訳だ。罪悪感と後悔は、普段だって抜けない。ただ、今日だけは、胸の奥でそれが重みを増している。濡れた布みたいに、身体に貼りついて離れない。

 あの日。同じ傘に入っていれば。

 瞬は目を閉じる。

 雨音の中に、別の音が混じった気がした。信号から放たれる電子音のような、短い規則的な音。錯覚だ、と打ち消そうとして、余計に耳が冴える。

 濡れた匂いがする。部屋の中なのに。

 気づけば――瞬は、一年前の、あの時の、駅の灯りの下に立っていた。改札のアナウンス。床の水たまり。白い光が濡れたタイルに伸びて、靴の先まで薄く照らしている。

 人の流れの隙間で、朔が傘を差していた。

 進学校の制服をきちんと着て、前髪一つ乱さない。黒髪の短髪が駅の灯りを受けて、輪郭をいっそう端正に見せる。目元は涼しく、笑うと爽やかな優男に見えるくせに、瞬を見つけた途端だけ真っすぐになる。

 一方の瞬は、同じ年のはずなのに、別の生き物みたいだった。茶髪にパーマを当てた髪が湿気で少し膨らみ、着崩した制服の襟元はだらしなく開いている。やんちゃをしていそうな雰囲気を、わざと纏っている。

「なんだよ。入れよ、瞬」
 朔の声は、記憶の中でいつも落ち着いている。雨の日でも乱れない。

 瞬は、傘の下に入れる距離にいた。朔が傘を少し傾けた。何の迷いもなく、当然みたいに。その当然が、瞬には怖かった。

「……嫌だっつってんだろ」
 拒むための言葉が、あまりにも軽く出てしまって、自分でも驚く。朔は眉ひとつ動かさず、もう少し傘を傾けた。

「濡れたら風邪ひくぞ」
 それでも瞬は、強がらないといけなかった。強がる理由を、強い言葉で塗りつぶさないと、朔の優しさに飲まれてしまう。

「朔、男同士で相合傘とか気持ち悪い」
 言った瞬間、喉の奥が冷えた。朔は、微笑んだ。怒りもしなかった。傷ついた顔もしなかった。

「ばーか、気にするなよ」
 そして、諭すみたいに言う。

「ほら、一緒に帰ろう。久しぶりにさ」
 瞬はそれすら、突っぱねた。傘から一歩離れ、雨の中へ出た。濡れるのが嫌じゃないわけじゃない。嫌だった。けれど、嫌だと言ってしまったら、もう戻れない気がした。

 朔は追ってこなかった。追ってこなかったのか。追えなかったのか。

 記憶はそこで途切れる。次に思い出せるのは、朔が死んだという事実だけだ。

 あの日、大雨のあの日、瞬が朔を強く拒んだ日、トラックに轢かれて。

 瞬は目を開けた。部屋に戻っている。雨の音は変わらない。けれど、胸の奥にひっかかった棘だけが、さっきより鋭くなっている。命日だから、行く。瞬は立ち上がった。

 床に散らばるプリントを踏まないように避け、制服の袖を掴んで持ち上げて、また落とした。音を立てないように廊下へ出る。玄関までの道のりがやけに遠い。傘立てに手を伸ばす。ビニール傘の柄が指に触れる。

 ――入れよ、瞬。

 朔の声がまた脳内で鳴る。瞬はその傘を掴んで、結局、置いた。持っていくのが怖かった。濡れるのが怖いんじゃない。朔の言葉を、今さら受け取ってしまうのが怖い。

 玄関のドアを開ける。雨の匂いが一気に流れ込む。そのとき、ほんの一瞬だけ、信号の音が聞こえた気がした。雨の反響だ。そういうことにして、瞬は外へ出た。アパートの階段を静かに降りる。駅へ向かう道は、夜中でも灯りが多い。瞬は、終電を超えた駅を抜けて、川の方へ歩き出した。

 駅から見て、瞬の住むアパートとは反対方向。あの日、朔が行くべきじゃなかった方向。

 ――俺が拒否しなければ。

 その考えは、正しいのかどうか分からない。事故は偶然だ。雨の日は危ない。トラックは止まれない。それでも瞬にとっては、違う。これは偶然じゃない。自分が朔を殺した、という形にしないと、苦しみの行き場がなくなる。

 川沿いに出ると、雨が音を変えた。堤防の下をくぐる道は暗く、雨音が跳ね返って、耳の内側を叩く。横断歩道の信号は、雨でかすれているのか、途切れ途切れに光る。水たまりが、いくつもある。街灯がそこに滲み、揺れて、伸びて、反射する。

 瞬は足を止めた。ここだ。事故現場。一年経った今では、供え物は何もない。

 見えないのに、ライトの反射だけが路面を走った気がした。白い線を、薄い光がなぞっていく。遠くでエンジン音がして、すぐに雨に飲まれる。瞬は、車道側へ一歩寄った。自分でも、止める気がない。朔が自分を誘っている。そう思い込むと、妙に楽だった。抵抗しなくていい。頑張らなくていい。もう、何も選ばなくていい。自分に向かって、トラックが突っ込んできてくれと思う。

 ――それでもいいだろ。

 瞬は唇を噛んだ。雨がしょっぱく感じる。

「朔……お前に会いたい」
 声が出てしまった。その瞬間、世界が少し静かになった。雨の音が遠のいたわけじゃない。けれど、耳が雨の奥にあるものを拾ってしまう。雨音が、一度だけはっきり鳴る。

 瞬は、顔を上げた。横断歩道の向こう。堤防の影。水たまりに映る光の端に、そこに“いる”べきではない輪郭が立っている。

 ――氷室朔だ。

 傘はない。濡れているのに、濡れていないみたいに、ただ静かだ。朔は喋らなかった。瞬の方を見て、ほんの少しだけ眉を下げる。優しい顔だ。それが、最も怖かった。

 瞬は息を吸うことも忘れて、ただ立ち尽くした。