それから一週間ほど、俺は浠のくれた首飾りを胸に押し抱くようにして眠った。
ただの金物なのに、不思議と温もりがあるように思えて、それがどうにも心地よくて、手放せなかった。
そんな中、一つの転機が訪れる。
家に入り浸るあの厄介者が、母と東京に行く兼ね合いで、数日程帰らないと吐き捨ててきたのだ。
どんな目的かも聞く気はなかったし、そんな事よりも遥かに、僅かでもあの男から解放される事実に、俺は内心ほっとした。
二度と戻って来なくていい。
中途半端な家族ごっこは疲れたから。
何の特別さも欠片もない、書面にだって起こせない形だけの血縁を、さも誇っているかのように語るのは苦痛だから。
願わくば、そのまま──。
そんな許されない悪態も、今ばかりは殺さなくて済む。
束の間の安心感を得た俺は、数夜、ベッドの上で情けなく泣いた。
家の中で肺いっぱいに呼吸ができたのは、久々だった。
何の物音にも怯えず、風呂に入れたのも、そんな簡単な日常生活さえも。
人間として生きることさえ、ままなっていなかったのだと、思い知らされる。
しかし一人の夜は、存外寂しくも何ともなかった。
この首飾りがまるで浠のように思えてきて、空しくなる心を満たしてくれたからだ。
いつまでも変わらないアイツが、傍にいてくれているような安堵に埋もれながら、一頻り嗚咽を零して、俺は意識を落とすのである。
それから、夢を見た。
白蛇の夢だ。
岬ノ神社で祀られている神に瓜二つの、真白に艷めく美しい蛇に、全身を絡めとられる奇妙な夢。
俺の体は、漠然とした恐怖に駆られても逃げることも足掻くことも叶わない石の体と化していて。
その蛇は、蟠を巻いて、俺の逃げ場をあっという間に封じ、両の赤眼で暫くこちらを凝視した後、そうっとこちらの額に口付けを落としたのである。
どこか既視感のある眼差しを片隅に置いて、幾許か夢現を彷徨ったけれど、無意識の海に浮かんでいる俺では、何も判断できやしなかった。
絆創膏を貼ってやった恩返しに来たのではないか、と微睡みの中で思いもしたが、真実かどうかは定かでない。
けれどあの目は、やはり、否、少し。
浠に似ていたような気がする。
***
「最近よく眠れてるみたいだね」
「…………おう。これも、おまじないの効果か?」
「へへ、そうじゃないかな」
定期試験を終え、早帰りに喜ぶクラスメイト達を置いて、俺達は浠の家へ帰った。
コイツが一人暮らしを始めて以来、俺が訪問するのは初めてのことだった。だからか、浠は心底満足そうに口角を上げている。
自室の机に頬杖を突きながら、だらしのない姿勢で見つめるその眼は、ひどく甘ったるそうだ。
「なにニヤニヤしてんだよ……」
「だって、きょーちゃんがオレの家に来てくれたんだもん、喜ぶなって方が無理」
「まぁ母さんがああなってから、ぱったりこっちに来る事も無くなったからな」
仕方がない、か。
昔は家族か疑われるくらいに、通っていたわけだし。
引っ越してきて間もない頃、俺はよく岬ノ神社と浠の実家を行き来していた。
俺がどこに行って何をしようと、子育てに無関心な母にとってはどうでもいい事。
それより、新しい化粧道具や、華美な洋服の方が余っ程興味があったはずだ。
周囲からは哀れみの目を向けられていたけれど、俺は決して自分を可哀想な子供とは思わなかった。
母を、可哀想な人だとは思わなかった。
「子供置いて彼氏と東京へ小旅行とか、っは、笑える。ほんと……どうしようもねぇ大人だよな」
循環し始める汚濁は、本心とは裏腹に言葉を押し出す。
やめだやめだ。
そんな愚にもつかない話を、掘り返したいわけじゃない。
俺は鼻で笑いながら、そう吐き捨てる。
乾ききった言の葉にある小さな棘が、呑み込もうとする度、胸に刺さって、口にするとちくちく痛んだ。
さっさとこの重たい空気を変えるべく、俺は浠に向き直る。
「そういうお前は?一人暮らしどうなんだよ。親御さん心配してんじゃねえの、家事とか特に」
「いや、全然。寧ろきょーちゃんがいるなら、なんでも出来るでしょーとか、揶揄われてる」
「んだよそれ、俺抜きでも出来るようにしとけよ」
「無理。きょーちゃんがいなきゃ、オレなんにもできない」
「お前、俺がまた引っ越すとかなったら死にそうだな」
「一緒について行くから平気」
浠は真剣に語っている一方で、俺は「なんだそれ」とあしらうように呆れ笑いをこぼした。
時間を忘れて談笑し、くだらない話をしながら昼食を作り、家の事なんか何一つ気に留めず、俺は浠と昔のように、くっつき合う。
指先が触れれば、アイツの指が絡まる。
抱きしめられもすれば、額に口付けられもする。
二人だけの空間ならば、そんなゼロに等しい距離感を、誰からも咎められない。
解けていく浠への心緒が、徐々に俺の片意地を張った胸の内を崩していった。
コイツの隣は、何時も異様に俺をダメにする。
「はーぁ、きょーちゃんとお家デート最高〜……!!」
ソファの背もたれに寄りかかり、盛大に喜ぶ浠の惚けきった笑顔が眩しくて、俺は目を細める。
「デートじゃねえ」
「デートだよ。大好きな人となんだから」
何を言っているんだか。
浠は昔から、さも自分達が恋人のような口振りをするが、俺には決してその気は無い。
特別なことに違いはないが、甘美でキザな台詞を伝え合うほどの関係性とは言い難い。
何より、俺は色恋沙汰自体に好印象を抱いていない。そういう話は苦手だ。
「俺たちは別にそういうんじゃないだろ、友情だ友情」
「友情なんて在り来りなものと一緒にしちゃダメ!!」
素直にそう伝えると、コイツは悲痛を訴えながらしくしくと背中を丸めながら泣いた。
態とらしい、いかにもな、嘘泣きだが。
「そんな悲しいこと言わないでよ……、オレはずーっと、むかーっしから、きょーちゃんお嫁さんにするって決めてるくらい一途なのにさ」
「そういうの絶対外で言うなよ、言ったら絶交だ」
コイツが俺をどうしたいかなんて、分からないけれど、死ぬまで手離したくない情が俺達の間にあることだけは確かだ。
「別に、何も言わずに離れて言ったりなんかしねえから」
「本当に?」
「……ああ」
俺は、この特別が無くなってほしくはない。
それは強欲な願いだろうが、家族のフリをした両親や、事情も知らない鰯共に、奪われては溜まったものではないのだ。
名前だけでもいい。
仮初でも、この心を占める空白を満たしてくれるものが欲しい。
それをくれるのは、浠ただ一人だけなのだから、我儘くらいいいだろう。
そうして不意に見下げた時、己の胸元で輝く首飾りが網膜に焼き付いた。
より一層強く照って見えるそれを、凝視していると、頭がふわふわして心地良くなる。
俺が嵌め込まれた翠玉を見ながら、ぼうっとしていると、浠が隣で笑った。
「気に入った?」
俺は小さく頷き、「お前みたいだから」と零した。
それを聞いた浠は、また有頂天になって、俺を抱きしめる。
「そう思ってもらえて、オレすっげー嬉しい」
「……気持ち悪いと思わねえのか」
「うん。好きな子が自分のあげたものを肌身離さず持ってくれてるって、凄く幸せ」
そう言う浠の声は今にも溶けてしまいそうなほど、甘く優しいもので、俺は胸焼けさえ起こしそうだった。
「誰にも奪われたくないよ」
「……この先もオレを感じてて欲しいな、なんて」
背中に回された腕や、押し付けられている身体が、まるで巻き付く蛇のようで、その圧に自分の肺が縮こまる。
「強欲なやつ……うっ、」
苦しさに俺が軽く呻いても、コイツはお構い無しに密着してくるものだから、抵抗は諦めるほかなかった。
「ねえきょーちゃん、知ってた?首飾りは昔、魔除けとしても使われてたって」
「……っいや、知らない」
浠は体を戻して、俺の首にかかるそれを、手の平に取る。
「悪いものを寄せ付けないための、お守り。優しいきょーちゃんが穢れた存在に傷つけられないための、オレからの」
浠は些か、言葉が大袈裟すぎる。
俺は端的に相槌を打ちながら、先日の浠からの言葉を思い出した。
『きょーちゃんのことは、オレが護るから』
あの時は、使命感に駆られるコイツの熱情だと受け取っていたけれど。
その言霊が、意味が、この翠玉に込められていたのだと思うと、少し寒気が走る。
「あの男も直に片付くし、オレの思いが通じたのかなあ」
浠の持ち上げられた口の端から、八重歯が覗いている。放たれた平坦な声音に、感情という物はない。
ふとした思いつきのような軽快さが、無情さに拍車をかける。
「指輪も首飾りもオレのことだと思って、大事にしてくれたから、そうしたんだ。……この世界は、オレ達二人だけでいいんだから、綺麗じゃないものなんていらない」
しかし、言葉と裏腹に浮かぶ、浠の愉悦に満ちた笑みは、俺の肝をひどく冷やした。
「何、言ってるんだお前……」
「でもまだ不充足か」
現に、あの男が東京へ出掛けると言い出したのも突然の事で、この首飾りを受け取って以降、起きた話だった。
「……みず、」
「何?」
何の偶然だ?
なんだ、この違和感は。
「っいや、……なんにも、ない」
こんな二度も、妙な偶然があるのか?
五人の失踪も、絆創膏の件だって、まだ納得しきれていないのに。
俺の考えすぎ、か?
俺は頭を振って、無駄な思考をかき消した。
浠は、翠玉に頬をすり寄せて、陶酔している。その瞳は柔らかく弓なりに歪曲し、ほんのりと赤みを帯びていた。
「何に気を取られてるの?」
「っそれは、お前がだろ……!ぅ、わ、」
ふと飾りを引っ張られ、金具が項に食い込み、冷たさを帯びた微弱な痛みが走る。
前につんのめり、反射的に浠の膝の上へ手を乗せたせいで、俺達の距離はもう十センチにも満たない。
「オレの目、ちゃんと見て」
これじゃあまるで、躾用の首輪だ。
鼻先がくっついてしまうほど、互いの息使いが密に分かるほどの影の重なり。
油断をしたら、その牙で食われてしまいそうな気がしてならない。
「ほら、きょーちゃんでいっぱいでしょ」
コイツの縦に細まった瞳孔から、じわじわと、血煙のようにナニかが滲み満ちている。
息が詰まる。湧き上がる焦燥と恐怖に支配されてしまいそうだった。
「きょーちゃんがくれた分、オレも少しずつ、返していかなきゃ」
赤い目。同じ感覚。でも何か違う。
何時も以上に、頭がぐらぐらとして、意識が飛びそうになる。
「ッいい、俺は、!!」
本能的に、危機を察知した俺は顎を外へ捻り、目を背けようとしてしまう。体を後方へ引いて、離れようと抵抗した。
けれど。
「っと、暴れない暴れない。なんで怖がるの、お利口さんにしてて、ねっ」
後ろに退こうとした勢いを利用され、俺はカーペットの上に仰向けで押し倒される。
両手首を床に抑え込まれた挙句、浠は、自分の足を絡ませて、俺を逃がすまいと覆った。
「なんで急に、俺何かしたか……?悪い気にさせたなら、謝るから」
「あはは、きょーちゃんが悪いわけじゃないよ。でも、こんな機会二度とないだろうから」
「は……っ?」
鎖骨のあたりで、チャリチャリと触れる首飾りを退けて、浠は肌に指を滑らせてはにかんだ。
次の瞬間、精一杯背けていた顔を鷲掴まれ、正面を向かされる。
「い"、た、」
「首飾りだけじゃ、心許ないよねー……」
無理に動かされた首筋に痛みが走り、俺は短く息を詰めた。
「何言っ──あ……?」
その目の中に、綺麗に収まる自分と視線がかち合った時、身体が石のように硬直する。
口も動かせなければ、声も空気を掠めるような程しか発せなくなってしまった。
「苦しい?ごめんね、もうちょっとの辛抱だから」
浠は小さく舌舐りをして、不敵にほくそ笑む。
視線を逸らせない、目の奥が焼け爛れるように熱い、頭が割れそうだ。
生理的に溢れ出そうになる涙が目尻に溜まって、蚯蚓のように肌を這い、床へ落ちる。
この状況はまるで、まるで。
あの夢みたいじゃねえか。
「……っ!!は、っ、ッ」
「ははっ、あーぁ……夢みたい。でしょ?」
ただの金物なのに、不思議と温もりがあるように思えて、それがどうにも心地よくて、手放せなかった。
そんな中、一つの転機が訪れる。
家に入り浸るあの厄介者が、母と東京に行く兼ね合いで、数日程帰らないと吐き捨ててきたのだ。
どんな目的かも聞く気はなかったし、そんな事よりも遥かに、僅かでもあの男から解放される事実に、俺は内心ほっとした。
二度と戻って来なくていい。
中途半端な家族ごっこは疲れたから。
何の特別さも欠片もない、書面にだって起こせない形だけの血縁を、さも誇っているかのように語るのは苦痛だから。
願わくば、そのまま──。
そんな許されない悪態も、今ばかりは殺さなくて済む。
束の間の安心感を得た俺は、数夜、ベッドの上で情けなく泣いた。
家の中で肺いっぱいに呼吸ができたのは、久々だった。
何の物音にも怯えず、風呂に入れたのも、そんな簡単な日常生活さえも。
人間として生きることさえ、ままなっていなかったのだと、思い知らされる。
しかし一人の夜は、存外寂しくも何ともなかった。
この首飾りがまるで浠のように思えてきて、空しくなる心を満たしてくれたからだ。
いつまでも変わらないアイツが、傍にいてくれているような安堵に埋もれながら、一頻り嗚咽を零して、俺は意識を落とすのである。
それから、夢を見た。
白蛇の夢だ。
岬ノ神社で祀られている神に瓜二つの、真白に艷めく美しい蛇に、全身を絡めとられる奇妙な夢。
俺の体は、漠然とした恐怖に駆られても逃げることも足掻くことも叶わない石の体と化していて。
その蛇は、蟠を巻いて、俺の逃げ場をあっという間に封じ、両の赤眼で暫くこちらを凝視した後、そうっとこちらの額に口付けを落としたのである。
どこか既視感のある眼差しを片隅に置いて、幾許か夢現を彷徨ったけれど、無意識の海に浮かんでいる俺では、何も判断できやしなかった。
絆創膏を貼ってやった恩返しに来たのではないか、と微睡みの中で思いもしたが、真実かどうかは定かでない。
けれどあの目は、やはり、否、少し。
浠に似ていたような気がする。
***
「最近よく眠れてるみたいだね」
「…………おう。これも、おまじないの効果か?」
「へへ、そうじゃないかな」
定期試験を終え、早帰りに喜ぶクラスメイト達を置いて、俺達は浠の家へ帰った。
コイツが一人暮らしを始めて以来、俺が訪問するのは初めてのことだった。だからか、浠は心底満足そうに口角を上げている。
自室の机に頬杖を突きながら、だらしのない姿勢で見つめるその眼は、ひどく甘ったるそうだ。
「なにニヤニヤしてんだよ……」
「だって、きょーちゃんがオレの家に来てくれたんだもん、喜ぶなって方が無理」
「まぁ母さんがああなってから、ぱったりこっちに来る事も無くなったからな」
仕方がない、か。
昔は家族か疑われるくらいに、通っていたわけだし。
引っ越してきて間もない頃、俺はよく岬ノ神社と浠の実家を行き来していた。
俺がどこに行って何をしようと、子育てに無関心な母にとってはどうでもいい事。
それより、新しい化粧道具や、華美な洋服の方が余っ程興味があったはずだ。
周囲からは哀れみの目を向けられていたけれど、俺は決して自分を可哀想な子供とは思わなかった。
母を、可哀想な人だとは思わなかった。
「子供置いて彼氏と東京へ小旅行とか、っは、笑える。ほんと……どうしようもねぇ大人だよな」
循環し始める汚濁は、本心とは裏腹に言葉を押し出す。
やめだやめだ。
そんな愚にもつかない話を、掘り返したいわけじゃない。
俺は鼻で笑いながら、そう吐き捨てる。
乾ききった言の葉にある小さな棘が、呑み込もうとする度、胸に刺さって、口にするとちくちく痛んだ。
さっさとこの重たい空気を変えるべく、俺は浠に向き直る。
「そういうお前は?一人暮らしどうなんだよ。親御さん心配してんじゃねえの、家事とか特に」
「いや、全然。寧ろきょーちゃんがいるなら、なんでも出来るでしょーとか、揶揄われてる」
「んだよそれ、俺抜きでも出来るようにしとけよ」
「無理。きょーちゃんがいなきゃ、オレなんにもできない」
「お前、俺がまた引っ越すとかなったら死にそうだな」
「一緒について行くから平気」
浠は真剣に語っている一方で、俺は「なんだそれ」とあしらうように呆れ笑いをこぼした。
時間を忘れて談笑し、くだらない話をしながら昼食を作り、家の事なんか何一つ気に留めず、俺は浠と昔のように、くっつき合う。
指先が触れれば、アイツの指が絡まる。
抱きしめられもすれば、額に口付けられもする。
二人だけの空間ならば、そんなゼロに等しい距離感を、誰からも咎められない。
解けていく浠への心緒が、徐々に俺の片意地を張った胸の内を崩していった。
コイツの隣は、何時も異様に俺をダメにする。
「はーぁ、きょーちゃんとお家デート最高〜……!!」
ソファの背もたれに寄りかかり、盛大に喜ぶ浠の惚けきった笑顔が眩しくて、俺は目を細める。
「デートじゃねえ」
「デートだよ。大好きな人となんだから」
何を言っているんだか。
浠は昔から、さも自分達が恋人のような口振りをするが、俺には決してその気は無い。
特別なことに違いはないが、甘美でキザな台詞を伝え合うほどの関係性とは言い難い。
何より、俺は色恋沙汰自体に好印象を抱いていない。そういう話は苦手だ。
「俺たちは別にそういうんじゃないだろ、友情だ友情」
「友情なんて在り来りなものと一緒にしちゃダメ!!」
素直にそう伝えると、コイツは悲痛を訴えながらしくしくと背中を丸めながら泣いた。
態とらしい、いかにもな、嘘泣きだが。
「そんな悲しいこと言わないでよ……、オレはずーっと、むかーっしから、きょーちゃんお嫁さんにするって決めてるくらい一途なのにさ」
「そういうの絶対外で言うなよ、言ったら絶交だ」
コイツが俺をどうしたいかなんて、分からないけれど、死ぬまで手離したくない情が俺達の間にあることだけは確かだ。
「別に、何も言わずに離れて言ったりなんかしねえから」
「本当に?」
「……ああ」
俺は、この特別が無くなってほしくはない。
それは強欲な願いだろうが、家族のフリをした両親や、事情も知らない鰯共に、奪われては溜まったものではないのだ。
名前だけでもいい。
仮初でも、この心を占める空白を満たしてくれるものが欲しい。
それをくれるのは、浠ただ一人だけなのだから、我儘くらいいいだろう。
そうして不意に見下げた時、己の胸元で輝く首飾りが網膜に焼き付いた。
より一層強く照って見えるそれを、凝視していると、頭がふわふわして心地良くなる。
俺が嵌め込まれた翠玉を見ながら、ぼうっとしていると、浠が隣で笑った。
「気に入った?」
俺は小さく頷き、「お前みたいだから」と零した。
それを聞いた浠は、また有頂天になって、俺を抱きしめる。
「そう思ってもらえて、オレすっげー嬉しい」
「……気持ち悪いと思わねえのか」
「うん。好きな子が自分のあげたものを肌身離さず持ってくれてるって、凄く幸せ」
そう言う浠の声は今にも溶けてしまいそうなほど、甘く優しいもので、俺は胸焼けさえ起こしそうだった。
「誰にも奪われたくないよ」
「……この先もオレを感じてて欲しいな、なんて」
背中に回された腕や、押し付けられている身体が、まるで巻き付く蛇のようで、その圧に自分の肺が縮こまる。
「強欲なやつ……うっ、」
苦しさに俺が軽く呻いても、コイツはお構い無しに密着してくるものだから、抵抗は諦めるほかなかった。
「ねえきょーちゃん、知ってた?首飾りは昔、魔除けとしても使われてたって」
「……っいや、知らない」
浠は体を戻して、俺の首にかかるそれを、手の平に取る。
「悪いものを寄せ付けないための、お守り。優しいきょーちゃんが穢れた存在に傷つけられないための、オレからの」
浠は些か、言葉が大袈裟すぎる。
俺は端的に相槌を打ちながら、先日の浠からの言葉を思い出した。
『きょーちゃんのことは、オレが護るから』
あの時は、使命感に駆られるコイツの熱情だと受け取っていたけれど。
その言霊が、意味が、この翠玉に込められていたのだと思うと、少し寒気が走る。
「あの男も直に片付くし、オレの思いが通じたのかなあ」
浠の持ち上げられた口の端から、八重歯が覗いている。放たれた平坦な声音に、感情という物はない。
ふとした思いつきのような軽快さが、無情さに拍車をかける。
「指輪も首飾りもオレのことだと思って、大事にしてくれたから、そうしたんだ。……この世界は、オレ達二人だけでいいんだから、綺麗じゃないものなんていらない」
しかし、言葉と裏腹に浮かぶ、浠の愉悦に満ちた笑みは、俺の肝をひどく冷やした。
「何、言ってるんだお前……」
「でもまだ不充足か」
現に、あの男が東京へ出掛けると言い出したのも突然の事で、この首飾りを受け取って以降、起きた話だった。
「……みず、」
「何?」
何の偶然だ?
なんだ、この違和感は。
「っいや、……なんにも、ない」
こんな二度も、妙な偶然があるのか?
五人の失踪も、絆創膏の件だって、まだ納得しきれていないのに。
俺の考えすぎ、か?
俺は頭を振って、無駄な思考をかき消した。
浠は、翠玉に頬をすり寄せて、陶酔している。その瞳は柔らかく弓なりに歪曲し、ほんのりと赤みを帯びていた。
「何に気を取られてるの?」
「っそれは、お前がだろ……!ぅ、わ、」
ふと飾りを引っ張られ、金具が項に食い込み、冷たさを帯びた微弱な痛みが走る。
前につんのめり、反射的に浠の膝の上へ手を乗せたせいで、俺達の距離はもう十センチにも満たない。
「オレの目、ちゃんと見て」
これじゃあまるで、躾用の首輪だ。
鼻先がくっついてしまうほど、互いの息使いが密に分かるほどの影の重なり。
油断をしたら、その牙で食われてしまいそうな気がしてならない。
「ほら、きょーちゃんでいっぱいでしょ」
コイツの縦に細まった瞳孔から、じわじわと、血煙のようにナニかが滲み満ちている。
息が詰まる。湧き上がる焦燥と恐怖に支配されてしまいそうだった。
「きょーちゃんがくれた分、オレも少しずつ、返していかなきゃ」
赤い目。同じ感覚。でも何か違う。
何時も以上に、頭がぐらぐらとして、意識が飛びそうになる。
「ッいい、俺は、!!」
本能的に、危機を察知した俺は顎を外へ捻り、目を背けようとしてしまう。体を後方へ引いて、離れようと抵抗した。
けれど。
「っと、暴れない暴れない。なんで怖がるの、お利口さんにしてて、ねっ」
後ろに退こうとした勢いを利用され、俺はカーペットの上に仰向けで押し倒される。
両手首を床に抑え込まれた挙句、浠は、自分の足を絡ませて、俺を逃がすまいと覆った。
「なんで急に、俺何かしたか……?悪い気にさせたなら、謝るから」
「あはは、きょーちゃんが悪いわけじゃないよ。でも、こんな機会二度とないだろうから」
「は……っ?」
鎖骨のあたりで、チャリチャリと触れる首飾りを退けて、浠は肌に指を滑らせてはにかんだ。
次の瞬間、精一杯背けていた顔を鷲掴まれ、正面を向かされる。
「い"、た、」
「首飾りだけじゃ、心許ないよねー……」
無理に動かされた首筋に痛みが走り、俺は短く息を詰めた。
「何言っ──あ……?」
その目の中に、綺麗に収まる自分と視線がかち合った時、身体が石のように硬直する。
口も動かせなければ、声も空気を掠めるような程しか発せなくなってしまった。
「苦しい?ごめんね、もうちょっとの辛抱だから」
浠は小さく舌舐りをして、不敵にほくそ笑む。
視線を逸らせない、目の奥が焼け爛れるように熱い、頭が割れそうだ。
生理的に溢れ出そうになる涙が目尻に溜まって、蚯蚓のように肌を這い、床へ落ちる。
この状況はまるで、まるで。
あの夢みたいじゃねえか。
「……っ!!は、っ、ッ」
「ははっ、あーぁ……夢みたい。でしょ?」
