“ “が満ちるまで待っててね

 幸せになりたい、なんて在り来りな願いを抱いたことは生まれてこの方、一度もない。

 自分が不幸かどうかも見分けがつかないのなら、理想の幸福論を語ることもできないだろう。

 それは例えば、温かいご飯が出ること。
 それは例えば、安心して眠れる夜があること。

 親から無償の“アイ“を受け取るということ。

 他人が有り難むこれらを、俺は仮にも幸せと呼んでいる。
 体感したことのないものは、そう位置づけておくしかない。

 それでも、浠がいつも俺を幸せにしてやると言ってくれる気持ちが嬉しいと思った。



「…………ただいま」


 明かり一つない玄関で、擦り切れた靴を脱ぎながら、虚空に向かって吐き捨てる。

 浠と別れた後、柄にもなく寄り道をしたせいで、帰りが遅くなった。

 視線を落とした先には、母のハイヒールと俺よりも二回りは大きいくたくたのスニーカーがある。

 この違和感は見慣れてしまった。

 こうなったらもう、家族と呼んでしまえるのだろうか。

 襤褸になった靴を履き替え、洗面所へと繋がる廊下を歩く。

 床板がみしりと音を立てる度、内臓が針のように鋭くなる。それを固唾を飲んで堪えながら、洗面所へと辿り着いた。

 生温い水で手を洗い、顔を上げた時である。

 鏡越しに、黒い影が背後に居ることに気付いた。

「──っっ!!!」

 振り返る手前、眼前に突きつけられたのは硬い拳。

 俺から咄嗟に出た悲鳴は、何の形も取り繕えずに、床に叩き落とされてしまった。

「おい美夜ぁ、金が足りてねぇぞ金がよぉ……おまけに親を置き去りにして夜あそびかぁ?」

 痣の上に重ねられた頬の熱さが、痛みと痺れを伴って骨に響く。

 口の中で、じわじわと鉄の味が広がった。

 不意打ちを喰らい、倒れ込んだ俺の胸ぐらを黒い巨体が掴みあげると、容赦ない勢いで揺さぶる。

「まだ隠してんだろ。ほっつき歩けるくらいの金、出せよほら、」

 次の瞬間には、徐に身体をまさぐられ、あまりの嫌悪感に自分の顬が軋んだ音を立てた。

 太い指が、腹や腰にひたりと当たる度、吐き気がしてならない。

「やめ、っ持ってねえよ、そんな金……っ!!」

 手入れされていない爪が、ぎいぎいと肌を掠めて痛い。

 募る憤りの捌け口はどこにもなく、せめてもの抵抗として必死に首を振りながら、シャツやポケットの中に無理やり捩じ込まれる腕を止めようとした。

「なんだこの安っぽい指輪、邪魔くせぇなッ」

「あ……!っいい加減にしろよ!!俺のは全部、母さんに渡して──」

 けれど。

「だから、それが足りねぇっつってんだろ物分かりの悪ぃガキだな!!」

「ッ!」

 それもまた逆効果で。

 お前が全部吸い取っているくせに。
 お前が俺達をもっと壊しているくせに。

 そういった悪態は、何度も心の内で釘を打ち込むように吐いた。

 しかし何時も、不思議と復讐心が湧いてくる事はなかった。

 それは、俺が現実(ココ)に帰ってきてしまったのだという絶望の方が、大きかったからだ。

「お前の母親も、男を取っかえ引っ変えして、だらしがねえからなぁ。顔と体は文句のつけようがないせいで、阿呆に拍車がかかってしゃあねえ」

「……お前は母親似だ。顔なんかそっくりだぜ。簡単にヤれそうな感じとかよ」

 摩耗する黒い影は、俺に馬乗りになりながら泥で引きずったように笑った。
 荒々しく吐かれる呼吸に混ざる鼻腔を刺すような臭いがする。

 くらっとくるような、強い酒気に当てられながら、最低な言葉をぶつけられても、俺の脳裏はやけに静かだった。

「その顔、その顔だ。昨日の晩も見たぜ?あぁ丁度、この体制だったなぁ?」

 その静謐さの合間に投じられた一石。

 突如として脳裏に谺する隣室の記憶と、繰り広げられる醜い光景に、意識が突き動かされる。

 今は、あの時母がいた位置に自分がいる。

 そう重ね合わせた途端、酷く自分が穢い物に思えてきて、胃の中のものをぶちまけたくなった。

「やめ、っ、気もち、悪ぃんだよ……っ」

 だから。

 新しく貼った湿布を見た浠に、こっぴどく心配される未来だけを想像していた。


 アイツ、怒るだろうな。


「……やだ……っみずき、」

 そう思ったら、ふと、漏れ出てしまった。

 あたかも恋しく思ったように、無意識に。

 その名前を口にするだけで、ほんの少しだけ護られているような気がしたのだ。

 この現実から、逃避できると思った。

「はははっ!!!抱いた女に縋ってんのかよ、情けねぇ」

 そんな自己暗示のせいだろうか。

 慢心したのは。

「おいガキ、なんだよその顔」

 俺はその燻る心のままに、ただ黒い影を睨み続けた。
 炙るように、日に晒してやるように。

「……その生意気な面は誰譲りだ?」

 ソイツは額に青筋を浮かべて、地を這うようにがなる。

 一際強く引き寄せられ、今度は左頬を殴られる。俺は腫れる肌を抑えながら、大人しく口を開いた。

「……さぁな、アンタじゃ、ねぇの?」

 血も繋がっていないけれど。

 きっと今の俺にとっての父親は、こいつなんだから。

 そう言ってやった方が、気持ちいいんじゃないかって。

 子供からの愛を感じられるんじゃないかって。

「ンの、クソガキッッ!!!!」

 その言葉に、漆黒の体躯は炎のようにメラメラと燃えたぎる。それから、胸ぐらを掴んでいた手が目にも止まらぬ早さで、俺の首にかけられた。

 喉仏を押される感触が気持ち悪い。
 潰された頸動脈が、拍動を直に脳へ響かせる。
 どくどくと脳天が膨張して、目の前が白んでいく中で、俺の体は心と裏腹に生きようともがいた。

「ぐっ、ぅ、か、っあ、ひゅ……ッ」

「死んじまえこの蛆虫が!!あんな女から産まれたゴミの分際で、俺に逆らってんじゃねえよッ!!」

「は、っ、ぁ……っ、せ、……!」


 苦しくて、痛い思いをこれだけさせられても、俺たちは家族で。

 振り下ろされる拳を、愛情と呼ぶしか出来なくて。

 けれど、浠は俺を一度たりとも殴ったことはないし、金切り声で罵倒してきたこともない。

 どうして、浠を家族と呼んではいけないのだろう。

 俺を幸せにしてくれると言ったのは、生みの親でも目の前の偽物でもなく、浠一人なのに。

 痛くて、苦くて、気持ち悪いものが胸を満たしていく。

 それからのことは、あまりよく覚えていない。

 ぱたぱたと情けなく床を打つ自分の足音と、罵詈雑言が響き渡っていて。

 ぶつん、と電池が切れたような眼前暗黒感と、足元に転がった指輪だけが、記憶にあった。



 ***



「おはよー!きょー……ちゃ……」

「ん、はよ」

 翌朝。案の定、浠は絶句した。

 口を開けたまま、次第にその双眸を歪ませていた。

 湿布やガーゼでは隠しきれないほどの傷だ。右目には眼帯の代わりに巻いた雑な包帯、口の端は切れて血が滲んだままで。

 俺が「庭先で転んだ」という嘘で貫くには、あまりに苦しすぎる有様だった。

 だから俺も、変に取り繕うことはしなかった。

「なんで……」

「ちっと、やらかした」

「傷、その痕は、っなんでオレの知らない所で、きょーちゃんがこんな……」

「寧ろ知られてても困るっつーの。俺が殴られてるとことか、胸糞モンだろ。つーか、俺が悪ぃんだよ。今回は」

「何が悪いの。そんな大怪我させられて、きょーちゃんが悪いなんておかしい。今からでも病院行こ。オレついていくから」

 忙しなく受け答えながら、学校とは反対の横道に逸れようと爪先を向ける浠を、俺は宥める。

「いい。お金全部、母さんに渡しちまって、財布どころか保険証すらねーしな」

「…………きょーちゃん」

 浠が愕然としていたのは、思っていたよりも一瞬のことだった。

 もう少しは取り乱すはずだと予想しながら、この横断歩道まで来たのだが、どうやら見当違いだったようだ。

 これ以上ないくらいに見開かれた、夏空に映える若竹色の綺麗な瞳を、あとちょっと見ていたかった。

「っは、驚いてんなよ、今更だろ。なにも初めてのことじゃあるまいし」

 俺が自嘲するのを、浠は恨むような目で見つめている。その瞳孔の奥で、暗澹たる雲が立ち込める様を見て、ぞくりとした。

 しかしいや、きっとそれは俺に差し向けられたものではない。

 あの男の為の、爪と牙を研いでいるのだろう。

 不穏な気配に圧され、俺と浠の歩調は徐々に噛み合わなくなる一方であった。

「み、見た目より大した傷じゃねえから……」

 俺がどぎまぎして話しかけても、浠はうんともすんとも言わない。

 やっぱり、怒っている。

 その雰囲気に、身体は強ばり始めるが、心は裏腹だった。

 昨夜の想定通りの未来が、ここにある事に俺は安心していたのだ。
 コイツをこれ以上刺激しないようにと、慎重になる反面、どこかで浠から溢れ出る怒りを有り難む自分がいる。

 俺の為に、本当に怒ってくれるたった一人の人間。

 それだけで、怪我の痛みなんて忘れてしまえた。

 しかし取り敢えず、怪我の話は終わりにしよう。また、変なスイッチを押しても厄介だ。
 そう踏み切って、無理に方向転換を試みた時である。

「そういや、あの蛇神──」

「ねえきょーちゃん、なんで指輪持ってないの」

「え、」

 何を思ったか、浠は突然そんなことを言い出した。俺は予想外の指摘に、短い声を上げて狼狽する。

「何時も右のポケットに入れてたよね」

「今日はその、いや、悪い……」

 あれは、コイツと俺が出会った時に友達の証としてくれたものだ。
 それを奪われたなんて、とてもじゃないが暴露することが出来ず、俺は俯いた。

 暫しの沈黙の後、浠がぼやく。

「持ってるのはアイツか。……どうりで気持ちが悪い」

 眉間に皺を寄せながら、

「っちが──く、はない、けど……揉め合ってる時に、見つかっちまってそれで」

「今頃質屋行きって所だね、この様子だと」

 俺が最後まで言い方を濁しても、浠は大体のことを推測する。
 十中八九、換金されたに違いない。

 浠の目を嵌め込んだような、綺麗な翠玉だった。
 俺のここ十数年で一番の宝物といえる代物を、最低な経緯で失ってしまった。
 その罪悪感は、頭をぐるぐると巡り、曇らせていく。

 けれど浠は、気にも留めず、くすりと笑って俺の頭を撫でた。

「もー、きょーちゃん、顔上げて?指輪なんて、幾らでもあげるよ」

「それに、あれはきょーちゃんが引っ越してきて間もない時に渡したから、もうサイズも違かったでしょ?新調しなきゃ。薬指に嵌められるようにさ」

「……なんだよ、それ。結婚でもする気か、男同士で」

「うん」

「うんじゃねえ」

 そうつっこむと、浠は黙って、俺を抱き寄せる。
 訳も分からず、なすがままに密着させられて、また歩調が乱れた。

「……きょーちゃんのことは、オレが護るから」

「傷つけるような奴には、罰を与えてあげるから」

 コイツの言葉が冗談なのかそうでないのかは、分からなかった。




 浠はその日の帰り際、自分が持っていた首飾りを俺に手渡した。

 掌で煌々と瞬く翠玉の代物は、奪われた指輪と同じもので。

 これら二つは、岬ノ神社で交わした二人だけの約束の証でもあった。

 高校に上がってからも、凝りもせずに肌身離さず持ち運んでいる、その健気な態度に俺は思わず苦笑する。
 相対して、浠は誇らしげに胸を張っていた。

 「今度は奪われないように、おまじないをかけておいてあげたから」と。