“ “が満ちるまで待っててね

 浠は、名前という物自体に偏執的だった。

 頑なに俺の事をきょーちゃんと呼び続けるのも、昨日の遅刻騒動の原因も、結局の所、この偏執さに帰着する。

 親や友人から呼ばれる分には、何らその特性は感じられないが、その片鱗は、時折ああして顔を出す。

 眠れる獅子を起こす、些細な草木の揺れる音。それこそが、名前だった。

 浠の名前に対する執着心は、それが"特別なもの"という認識から生まれたものだろう。
 名は言わば、自分自身の存在を位置づけているラベル、比類ない価値の証。

 故に命名という行為は、浠にとって神聖な事として映っていたといえる。

 しかし、浠は他人から呼ばれる平庸(へいよう)な自分の名前に対して、矛盾を抱えていた。

 親に付けられた特別なものであるはずなのに、何時しかそれは、両親や家族という小さな世界の垣根を超える。そして、他者に呼ばれる在り来りな物へと退化してしまう。
 その変化に、浠は過剰な違和感を覚えていたのだ。

 それが自分の付けた名前であれば、尚更であった。

 ***

 小学三年生の頃。

 俺がクラスメイトから嫌がらせを受けているのを、浠が偶然目にした時の話。

 その当時、教室ではあだ名文化が流行っていた。各々相手に面白おかしい名前をつけたり、ある時はコードネームとして遊びに用いたりして、盛り上がっていたのだ。

 この田舎に引っ越してきてから、なかなか輪の中に入らず、常に単独行動をしていた俺にも、その矛先は向いた。

好餌(こうじ)だったのだろう。

 反抗もしない無口な俺の机の周りには、カモだと判断した輩が集まって、大賑わい。

 俺は珍しい名前と、その字面が女々しいという安直な理由で「きょーちゃん」と呼ばれた。遊び半分の、矮小な考えから生まれた呼称は、酷く癪に障ったが、躍起になることはなかった。

あくまで、俺はそうであっただけの話だが。

 「きょーちゃん」という名が、元々浠が俺につけた"特別なもの"でなければ、彼らの悪言も砂埃程度の厄介さで済んだだろう。

俺は、油断していた。
浠が見ていないならば、自分は何をされても心を焼かれることはないと、勝手に犠牲を払っていた。

 この一件が、導火線に火を点ける発端になる未来まで、見据えられていなかったのだ。

 普段浠と下校する約束をしていた俺は、いつも通り教室で、アイツのクラスのSHRが終わる時を待っていた。

 何時もならば直ぐに遊びだなんだと下校していく喧騒が、一瞬にして過ぎ、静かになった教室で本を読み耽るはずだった。

 けれども、俺の名前を「ちゃん付け」にして呼ぶことが、何の愉悦感を誘ったのか、その集団は執拗にも居残り続けたのである。

「こいつ一言も喋んねーんだけど」

「日本語できますかー?きょーちゃーん」

 そこに、帰りの会を終えた浠が到着したのである。上履きの弾む音と、教師から注意を受ける声が合図だった。

 開け放たれた扉の前、その口が「『きょーちゃん』」と呼びかけて留まったのを俺は知っている。

「きったねーランドセル」

「ピンクのに買い換えて貰いなよきょうちゃん!ギャハハハ!!」

「無理だろ、コイツん家、貧乏だし妖怪住んでるみたいなオンボロ屋だもん。なー、きょうちゃん」

 俺は浠が来たことを知っていながら、態と目を背けた。嫌がらせを受けていると思われぬよう、気にもとめないフリをして努める他なかった。

 今思えば、理性的に反論さえしなかったものの、たった一人の友人である浠から付けられたあだ名を、笑われているような気がして悔しかったはずだ。
 その反面、俺の精一杯の対応が、後に波紋を生むことになるとは思ってもいなかった。

 一連の光景を見ていた浠は、つかつかと教室の中へ入り、机に屯する四、五人を躊躇なく掻き分ける。

「帰ろっか、きょーちゃん」

「は、」

 これを聞いた周囲は、予想外の答え合わせに歓喜した。浠はその笑い声を聞いても、攻撃的になることなく、足早に俺を連れて校舎を出る。

 その時の俺は、馬鹿にされた羞恥心より、コイツが自分の呼び名を変えなかった誠実さに安堵していた。

 腕を引っ張られながら、帰路につくも、あの横断歩道の手前、小さな祠で浠の手が離れた。ここならば、二人を揶揄する邪魔者もいない。

「……みずき、さっきはありが─」

「きょーちゃん、アイツらなんでお前のことあんな風に呼んでたの」

 振り返った浠の、栗色の髪が風に煽られ大きく靡く。前髪の隙間からこちらを真っ直ぐ射止める眼差しに、一瞬呼吸が止まる。

 真夏の影に隠れた、秋の生温い空気が、汗で湿った肌を拭い去るように吹き抜けていくけれど、それは余計に体を重くした。

「勝手に付けられたんだ、呼ばれたくてやられてたわけじゃない」

「じゃあなんで、何も言わなかったの」

「なんでって……」

 だって、浠に要らぬ心配を掛けたくなかったから。

 そう言おうとした口は、直ぐに回ってはくれなかった。
 眼前に立つ浠の瞳が、烈火の如き紅に染まっていた事に気付いた瞬間、自分という人間の全ての主導権の糸が、手中に収められているような気がして。

 夕陽か、はたまた錯覚であったのかもしれないけれど。

 その蛇のような動向に見据えられたら最後、俺の頭には何一つ言葉が浮かんでこなくなった。

「美夜のこと、きょーちゃんって呼んでいいのはオレだけのはずじゃん。アイツらが呼んでるものと、オレが呼んでるもの、この二つは全然違うんだよ」

「特別が二つあったら、意味無い。きょーちゃんは嫌じゃなかったの」

 嫌だったよ。

 お前以外の奴に呼ばれると、心に蛆が湧いたみたいで、吐き気がした。
 浠の言葉が胸の内皮に焦げ付いて、剥がれなくなっていく。

「どっち。嫌じゃなかった?もしかして、あだ名で呼ばれて嬉しかった?オレとアイツらは、きょーちゃんにとって一緒?ねえ、きょーちゃん」

「答えてよ」

 早く、言わねえと。

 そう強く思う反面、浠によって創り出された、鏡細工のような世界を打ち砕いてしまう可能性に、心の裏は酷く荒れていた。
 触れ方を誤って、壊れてしまったらどうすれば良いのだろう。

 湿り気を帯びた土を、自身を急かしてやるように抉りながら、恐る恐る閉口した浠に顔を向ける。
 その下げられた眦と、僅かに食んでいる下唇を一目見た刹那、きつく引かれていた糸が一つ緩んだのである。

「……きょーちゃん」

 浠が、悲痛そうな顔を浮かべたのはそれが初めてのことだった。

 何を躊躇っているのだろう。

「っ嫌だったに、決まってんだろ!!俺だって……」

 渾身の力で振り絞った声は、想像以上に感情を包み込んでいて、浠に対して大きな石を投げつけているように思えた。

 必死に思考をまとめようと、数多の情報が駆け巡る電気信号の群れを無視して、叫んでしまったが最後。

 尻すぼみになる言葉を、消えないように保っていても、腹の底から湧き上がる激情に動悸がして、兎に角、酸素を吐き出したくなった。

 誰かに声を荒らげることなんて、したことがなかった。
 喉が乾いて、息を吸う度ひりひりと痛む。

「だって、やめろって騒いだら、アイツらの思うツボだ。そんなのぜってえやだ……!」

「アイツら、調子に乗るから、きっと毎日俺にきょーちゃんって言ってくるし」

「おれは、浠との特別、守りたかっただけで……っ」

 柄にもなく饒舌(じょうぜつ)になっても、それまで築き上げてきた二人の城が、ガラガラと音を立てて壊れていきそうな危うさに、声は震えている。

 鼻先に熱がじゅぐじゅぐ皺を寄せるように集まり、迫り上がる思いを受け止めきれなくなった小さな二つの器には(ひび)が入った。

 俯いたままでいるせいで、その隙間から溢れだした数滴が地面へ音もなく落ちる。土に染み込んでいくのを見つめるだけでも妙に虚しくて、目にかかった前髪をいい事に、更にその数を増やした。

 それまで視界の端で身を揺すっていた稲穂も、動きを止めて浠の返信を待っているようだった。

「オレ以外から呼ばれて本当に嫌だった?」

「いやだった……」

「オレじゃなきゃ嫌?」

「いやだ、浠に呼ばれたい」

「……そっか、へへ、そっかあ」

 浠は欲しいものを貰った時のような、実に子供らしい顔つきで、目を細める。
 自分の足元で(とぐろ)を巻いていた刺々しい空気は、その瞬間、青嵐(あおあらし)に攫われて海へと流れていった。

 何も残さず、何も濁さず。
 砂浜に浮かび上がった貝殻の幾つもを、掻き集める波のように、浠は微笑んだ。

「きょーちゃん、泣かせてごめん。怒ってごめんね」

「……っうっせー、泣いてねぇ……!!そもそもお前が、俺にベタベタしてんのが悪い」

「へへ、そうかも。オレ結構ヤキモチ屋さんだから」

 コイツは卑怯だ。

 浠は俺の事を特別な枠に当て嵌めることができるのに、俺はコイツの事を特別だと、都合のいい解釈で体良く置いておくことしか出来ない。

 誰にでも呼ばれる自分の名でも、俺が呼ぶから特別だと浠が言い張るものだから、いつまで経っても、曖昧な境界線に立たされている。

 もし浠と俺が反対の立場だったら、俺はきっと、あんなに鋭い目つきはできないだろう。

俺にとっての特別が、浠にとっての特別に、繋がることはないかもしれないから。

「ね、きょーちゃん。きょーちゃんって呼んでたのは、あの教室にいた五人だけ?」

「えっ?ああ、うん」

「いや、他の子達に浸透してたらオレの餅が爆発しちゃうなーって思ってさ!」

「なんだそれ、したらヤバいのかよ」

「まーね」

 人通りも、車通りも少ない畦道を、手を繋いで帰ったあの日。ほんの些細な軋轢(あつれき)は一変して充足感に変わる。純粋無垢な幼心から、友人や家族をも凌駕した関係へと、二人は更なる一歩を踏み出していた。

 蛇の(はらわた)で膨張し続ける熱の塊に気が付かないまま、互いの影を疑わず、闇を知らず。
 それ故、唯一無二の友人である浠と離れる未来などは、全く念頭になかったのだ。




 そうして口論から、一週間ほど経った頃。



 俺に嫌がらせをしていた五人は、放課後、岬付近の駄菓子屋での目撃を最後に、行方不明となった。