“ “が満ちるまで待っててね

「……なんで知ってたんだよ」

 浠は、俺が話してもいない母親の事を、さも既知しているような口ぶりをしていた。

 俺はそれがどうにも引っかかって、気味が悪くてしようがなかったのだ。

 何より、唯一の親友に醜悪で卑劣極まりない男と、一つ屋根の下に暮らしている現状を知られたくなかった。

 それを母親が仕向けた事実も、ほとぼりが冷めるまでは、黙っているつもりでいたから。

 内臓を切り詰めるような思いで、浠が開口《かいこう》するのを待った。

「確信があるわけじゃなかった。でも、そうかもしれないって気付いたのは本当に最近の話だよ。四日前、手首に変な手跡作ってきてた日」

「サイズ的に男の手だったし、きょーちゃんはお母さんと二人暮しのはずだから、再婚したい人を家に招き入れたって考えるのが妥当だって……思って……」

 俺はその答えを聞いて、少しほっとした。

 浠の推測は正確で、大抵外れることはない。観察眼が鋭いという先天的な理由もあるが、付き合いの長さも、これに起因している。

今回の結果に思い至るのも浠にとっては、容易《たやす》かっただろう。

 浠と俺の家は少し遠いが、会うに苦労するほどの距離では無い。故に、直に見られた可能性に肝を冷やしていたのである。

 しかし、どうやら浠の返事を聞くに、一番恐れていた状況は回避できていたようで、俺は(ようや)く強ばっていた肩を下ろした。

「そういうのは段階踏んで言えクソバカ」

「ごめん……オレ、」

 浠も、取り乱す俺を見て相当焦ったようで、罪悪感に駆られているのか、酷く萎縮している。

ちらちらと、俺の顔を伺っては俯いて。

「はぁ……嫌いになんざなんねえよ」

「話してなかった俺も悪かったからな。……お前の言ってることは当たってる。つい一ヶ月前、母さんに新しい彼氏が出来たんだ」

「っきょーちゃ──」

「酒癖悪くて、夜になるとちょっかいかけられる。朝食えねぇのも寝れねぇのも、怪我増えんのも、そいつのせいだ。」

「やっぱお前に嘘つくなんて百年くらい早ぇのかもな」

 浠は先程よりも強く腕に力を込めながら、再び謝罪をした。か細い声に、拍子抜けして俺は少々困惑してしまう。
 しかし、衝動的に手を出してしまった自分自身に男の影が重なり、胸の奥が爛れていく。

 一瞬でも同じような行為をした自分が許せなかった。

「俺も勢い任せに殴った、ごめん」

 その言葉さえ、気持ちの悪いものに思えた。
 前の父親の常套句(じょうとうく)だったからだ。
 自分の全ての言葉に、意味なんてものは微塵もないのだと実感する。

 幸い、横目に見えた浠の右頬には目立った痣はなかった。感情任せといえど、動揺で震えた拳には、相当の力が入っていなかったようだ。

「殴ったとこ、痛いか」

「ううん、痛くも痒くもないよ」

「そうか」

 何時もなら、「その拳もきょーちゃんからの愛だから」とほざくはずだが、この時はそんな戯言も無く、浠は心底猛省していた。

 俺は罪の意識に押し潰されそうで、息をするのもやっとだった。

「……つかお前はお前で、下の名前で呼ばれるの、普通だから嫌だとか、前に散々言ってたじゃねえか」

「きょーちゃんは別だよって、散々言った」

 そうして浠は、落ち着いた俺を抱きしめたまま、そう当たり前に答える。

 そろそろ無理くり引き離す手も考えたが、向き合った途端、獲物を捕らえるような眼光を帯びる浠から、矢張り視線を逸らすことは出来なかった。

「きょーちゃんは、特別。二つも要らない」

「オレにとってのきょーちゃんは、一人でいい。オレのことを、浠って呼んでくれるきょーちゃんも、人間も一人でいい」

「美夜をきょーちゃんって呼ぶ人間も、一生オレ一人がいいの」

 浠の右手が自分の頬へ伸びてくるのを、俺は抑止出来なかった。

なすがままに、さらりと親指の腹で皮膚を撫ぜられる。見開いたまま瞬きを忘れた瞼が、コイツから発せられる圧に驚いて、僅かに痙攣(けいれん)を繰り返す。

 それを見てか、浠の指先は故意に眼球の方へ移動し、反射的に閉じた瞼の薄い表皮に、爪を立てては優しく触れた。

 いつか目玉をくり抜かれそうな気がして、身を強ばらせるのが常であった。

「きょーちゃんが呼んでくれるオレの名前も、この世に一個だけ。他の奴らが呼んでるのは全部残像」

「し、思想強いなお前……」

 こうなった浠を制御する方法は、とことん寄り添うことに尽きる。

 まさか数年ぶりに呼んだ名前で、家庭の一悶着に留まらず、コイツのスイッチを下手に押してしまうことになろうとは。

 吐きかける溜息を飲み込んで、これ以上刺激を与えないように、俺は探り探り浠に答える。

「……じゃ俺が呼びゃぁ、満足すんのか」

「する、します。出来れば耳元とかで。顔寄せていい?」

「寄せるなら耳だろバカ。おいもうぎゅーはいいだろ鼻曲げるぞゴラ」

「いやー勘弁して!っでも、アンコールチャンスくれるきょーちゃんが好きだよ」

 徐々に東へ傾き始める影と、静謐(せいひつ)さを増していく校舎が、俺達を一つの空間に閉じ込める。

 今か今かと翡翠のように輝く双眸に、気が小さくなった。理性と混在する羞恥心が、胸中を掻き回し、妥協するかをせめぎ合っている。

 早く呼んでしまえと吐き捨てる頭と、高校生にもなって、真剣に向かい合って名前を呼び合う状況への異常さに嘆く頭がうるさい。

 内心、懊悩しながら口をまごつかせていても、浠は期待値を倍にして催促もせずに、待てを貫いている。

「……なんでそんな嬉しそうなんだお前」

「きょーちゃんに名前呼ばれるの好きだから、あと誰も聞いてないし、独り占めできるのが幸せ」

 あ、死ぬほど呼びたくない。

 その時、自分の心臓から浠に向かって伸びる一本のぴんと張られた糸が、僅かに緩む瞬間が訪れる。

それが、スイッチが切れた合図だと、本能的に俺は悟った。

「あーぁ、オレもうきょーちゃんと結婚したぁい。蘆谷美夜になってー!」

 名前を呼ばれる前に願望を叫び始めた浠を見て、俺はしめたと隙を見て帰り支度を始めた。

「嫌かな、オレのお嫁さんになるの」

「いやだ」

 机の間に立ち塞がる浠の腕を持ち上げ、潜り抜ければ、コイツは帰宅を察して、自分の席に置きっぱなしでいた教科書を急いで片付け始める。

「あ、きょーちゃん待って!」

 強要する浠から、手馴れた回避を見せた俺は安堵の溜息をやっと吐き切った。
 あの紅に染まる目の予兆は、どうにも心地良くない。

圧された心がなかなか、元には戻ってくれず、生気を吸われたように疲弊してしまうのだ。

「早くしねえと置いてくからな」

「容赦ない!良い雰囲気に持ち込んで後でキスでもかましてやろうと思ってたのに……」

「よし置いてく。気をつけて帰れよ浠。」

「あ、待った待った!今呼ぶのはズルい!!」

 浠と俺の間にある、半透明の境界線。
 それを容易に超えてしまいそうな危うさを、抱えながら平凡を分け合って生きていく。

 くだらなさに包含された鈍い愛情を持ったままの二人でいられる事が理想だ。
 ほんの少しの特別さに、惚けられるくらいが。

「……再婚候補、ね」

「なんか言ったか?」

「ううん、なんにも」

 それ以上を知る勇気は、まだ無いのだから。