俺が唯一、心から気を許すことの出来る幼馴染の名前は、蘆谷浠である。
アイツ、コイツ、ヤツ。
本名で呼ぶのを避け続けて、定着してしまった雑な代名詞。
まともに名前を呼んだのは、何時ぶりだっただろうか。
恐らくだが、それは小学校卒業前までで、中等に上級してからは、きっぱりと呼ぶことをやめてしまったはずだ。
歳相応の思春期でもあったし、周囲の人間には、浠のように明らさまな愛情表現をしてくる友人はいないと悟った事が原因でもあった。
手を繋ぎ合うのも、抱き着くのも、四六時中どこへ行くにも一緒なのも。
俺達が至って健全だと思っていた関係は、傍から見ると、想像以上に奇特な事だったらしい。
一時は、クラスメイトに嘲笑された過去もある。
けれど。
「ねっ、きょーちゃん!浠ってまた呼んでよ」
懲りねえな、コイツ!
この態度を見る度に、遠ざけてしまった淋しさより、がめつさへの苛立ちが勝る。
鼻の下を伸ばしている顔を、今ここで引きちぎってやろうとさえ思った。
今朝は案の定、遅刻判定になり、特段言い訳出来るほどの気力も俺には残っていなかった為、渋々お叱りを受けた次第である。
渋々、だ。
俺は微塵も反省していない。
全部コイツが悪い。
あの時、残り数段を昇りきって、教室まで駆け込んでいれば成績を傷つけずに済んだと言うのに。
よりにもよって、単純に名前を呼んだだけで。
それだというのに、このとんだ能天気は、未だ俺にまで被害を被ったことを反省する余地なく、挙句名前を呼ばれたがっている始末だ。
放課後、俺はイヤホンを付けたまま、さも音楽に集中しているフリをして、窓の外から見えるグラウンドを眺めていた。
「きょーちゃん。おーい、きょーちゃん」
ここで普段通り反応してしまうと、余計に調子に乗らせてしまうだろう。
だから、空と海の境目、地平線の彼方まで視線を送った。
教室から見える外の景色は、嫌いではない。
浠と出会った岬ノ神社と、天を鏡写しにしたような青海原を見ていると心が落ち着く。
家に帰りたくない時、腹底に押し込めた不平不満をあちらに向かって吐き出すと、何も言わずに吸い込んでくれるから好きだった。
コイツは、そうもさせてくれないけれど。
「きょーちゃん、こっち向いて」
不意に片耳が軽くなる。
唐突な違和感に振り返ると、右耳に差し込んでいたイヤホンが、浠によって外されていた。コイツはそれを、自分の耳に近付けて、音が鳴っていないことを確認する。
「っお前、返せよ」
「音楽聞いていないなら、いいかなと思ってさ」
「……聞いてたし」
「足でリズム取ってなかったからダウト、でしょ?」
浠に無自覚のクセまで把握されていて、俺はいつも無性に腹が立つ。
どんな嘘も通用しない、チートみたいな態度が気に食わない。
俺は取られたイヤホンをふんだくり、再び意識を外へと戻す。コイツが平謝りをするまで、許してなどやるものか。
「朝のこと、怒ってる?」
ああ、怒ってる、怒ってるよ。
そんな無言の圧を受けながら、浠は苦笑する。
不機嫌な俺と目線を合わせようと、しゃがんでみたり、位置を移動したり、視界の端で必死になっている。
それがどうにもおかしくって、思わず口元が綻びそうになる。からかっているのがバレないように、俺は身体を更に捻った。
いけない、俺が調子に乗りそうだ。
けれど、それが藪を突く行為だったと思うと、後悔が勝った。
「……でもオレ、名前呼ばれたのすっげー嬉しかった。みずき、って」
開けた窓から、夏の薫風が流れ込み、カーテンを揺らす。
その時、浠の声音が変わった。
イヤホンを外した右耳の奥が、直にそれを拾って、神経を伝い脳へ押し運んでいく。
それは、頭の中で火花のようにパチパチと爆ぜる。
俺は咄嗟に視線を浠へ戻した。
「ね、なんで呼ぼうって思ってくれたの。オレが拗ねてたから?遅刻するって焦ってたから?……それとも」
「オレがきょーちゃんにそう呼ばれたら、言うこと聞いちゃうって分かってた?」
恍惚、それでいて不敵な笑み。
脳の中で攪拌する刺激が、更に火を大きくして煩わしさに拍車をかける。
じわじわと皮膚の内側から、毒が侵食してきているような、このヒリついた空気感は、コイツと関わっている内、幾度も体験したことがある。
俺は逃げ場を失った蛙のように硬直した。
「んな、わけ……」
「そうじゃないよね。知ってる。きょーちゃんは、そんな計画的なことしない。オレが露骨に拗ねてたのを見て、小学生の時と無意識に重ねたんでしょ」
「きょーちゃんは記憶力がいいけど、それを利用してオレを釣ろうなんて事は絶対しないもんね」
人の話、ちょっとは聞こうとしろよコイツ……!
浠は、この変なスイッチが入ると、こちらの話に聞く耳を微塵も持たないという、非常に厄介で面倒な男だ。
このスイッチの切り方は、長年苦楽を共にしている俺でも未だに分かりやしない。
「ねえ、オレのお願い聞いてよきょーちゃん」
浠の目が柔く弧を描く。
その瞳の奥に見える、底なしの闇に俺は息を詰めた。
「……ッあ、朝のこと怒ってねぇから、名前の件はもういいだろ、目が怖ぇって」
「怒ってるとか怒ってないとかオレは最初から気にしてないよ。だってきょーちゃんがどんな顔してても、どんな態度でもオレは好きだから」
「じゃあ尚更もういいだろ……っ!一回呼んだくらいで」
「くらいじゃないよ、オレは切望してたんだから」
緊迫感に耐えきれず思考が凍結していく中で、脳裏を占めていたのは紛れもない既視感だ。
過去にも、俺は名前を巡った妙な口論をコイツとしたことがある。
しかし今は、そんな悠長な思い出に浸っている余裕はない。
「まさかだけど、他の奴に呼ばれてるとかないよね。高校入ってからずっと同じクラスだから、オレが見逃してるわけないと思うけど」
躙り寄る浠の指先が、頬に貼られたガーゼの上にとん、と置かれる。
「っみず、」
「きょーちゃんの周りってなると─あぁ、もしかして佐々木とか野村とか?妬けるな」
その腹が、頬から下へ、頸動脈を這うように動く。
「……黙ってるってことは、本当に誰かいるの。オレが知らないヤツ?クラスの人間?それとも」
首を掴むようにあてがわれた手指に、気管がぎゅうと締まった刹那──
「きょーちゃんのお母さんが連れてきた新しい彼氏?」
見開かれた浠の紅い眼に、ぞくりと全身に悪寒が走った。
一瞬にして、胃をかき混ぜられているような吐き気に襲われ、呼吸が浅くなっていく。
俺は恐怖から、反射的に浠の頬を叩いてしまった。
ぱちん、と乾いた音が誰もいない教室に響く。
「っ─!!!ッてめェ、なんでそれ知ってんだよッ!!」
なんで。
何も見てないお前が。
震える肺から声を絞り出すが、口が思うように動かない。
「言っただろ、美夜のことなら全部知ってるって」
浠は己の頬に集まる熱を、確かめるように撫ぜて、微笑する。
俺はその貼り付けられた笑みに、小さく悲鳴をあげた。
なんだよ、それ。
それも、"愛"なのかよ。
「来んな、やだ、離れろ」
上履きが地面を叩く音がしない。
音もなく浠はこちらへ近寄り、俺は椅子をガタガタと揺らしながら後退する。
けれど、背中は逃げ場を見つけられなかった。
「きょーちゃん」
「今、それ呼ぶな!気色、悪ぃ……っ」
コイツにはまだ何も明かしていないのに。
母親が知らない男を連れ込んできた事も、そいつに俺が何をされているのかも。
俺の頭は酷く冷静さを欠き混乱していて、浠を殴ったことへの罪悪感に気付けないまま、興奮気味に問い詰めた。
「……その男に呼ばれてるの」
浠の目が一層暗澹に染まる。
「ンなわけねぇだろ!!ッいい加減に─う"っ、え、」
考えるだけで、胃の中のものをぶちまけてしまいそうだ。
ああ、嫌だ。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。
考えるな、気を散らせ。散ってくれ、頼む。
「──っごめん、きょうやオレ、また……」
「ク"ソっ、しね……くそ、くそみずき」
何がごめんだクソ野郎。
そう叫んで、もう一発殴ってやりたくもなったが、そんな気力はなかった。
コイツから放たれた言葉に絶望したままの脳みそは未だにぐるぐると渦を巻いて、苦しみから逃がそうとしてくれない。
俺はただ弱々しく暴言を吐きながら、気の済むまでコイツを謝らせる他なかった。
アイツ、コイツ、ヤツ。
本名で呼ぶのを避け続けて、定着してしまった雑な代名詞。
まともに名前を呼んだのは、何時ぶりだっただろうか。
恐らくだが、それは小学校卒業前までで、中等に上級してからは、きっぱりと呼ぶことをやめてしまったはずだ。
歳相応の思春期でもあったし、周囲の人間には、浠のように明らさまな愛情表現をしてくる友人はいないと悟った事が原因でもあった。
手を繋ぎ合うのも、抱き着くのも、四六時中どこへ行くにも一緒なのも。
俺達が至って健全だと思っていた関係は、傍から見ると、想像以上に奇特な事だったらしい。
一時は、クラスメイトに嘲笑された過去もある。
けれど。
「ねっ、きょーちゃん!浠ってまた呼んでよ」
懲りねえな、コイツ!
この態度を見る度に、遠ざけてしまった淋しさより、がめつさへの苛立ちが勝る。
鼻の下を伸ばしている顔を、今ここで引きちぎってやろうとさえ思った。
今朝は案の定、遅刻判定になり、特段言い訳出来るほどの気力も俺には残っていなかった為、渋々お叱りを受けた次第である。
渋々、だ。
俺は微塵も反省していない。
全部コイツが悪い。
あの時、残り数段を昇りきって、教室まで駆け込んでいれば成績を傷つけずに済んだと言うのに。
よりにもよって、単純に名前を呼んだだけで。
それだというのに、このとんだ能天気は、未だ俺にまで被害を被ったことを反省する余地なく、挙句名前を呼ばれたがっている始末だ。
放課後、俺はイヤホンを付けたまま、さも音楽に集中しているフリをして、窓の外から見えるグラウンドを眺めていた。
「きょーちゃん。おーい、きょーちゃん」
ここで普段通り反応してしまうと、余計に調子に乗らせてしまうだろう。
だから、空と海の境目、地平線の彼方まで視線を送った。
教室から見える外の景色は、嫌いではない。
浠と出会った岬ノ神社と、天を鏡写しにしたような青海原を見ていると心が落ち着く。
家に帰りたくない時、腹底に押し込めた不平不満をあちらに向かって吐き出すと、何も言わずに吸い込んでくれるから好きだった。
コイツは、そうもさせてくれないけれど。
「きょーちゃん、こっち向いて」
不意に片耳が軽くなる。
唐突な違和感に振り返ると、右耳に差し込んでいたイヤホンが、浠によって外されていた。コイツはそれを、自分の耳に近付けて、音が鳴っていないことを確認する。
「っお前、返せよ」
「音楽聞いていないなら、いいかなと思ってさ」
「……聞いてたし」
「足でリズム取ってなかったからダウト、でしょ?」
浠に無自覚のクセまで把握されていて、俺はいつも無性に腹が立つ。
どんな嘘も通用しない、チートみたいな態度が気に食わない。
俺は取られたイヤホンをふんだくり、再び意識を外へと戻す。コイツが平謝りをするまで、許してなどやるものか。
「朝のこと、怒ってる?」
ああ、怒ってる、怒ってるよ。
そんな無言の圧を受けながら、浠は苦笑する。
不機嫌な俺と目線を合わせようと、しゃがんでみたり、位置を移動したり、視界の端で必死になっている。
それがどうにもおかしくって、思わず口元が綻びそうになる。からかっているのがバレないように、俺は身体を更に捻った。
いけない、俺が調子に乗りそうだ。
けれど、それが藪を突く行為だったと思うと、後悔が勝った。
「……でもオレ、名前呼ばれたのすっげー嬉しかった。みずき、って」
開けた窓から、夏の薫風が流れ込み、カーテンを揺らす。
その時、浠の声音が変わった。
イヤホンを外した右耳の奥が、直にそれを拾って、神経を伝い脳へ押し運んでいく。
それは、頭の中で火花のようにパチパチと爆ぜる。
俺は咄嗟に視線を浠へ戻した。
「ね、なんで呼ぼうって思ってくれたの。オレが拗ねてたから?遅刻するって焦ってたから?……それとも」
「オレがきょーちゃんにそう呼ばれたら、言うこと聞いちゃうって分かってた?」
恍惚、それでいて不敵な笑み。
脳の中で攪拌する刺激が、更に火を大きくして煩わしさに拍車をかける。
じわじわと皮膚の内側から、毒が侵食してきているような、このヒリついた空気感は、コイツと関わっている内、幾度も体験したことがある。
俺は逃げ場を失った蛙のように硬直した。
「んな、わけ……」
「そうじゃないよね。知ってる。きょーちゃんは、そんな計画的なことしない。オレが露骨に拗ねてたのを見て、小学生の時と無意識に重ねたんでしょ」
「きょーちゃんは記憶力がいいけど、それを利用してオレを釣ろうなんて事は絶対しないもんね」
人の話、ちょっとは聞こうとしろよコイツ……!
浠は、この変なスイッチが入ると、こちらの話に聞く耳を微塵も持たないという、非常に厄介で面倒な男だ。
このスイッチの切り方は、長年苦楽を共にしている俺でも未だに分かりやしない。
「ねえ、オレのお願い聞いてよきょーちゃん」
浠の目が柔く弧を描く。
その瞳の奥に見える、底なしの闇に俺は息を詰めた。
「……ッあ、朝のこと怒ってねぇから、名前の件はもういいだろ、目が怖ぇって」
「怒ってるとか怒ってないとかオレは最初から気にしてないよ。だってきょーちゃんがどんな顔してても、どんな態度でもオレは好きだから」
「じゃあ尚更もういいだろ……っ!一回呼んだくらいで」
「くらいじゃないよ、オレは切望してたんだから」
緊迫感に耐えきれず思考が凍結していく中で、脳裏を占めていたのは紛れもない既視感だ。
過去にも、俺は名前を巡った妙な口論をコイツとしたことがある。
しかし今は、そんな悠長な思い出に浸っている余裕はない。
「まさかだけど、他の奴に呼ばれてるとかないよね。高校入ってからずっと同じクラスだから、オレが見逃してるわけないと思うけど」
躙り寄る浠の指先が、頬に貼られたガーゼの上にとん、と置かれる。
「っみず、」
「きょーちゃんの周りってなると─あぁ、もしかして佐々木とか野村とか?妬けるな」
その腹が、頬から下へ、頸動脈を這うように動く。
「……黙ってるってことは、本当に誰かいるの。オレが知らないヤツ?クラスの人間?それとも」
首を掴むようにあてがわれた手指に、気管がぎゅうと締まった刹那──
「きょーちゃんのお母さんが連れてきた新しい彼氏?」
見開かれた浠の紅い眼に、ぞくりと全身に悪寒が走った。
一瞬にして、胃をかき混ぜられているような吐き気に襲われ、呼吸が浅くなっていく。
俺は恐怖から、反射的に浠の頬を叩いてしまった。
ぱちん、と乾いた音が誰もいない教室に響く。
「っ─!!!ッてめェ、なんでそれ知ってんだよッ!!」
なんで。
何も見てないお前が。
震える肺から声を絞り出すが、口が思うように動かない。
「言っただろ、美夜のことなら全部知ってるって」
浠は己の頬に集まる熱を、確かめるように撫ぜて、微笑する。
俺はその貼り付けられた笑みに、小さく悲鳴をあげた。
なんだよ、それ。
それも、"愛"なのかよ。
「来んな、やだ、離れろ」
上履きが地面を叩く音がしない。
音もなく浠はこちらへ近寄り、俺は椅子をガタガタと揺らしながら後退する。
けれど、背中は逃げ場を見つけられなかった。
「きょーちゃん」
「今、それ呼ぶな!気色、悪ぃ……っ」
コイツにはまだ何も明かしていないのに。
母親が知らない男を連れ込んできた事も、そいつに俺が何をされているのかも。
俺の頭は酷く冷静さを欠き混乱していて、浠を殴ったことへの罪悪感に気付けないまま、興奮気味に問い詰めた。
「……その男に呼ばれてるの」
浠の目が一層暗澹に染まる。
「ンなわけねぇだろ!!ッいい加減に─う"っ、え、」
考えるだけで、胃の中のものをぶちまけてしまいそうだ。
ああ、嫌だ。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。
考えるな、気を散らせ。散ってくれ、頼む。
「──っごめん、きょうやオレ、また……」
「ク"ソっ、しね……くそ、くそみずき」
何がごめんだクソ野郎。
そう叫んで、もう一発殴ってやりたくもなったが、そんな気力はなかった。
コイツから放たれた言葉に絶望したままの脳みそは未だにぐるぐると渦を巻いて、苦しみから逃がそうとしてくれない。
俺はただ弱々しく暴言を吐きながら、気の済むまでコイツを謝らせる他なかった。
