“ “を満たして、あと何度。

 ある男が、廃屋でがたがた震えていた。

 損壊した大窓から流れ込む熱風が、まるで凍てついているとでも言うように、憐れな形相で、嚙み合わない歯を不規則に鳴らしていた。

 薄暗く、湿り気を帯びた物々しい部屋の一角、その隅で身を縮めて。
 天道の下にも顔を見せず、寝食もろくにままならず、蠅と共に夜を明かしている。

 男はもう死に物狂いで、無我夢中、四肢を千切れんばかりに動かして、脱兎のごとく逃げ行った先の、穢らしいこの窟に逃げ込んだのである。

 血の迸った両の目は、今にも零れ落ちてしまいそうなほど腫れていて、内側から爛れていくように、じくじく痛みを伴っている。

 それにも関わらず、男は視界に現れるあらゆる存在を見逃すまいと、瞬きもせずに、只管に凝望していた。

「違う、俺じゃない、俺じゃない、おれは、おれは」

 狂言を淡々と繰り返し、指先の爪が食い込んだ皮膚に朱が浮かぶくらいに、固く組まれた両手で、悪夢から解放されることを願っている。

 毎時、毎分、毎秒。

「神様……っ」

 たった一瞬も気を緩めず、一切の油断も隙も見せず、魔物に食い殺されぬようにと、必死に救済を求めた。

 頭を垂れ、憫然たる様で蹲う男の前に、朽ち縄の蠢く影が過る。
 それはみるみる内に影を伸ばし、形を変え、人間の風貌へと様変わりしていく。

「ひい」と首根を鷲掴まれた鶏のような、ひしゃげた短い悲鳴を上げながら、魂消た男がその存在に戦慄した。

「それ、オレに言ってる?」

 月明かりが、水面のように揺らめいて、僅かに反射した仄明るい光が、男の眼前に映る異形のモノを照らす。

 蛇の如く鋭い若竹色の双眸と、冷徹さを孕んだ問いかけに、男は脂汗やら冷や汗やらを垂らしながら、首を振った。

 さながら、その光景は蛇に睨まれた蛙である。

「お、お、まえ、何で此処が分かって」

 顔面蒼白で焦る男に相対して、蛇は呆れ混じりの溜息を吐いて、不機嫌そうな面持ちをした。

「何でって……馬鹿だなぁ。お前が教えたのに」

「俺は教えてなんかない、言った覚えも微塵もねえ!!」

「はぁ……戯言に付き合っている時間が惜しい」

「その懐にある指輪、借金の足しにでもするつもりかな」

 蛇は男の胸に人差し指を突き立てて、上着の内ポケットにしまわれていた欠片を、問答無用で取り出す。
 男がはっとして、取り返そうと腕を伸ばすのを見て、蛇は蔑みの眼差しを向けた。

 手に乗せられた、翡翠の指輪は蛇と同じ目の色をしている。そこから醸し出される不穏な空気が、男の精神を蝕んでいった。

 蛇は続ける。

「ねえ、この宝石。オレの目にそっくりだと思わない?」

 予想だにしない質問に男は困惑しつつ、脳裏に過ぎる己の過去の言動に、息を飲む。
 照準の定まらない目で、まじまじと見てみれば、宝石と蛇の目が同一である事を察してしまったのだ。

 全ては、自分の偽息から奪い去った代物で、形として残る事や、そこに込められた恐ろしい異次元の力の影響や仕組みなんかには、ちっとも考えが及ばなかったのだ。

 恐怖と生存本能が渦を巻く思考の中では、単純な問題さえも、結して容易ではない。

 故に恐れて、ただ盲目的に、蛇の申す通りに従順な未来を選んだのである。
 しかし、あの指輪を前にして、神からの寵愛を受ける、たかが子供に自分の命の手綱を握られていると思うと、情けなさや惨めさが心に溢れかえってきたのだ。

 それは日を追う事に、憎悪として澱み捻じ曲がる。魔が差してしまったのである。

「オレの魂が込められた物であれば、あの子が何処で何をして、誰といて、何を考えているのか、というのも大抵は分かってしまうんだよ」

「この意味が分かるな?人間」

 傾げられた首と、睨むような投げかけに男は首肯する。

「ずっと、監視してたのか……?」

「まさか。お前はただのお遊びだよ」

 あの指輪は、蛇の目の代わりをしているのだと、悟ったのだ。

 男はそれを知ろうとせずに、無知の侭まんまと、子供から奪い去り、勝手な願い事ばかりしていた。それが此度、裏目に出たのである。

「ッなんで、なんで俺を解放してくれねえんだよ。俺は命令に従った、お、お前達"神様"の言う通りにしただろうが……!!」

 けれども、男は因果応報を受け入れず、悪足掻きを始めた。

「俺だって、好きでやったわけじゃねえ!!おま、お前が、願いを叶えてやるからって、言いやがるから、やってやったんだ」

「あの夜、あのクソガキを襲えば俺の願いを─」

 必死に、弁明を始める男であったが、その荒々しい声を遮ったのは、神と呼ばれた蛇の高笑であった。

「あはははははっ」

 抑揚のない、喜怒哀楽に欠けた音が、男の弾丸地味た言葉の波を堰き止める。
 まるで嘲笑するような、黒々しい悪意の滲んだ表情を向ける蛇に、胸を躊躇なく掻き毟られ、男の箍が外れた。

「何、笑ってんだよ……ッ!何がおかしい!!」

 蛇は暫く、腹から込み上げる物を堪えきれずに、くつくつと笑い声を上げる。そうして一頻り満足すると、次は冷ややかな笑みを携えて

「オレは願いを聞き入れてやるとは言ったけど、叶えてやるとは一言も言っていない」

 と告げたのである。

「は、あ……?」

 男は予想だにしない蛇の答えに、絶句した。
 口が塞がらないまま愕然と膝をついている男の周りを、蛇はぐるぐると巡り、徐々にその間を詰めていく。

「良いことを教えてあげるよ。オレは汐月美夜が願う事だけを叶える、美夜だけの神様なんだ。だから、あの子を傷付ける存在が居れば、生かしては置かない。絶対的な罰を与える」

「でも、この特別な関係が続く為には、美夜がオレを何よりも先に求めるきっかけが必要だった。……だから、お前を選んだ。それに、オレは"襲え"だなんて下劣な命は与えていない」

「"汐月美夜を堕とせ"と言っただけだ。そうしてオレに縋らせろと、命じたのに」

「欲に抗えず、何の躊躇いもなく美夜を傷付けた奴の願いを、神が叶えるわけがないだろ」

「お前の役目はもう終わった。ここからは罰の時間だよ」

 ちりん、と何処からとも無く鈴の音が聞こえた途端、身体にかかっていた重力が数倍にも増し、男の肺が押しつぶされる苦悶に嘆いた。

 初めから、蛇にはこの男の切望を叶えてやる気などさらさらなかったのだ。
 愚かで醜い下界の中で、汐月美夜というただ一人の純真無垢な人間だけを愛する為に、幸福で満たす為に、化けてまで出てきていた。

 一刻も早く、穢れの跋扈する世界から掬いあげて、腹の中で飼ってやりたいとさえ思っていたのだ。

 しかし、その魂の美しさに心奪われた蛇は、次第に汚辱を天秤に掛けることを覚えてしまった。神界から例え追放され、堕落しようと、あの人間さえ居ればと、虎視眈々と毒を注いでいたのである。

「ふ、ふざけんな、俺をはめやがって!!!畜生……ぶッ殺してやる!!!全部、全部あのクソガキのせいだ、アイツが居なけりゃ、俺の願いが叶えられたんだ!!」

 男は咆哮した。

 借金に塗れ、落ちぶれてからというもの、欲のままに生きてきた男にとって、他者を不幸の谷底へと突き飛ばす事に、何の抵抗もなかった。

 しかし、自分が幸福に導かれる事に至っては、執拗にそれを求めた。
 神が己が渇望している欲を、満たしてくれるのならば、迷いなく屍を蹴飛ばしてでも、その光を奪いに行く。

 そう男が決心していた時、この蛇が現れたのだ。
 灰吹から出た少年の身なりをした蛇は、自分を神だと言い、力さえ貸してくれれば、願いを聞き入れてやると騙った。

 そして、この蛇に選ばれたと覚った男は、無条件に満たしてもらえるほど、自分を特別な存在だと勘違いしたのである。

 それは、とんだ滑稽な思い違いであったのだ。

 蛇は怒鳴り散らかす男を、侮蔑するように見下ろす。罪を犯して尚、助けてくれと懇願する、泥舟と共に沈んでいく身勝手な狸を、見放す心持ちで。

「殺してやる、美夜も、アイツの彼女も!!!」

 けれど、男がそう言い放った時、蛇は予想外にも一驚した。

「彼女?」

「はっ、そうだ、アイツには浠とかいう女がいる。さぞかし大切なんだろうな、毎晩そいつの名前を呼びやがる。あの夜もそうだった!殺してやればきっとアイツは簡単に壊れる」

「そうすれば、俺は──」

 息を荒らげながら、捲し立てる男の話を蛇は異様にも喜ばしげに聞いている。その不気味さに、男の顔が引き攣り、僅かにたじろいだ。

「ふ、はははっ、……へえ?お前のような愚物にしては名案だね。それなら、ほら。殺してごらん」

 そうして蛇は、徐に腰を屈めて、男の前に乗り出し、自らの首を晒したのである。

「は、」

「浠と言っただろ?本人が目の前に居るのに、殺さないの?」

「は?!み、みずきは女じゃ……っ」

「オレがその浠なんだよ」

 男は再び戦慄した。
 殺してやると散々吠えていた自分の愚かさが炙り出され、全身が粟立ち、声を出す気力さえも失われていく。

 その反応を、蛇こと"蘆谷浠"は娯楽のように愉しんだ。

「でもお前じゃオレは殺せない。最後にいい話が聞けて良かった。お前も謎解きが出来てすっきりしただろう?」

「や、やめろ。やめろ、来るなぁっっ!!」

 じりじりと、塒を巻く影が男の喉笛に触れる。男は絶望を見た。暗闇の中に一際爛々と輝く赤い眼光と、視線がかち合った時、男の身体はまるで石のように締め付けられた。

「やめっ───」

 刹那。

 ぱき、と小枝を踏んだ様な小さな音が響いた後、男は床に転がった。叫ぶことはもうない。
 それから浠は、骸の心臓に手を呑み込ませ、その中から、ぼんやりと炎のように揺らめく光玉を取り除いた。

 これこそ、御魂である。

 そうして口へと運び込み、果実を頬張るようにして飲み込むと、小さく嘔吐いた。

「……っ、不味い。きょーちゃんの味見したのが悪かったな……舌が肥える」

 蜩も鳴かぬ月夜を、蛇が見上げる。

「でも、これでまた一つオレ達の望む世界に近付いたね、きょーちゃん」

 満ちるまでを数え、身を賭し、ただ一人だけの魂を己が魂と満ちゆく為に、如何なる汚れをも糧として。

「オレ以外誰も、きょーちゃんを満たせないようにしてあげる」




 ***




 ──速報です。昨日、30代男性の行方不明事件が発生した模様です。
 警察によりますと、男性は市内在住のフリーター、蛙場《かわずば》雅紀《まさのり》さんで、近隣住民からの通報を受け、警察が捜索を開始しました。


 白日、ニュースキャスターが神妙な面持ちで報道する。


 ──この事件を受け、現在警察は十数年前に同地域で発生した五人の児童失踪事件と、何らかの関連があると見て、捜査を進めています。

「こ、い、つ……は」

 "未解決事件が動いた"と。

 画面を食い入るように見つめながら、汐月美夜は唖然とした。

 その男はつい数週間前に、忽然と自分の家から姿を消した、母親の再婚候補であったのだから、驚くのも無理はなかった。

 その背後から、そろりと腕が伸びて、影は美夜を抱きしめる。

「きょーちゃん、何見てるの?」

「あ、浠……アイツが行方不明になったって……証拠も足取りもない。あの五人と同じだ、十年前と」

「あー……本当だね」

 浠はそう言いながら、画面に映るあの男の顔を見て、歯牙にもかけないような相槌を打った。

「きっと罰が当たったんだよ」

「蛇神様、なのか」

「どうだろう。あの男、借金背負ってたんでしょ?取り立て屋かも」

「そう、か……それは一理ある」

「ほらほら、もうおしまいだよ」

 腑に落ちぬ様子で俯く美夜を、浠は宥めながらテレビの電源を落とす。
「あ」と惜しむように美夜は声を上げたが、強い抱擁によって、違和感は塗り潰されていった。

 未だ困惑する彼の裏で、浠はにたりと笑う。

 美夜の心に刻まれたこの空白が、この抉られた穴が、また己で埋められる。

 何度でも、何度でも満たすことができる。

 そしていつか、この御魂を受け入れる時、初めて真なる特別になれるのだ。

 蛇神はその日を夢見て、唯一無二の愛おしい魂を静かに蝕むのであった。