“ “を満たして、あと何度。

「…………頭痛ぇ」

 随分と、長い間眠っていたような気がする。
 一日の始め早々に、体調不良を訴える頭が実に煩わしいことこの上ない。

 俺は澄み渡る快晴の晴れ晴れしさを、曇らせるような溜息を吐ききった。

 それもそのはず、ここ数週間であまりに日常が変わった。
 中でも一番の変化は、あの男が家から出て行ったという現実である。理由はよく知らない。何の心変わりかも、定かではない。

 しかしその報せを蹲る母から聞いた時、内心安心せずにはいられなかった。

 引き金は十中八九、あの男に死地にまで追いやられた、あの夜だろう。

 しかしながら実を言うと、俺は、当時の事を覚えていない。
 断片的に記憶の端々を繋いでいるものの、あの男に殺されかけた事と、浠がそれを阻止した事以外の情報だけが、綺麗さっぱり抜け落ちてしまっている。

 それ以前の浠との喧嘩別れや、須貝の怪談話なんかも記憶に新しいのだが、その晩の事だけがどうにも思い出せない。

 思い返そうとすると、頭痛がして脳が耽ることを拒むから、焦点を当てぬように気を逸らす努力をした。
 知っているようで、知らないという靄がかった胸中の不鮮明さに対するもどかしさは、心の片隅に常にあった。

 ぼんやりと、浠とキスをしたような覚えがある。否、アイツじゃなかったような。

「結局思い出せず終いかよ」

 けれども、夢には不思議と一貫性がある。

 浠に触れる度、無意識の海に放られた中で、忘却の彼方に葬り去っていたはずの走馬灯を、何度も見せつけられてきた。

 記憶がかつての鮮明さを取り戻していく度に、赤い目をした蛇神様もまた、気付けと言わんばかりに存在を大きくして、俺に体を絡ませる。

 その夢に現れる神は、どことなく幼馴染の面影を持っていて、妙に気にかけずにはいられなかった。
 目を瞑り、深い水底に肉体を預けていても、視界に尾鰭をちらつかせるのは、思い出の中の浠であった。

 それは汚れることを知らない清らかな過去で、孤独な世界に膝を抱えて見る一本の映画のような純真さがある。

 寝ても醒めても、浠と蛇神様との縁は弛むことなく此処に、胸の中心からアイツの胸の中心へとあった。

 解れ消えることのない縁の、ぴんと張られた弦のように確かな思念に、嘘偽りはなく。
 湧き上がる小さな喜びは、浠が屈託なく笑うからこそ更に燃え盛れることを知った。

 それから。

 この手や目が不自由なく動いているということは、まだ己が人間であるという裏付けといえた。

 俺の魂は、まだこの肉体を操り、息を潜めているが、懐古する心象もまた、日を追う毎に濃化していくことを知る。

 つまり、まだ蛇神様は俺の魂を喰らう事を選ばなかったのだ。

 時折、俺の記憶でないものが交錯し、思考が混沌とするけれど。

 俺が見たことの無い、真新しい旧本殿の姿や、古めかしい家々が軒を連ねる景色、今では見ることの無い着物を着てめかしこんだ人々が狭い道を往来している光景。

 何れも俺が生まれるより前の記憶に違いないだろうが、これが何の変哲もない夢物語だという風には思わない。
 夢に出てくる蛇神様と、さも体を共有しているみたいだ。

 その理由までは分からないが。

「……やべ、遅れる」

 しかし俺も永遠に夢に思考を乗っ取られているままではいられない、と気持ちを新たに、慌てて鞄を引ったくり、碧空の下に進み出る。

 鬱陶しいほどの太陽光と、揺らめく灼熱の空気に耐えかねて、顔を顰めずにはいられなかった。

 けれども、アイツが変わらぬ場所に居てくれるから、俺は渋々蝉時雨に打たれに行く。
 何時もの時間に、何時もの場所で、何時もの笑顔で、きっと俺の名前を呼ぶのを今か今かと待っているはずだろう。

 しかしばかり、魂だ蛇神様の伝承だなんだと、焦燥感に駆られて空回りをしていた事を今更恥じて、何とも言えない心持ちになった。



「きょーちゃーん!!」

 何時もの待ち合わせをしている、横断歩道で大きなキャンバスに絵の具を塗るみたいに大胆な動きで、アイツが大きく手を振った。

 高校生にもなってあまりに無邪気すぎる所作に気圧されながら、挨拶を交わす。
 浠はいやに喜ばしげに、俺の腕に絡みついた。

「はよ、浠」

「おはよう。ねえ、学校行って勉強しよ!今日テストだから、オレ凄くピンチ」

「そんなの忘れてた。まあ取れんだろ、勘で」

「成績優秀者のきょーちゃんの勘とかアテになんないよお……」

「参考にしろなんて言ってないだろ、別に」

 待てど暮らせど、灯ることのない信号機と、ひしゃげたカーブミラーが目印。
 そのスタートラインから、校舎までの退屈な通学路を、他愛ない話で紛らわす。
 人目も憚らず、まだ蕾であった頃を白紙に描き直すように、浠は俺の手を取って、畦道を歩き出した。

 一つの突っかかりもなく、在り来たりな日常をコイツと過ごして、眠りにつくときは、あの白蛇と共に微睡む。
 それは枯死しかけた花が救いの雨を浴びた時のような、確かな満ち足り。

 これまでの人生で無縁だった、幸福感だった。

 けれども、あの夜、俺は何か大切なことを取り零してしまったような気がしてならない。心に去来するほど、その感覚は鍛えられる。
 尤も、浠だけでない不明瞭な存在との、契りを交わしたような。
 その寂寥(せきりょう)感だけは、どうしても心から片時も消えることがなかった。

「なあ、あの夜のこと、そろそろ教えろよ」

 俺は、今日”も”同じ問いを浠に問う。
 毎度茶を濁されるから、煩瑣(はんさ)を極めた胸の蟠りは寂滅(じゃくめつ)に至らない。俺はそれが不満で、コイツが折れるまで粘るつもりでいる。
 隠し事はなしだと言った傍からこれなのだ。少しくらい強気に応戦してもいいだろう。

 すると案の定、浠は不服そうに眉間に皺を寄せた。

「きょーちゃん、あまり嫌な記憶を思い返そうとすると辛くなっちゃうよ」

「嫌かどうだったかもうろ覚えなんだよ。あの男が出て行ったのも俺からすれば突然過ぎる」

「自分を殺そうとした奴のこと、ずっと気にかけてるの?」

「アイツに興味があるわけじゃねえよ。でも、普通に気になる」

 浠はやれやれ肩を竦めながら溜息をついて、握ったままの手に力を込めた。

「オレがヤキモチ焼きなの、忘れたの」

 俺よりも背丈がでかくて、年の割に大人びているくせに、ガキのように口をすぼめて、拗ねた声でそう呟く。こちらを見下げる瞳に蒼天が反射し、草花の鮮やかさと混じりあったその色が、遠くに見える海のようだった。
 その中に映り込む自分の姿を邪魔だと思うほど、それは無垢で美しい。

 穢れないまま、どうか死ぬまで、宝石のようにあってほしいと願う。
 目を奪われている俺を他所に、浠は殊に毒牙を剝き出した蛇のように厳めしい表情で、視線を反らした。

「きょーちゃんを傷つけた奴が、オレよりも考えられているって、想像するだけで腸が煮えくり返るな」

 口角だけでも取り繕うとする意思を感じるものの、露骨な嫌悪感を抑えきれずに、顔を歪めている。そうと思えば、今にもあの男の首根っこを引っ掴んで、骨も残さず食い殺してしまいそうな空気を醸し出し始めた始末だ。

 ここで変に誤解されて厄介ごとになっては溜まったものではないと、俺は横から浠の耳を引っ張る。
 浠は不意打ちを受けて我に返ると、痛みに情けない声を上げた。

「バーカ、逆だよ」

「いててて!ぎ、逆......?」

 浠の片耳を掴みながら、少しばかりうるさくなる心臓に、鎮まるよう言い聞かせる。
 本心を光の下に晒してみるというのは、勇気のいることで、喉がきゅうと詰まりそうになった。

「......お前のことしか考えたくないから、とっととケリつけちまいたいんだよ」

「!!きょーちゃん......!」

「これで分かったろ」

「へへ、そっか。そっかあ......!」

 浠はけろりと機嫌を良くして浮ついた。
 顔に溜まった熱のせいで、首筋にじんわりと汗が滲む。
 それを見た浠はますます歓喜に打ち震えて、俺の気を知りもせずはしゃいだ。

「もういいだろ......」

「え~、へへへ。オレのことしか考えたくない、かあ」

「繰り返すな!」

 まるでこっちが損をしたような雰囲気に、胸がざわめくものだから、決まりが悪くなって繋いでいた手を払って、目を背ける。
 完全に弄ばれている状況が悔しくて、俺の言葉を復唱する浠の足をどかどかと蹴るが、アイツは舞い上がって痛くも痒くも無さそうに笑顔でいる。

 面白がりやがって。最低だ。

 一頻り有頂天を満喫すると浠は、漸く落ち着きを取り戻して

「じゃあ、お願いに答えてあげないとね」

 と告げた。
 不貞腐れ気味に歩調を速めていた俺の手を、後方で突然足を止めた浠に引っ張られ、体制を崩す。

「な、!?っなんだよ、急に引っ張んな、危ねえだろう、が......」

 そう注意する俺の顔を、両の手で(もた)げて、目を弓なりにして艶笑する浠の瞳が揺蕩う。俺は瞬きもできずに、その紅炎を魅入った。

「あの夜は、こうやって、顔を寄せて。きょーちゃんの願い事を聞いたんだよ」

「それを叶える為には、邪魔者も傷つける奴も全員いない、オレ達が幸福に満たされるためだけの世界が必要なの」

 鳴き騒ぐ生物の呼吸が、水を打ったように静まり返る。
 視界が霞んで、空間が蜃気楼の如く歪みはじめるのに、俺は目を見張っていた。

 ざざ、ざざと砂嵐が浠の輪郭を遮る。
 その一瞬一瞬を紡ぐ度、頭が締め付けられるように痛み、苦痛に悶え出すも、ヤツは気に止めず続けた。

「……きょーちゃんは、受け入れてくれるよね」

「あ……」

 すると浠が、力なく下げられた俺の手を自身の顔に添わせる。強烈な既視感を拒否するように体が震えだし、目眩を覚える。

 それから、アイツの右眼に薄らと傷痕が浮かび上がってくるのを垣間見て、撃たれたような衝撃が響いた。

「俺、これ、知って……」

 見覚えがある。
 浠の言う通り、この一挙手一投足、何の違えもなく、俺は経験したことがあるはずだ。

 今の自分は、夢と現、どちらの世界にいる?

 不自然に砕けた記憶の断片が、ちかちか点滅している。その断続的な光を手掛かりに、思い起こそうと口に出してみるが、浠がそれを制した。

「今は、オレの事だけ見てて」

 唇に柔らかい感触がして、呼吸が止まった時、鳴き音や、川のせせらぎが徐々に鼓膜に帰ってくる。
 そうしてぱっと、体が離れ、浠が笑うと、空気が弾けた。最初の花火が、大空に咲いた時のように。

「で、『俺も浠の事が好きだ』って泣きじゃくるきょーちゃんに、オレがちゅーしてハッピーエンド!はい拍手!」

「は?」

「え?」

 その明朗快活に調子を戻す浠の、下手な小芝居に集中が途切れ、俺は正気を取り戻した。

 そこであの既視感が、コイツの夢物語の延長上にあることを悟ったのだ。
 まさか妄想に感化されていたとは、我ながら呆れる。

 よく事実だと言わんばかりに胸を張れるものだ。

「っ俺が言うわけねえだろ、そんな気持ち悪ぃセリフ!!都合よく捏造してんじゃねぇ」

「酷い、事実なのに!」

「うるせえ喋んな、こっち寄んな」

「理不尽……っああ待って、きょーちゃん怒んないでって!」

 結局、想定通りあの夜の事は話されることなく終わった。
 そうして、青空の真下、先行く俺を浠が追いかける。

 満ち足りる事に飢えていた、かの時の俺は、名前も不確かなモノで、心の穴が埋め尽くされるのを待っていた。
 それはきっと、浠が俺に抱える友情よりも重く、親愛よりも不安定で暖かいもので。

 幸せという漠然とした言葉になぞらえるならば、この胸を満たす特別なモノの正体は、世界で言う"アイ"なのかもしれない。

 それが薬であろうと、毒であろうと。
 浠から注がれるものならば、例えどんなに内側から爛れようと、これは甘い蜜になってしまうのだろう。

「ねえ美夜」

「……ンだよ」

「愛してる。魂も全部」

「重てぇ」

 満更でもないように答える俺を見て、浠もまた意地が悪そうに笑っている。
 俺はこの、描きなおされたような世界で、きっと一生、孤独になれなくなった。

 しかしそれでいい。

「何度でも言うよ。オレはきょーちゃんを傷付ける奴には罰を与えるから」

「だけど何時かは、誰にも邪魔されない世界に行こうね。だから、ずっと隣で生きさせて」

 浠の真剣な眼差しに、俺は小さく頷いた。

 付け焼き刃のような世界でも、その鋼が折れる時が来たとしても、運命を分かちあったような俺達ならば、共に生き共に死ぬ事を選ぶ。

 俺と浠はそうやって、特別を守り続けていくのだ。
 満ち満ちていく空白は、もう二度と虚しさを詰め込むこともない。

 青嵐が俺達の間をすり抜けて、草花の上で舞を指す。浠の純心故の無邪気さと、光に照らされて淡く眩さを放つ瞳は、この世界を、俺の世界を生かしている。

「……やだっつっても、お前は来るんだろ?」

「もちろん」

「ほんと、食えねえヤツ」

 これで良い。

 良かったんだ。

 俺の魂が、何時か人智の及ばぬ神の贄になるとしても、この世界で食い殺されるのならば悔いは無い。

 この空白を満たせる浠さえいれば、俺は何も怖くない。

 だからどうか。神様──蛇神様。
 俺と浠を引き離さないでくれよ。

 たとえ地獄に落ちても。

 八百万の神が見放したとしても。

「浠」

「なあに、きょーちゃん」

「もし死んでも、あの世まで着いてきてくれるか」

「当たり前でしょ。オレはずっと、きょーちゃんだけの神様なんだから。望むなら何度でも、ね」

 俺だけの神様()が、この泥中にただ清らかに咲いているのなら、それだけで生きていける。

 何度でも。壊れたこの世界をやり直せる。

 何度でも。