お前がいないと、呼吸さえままならないことを知った
生きていく力もない、衰弱しきった心でも、泥水を啜って、血反吐を吐いて、陽の光に押し曲げられた体躯で祈ることが希望だった。
偶然が必然か、浠の存在は、かつての自分にとっての蛇神様と、限りなく酷似していて。
どんなに壊れかけた海馬でも、普遍的に重なるその佇まいは、燦然と輝き、心を覆い尽くす暗影を絶つ、道標となった。
アイツが目の前に現れたあの日以来、俺の人生の歯車は大きく狂い出していて、名前の分からない感情を与えられる度、動揺し続けてきた。
それは恐怖であり、心地良さであり。
その曖昧な二つの感覚に挟まれ、身を委ねてしまった俺は浠との間に流れる不協和音に、反応することが出来なかったのである。
俺だけの神様、と自称する浠を、否定しながらも信頼しきっていたのだ。
「きょーちゃんが願えば、オレはなんでも叶えてあげる」
「なんでも」俺は浠の言葉を譫言のように呟いて、窓の外から見える月をぼんやりと見上げる。
俺は今まで、何度浠に縋り、願ったのだろうか。
幾度、寄る辺のない時の中で、アイツの存在を希求したのか、頭の中で指折り数えようと朧気に考えたけれど、それは無意味な行為であることを悟る。
数えきれないほど、俺は無意識に浠を恃みとしていたはずだ。
春も夏も秋も冬も。
この狭く小さい、不浄な世界で命脈を保つ為に、祈ることが生き甲斐だった。
「なんでもだよ」
気を消耗しすぎたせいか、全身が宙に浮いているように朦朧とする意識の中で、横目に浠の顔を見つめる。声や言葉こそ俺の知っている浠本人だが、容姿と佇まいは、まるで別人とさえ思う。
夢で見た蛇神の面影が重なる。あの時、暗闇に沈みかけていた俺を光のほうへ押し上げて、声のする方角へ導いてくれたのは紛れもない、かの神であった。
浠の体を借りて、ここに降りてきてくれたのか。
「......じゃあ、もう終わらせてくれ」
「きょーちゃん?」
「い、まなら......。もう俺の魂、食っていいから」
「な、」
あの時、浠が口にしていた「受け入れる」や「時間」の話が、蛇神様の求める俺の魂に関わることだとするのならば、何時か食らう為の下準備だったとするのならば。
いっそのこと早く、その腹を満たしてやりたいと思った。
俺で満たすことができるなら。
「本当は浠じゃなくて、蛇神様、なんだろ、あんた......」
浠が俺だけの神様と名乗るわけが、少し分かった気がした。
ずっと、コイツの。
蛇神様の目で、俺は見られていたのだ。
「薄々、分かってた。浠が赤い目になるとき、そこに俺が知ってるアイツはいなかったから。ただ、確信が持てなかったんだ」
「でももうここまで来たら、信じるしかねえ。……あんたは、俺をあの世に連れて帰りたいんだろ。なら、くれてやる」
「だから浠は、解放してやってくれよ」
約束は、何時しか己を縛る呪いになっていた。
それを守ろうとする度に、魔が差して、現実と真実を入り乱れさせた。
俺は蛇神様を独りにしないと豪語しておきながら、それを良いことに、自身に降り掛かる孤独を紛らわせていただけなのだ。
ずっと一緒にいる、という言葉も何もかも偽善として片付けられるのかもしれない。
俺ばかり、守られようとしていた。
「っ自分勝手なのは分かってる、でももう、こうでも言わないと、俺は……ダメになっちまうから」
口から、とめどなく感情が溢れ出てくる。
幼い時から、永遠に絶えることのない浠との特別が、今正に事切れようとしているのが、恐ろしくて。
必死に弁明しようとする自分は、滑稽で愚かで仕方がない。
「ごめん......怒っていいから、殴っていいから、赦さなくていいから。......せめて、死ぬ時くらい役に立たせて、くれ」
蛇神様も、浠も同じ体を持つのなら、否。例えそのどちらでなくとも、彼らは俺の人生を動かす心臓なのだ。
唯一無二の特別だ。
だから失いたくない、壊れて欲しくない。
どちらかを犠牲にするくらいなら、魂など惜しくはない。
喰われたら、ほんの少しは、この胸に空いた大きな空洞も埋められるだろうか。
満たして欲しい。
でも、満たされるのが怖い。
そんな矛盾に苦しみ喘ぎながら、
「ようやく、あんたの願いを叶えてやれるんだ」
そう紡ぐ他なかった。
この身を捧げれば、空虚に支配され、愛や幸せなんて漠然とした、決して手に入らない物ばかりを、知らず知らずの内に渇望しなくて済む。
コイツの願いを叶えれば、きっと。
汚い世界で息をしなくて良くなるのなら。
しかし浠は首を横に振って、これを受け入れなかった。
俺は切羽詰まりながら、胸板を叩き、困惑を嘆く。
「な、なんでだよ、それが俺の願いだって──」
「違うよ。それはきょーちゃんの願いじゃなくて、オレの願いを叶えるための方法だから」
じゃあ。
俺は、どうしたらいい──?
誰でもいい、なんでもいい。ただ教えて欲しい。
「じゃ、じゃあ、どうしたらいい。蛇神様は教えてくれない……浠、俺はっ……どうしたら」
浠は腕の中で蹲る俺に、声をかけるのを躊躇って、一瞬眉間に皺を寄せて唇を食む。
しかし、次の瞬間どこからともなく入り込んできた風が、部屋の隅で一つの塊になる二人を包み込むと、浠が俺の頬に両の手を添えて、そっと持ち上げる。
そうして項垂れた花を持ち上げるように、決して手折らぬようにと繊細さに震える心を抱えたまま、微笑んだ。
細められた目の奥に、蛇神様の面影が重なる。
「教えてあげる」
浠であって、蛇神様である一人の存在。俺はどちらの名前でこれを呼ぶべきか、狼狽して、ただ何も言わずに求めることだけをした。
涙でぐちゃぐちゃになった顔に、浠はそっと口付けを落とす。俺はまた腹の中を掻き回されると身構えて、体を強ばらせたが、その苦しみは訪れない。
静かに離れる互いの影と、胸の内側からじんわり染みていく甘やかな温もりに惚けていると、浠が開口する。
「オレの為だけに生きて」
「オレと生きて、オレと死んで。片時も、オレの事を忘れないで。そうして傍に居てくれるのが、何よりも幸せだから」
煌々たる月光で部屋は、満潮を迎える。
浠の輪郭が鮮明になると、その光を受けた清澄な宝石眼に射竦められる。
「オレは、きょーちゃんに恩返しがしたかった。だからオレにも本当の願いを教えて。直接、その口で」
とん、と矢先が心拍の頂に合わせて、胸の真ん中を射通した時、その右眼にほんの一瞬、雷のような裂傷の痕が垣間見えた。
俺はあまりの既視感に拍子抜けして、間の抜けた息と共に疑問符を連ねる。
「……あ、れ、?」
浠の右眉から頬骨にかけて残っている傷は、遠い過去を投影したあの夢で、間近に見たものであったのだ。
俺が、岬ノ神社の御神体に絆創膏を貼り付けた時と、同じ位置の同じ傷が、晒されていくと、更に脳に電撃が走る。
「い"……っ」
「大丈夫、大丈夫」
途端に痛みがして、咄嗟に頭を抑えると、浠は泣きじゃくる子供をあやすような手つきで、髪の流れに沿って指を這わせた。
「っその、傷……」
一方浠は、呑気に「あぁ」と懐かしそうに傷を撫でて、触るかとこちらに問いかけた。
蛇神様に触れたら、存在ごと消えてしまうのではないかと、身が縮みかける。
しかし、その戸惑いを退けて、浠は俺の手を自分の肉肌へと移動させ、恍惚とした表情で微笑んだ。
夢幻泡影の如く、儚く散ってしまうのではないかと、刹那の間肝を冷やしたが、指先から伝わる柔らかさや体温が、それは杞憂だと示した。
しかし、触れていた指の腹の下に、確かに刻まれていた傷は、瞬きを二つした所で、消失してしまった。
肌の抉れたざらつきも、皮膚の凹凸もない。
意識の浮遊感が見せた幻覚なのか、この状況さえも夢路の途中であるのか、段々と混濁していく。
「夢、か?」
「夢じゃないよ、オレはきょーちゃんの望む存在だから」
浠は俺の疑問に答えることなく、穏やかに微笑した。核心に近付いて尚、あと一歩の所を踏み入れず、煩悶とする俺を見て、さもいとおしげに。
「俺の望む存在……」
浠が蛇神様だったら。
束の間、その瞳に吸い込まれ、理性も本能も支配されているような、気の遠のきを覚えた。
傀儡となり行く己の体に、血が逆らう不快感はなく。それは眠りにつくような甘い毒に蝕まれている感覚に近い。
「ほら、美夜。オレに縋って、オレに願って。全部叶えてあげる」
「美夜だけの神様の名前を呼べばいい」
「へび、がみ様……」
脳内に響き渡る音に従いながら、抑揚のない声で呟く。導かれ、誘われ、心の奥底から引き出される、果てない衝動に抗わず、光の這った跡を追った。
この垂らされた蜘蛛の糸を、掴まなければ。
そうして、この狭くて小さい箱庭を壊してくれたら、と俺は淀んだ世界では望まなかった事に思いを巡らせる。
俺は、俺を依代としてくれる存在を求めて、神に手を伸ばした。
それは親でも、友人でもない。
たった一人の幼馴染と、その中に巣食う蛇神様に。
「……俺を独りにしないで……俺も、あんたを独りにしない、頼む……浠が居なくなるのだけは、嫌だ……」
消えないで。俺だけの神様。
本当は孤独が嫌いだった。
健全な愛と、幸福の間で、一度離れた浠の手を繋ぎ返したかった。
不器用なばかりに、満たされない思いに蓋をして、俺に心血を注いでくれる浠を跳ね除けて、勝手にむしゃくしゃしていた。
自分はもうこの世界では汚れきった存在で、清らかに生きている浠や、蛇神様のような神聖な存在には触れてはいけない人間だと、己を責めてばかりいる。
ぽっかりと抉られた心の穴を、誰の手も借りずに埋める方法ばかりを探していたのだ。
だから、寂しさを紛らわせる為と、素足で砂利道を駆け抜けた、あの神社に向かったけれど、夜風や戦ぐ草花の唄が決して空虚な胸の内を埋めてくれるわけではない。
どうしてもっと早く、気付かなかったのだろう。
縋らなければ生きていけないくせに、意固地になる必要なんてなかったのに。
受け入れてしまえば、楽になれると。
「それがきょーちゃんの本当の願いなら、何度だって」
「やっと聞けた。ありがとう、きょーちゃん」
浠の優しい声音が、ふっと舞い落ちた時、前が見えなくなるほどに紅涙をしぼりだして、俺は転んだガキのように誰の目も憚らずわんわん泣いた。
「何度でも叶える、何度でも埋めて、満たしてあげるから」
「……っ、みずき……」
「一生独りになんてしない、オレが幸せにする。大好き、愛してるよ、きょーちゃん。心から」
これ以上ないほどの、甘ったるいセリフ。
砂糖を噛み砕いて、どろどろに溶かして、沸騰させたように、熱くて甘美な声。
必死に飲み込もうとして、吐き出しかけて、俺は浠に本音を吐露する。
「……っおれも、好きだ、好きになっちまった」
アイツはさして驚きもせず、その答えを先読みしていたのか、口角を緩やかに持ち上げて首肯した。
暗闇で彷徨い続けていた、はぐれモノの心が、帰るべき場所に繋がりを見つけて帰ってきたかのような、充足感に初めて世界が明るく見えた。
柔く、暖かく、優しく、穏やかで、眩い。
催花雨を浴びて、少しずつ洗われていく月華のように、心が打ち震える。
「これからオレたちだけで生きていこう、この世界をやり直そう。ね?」
浠はもう一度、俺に投げかけ、そうっと口付けをした。
蛇神様。
浠。
その名前の愛おしさを、海馬に刻みつけながら、花の散るように意識が落ち、俺は浠の胴へと崩れた。
生きていく力もない、衰弱しきった心でも、泥水を啜って、血反吐を吐いて、陽の光に押し曲げられた体躯で祈ることが希望だった。
偶然が必然か、浠の存在は、かつての自分にとっての蛇神様と、限りなく酷似していて。
どんなに壊れかけた海馬でも、普遍的に重なるその佇まいは、燦然と輝き、心を覆い尽くす暗影を絶つ、道標となった。
アイツが目の前に現れたあの日以来、俺の人生の歯車は大きく狂い出していて、名前の分からない感情を与えられる度、動揺し続けてきた。
それは恐怖であり、心地良さであり。
その曖昧な二つの感覚に挟まれ、身を委ねてしまった俺は浠との間に流れる不協和音に、反応することが出来なかったのである。
俺だけの神様、と自称する浠を、否定しながらも信頼しきっていたのだ。
「きょーちゃんが願えば、オレはなんでも叶えてあげる」
「なんでも」俺は浠の言葉を譫言のように呟いて、窓の外から見える月をぼんやりと見上げる。
俺は今まで、何度浠に縋り、願ったのだろうか。
幾度、寄る辺のない時の中で、アイツの存在を希求したのか、頭の中で指折り数えようと朧気に考えたけれど、それは無意味な行為であることを悟る。
数えきれないほど、俺は無意識に浠を恃みとしていたはずだ。
春も夏も秋も冬も。
この狭く小さい、不浄な世界で命脈を保つ為に、祈ることが生き甲斐だった。
「なんでもだよ」
気を消耗しすぎたせいか、全身が宙に浮いているように朦朧とする意識の中で、横目に浠の顔を見つめる。声や言葉こそ俺の知っている浠本人だが、容姿と佇まいは、まるで別人とさえ思う。
夢で見た蛇神の面影が重なる。あの時、暗闇に沈みかけていた俺を光のほうへ押し上げて、声のする方角へ導いてくれたのは紛れもない、かの神であった。
浠の体を借りて、ここに降りてきてくれたのか。
「......じゃあ、もう終わらせてくれ」
「きょーちゃん?」
「い、まなら......。もう俺の魂、食っていいから」
「な、」
あの時、浠が口にしていた「受け入れる」や「時間」の話が、蛇神様の求める俺の魂に関わることだとするのならば、何時か食らう為の下準備だったとするのならば。
いっそのこと早く、その腹を満たしてやりたいと思った。
俺で満たすことができるなら。
「本当は浠じゃなくて、蛇神様、なんだろ、あんた......」
浠が俺だけの神様と名乗るわけが、少し分かった気がした。
ずっと、コイツの。
蛇神様の目で、俺は見られていたのだ。
「薄々、分かってた。浠が赤い目になるとき、そこに俺が知ってるアイツはいなかったから。ただ、確信が持てなかったんだ」
「でももうここまで来たら、信じるしかねえ。……あんたは、俺をあの世に連れて帰りたいんだろ。なら、くれてやる」
「だから浠は、解放してやってくれよ」
約束は、何時しか己を縛る呪いになっていた。
それを守ろうとする度に、魔が差して、現実と真実を入り乱れさせた。
俺は蛇神様を独りにしないと豪語しておきながら、それを良いことに、自身に降り掛かる孤独を紛らわせていただけなのだ。
ずっと一緒にいる、という言葉も何もかも偽善として片付けられるのかもしれない。
俺ばかり、守られようとしていた。
「っ自分勝手なのは分かってる、でももう、こうでも言わないと、俺は……ダメになっちまうから」
口から、とめどなく感情が溢れ出てくる。
幼い時から、永遠に絶えることのない浠との特別が、今正に事切れようとしているのが、恐ろしくて。
必死に弁明しようとする自分は、滑稽で愚かで仕方がない。
「ごめん......怒っていいから、殴っていいから、赦さなくていいから。......せめて、死ぬ時くらい役に立たせて、くれ」
蛇神様も、浠も同じ体を持つのなら、否。例えそのどちらでなくとも、彼らは俺の人生を動かす心臓なのだ。
唯一無二の特別だ。
だから失いたくない、壊れて欲しくない。
どちらかを犠牲にするくらいなら、魂など惜しくはない。
喰われたら、ほんの少しは、この胸に空いた大きな空洞も埋められるだろうか。
満たして欲しい。
でも、満たされるのが怖い。
そんな矛盾に苦しみ喘ぎながら、
「ようやく、あんたの願いを叶えてやれるんだ」
そう紡ぐ他なかった。
この身を捧げれば、空虚に支配され、愛や幸せなんて漠然とした、決して手に入らない物ばかりを、知らず知らずの内に渇望しなくて済む。
コイツの願いを叶えれば、きっと。
汚い世界で息をしなくて良くなるのなら。
しかし浠は首を横に振って、これを受け入れなかった。
俺は切羽詰まりながら、胸板を叩き、困惑を嘆く。
「な、なんでだよ、それが俺の願いだって──」
「違うよ。それはきょーちゃんの願いじゃなくて、オレの願いを叶えるための方法だから」
じゃあ。
俺は、どうしたらいい──?
誰でもいい、なんでもいい。ただ教えて欲しい。
「じゃ、じゃあ、どうしたらいい。蛇神様は教えてくれない……浠、俺はっ……どうしたら」
浠は腕の中で蹲る俺に、声をかけるのを躊躇って、一瞬眉間に皺を寄せて唇を食む。
しかし、次の瞬間どこからともなく入り込んできた風が、部屋の隅で一つの塊になる二人を包み込むと、浠が俺の頬に両の手を添えて、そっと持ち上げる。
そうして項垂れた花を持ち上げるように、決して手折らぬようにと繊細さに震える心を抱えたまま、微笑んだ。
細められた目の奥に、蛇神様の面影が重なる。
「教えてあげる」
浠であって、蛇神様である一人の存在。俺はどちらの名前でこれを呼ぶべきか、狼狽して、ただ何も言わずに求めることだけをした。
涙でぐちゃぐちゃになった顔に、浠はそっと口付けを落とす。俺はまた腹の中を掻き回されると身構えて、体を強ばらせたが、その苦しみは訪れない。
静かに離れる互いの影と、胸の内側からじんわり染みていく甘やかな温もりに惚けていると、浠が開口する。
「オレの為だけに生きて」
「オレと生きて、オレと死んで。片時も、オレの事を忘れないで。そうして傍に居てくれるのが、何よりも幸せだから」
煌々たる月光で部屋は、満潮を迎える。
浠の輪郭が鮮明になると、その光を受けた清澄な宝石眼に射竦められる。
「オレは、きょーちゃんに恩返しがしたかった。だからオレにも本当の願いを教えて。直接、その口で」
とん、と矢先が心拍の頂に合わせて、胸の真ん中を射通した時、その右眼にほんの一瞬、雷のような裂傷の痕が垣間見えた。
俺はあまりの既視感に拍子抜けして、間の抜けた息と共に疑問符を連ねる。
「……あ、れ、?」
浠の右眉から頬骨にかけて残っている傷は、遠い過去を投影したあの夢で、間近に見たものであったのだ。
俺が、岬ノ神社の御神体に絆創膏を貼り付けた時と、同じ位置の同じ傷が、晒されていくと、更に脳に電撃が走る。
「い"……っ」
「大丈夫、大丈夫」
途端に痛みがして、咄嗟に頭を抑えると、浠は泣きじゃくる子供をあやすような手つきで、髪の流れに沿って指を這わせた。
「っその、傷……」
一方浠は、呑気に「あぁ」と懐かしそうに傷を撫でて、触るかとこちらに問いかけた。
蛇神様に触れたら、存在ごと消えてしまうのではないかと、身が縮みかける。
しかし、その戸惑いを退けて、浠は俺の手を自分の肉肌へと移動させ、恍惚とした表情で微笑んだ。
夢幻泡影の如く、儚く散ってしまうのではないかと、刹那の間肝を冷やしたが、指先から伝わる柔らかさや体温が、それは杞憂だと示した。
しかし、触れていた指の腹の下に、確かに刻まれていた傷は、瞬きを二つした所で、消失してしまった。
肌の抉れたざらつきも、皮膚の凹凸もない。
意識の浮遊感が見せた幻覚なのか、この状況さえも夢路の途中であるのか、段々と混濁していく。
「夢、か?」
「夢じゃないよ、オレはきょーちゃんの望む存在だから」
浠は俺の疑問に答えることなく、穏やかに微笑した。核心に近付いて尚、あと一歩の所を踏み入れず、煩悶とする俺を見て、さもいとおしげに。
「俺の望む存在……」
浠が蛇神様だったら。
束の間、その瞳に吸い込まれ、理性も本能も支配されているような、気の遠のきを覚えた。
傀儡となり行く己の体に、血が逆らう不快感はなく。それは眠りにつくような甘い毒に蝕まれている感覚に近い。
「ほら、美夜。オレに縋って、オレに願って。全部叶えてあげる」
「美夜だけの神様の名前を呼べばいい」
「へび、がみ様……」
脳内に響き渡る音に従いながら、抑揚のない声で呟く。導かれ、誘われ、心の奥底から引き出される、果てない衝動に抗わず、光の這った跡を追った。
この垂らされた蜘蛛の糸を、掴まなければ。
そうして、この狭くて小さい箱庭を壊してくれたら、と俺は淀んだ世界では望まなかった事に思いを巡らせる。
俺は、俺を依代としてくれる存在を求めて、神に手を伸ばした。
それは親でも、友人でもない。
たった一人の幼馴染と、その中に巣食う蛇神様に。
「……俺を独りにしないで……俺も、あんたを独りにしない、頼む……浠が居なくなるのだけは、嫌だ……」
消えないで。俺だけの神様。
本当は孤独が嫌いだった。
健全な愛と、幸福の間で、一度離れた浠の手を繋ぎ返したかった。
不器用なばかりに、満たされない思いに蓋をして、俺に心血を注いでくれる浠を跳ね除けて、勝手にむしゃくしゃしていた。
自分はもうこの世界では汚れきった存在で、清らかに生きている浠や、蛇神様のような神聖な存在には触れてはいけない人間だと、己を責めてばかりいる。
ぽっかりと抉られた心の穴を、誰の手も借りずに埋める方法ばかりを探していたのだ。
だから、寂しさを紛らわせる為と、素足で砂利道を駆け抜けた、あの神社に向かったけれど、夜風や戦ぐ草花の唄が決して空虚な胸の内を埋めてくれるわけではない。
どうしてもっと早く、気付かなかったのだろう。
縋らなければ生きていけないくせに、意固地になる必要なんてなかったのに。
受け入れてしまえば、楽になれると。
「それがきょーちゃんの本当の願いなら、何度だって」
「やっと聞けた。ありがとう、きょーちゃん」
浠の優しい声音が、ふっと舞い落ちた時、前が見えなくなるほどに紅涙をしぼりだして、俺は転んだガキのように誰の目も憚らずわんわん泣いた。
「何度でも叶える、何度でも埋めて、満たしてあげるから」
「……っ、みずき……」
「一生独りになんてしない、オレが幸せにする。大好き、愛してるよ、きょーちゃん。心から」
これ以上ないほどの、甘ったるいセリフ。
砂糖を噛み砕いて、どろどろに溶かして、沸騰させたように、熱くて甘美な声。
必死に飲み込もうとして、吐き出しかけて、俺は浠に本音を吐露する。
「……っおれも、好きだ、好きになっちまった」
アイツはさして驚きもせず、その答えを先読みしていたのか、口角を緩やかに持ち上げて首肯した。
暗闇で彷徨い続けていた、はぐれモノの心が、帰るべき場所に繋がりを見つけて帰ってきたかのような、充足感に初めて世界が明るく見えた。
柔く、暖かく、優しく、穏やかで、眩い。
催花雨を浴びて、少しずつ洗われていく月華のように、心が打ち震える。
「これからオレたちだけで生きていこう、この世界をやり直そう。ね?」
浠はもう一度、俺に投げかけ、そうっと口付けをした。
蛇神様。
浠。
その名前の愛おしさを、海馬に刻みつけながら、花の散るように意識が落ち、俺は浠の胴へと崩れた。
