“ “を満たして、あと何度。

 何も、これが初めてだったわけではない。

 世間で普通と呼べない事くらい、この家では日常茶飯事にある。
 俺にとっては、この狭い家が全世界で、そこで罷り通る全てが常識だ。

 しかし、浠と出会ってから、世界は俺が思うよりも少しだけ広いことを知った。
 外は、知らなきゃ良かったと思うことばかりだ。

 俺はずっと、盲信もせず、孤独の中で息絶えるのがお似合いだったのに。
 そうすれば、この男が俺にしている行為も、卑劣とさえ感じなかっただろう。

 俺も母親も、所詮は肉欲を満たすための器。
 それ以上でも、それ以下でも、この眼前の怪物にとってはない。

 皮膚を這う手つきは、酷く屈辱的で、人間として扱っていないと断言出来るものであった。
 手入れされていない爪が、何度も肉肌を引っ掻いて、不必要な傷みを伴う。

 生理的に押し寄せる涙を堪えて、せめてもの抵抗として睨みつけるが、それも無意味な足掻きで。

「お前が女だったら、さぞかしヤり甲斐があったろうなぁ……こんな状況で、まだ興奮してられんだもんな、立派だよ」

「ふ……っ、う"、ぅッ」

 頭を枕に押さえつけられながらも、痙攣する脚で男の胴を退けようと逆らう。
 首の筋が悲鳴を上げていて、苦痛に顔を歪めると、男はその様にケラケラと笑って、また、俺の頬を殴りつけた。

「女じゃひいひい泣くんだがな、お前は生意気でも、根性はあるからな、男として俺も情が湧くよ」

 振り翳される拳から、己を護る為の両腕も今や無いに等しい。低く短い呻き声をあげて、惨めに従うこと以外を許されず、俺は身体中に紫斑を作った。

 気付けば、あと一線を超えてしまったら、もう二度と後戻りの出来くなるところまで来ていた。

「じゃあそろそろ、そのクソみてぇな態度も卒業だな」

 ふと、男の骨張った太い節のある指先が、後孔に触れ、ぞっとする。全身が凍りつくような嫌悪感に戦慄し、俺は首を横に振る他なかった。

「男はココ使うんだよ、知らなかったか?」

 知るわけが無い。
 散々痛ぶっておいて、今度は内側から陵辱を続けようというのか、男は心底愉快そうに嘲笑する。
 腹部に飛び散った、男自身の白濁を、指に絡め取り、屹立したソレに塗りたくる様を見て、全身の血の気が引いていく感覚を覚えた。

「ん"ぅぐ、ッ、ぅ──ッう」

「大丈夫大丈夫。お前が呑気に寝てる間にやるこたぁやってんだ。ほら気張れよー」

 まともな潤滑剤さえないなら、この汚らしい体液を使って交わろうという魂胆か。
 気が狂っている。

 下劣にも程があるだろう。
 あまりの拒絶感に、胃の中のものをぶちまけそうになって、何度も塞がれた口で嘔吐いた。脳はあらぬ想像を繰り広げ、その悪夢に慄然とする。

 言い知れぬ恐怖と圧迫感に耐えられず、男の身体が擦り寄せられる度に、ベッドを大きく揺らすほど暴れた。

 しかし。

「う"ッ?!!?」

 抵抗する俺が癪に触ったのか、男に腹部を突かれる。

 痛い、苦しい、気持ち悪い。

 それでも尚、俺はシーツの上で下半身を食われる獲物のように、じたばたと藻掻くけれど、自由を失った両手足と、削られ続ける精神力では、それも長くはもたなかった。

 縛られた手首はもう鬱血しきって、微弱な電流が流れているように麻痺しかけている。

 絶望に打ちひしがれ、いっそもうここで殺してほしいと、何度も暴れては力尽きてを繰り返す。殴られて意識を飛ばした方が、遥かにマシだったのだ。

 俺が呻き声さえ絞り出さなくなったことを、好機とした男は、水分でしなり始めた口元のガムテープを粗雑に剥がす。
 触れた空気は生温く、閉じる余力も無くなった、僅かに開かれた口から、虫の息が零れる。

 それが尚のこと惨めで愚かで醜くて、仕方がなかった。

 反吐が出そうだ。

「グ、ソ……ッ!っやめ、やだ、」

 嗚咽混じりに否定するが、あまりのおぞましさに息が上手く吸えない。

「何言ってんだか聞こえねえよぉ。泣き言ばっか吐くなんてダッセェなあ。男だろ?」

「テメェ、ッ死ね、クソ野郎……!!!」

 それでも放たれる言の葉は、どれだけ確かな声になっていなくとも、抑圧していた自我の叫びであった。

 ずっと、心のどこかで何時かこの男を殺してやろうと思っていた。
 浠はそれを察していたようだが、俺はこんな下衆とアイツを引き合わせたくはなかった。

 母親の愛が欲しかった理由(ワケ)でも、理不尽な暴力から逃れたかった理由でもない。

「はっ、殺せねえくせに」

「ッ殺してやる、ぜ、ってぇに!!」

 何かの折に、この男の穢らわしく醜悪な魂と浠の無垢な魂が邂逅することを避けたかったのだ。

 そうして啖呵を切ったは良いものの、男は俺の切れた頬から僅かに固まった血を見て、それを抉るように爪を突き立てる。

「い"っ……!」

「お前は、俺がいねぇと生きていけやしねぇんだよ。あの女に金をやってるのは誰だ?あの女を生き長らえさせてやってるから、お前みたいなのでも生きていられるんだ。」

「その人間を殺そうだって?罰当たりな人間だな全く……。なんとか言ってみろよ、なあ?!」

「ひぅ"、っぃぎ、くそ、ぐぞ、」

 怒鳴られ続けて、どれだけ時間が経過したのか分からなかった。しかしもう、反抗出来るほどの体力はなく、身体が震えていて呂律が回らない。

 こんなあられもない、見苦しく腐ってしまった自分のままで、浠に縋りたくない。

 それでも名前を呼びたくなる。
 口にするだけで、汚濁に塗れた世界でも生きてみたくなってしまうあの名前を。
 事切れそうな頭の中で、「浠」の記憶が、本音を惑わせて、苦痛の中で葛藤させる。

「俺を殺す?やってみろよ、ほら。死ぬ気で殺しにかかってみろ」

「あ"ッ、〜〜〜〜〜〜ッ!!!」

 一際重い拳を腹部に受けて、上擦った声にもならぬ声が鳴る。視界が白く点滅して、息が止まった。
 その瞬間、足を押し広げていた男の両手が、首に沿わせられ、頸動脈を間髪入れずに締め上げたのである。

「がっ、あ"ぐ、ひゅ」

 脳天に熱が昇る膨満感、耳の奥で轟くはやる鼓動、あの日の泥濘のように歪む視界。
 その中で、邪は俺の生き死にを賭けて、ほくそ笑んでいる。

「ほらほら死んじまうぞー、俺を殺せないぞー」

 弱々しく身を捩ろうとも、酸素は失われるばかりだ。再び訪れた静寂は、俺の足がシーツを掠める音だけで創られていた。

 浠とキスをした時と比にならない程に、それは辛く、苦しい。

 コイツに殺されることが、悔しくて、怖くて、泣きじゃくりたくなる。

 本当は、あの首飾りを抱きしめた夜みたいに、素直に縋りたい。
 名前を呼べば、地獄耳を働かせて、俺の元へすっ飛んできてくれるアイツが目に浮かぶ。

 蛇神様の目を持つ浠に願えば、この残酷な現実にも、少しくらい花が咲く季が巡るだろう。
 そうすれば、また手を繋いで、互いの心を満たしあって、体を求め合って。

 俺はアイツの満たしてくれた、空白の名前を知ることができる。

 でもダメだ。

 名前を呼んではいけない、助けを乞うてもいけない。

「じ、ぅ、ぐっ──ッん"……は、っ、っ、ぅ」

 ダメだ。

 ダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだ

 ダメ、なのに。

 俺は。

 俺は──。



「ひ、……ぅ……ぃ、っっ」


 浠。

 浠。

 俺の、俺だけの神様。

 助けて欲しい。

 どれだけその願いが自分勝手で烏滸がましいかは、自分がよく分かっていたけれど、正常な判断力を欠いた使い物にならない脳みそでは、こんな慰め地味た切望しか届けることができない。

 最後の力を振り絞り、俺は神頼みをした。

 蛇神様、どうか最後の思し召しをくださいと。

「あ?」

「み、ず……っき、た、すけっ」

「っは、はははは!!!お前、またこの期に及んで、女の名前か、ふ、くくくく……ッ、情けねえ、情けねえ!!」

 ぼやけて見えなくなる影は、俺の首を絞めながら、腰を曲げて抱腹絶倒する。
 その声がびりびりと頭に響いて、小さく唸れば、その哀れに悲嘆する姿が、殊更男を煽り立て、恥辱を味合わせられた。

「はーぁ……でも、もういいわお前」

 一頻り笑った男は、長い溜め息の後、淀んだ眼で俺を見据える。憤りと肥大化した怒気を孕んだ二つの眼差しに射抜かれて、肩がビクリと震えた。

「死ねよ」

「ッ、みず──」

 端的に放たれた言葉と共に、容赦なく気道を狭められる。
 男の荒い息遣いや沈黙の中にも微かに響く世界の心音が、遠のいていくのを聞いて、死の間際で安堵した。

 浠がここに現れなくて良かった。そう、安心したのである。

 しかし、その幻想は割れる鏡に等しい。


 意識が闇に葬られかけた刹那────。


「美夜!!!!!!」


 ばん、とけたたましく開いた扉から、床板を激しく叩く足音が一直線に此方に向かって転がり来んできたのである。

 紛れもない、浠の声を合図に。

 その声が鼓膜を震わせた瞬間、それまで堰き止めていた感情が、全て外に流されていく感覚がした。

「誰だ?!」

 浠から放たれる唯ならぬ気配は、警戒する男にまとわりつくと、瞬発的にベッドから引きずり下ろした。

 突如として開放された気道と肺が、喘鳴音をあげながら、必死に酸素を回そうとする。
 俺は血を吐きそうな程に咳き込み、鋭い頭痛に身を丸めて涙を零した。

 何が起きたのか、薄目を開けて見てみれば、赤い稲光が月明かりを受けて爛々と光っているのが網膜に焼き付く。

 その光を感じた時、俺ははっとした。

「みずき…………?」

 しかし、口にした名前と記憶にある容貌は似て非なるもので。俺は唖然とする。
 確かにここへ来たのは浠であるはずなのに、どうにも一致しない。

 酸素が充分に行き渡っていないせいだろうか。

 銀糸の髪に、牡丹のような赤い眼。
 初夏の蒼空に映える栗毛も若竹色も、面影さえない。
 端正な顔立ちとすらりとした背丈は変わらぬままだが、その存在はどこか浮世離れしていた。

 反対に、落とされた男は、さも彼を既知しているような口ぶりで、愕然とする。

「お前また……ッ」

「ッ指輪か、あの指輪を取り返しに来たのか?!」

「俺のせいじゃねえよ!!!全部、あのガキが、あのガキのせいで俺は!!!」

 男は、散々支離滅裂な暴言を叫びながら騒々しく床の上で喚きのたうち回っていたが、神聖な空気を纏うアイツと、一度も目を合わせようとしない。

 すると、浠は赤い目を大きく見開いて、男の顎を魚の頭同然に鷲掴み、これを制した。

『黙れ。下等な俗物が、許可なく口を開くな。命を短くするだけだと、何故分からない』

 とてもじゃないが、浠から出る発言とは思えなかった。「ひ」という短い悲鳴を上げて、男はがくがくと震え出す。
 その表情から温度が消え、窓から飛び出さんばかりに、部屋から逃げていった。

 振り向いた浠に、言い知れぬ畏怖の念を抱いた俺は、縛られた両手足で必死に壁の方へ身を寄せる。

 浠が、浠じゃない。
 美夜と呼ばれた時は、何の違和感も覚えなかったのに。

「み、ずき、なのか……?」

 襲われている間、封じられて尚絶えず叫んでいたせいで、喉が焼けるように痛い。
 俺は途切れ途切れの嗄声を紡ぎながら、浠に懐疑心を向けた。

 するとアイツは、ふらふらと両腕を伸ばして此方に迫り来る。
 男の拳がフラッシュバックして、咄嗟に目を瞑るも、降り掛かってきたのは傷を抉る凶器ではなく。

「きょ、うや……美夜っ、きょーちゃん……っ!!」

 浠の柔らかい両の腕であった。

「遅くなってごめん。痛かったよね、苦しかったよね、あぁ、気付けて良かった……」

その確かな体温と、俺ばかりを優先して考える特有の癖を含んだ言葉に、矢張り自分を助けに現れたのが、唯一の幼馴染であると理解した。

 あれ。

 穢れた俺の体を強く抱きしめながら、そう噛み締める浠の肩が震えている。
 どうしてなのか、少し考えた。

 砂浜の中に潜った綺麗な貝殻を、拾おうとする度に、白波が連れ去ってしまう。
 指を伸ばして、真砂を漁って、漸くそれを掬い上げれば、見失わずに良かったと胸に押し抱いた。

「きょーちゃん……」

 ああ、そうか。

 コイツはずっと、見失わないように目を光らせていたんだ。

 否。

 それでも、何故。

 張り詰めていた心が弛み、その安堵からどう、と身体が鉛のように沈みこむ。
 埋めた鼻から伝わる服に染みついた浠の香りが、消えゆきかけた意識を繋ぎ止めた。

 先刻の様子が、まるで一炊の夢かと思う程の空気感に、まだ呼吸は整わない。

「……なんで、来て、俺、お前を遠ざけたのに、」

 俺は、俺の心を埋めてくれる、俺だけの神様を独りぼっちにしようとした。

 罰当たりな、人間なのに。

 どうして、埋もれた無価値の抜け殻を、数多の砂塵の中から見つけようとしてくれるのか、俺の理解に及ばない。

 何時の間にか、拘束を解かれ、自由になった手足に血が通っていき、じわじわと温かさが拡がる。浠はぶたれて腫れた俺の頬を見て、悲しげに苦笑しながら

「きょーちゃんが、オレを呼んだから」

 と言った。

「助けてって、言ってくれたから」

 薄雲がはけていき、窓から届いた強い月明かりが部屋に充満し、影と光は浠の瞳を塗り替えていく。
 苦しみから逃れるための、ただの妄言は、俺達の"特別"との間で、言霊となり、力を持たせてしまった。

 そんな、こんな浅はかな願いを叶えられたらいけない。
 俺はずっと孤独の海の中に埋もれて、踏まれて、貝殻にも星砂の一部にもなれず、神から見放された方が遥かに楽だ。

 尤も、意に反してあの男と、コイツを一時でも同じ空気の中に閉じ込めてしまった。
 その罪悪感が、身を揺らす。

「俺、お前を独りぼっちにしたのに」

「そんなことないよ」

「疑った、のに」

「オレが色々なことを隠してたから」

「勝手に裏切られた気になって、突き放したのに」

「きょーちゃんは何も……何も悪くないんだよ」

 俺の事を一切憎まぬ浠の、優しい声音に鼻先がツンと痛む。

 口をはくはくと動かして、「違う」と反芻したつもりが、空虚を吸った喉が音を詰める。声を上げたが最後、泣き喚いてしまうような気がした。

 頭のどこかで信じきれず、俺の心根を苗床にして生き存える鬼が、胸のしこりを大きくする。

「お、れが悪いんだ……っ、」

 一存で、死に急ぎ始める俺の命を、特別だからと護ろうとするなら、それ以上の感情を抱かせないで欲しかった。

「事件のことお前だけが知っているのが嫌だった、五人のことも神隠しのことも、須貝から聞くまで何も知らなかった、気付きもしなかった」

「秘密にされていることを知って、俺の中で、お前に向ける感情がどんどん汚れていくのが怖くなった」

 隠されたことを本気で怒りたかった。

「憎もうとした自分も、憎めなかった自分も、全部嫌だった……でも、お前が一人でに幸せになることを想像したら、悔しくて苦しくて」

 お前だけ先に歩いていくことを、憎んでやりたかった。

「この先の事なんて見ていなくていい、俺だけを、見ていてほしかった」

 一人になろうとするな、一人を選ぶな、一人でいるな、一人がいいなんて言うな、一人にするな。

 特別な俺が居ないと、何もかも駄目なままの蘆谷浠という人間でいて欲しいんだ。

 本気で、それを"愛"と呼びたかったから。

 俺の双眸からぼろぼろと零れ落ちる雫を、浠はそっと拭いながら、もう一度抱きしめ、頭を撫でる。

「ごめんね。オレ、早とちりしすぎちゃったんだね。……ねえ、聞いて?」

「きょーちゃんに遠ざけられても、オレは一生離れない。離さない。きょーちゃんを幸福で満たせない世界の奴らに、任せられるわけがない」

「どんなに嫌われたって、オレは死んでもきょーちゃんの傍にいるよ。死ぬまで、うんざりして、胸がいっぱいで吐きそうなくらいの愛で、満たすと誓う」


「オレは、美夜だけの神様なんだよ」